悲しいことがあった。
 とてもとても辛かった。






 重い足取りで馴れ親しんだ我が愛車のシートに納まる。無理してはたいたリクライニング式のバケットシートは仕事人の質の良さが窺える絶妙な硬さを伴って体を包んだ。一度車内独特の空気を吸い込み——吐き出す。仕方がないがこれだけで気分は変わらなかった。ジーンズのポケットで行く場を無くしひしゃげていた煙草を無節操に取り出しライターを点火する。今や生きていく上での必須になってしまった煙草はぞんざいなく存在を根限り主張するかのようにその活動を始めた。ヤニ臭い煙の塊が食堂から肺を満たす。いつもより味の密度が増しているように感じたが気分的な問題か、と疲れた頭で取り計らう。そのまま目線を上げた。


 闇—。
 全てが闇。
 そして、耳が痛くなるような静謐。
 酷く奥深い淵に迷い込んだかのような錯覚を覚える。
 煙草を一際強く吸い込んだ。知らず知らずの内に眉間に皺も寄っている。ダメだな。らしくもない。そう思うと同時に微かな苦笑が浮かぶ。そうだ。くじけててもしょうがない。
「走ろう……」
 ——スターターを押した。






 色好みなエンジン音を聞きながらもう一度思う。
 自分らしく行こう。あいつの分まで生きてやろうじゃないか。あいつが天国で羨ましがるくらい……なあ?



「愛してるぜ、ハチロク…」
 彼女がハチロクに乗り移った気がした。