音楽現代77年10,12月号より引用しました。明らかな誤字・誤植は訂正しましたが、それ以外は原文のままです。
私が付けた補足は【】の中に入れました。

朝比奈隆氏に訊く
ブルックナー演奏の楽しみ、苦しみ

−−−  今度ジャン・ジャンからのレコードも含めてブルックナーについて考えておられることを個別の作品に即していろいろお伺いしたいのですが。
朝比奈  幸いにして、ブルックナーのシンフォニーは『一番』から『九番』まで全部演奏してきて、現在の時点では一応標準的な版を使ってやったわけです。ただ、レコーディングはまだ途中で、『三番』と『五番』が残っているわけです。『五番』に対してはあまり問題がないのだけれども、『三番』については全く違う版をもとにしましたのでね。
 いままで使ったのは、いわゆるハースなりノヴァークなりが最終版として出している、俗にいう第三版なのです。その前にエーザーという人が、初版の整理をした−−初版というのは大変評判が悪く、それを参考にして、大幅に書き直したものがいわゆる第二版といわれるのですが−−それをエーザーという人がまず一応ちゃんとした形に編集をしたわけです。現在、ブルックナー協会から出ている、第三版なるものは、それをまたブルックナー自身が大幅に手入れしたものなので、また二版とはだいぶ形が変わっているわけです。
 以前から大ぜいのファンの方や、評論家や研究者からいろいろ注意があったことも事実ですが、実はそのもっと前に『三番』については非常に後ろめたいことがあったのです。東京で数年前に『三番』をやりましたときに、第三版でやったわけです。いわゆる普通楽譜屋で売っている版でやりました。その時に、もう亡くなられたクラウス・プリングスハイム教授が楽屋へすぐ見えまして、「おまえはどういう意味でこの版を使ったのか。非常に問題が多いので、おまえのこの三版をやった考え方、意味、取り上げた趣旨を聞かせてほしい」と言うのです。これは、実に音楽学者として正当な質問だったと思うのですけど、残念ながら私には、それに答える材料がこっちに全くなかったのです。というのは、ほかの版を全く見ておりませんでしたのでね。実に返事に窮し、演奏家としてまことに不用意なことで、プリングスハイム教授は妙な顔をしておられたことが絶えず心にかかっていました。それで、今度やるときはどの版を使っても−−ぼくは、どの版を使わなきゃならんということはないと思うのですが−−私なりに確かな返事のできる姿勢を持たなければと思いまして、今度は、小さいスコアだけでなく、演奏用の資料、楽員一人ひとりのパート全部、手に入るもの全てを外国から借りまして、その相互をずっと机の上で比較してみたわけです。
 問題は、ぼくはスタイルの違いだと思うのです。どっちのほうが聴いていておもしろいかということでなく、おそらくオーケストレーションなどが非常に威勢があって、よくできているという意味では、やはり第三版ではないかと思うのです。音楽のスタイルというものがブルックナーらしい。そういうようなスタイルが二版と三版とずいぶん違う。それじゃどっちかというと、これは趣味の問題になっていくんで、理論闘争ではないと思うのです。
 エーザーという人が自分の編集している第二版と第三版とを比較して、ブルックナーの短い音楽論書いているのです。それは非常に納得させる主として様式論なのです。たとえば転調の仕方、オーケストラの各楽器の使い方、その他いろいろ構造のつくり方なのですが、ほんとうのブルックナーらしいスタイルから、少し変わってきているというような比較論をわりあい綿密にしていまして、私は自分が演奏しているつもりでその資料を比べてみた結果、エーザーの版で『三番』をやろうということに決めて、手配をしたのです。
 これはべつに、冒険ではないと思うのです。ただ、私たちにとって違うことは、二版のほうが少し長い。というより、三版のほうが十分ぐらい縮めたもののようです。その縮め方は、もちろんでたらめではなくて、なるほどと思うような縮め方をしているのですが、あんまり手ぎわがいいので、どうもブルックナーらしくないというような感じがなきにしもあらずなのです。
 今までどういう順番でやったかといわれると、これはまことに偶然だと思うのです。だれでも、ベートーヴェンだったら最初に有名な『運命』をやる。ブルックナーの場合には、日本の交響楽史五十年の中で非常に見捨てられていた部分ですので、『一番』から順にやっていこうという気はだれにもなかったみたいですね。
−−−  一番最初が、1954年の2月26日の『第九』。
朝比奈  ぼくが、最初ドイツから帰ってきたときですね。いまから考えると、内容的にも技術的にもむずかしいシンフォニーを一番先にやったというのはちょっと乱暴かもしれないのです。よく『四番』から、たとえば近衛さんは『四番』を一度だかおやりになりましたね。『九番』をやろうと思ったのは、私が五十三年の秋にヨーロッパへ行く前ですが、当時の日本のことですから、楽譜を買えない時代でしたので、全部あの膨大なシンフォニーを写譜で手配をして、出たわけです。
 ところがブルックナーについて無知な人間のやることなのですが、その当時市販しているフィルハーモニアというねずみ色の表紙のスコアがありました。それを写していたわけです。あれはご承知のように、ブルックナーの弟子あるいは後輩、それから当時の著名な指揮者たちがいろいろと手伝いまして、演奏しやすいように、フレージングしたり、ヴァイオリンのところをフルートを重ねたり、聴こえにくい声部が浮き出すように、ヴィオラにクラリネットを重ねたりしたものなのですが、それをそのまま手配した。
 ところが、ベルリンで、フルトヴェングラーがブルックナーの『四番』のシンフォニーを偶然やっていまして−−これがフルトヴェングラーの最後の演奏会だったのですけれども−−それを聴いてフランクフルトへ行ったら、ホテルで偶然彼と一緒になりまして、何か話が演奏の話になって、「おまえ、日本へ帰ったら何か予定があるか」と言うから、『九番』シンフォニーを初演することになっているのだと。そしたら彼は「どの版を使うのか」と訊いたわけです。私は「そのアレンジした版である」と言ったら、「それは大変遺憾である」と。彼はその当時、ハースと協力して原典版をつくっていたわけです。それで、「後で修正した版を使うのは大変残念だ。だから、ぜひやるなら、ハースの版を使うべきだ」と言うわけです。あの人は、ぼくらから見れば神様みたいなものですから、大いに傾聴して、その時は別れたのです。
 それで、楽譜屋へ行って、初めてハース版の『九番』のスコアを見たら、全く違うものなのです。スケルツォなんて、全くオーケストレーションそのものが違う。それでびっくりしまして、それを日本に送って、写譜がほとんどでき上がっているのをまた書き直して、つけ足したり、けずったり……。
 とにかく、原典版らしき格好でやったのですが、これは、伝統のない戦後の、しかも楽譜が外国から入ってこないときとはいえ、はなはだ雑然とした演奏会だったと思います。
 私がなぜいきなり後期のシンフォニーと思ったかというと、われわれが未知の世界に入るのになるべく高度なところから一遍触れてみたい、そういうものがあるのかということを知りたいと思いましてね。それと、ぼくらが若いときから、いわゆるワーグナーに対する憧れみたいなものを大変持っていたわけです。ワーグナー的な響きのするオーケストラがいいオーケストラだというような感じがありました。確かにワーグナーはオーケストレーションが非常に上手ですから、それもあって、後期の作品に飛びついたと思うのです。
 それで、ぼくらは先入観があって、ブルックナーはワーグナーの崇拝者で、ワーグナーの作法を彼が取り入れようとしているというような先入観がありましたけれども、ブルックナーの音楽というのはワーグナーとはほど遠い、実にナイーヴで、ワーグナーが有名な偉い人だから、すなおに尊敬してしまったような感じで、音楽の内容的な傾倒ではなかったということが一番最初にわかって、その錯誤の収穫があったと思うのです。
−−−  それが一番大きな収穫じゃなかったのですか。
朝比奈  その意味ではね。これは気をつけないと、えらい考え違いをするぞと思いました。だからこのごろのように、ブルックナーが非常にさかんになりましたが、いろいろな解説書を読むと、ブルックナーとワーグナーの関係を非常にクローズアップして取り上げているものもありますが、そうすると聴衆のほうもそういう錯覚が起こりやすいのじゃないかと思う。だから、ブルックナーがワーグナーを尊敬したということは、単に現実の社会の上での先輩を尊敬したということであって、作曲家としては全く異質のものであったということを、演奏者も聴衆も忘れちゃいけないと思うのです。
−−−  先生としてはその曲が一番お好きですか。
朝比奈  やっぱり後期の三つのシンフォニーは、規模もオーケストレーションも大きい。だけど、反対に一番やりやすい作品なのです。それからやっぱり作品の出来がいい。いわゆるサクセスフル・ピースなのです。問題が少なくて、どの版を使うかという迷いさえとれれば、わりあいにやっていて響きもいい。ただ、ワーグナー・テューバの問題がありまして、これは日本にほとんどなかった楽器ですので、困りました。貧乏所帯で工面をしてもらって、買いましたが、ヨーロッパで市販している楽器はあまりよくないのです。まあ、ぜいたくもいえないので、うちのプレイヤーたちも、その吹きにくいのを克服していま使っているわけです。
 そんなわけで、後期のシンフォニーにとびついたほうが、ブルックナーのスタイルを知るのにかえってよかったかと思うのです。これがいきなり『一番』とか『二番』とか『三番』にとびつくと、ちょっとむずかしかったと思います。『七番』、『九番』が多いですが、『八番』もかなりやっています。その順番というのは自分の単なる思いつきなのですけれども、いまになって考えてみれば、一番最初に『九番』をやったことも含めて、まあまあ、よかったのではないかと思っています。それで最近になって、『一番』、『二番』、『六番』というような、比較的問題のある作品に手をつけて、そのときには、ブルックナーの音楽の書き方、あるいは楽譜の書き方というものに一人ひとりが慣れて、あ、妙なことを書いてあるけれどもこれはまたいつもの書き方かと、言葉づかいに慣れたみたいな感じがあって、それがないとできなかったのじゃないかと思います。
 最近ドイツで、『一番』と『二番』を、今年ですか、ベルリンとゲルゼン・ティーフェンのオーケストラでやったのですけど、オーケストラのメンバーが若いものですから、楽譜を読むのに大変とまどっているのです。
 その意味はわかるのです。初期の作品と後期の作品とだいぶ違いますしね。『七番』なんかをやったらそうでもなかったと思うのですけど、演奏の頻度が非常に少ないでしょう。ほとんどのメンバーが初めてのようでした。それでこんないい音楽があったのかというような驚きもあったりして、『二番』の場合なんか、新聞の批評を見ても、「われわれは、日本の指揮者によってこういういい音楽を初めて知らされた」というような非常に無邪気な印象で、それほど聴衆も聴いてない。オーケストラもその書き方に慣れてないですね。
 だから一つのオーケストラがいきなり『一番』『二番』というところから入ったら、ブルックナーのほんとの味がわかるまでずいぶんむずかしかったのじゃないかと思います。
−−−  ブルックナーの場合は、先生としては逆から入られたからその本質がわかったという……。
朝比奈  大阪フィルは少なくとも偶然逆から入ったのですけど、いま東京のオーケストラもそんな入り方をしていますね。私のところへこの間から注文があって、いままで頼まれてやったのが、東響と『七番』『九番』、新日フィルとで『八番』でしたが、やはり後期の三つです。N響へマタチッチが来てやっているのも、大体後期でしょう。やっぱりマタチッチも経験者ですから、後期のシンフォニーをやっておいたほうが間違いがないと。日本では演奏の頻度が非常に少ないということを聞いているでしょうからね。これでいきなり『二番』なんてものを持ち込んだら骨が折れるだろうから、入り方としてはかえってよかった。そのオーケストラのレベルがそこまで上がっていればね。昔の五十年前の日本だったらとてもだめですけれども、いまのN響以下日本のオーケストラの演奏からいえば、後期のシンフォニーから入った方が……。だからぼくらにいわせれば、一番むずかしいのは『五番』ぐらいのところだと思う。
 ベートーヴェンにちょっとそういう感じがあるんじゃないですか。中期の『ラズモフスキー』あたりのクワルテットを書いたり、『アパショナータ』を書いたり、あの辺の曲が大変技術的にむずかしくて……。後期になると、技術の問題はわりあいに表面から消えて、内容のものになってくる。いわゆるテクニックの問題が一番あるのは中期の、『五番』シンフォニーあたりが、オーケストラにとっても指揮者にとっても大変むずかしいみたいです、そういう意味では。だから、『五番』を演奏したときはわりあいにこわかったですね。チェコで『五番』をやったこともあります。来年またドイツで『五番』を頼まれているのですけど、『五番』をやった時はオーケストラがだいぶ構えています。今年ドイツへ行ったときに、「来年、ブルックナーの『五番』を指揮してもらいたい、万全の準備をして待っているから、来てほしい」などと言っていますから、だいぶ構えていますよ。やっぱり技術的にむずかしいことをはっきり知っていますからね。内容がむずかしいというのは受け取り方ですから。
−−−  ドイツのオーケストラでも慣れていないのですか。
朝比奈  とくに『一番』『二番』、あの辺のところまで演奏しない。これはどういうわけでしないのか。まあ、オーケストラの曲目は指揮者が決めるものですから、これは99%といいたいが、100%指揮者が決める。まあ、オーケストラの希望もありますけど、指揮者が決める。そうすると、かりにオーケストラが希望しても、指揮者がやりたがらなければ出てこないですから。だから、まず指揮者がよけて通っている感じがしますね。やっぱり、成功しそうなプログラムという魅力はとてもなかなか避けられない。ほんとは指揮者としてあまり感心したことでないのですけど、この曲で一発当ててやろうというような考えがもしあるとしたら、それは大変間違った考えと思うのですけれども、まあ、人情としてサクセスフル・ピースというものもあるわけなのです。『一番』『二番』『三番』なんてところはどうもそれがとぼしい。『六番』にもそれがある。人にもよるのです。私は『六番』を後回しにしたのは、これは大変弾きにくいところもあるし、ちょっと理解のできる段階が来ないと無理だと思ったからなのですけれども、音楽としてはなかなかいいと思うのです。
 『六番』はベートーヴェンでいうと『パストラル・シンフォニー』みたいな感じでね。よく似ていますね。『運命』の後に『パストラル・シンフォニー』がある。偶然でしょうけど、やっぱり演奏の頻度が少ないという意味では『一番』『二番』『三番』『六番』が少ないですね。
 そんなわけで、この順番というのは、実際に演奏される場合は偶然が多いですけれども、たまたまそれが後になってみると、あなたが言われたように、試行錯誤としていい結果を生んだとか、たまたまオーケストラや聴衆にとってよかったとか、偶然の結果が出てくると思うのですけど、全体的に言えば成り行きみたいなもので、最後に残ったものがいい。
 それでも、漸く一つのオーケストラが全部の作品をやるということができて、大変喜んでいるのです。うちのオーケストラがなにも特別にうまいとか、特別にブルックナーが得意とかということはあり得ないと思いますけれども、少なくともブルックナーのシンフォニーをとやかく言うのだったら、一応全部演奏してみた後の話ですから、そういう意味では語る資格だけはできたのではないかと思っています。
−−−  日本の指揮者で全部おやりになったというのは先生お一人ですね。
朝比奈  少ないですね。ヨーロッパでも少なくなりました。このところ、毎年ヨーロッパでブルックナーのシンフォニーの演奏希望が出てくるというのは、ブルックナーの指揮者がだんだん減っているという一つの現象でしょうね。そうでないと、ドイツで外国人にブルックナーがまわってくるというのはちょっと考えられません。すでにベートーヴェンにそういう傾向がだいぶ前からあるのです。やっぱりサクセスフル・ピースじゃないのですよ。『エロイカ』とか、そういうものだったらよく出てきますけど、『一番』『二番』『四番』なんていうのはよけて通っているみたいです。その傾向はだいぶ前から出ていまして、私のヨーロッパのキャリアが二十年余りですけれども、最初のうちから出ていました。いま言った『一番』『二番』『四番』というような曲が、いろいろなところから希望が出てくるわけです。
 一番最初ベルリン・フィルでやってくれと言われたのが『四番』なのです。ベルリン・フィルのオーケストラへ行ったら、ベートーヴェンなんかしょっちゅうやっているみたいな感じでしょう。行ってみたら、この前はいつだったかなあ、ってなものなのです。その次の年、ベルリンの定期演奏会で『一番』でした。来年は『一番』。そうすると、『一番』を外国人の指揮者に頼むということは、あまりふだんやっていないということですね。
 それから、その次にハンブルクとか何とかからしょっちゅう頼まれたのは『六番』です。そうするとやっぱり『一番』『二番』『四番』『六番』ですね。来年ベルリンで『二番』をやるのですけど、よけて通っているみたいなのです。だから『エロイカ』『五番』『七番』、その辺はなかなか外国人のところへまわってこない。したがって外国人が万遍なく演奏するということは、これはブルックナーだけでなく大変大切なことです。それはわりあいむずかしいことなんじゃないですかね。だから、一流のプロのオーケストラみたいな顔をしているけど、じゃ、ベートーヴェンのシンフォニーを九つともちゃんといつもやっているかといわれると、「入ってからやったことない。『四番』は、少なくとも自分が入ってから初めてだ」というのがだいぶありました。やはりよけて通っているのですな。
−−−  ブルックナーを全部おやりになった中で、好ききらいはありますか。
朝比奈  私が指揮者として自分のオーケストラにせよ、よそのオーケストラにせよ、一晩オーケストラを率いて舞台へ立ち、お客さんに聴かせるという、起承転結のはっきりした音楽としてやるとすると、やっぱり『八番』はいいですね。非常に通俗的な、月並みな返事みたいに聞こえるかもしれないけど、やっぱり作品としての出来がいいし、バランスがいい。
−−−  それは何版で……。
朝比奈  一応私はハース版に決めているのです。これは評論家によるとご議論もあるようで、ハース版のほうは、資料も後からつけ加えたというか、ブルックナー自身がやろうと思って途中でやめたりしたいろいろな資料を、ハースが編集しなおしたので、ブルックナーの作品として問題があるという意見もかなりあるのですけれども、私は一応最終版として、ハースのとノヴァークのと二つ比べまして、それから、打楽器の使い方やその他全部比べまして、ハース版のほうの様式が、スタイルというよりもフォームが、非常に完璧で、フレーズのおしまいになるところ、次が始まるところなんかに省略した形跡があまりないので、この人のフレーズは途中で「何とかであります」「何とかでございました」みたいな区切りが非常に多い人なのです。それが非常にくどい。話の下手な人の文章みたいなのです。何か言っては、ここで「そうしました」、また「何とかしました」で、「ました」がずっと続くみたいなのですけれども、それを取ってなめらかにして文章をつなげるとブルックナーではなくなってしまうような感じがしますね。
 それでぼくは『八番』の場合は特にハースのほうがいいと思って、それをいま使っています。フルトヴェングラーもほとんどハースです。そのほかの指揮者もかなり使っていますが、クレンペラーもそうですかな。
−−−  『八番』については今度新しい版がまた出たということですが。ノヴァークの第二版。
朝比奈  どこか前にあったのがめっかって【見つかって】出てきたのがあるのです。あれはもうちょっと後のものになるのじゃないでしょうか。
−−−  一番最初の形のものにしたのが出たということですね。
朝比奈  ええ。第一楽章のおしまいにアレグロのついているものです。結局、いろいろ見たのですけれども、『八番』の第一楽章の終わり方についてはいろいろ問題があると思いますけれども、一応いまはハース版を使って、それからフィナーレの、フルトヴェングラーも省略しているところも省略しないでやっています。
 舞台で、いつでもいいから、一つの演奏会を頼まれてパッと聴かせるのだったら、いまのところやっぱり、私も演奏家ですから、そういうさっき言ったサクセスフル・ピースであるということもあり、それから、現実に音楽は美しいですから、ああいうスタイルの音楽と『三番』や『四番』のブルックナーの音楽とはかなり質が違うと思いますけれども、やはりそういうブルックナーの基本的なところが残っているので『八番』がいいのじゃないかと思う。実際に頻度としては、うちは『七番』が一番多いです。ヨーロッパへ演奏旅行に持っていきましたので、一躍回数が増えたのです。あれはおそらく、ブルックナーの作品の中で一番成功した作品になるのじゃないでしょうか。でも少しきれい事みたいで……。
 それから、ほんとの意味で音楽として尊敬する意味だったら、やっぱり『九番』だと思います。よくぞフィナーレを書かなかったと思って、あれは一種の未完成シンフォニーで、ほんとに彼が書こうと思って書かなかったのか、ここでやめておこうと思って書かなかったのか、ほんとのことはわからないですけれども、私は、あの終わり方は大変……。
−−−  素晴らしいですか。
朝比奈  ええ。シューベルトがあの三楽章を書かなくてよかったみたいな……。そういう意味では『九番』は一番いいと思うのです。『五番』までの系列の前半の作品は全く異質で、その作品と後期の作品とを比べるのが大変むずかしい。
−−−  その接点にあるのが『六番』。
朝比奈  ほんとにうまくできていますね。ある意味で『六番』の第二楽章なんか、非常に後期の作品をしのばせるし、いろいろおもしろいと思うのです。だから、前半の五つの交響曲は何らかの関連がありますし、カラーの上でも何となく似ています。そういう意味で、今度『三番』をそのエーザーの版でやるのですが、実際の音になったのをだれも聴いた人がないのです。日本ではもちろんありませんし、レコードが出ていませんから、みなさんあまり聴かない。ヨーロッパでもあまり演奏した形跡がない。
*  *  *  *  *  *  *
−−−  指揮者の立場からブルックナーをいろいろお調べになってのご苦労があると思うのですが。
朝比奈  私の場合はいわゆる図書館へ入って原稿を見るとか、そういう意味の力は全くありませんから、できあがって印刷されたものを見てだけの話ですが、この七月から八月にかけて一カ月ほどかかって見たわけです。そうすると、なるほどと思われるようなことがたくさんあるわけです。
 おもしろいのは、このごろみんな貸譜を使いますね。そうすると、スコアや、パート譜には、いろいろな人がやった痕跡が残っているわけです。証拠写真みたいなもので、あれはうっかりしたことはできないものですよ。そういう残っている跡を見まして、いろいろ参考になりましたが、なるほどこれは名案だというようなのがあまりないのです。反対にこれはやってはいかんということが非常に多いのです。ただみんな経験のある指揮者、経験のあるプレイヤーが、きれいに聴こえるような方法をとっていますね。
 たとえば、ブルックナーはよくやるのですが、ピアニッシモの部分、しかもあまり目立たなくてもいいような何でもないような部分で、小さい音で、音を単独に切ってある動きがよくあるのです。そういうとこへくると全部レガートをかけて、スラーをかけてある。そうすると非常になめらかになって、あまり強く演奏しなくても、その音は小さくなる。だからその音を小さくするために弦楽パートは弓を長く使い、管楽器の人は息を切らないでいくというのは大変な間違いで、大変いけないことだと思うのです。とつとつとして物を言うその感じがなくなってしまう。それから、どんな小さい部分で動いている音でも、明瞭に聴こえなければいけないはずなのです。それがどうしてもボケますのでね、スラーをかけてつなぐと。
 ぼくは一時ブルックナーが流行らなかったわけがわかると思うのです。ブルックナーの作品では、今言ったようなことをやったらおもしろくない。田五作みたいな風采の上がらない人に化粧させたり、いい衣装を着せてもだめなんです。風采のあがらない野人はそのままの格好で人とまじわるべきなのです。だからブルックナーの魅力というのは、そのスラーをかけることによって非常に損なわれるということがよくわかって、それが今度の場合にもありました。
−−−  先ほどからエディションが問題になっていますけれども、今後、普通のアマチュアに対しての一つの聴きどころという点に関して何か……。
朝比奈  一つは、打楽器の問題があるわけです。ブルックナーのシンフォニーと打楽器というものが非常に相性がよくない感じなのです。でも『八番』のシンフォニーは非常に打楽器を使っているわけです。これは、打楽器の使い方を会得して、あるいはその効果を自分が発見したということがいえます。ところが、シンバルとかトライアングルとか、そういう系統の打楽器になってくると、『八番』のシンフォニーでも私は非常に問題があるような感じがするのです。これはほんとに彼が書いたのだろうかという気がまだあるのです。
−−−  何となく取ってつけたような感じがありますね。
朝比奈  『八番』の場合、アダージオの中に一カ所だけシンバル、トライアングルが入るわけです。この間東京で新日フィルとやりましたときには、その打楽器を取っちまったわけです。というのはそれと同じ個所で、『七番』のシンフォニーのアダージオにシンバル、トライアングルが入るところがあるのです。これは、ノヴァークの版には書いてあるけれども、ハース版にはないわけです。それもどうも、原典かどうか、ちょっと疑わしい。おそらくブルックナーが書き加えたと思うのです、実際に。だけれども、だれかに教唆されて……。
−−−  言われて、しかたなしに入れたかどうか……。
朝比奈  あの人はしかたなしに書くのじゃなくて、言われたときは「あ、なるほど」と言って、えらく抵抗なく書くみたいです。必ずしもあとで、シャルクやミューラーが手を入れたとか、そういうことでない。というのは、音楽の流れからいってそんな感じがするのです。そう思っていたら、『七番』にちゃんと二つの版があって、片方にはトライアングルとシンバルが入って、片方にはない。この間ずっとヨーロッパを回ったときに、ないほうでやったのですけれども、それが非常にいいのです。それで『八番』にも入っているのを、この間やめたんですよ。シンバルは音楽上のアクセントをつけるために入っているのだと思うから、シンバルの力は借りないで、演奏でアクセントをつけようじゃないかといったので、オケは張り切ってつけたようです。
 どうもあの打楽器、特にティンパニー以外のシンバルとかトライアングルというのが、どうもブルックナーのシンフォニーではあまり音楽とぴったり来ないように思う。だから、疑わしきは罰せずといいますけど、疑わしきはやめておいたほうがいいのではないかと思う。
−−−  ただ、その合わないということがブルックナーのスタイルというものと一つの……。
朝比奈  何かつながりがあるように思います。あの、シンバルという非常に華やかな音色、たとえばワーグナーとかマーラーではそれが非常に効果的に使われているわけです。それが、ブルックナーのクライマックスはゆるやかな傾斜をのぼりつめて、それで生理的なエクスタシーまで登っていくような感じで、そこで一発ドスンとくるようなクライマックスがないような気がする。
−−−  ワーグナーだったら、金管がポカーンと入るとそこが一つの……。
朝比奈  非常にいいエフェクトですね。
 それと、休止がポッと二小節、音が何にもないところがあって、それでまた次のセクションが続くところが、ブルックナーの作品、ことに『九番』に非常に多い。今度『三番』のエーザーとノヴァークのスコアを比べてみましたら、前から続くのがポンと済んで、二小節休みがある。それからその次のトゥッティが始まるというところが、エーザー版はやっぱりそうなのです。いまノヴァーク版で出ている『第三番』は、あそこを何かの楽器でつなげて、ほかの音がだんだん流れてくるとか、あるいはドンドンとティンパニーを打つとかして、つなぎをつくってある。ぼくは、つなぎをつくるものではないように思うのです。そこは余白とか、沈黙が重要だと思います。何もないところ、音の空白、沈黙の、それが、ちゃんと小節で書いてあるわけです。
 この間実は『六番』のシンフォニーの練習中に、スケルツォのトリオを終わって、2・3・4、1・2・3・4と休みがあるわけです。それで頭へ戻るわけです。練習のときに何となく不用意に頭へ戻ったら、うちのセロのトップにいる若い者から「この休止は数えなくてもいいですか」ときたわけです。そのプレイヤーの感じ方は核心をついている。やっぱりプレイヤーというのは、目の前に楽譜があったら本能的に数えるわけです。だから、その休みは生きている。休みじゃなくて音楽として生きているのですね。そういうところがたくさんあると思いますよ。『九番』のシンフォニーなんかにあるような長い休み、『七番』にもありますけれども、あの休みを長く休むというのは大変むずかしいのです、やってみたら。
−−−  それだけ精神を持続しておくのでしょう。
朝比奈  フェルマータが書いてあるから、いくら休んだっていいわけですよ。その休みが五秒休むといったら、ものすごい長いこと休んでいる気がするわけです。これはレコードですが、フルトヴェングラーの『九番』のレコードはものすごく長いのです。ぼくは負けないように休んだつもりでも半分しか休めないです。慣れて、だいぶ休めるようになりましたけれども、やはり彼らは、舞台の上でジィーッとだまって立っているというのは、ものすごい緊張感で、その緊張感に耐えられなくなるのです、指揮者のほうも。
 だから、あの休みの前に書いてある空白というものは、まあ、長いからいいというようなことじゃないけれども、よほど慎重に処理しないといけない。だから、ブルックナー自身が誰かに言われてだろうと思うのです、ポンポンポンとティンパニーでつなぐとか言うのは。だから、もしそういうような心境に彼が追い込まれたのだったら、われわれがそこを取り除いてあげる義務があるような気がする。このごろつくづくそう思って、何かとつとつとした口下手な人の話みたいなものをきれいに飾ってあると思われるような場所については、ちゃんともとへ戻していく義務があるような気がするのです。
−−−  日本人は「休符」と言いますね。ぼくはあれは、音のない時間だという気がしているわけです。その間に次に移行する間のエネルギーを精神的に貯えるというか、言い方を大げさに言うと、そういう時間だと思うのです。
朝比奈  それはそうです。メルスマンなんかの音楽理論は、そういういわゆる緊迫感、緊張理性というもので組み立てています。だから、休みが一番エネルギーが強くて、音が出ると解決するみたいな、ホッとするみたいな……。
−−−  ですから、音とつなげるというのは非常に安易な解決の方法だと思う。だから、あれを休符と訳したのがそもそも間違いで、あれは無音符だという感じがします。
朝比奈  無音符ですね。それと同じようなことで、これもブルックナーの音楽を理解する上で大事なことになると思いますが、あるヴァイオリニストがロシア人の先生に教えてもらっていたときに、休符があると、楽器を下ろすわけですよ。そうするとひどく怒られるわけです。おまえは、休みのときに弾いてないじゃないかというわけです。いわゆる日本語で言う休止符のときに楽器を演奏する気を全然なくして、下へ下ろして、それから何拍か休んで、それからまた楽器を持って弾くと、おまえはその間弾いてない。そうじゃなくて、その間音は出してないけれども……。
−−−  緊張が持続している。
朝比奈  なるほど、オーケストラを見ていると、休みがあるとみんな休んじゃうわけです。そうすると次に出てくるときに、前の緊張の持続がもうなくなっています。だから休みというのは、確かに音のない音符であって、休みじゃないのです。だからブルックナーにとっては、休止符とフェルマータの長さ、それから音のあるフェルマータと音のないフェルマータ、あるいはフェルマータだからただ休んで出るんではなくて、そういうことの正確さというものを私はもっと、大切に厳しくしなきゃいけないのじゃないかと思います。だからましてや、省略をしたりとんだりするということは議論の余地はないように思うのです。
 通俗的な表現をすると、長いのがいやだったらやらなきゃいいのですよ。七十分もかかるシンフォニーをやって、三分や四分短くしてみたところでしようがないわけですよ。このごろの若い聴衆、ファンの人はその点偉いと思うのです。長過ぎるといって文句を言ってきた人は一人もいないわけですよ。ちょっとでもカットすると、なぜ一小節取ったのですかといって、必ずねじ込んでくる人がいます。『八番』シンフォニーのフィナーレの有名な十小節、フォルテとフォルテの間の十小節を取ったことがあるのです。東京公演でしたけれども。それで、楽屋へ帰ったとたんに、五、六人パラパラと入ってきて、「なぜ、あそこの十小節を取ったのですか」というのです。「理由があるのなら聞かせてくれ」と言うわけです。ところが、理由なんかないんだな、そういうときは。強いていえば、フルトヴェングラーもやってないからというような、非常にみっともない返事しか出てこないわけです。だから、あれはあとからつけ加えたものだとか、あれは非常に様式を損ねるから私はやらないのだといえるなら、パッと返事ができるでしょう。もう、省略というものはするものではないと思います。
 だから、十二小節のフレーズを八小節にして四小節取ったら、ちょっとおかしい。そういう形跡が、貸譜のパートを見るとよくあるのです。何の根拠もない、ただ何となく、長いということが何か罪の意識みたいにあるのです。ブルックナーは長いぞ、長いぞ、……。もっと長いシンフォニーはほかにいくらでもあるのですよ。マーラーの『九番』シンフォニーなんか、フィナーレだけで三十分ぐらいかかっちゃいますからね。
−−−  それはむしろ、それを退屈でなく、意味ある演奏をするのが演奏家の責任だと、そういうことですね。
朝比奈  そうです。意味あるようにしなきゃいけない。意味あるようにするというのは非常に抽象的で、じゃ、どうすればいいのだと。だから、初めてやる東京のオーケストラなんかでよく言うのです。それは決してむずかしいことでも何でもないのだと、一生懸命に心をこめてあなたが弾いたら退屈しない。もう、それだけです。だけど、こんな二分音符ばっかりのところを一生懸命弾けばいいのですか、という質問が返ってくるかもしれませんけれど、それしか返事のしようがないのです。決してハイフェッツみたいに上手に弾くとかそんなことじゃなくて、目の前にある音符を心をこめてていねいに弾いたら退屈しないのじゃないでしょうか。それにはまず、指揮者が退屈したら話にならないですからね。
 ぼくは、『一番』『二番』というようなほとんど演奏されないものをやって、非常な反響をドイツあたりで得られたので、そういう考え方にちょっと確信を持ちました。日本の場合にはちょっとブームみたいで、何をやっても喜んでくださるみたいなところがなきにしもあらずですけれども、もう使い古されたところへ行って、やっぱりその手が一番確実で、大変な熱狂でした。その町では初めて『二番』シンフォニーが演奏されたのだそうですけれども、それがあれだけの初めて聴いた人に、もしそれだけの感動を与えたとすれば、やっぱり正直にばかみたいに演奏したことであって、テンポも速くしたり遅くしたりすることは避けなきゃならんと思っています。


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