〜深悲深々〜

 

〜深緑〜

ポケットに手を入れて歩いているのは、別に寒いからではなかった。寒くて凍りつく程の心は持ち合わせているけれど、それがいつもの僕で、それ以上もそれ以下も望まなかった。別に真っ黒く鈍く光る恐ろしいピストルを持っているわけでもなく、ビスケットを隠し持っているわけでもない。僕の手は、生まれつき鮮やかな緑色をしていた。

「リーフ、リーフや」

リーフと言うのは僕の名前で、そして僕を呼んだのは、一緒に暮らしている祖母だった。母親は僕を生んですぐに死んでしまい、父親は先立たれた母の死と、僕の恵まれない体の一部を見て少しずつ、自分を壊し始めた。今では極度の記憶障害とアルコールに溺れ疲れ、幼さの中で、病院の真っ白な部屋で、毎日果物を食している。

「何?お婆ちゃん」

「街へ薬を取りに行ってはくれないかい?」

「え!一人で?」

僕は今年で十六歳になるが、街へ一人で出かけた事はなかった。街から外れたこの場所で学校へは行かず、ずっとこうしてきたからだ。怖い、ただそれだけが僕の脳裏を渦巻き、そして人々の視線が集まるのを恐れた。

「大丈夫よ、リーフ。あなたが気にしているのは、その手の事でしょ?私だってあなたの気持ちがわからないわけではないわ。でもね、ずっとここでこうしているわけにもいかなくなるのよ。勇気を持ちなさい」

祖母にはわかっていた。自分の死期が近い事を……。

そして僕は今、ポケットに手を入れて街の中を歩いている。それは、行儀が悪いわけでもなく、日常の癖でもなく。後から銃口を誰かに突き付けられて手を上げる事になっても、僕はそれを拒み死を覚悟しても誰も悲しまない程、僕の手は、鮮やかな緑色をしているからなんだ。

人の波をなるべく避けながら、僕は小さくなり、そして病院の前に辿り着いた。このどこかの鉄柵の中に、父さんは僕を息子だと判別できないまま折り紙を折っているに違いない。それともひたすらにクレヨンで塗り絵をしているだろうか。僕と言う悲しみを知ったまま血液を巡らせるのと、彼にとってはどちらが幸せ?母親はその片隅でまだ呼吸をしている?

「あのー、祖母の薬を貰いに来たのですが」

「今日は一人?」

その医者は、僕の手の平の事をよく知っている人だった。僕を母親から取り上げ、祖母を生き長らえさせ、父親と会話をする。そして、いつもとは違う環境の中で先生と話をしていると、いつもと同じように彼女が顔を見せた。彼女は、僕と同じ位の歳の女の子で、先生の娘だった。僕が大人になるに連れて一番身近に感じる異性だった。だけれど、感じたって、まだそこに会話は一つもなかった。彼女は僕を不思議に思うのか、理由はわからないけれど、ここに訪れるたび最近では顔を見せる。時は絶えず進むのだ。

「先生、お電話です」

そう言った看護婦の声に、先生はドアの向こうに消えた。僕はその時に、まるで動きを止められる。彼女がドアの向こうから、やはり僕を見ているからだった。言葉を交わす動物である限り、沈黙は不自然だった。

「ねぇ?」

そして彼女はすっかり僕に歩み寄って、その後の言葉を用意している。

「ねぇ?学校では見ないわよね。ねぇ?いくつ?」

「僕、あの、学校には行ってないんです」

「何で?」

「何で?って言われても……、あ、歳は十五です」

「ほら、やっぱりね。私も同い年よ。私、エディア。よろしくね」

「リーフ。リーフ・イノセントです」

その時、ドアの向こうの方から声が聞こえてきて、エディアは逃げるように「またね」というと、そこから去っていった。

薬を受け取り家までの道をポケットに手を入れながら歩いていると、リーフの頭の中は初めての同じ年頃の異性との会話を反芻させていた。「エディアか、いい名前だな」そう思いながら、一人で怯えながら街へ行った事なんか忘れて、早く祖母にこの話を告げようと家路を急いだ。今日も父さんに会う事はなかった。思い出の中で呼吸をし続ける人に、成長は相応しくない。そして、温かいスープへの期待と、収まらないハートのリズムを使って、僕は住み慣れた家のドアを開けた。

「ただいま」

そして、キッチンから漂う優しい匂いに誘われて、歩みをつける。薬の入った袋を僕は床に落とすと、拾い上げた祖母の体は、思ったより冷たかった。スープは平然と冷め、僕は泣きじゃくった。祖母の死に顔は優しかったが、部屋の中が暗かったのか、とても悲しみに満ちた、深い緑色をしていた。

 

〜深淵〜

そして、悲しみを胸に抱いたまま街へ戻り、先生の家で泣き疲れて眠ってから三年が経った。母親の墓の横で疲れを知らず眠っている祖母の命日に二人でここを訪れた。花を手向けると、その後で街のカフェでコーヒーを飲んだ。

「ねぇ、そう言えばいつからか、珈琲に砂糖を入れなくなったわね」

エディアがそう僕に問いかけると、僕は大人になりきった顔で、自然と空を飛ぶ鳥達の群集を探す。生クリームのあの感触を忘れたわけではなかった。ショートケーキのイチゴを最後に食べるような感覚で、少し大人になっただけだった。それでも僕は、誤って苦いコーヒーを自ら甘くする事はエディアに出会ってからはなかったはずだった。祖母が動かなくなって、僕は先生の家で眠った。知らないうちに友達がいて、パーティーではダンスを踊った。手の平を太陽に透かして見る時もあるけれど、泣いてばかりいた自分とは進んで向き合わない。破れたポケットから小銭を落とすくらいなら、こぼれたミルクを先に拾う。祖母の血液が巡りを止め、エディアの朝食を知ると、時は瞬く間に過ぎ、僕は順ずる。笑う事の方が増えた。

「子供扱いするなよ。僕は夜が怖いからって、ヌイグルミを抱いたりなんかしない」

赤い顔を膨らませたエディアは、懐かしんだ目をして、群集に迷い込んだ子猫を探す。会話らしからぬ、異性を疑わない二人が、知らないうちに恋に落ちている事は、不自然じゃない。同じ窓から外を眺めて、雷鳴と共に激しく降る雨を見て、言葉が止んだら、その二人は、恋に落ちないわけがない。知らないのは体温だけで、若さだけがそれを保とうとする。二人の過ちは、それを幼長柄の馴染みだと、勘違いしていたからだった。そして、深く人を愛するという事を躊躇った時、それに気が付く時がやって来た。

「オマエの母さんはここにいる」

そう言って自分の胸を指したのは、実の父親だった。彼は極度の記憶障害で、毎日果物を食す。

「私が心を失い、母さんと思い出の中で暮らそうと決めたのは、オマエを愛さないためだった」

人間は愚かだから、禁じられた果物も、時に食す。

「母さんはオマエを心から愛した。そして、日々記憶は薄れ、唾液の分泌を増やす。脳みそは覚醒され、肉体を蝕む。母さんは自然界という中で、オマエという煙を吸い、笑ったまま死んでいった。そして、私も同じだ。これを病気と呼べば、みんなが嘲笑うだろう、私が病気だとね。私はもうすぐ死ぬだろう。こんなにオマエを想い、オマエを愛しているから。母さんが待っている。形ないものじゃなく、この手で抱きしめたいと」

向かい合った席で、僕はリンゴを剥きながら彼の話を聞いていた。驚いたのは僕を息子だと受け入れてくれた事。いつもの事だと嘆いたのは、「私はもうすぐ死ぬだろう」と言ったこと。キレイなガラスの中に置いてある水を彼のグラスの中に注いであげると、彼は嬉しそうに、その水を美味しそうに飲んだ。

リーフがこの家に来て最初のエディアの誕生日、リーフはエディアにヌイグルミをプレゼントした。涼しさを感じさせる、ウォーターブルーのリボンをつけて。そして、それを抱いて眠りにつく日を欠かさない。引き取られて、暮らしとは別の雑用で小さく稼いだ金の中からのプレゼントだった。

「ねぇ、さっきの事だけど、気にしてる?」

僕はヌイグルミの事で少々気にしているエディアに向かってそう訪ねた。

「さっきの事?」

僕は、生まれて初めて唇と唇を重ねた。墓場からの帰り道で、小さな川の小さな橋の上だった。

「僕、初めてだったんだ。あ、でもね、ちゃんとその味は覚えてる

そして、エディアの反応がないと、

「もちろん、君の事が好きだからキスしたわけだし、君だって……」

その時、やっと群衆の中の子猫を見つけ終えたみたいに口を開いた。

「私は、私は初めてではないわ。でも、リーフの事が好きなのは、私も一緒。キスの味は思い出せない。それより一つ気になる事があるの。ヌイグルミって何?」

日常の中のユリカゴまでと墓場から。曖昧と言う動物が創り上げる思い出。記憶に不可欠な伴う感情。言葉は残酷で、そこに落ちた者だけが見舞える深淵。唯一人間が永遠等と下らない思想を抱くのは、愛。でも、それだけで手首を切らない衝動は、救われた証拠。僕は君を愛している。それでいい。

エディアの疑問を下らない冗談だと思い込んで、僕達は家に着いた。夕食を食べ終えると、エディアが僕の部屋へやって来た。

「聞きたい事があるの」

そう言ったエディアが後ろ手に持っていたのは、あの僕がプレゼントしたヌイグルミだった。

「確かにベッドの上にこのヌイグルミがあったわ。でも、私の記憶には、私の思い出からは、あなたが贈ったリボンの色が消えてしまっているの。私、もしかしたら……」

彼に触れ、彼を愛したものの記憶を破壊する、そしてそれは、死に至る。だから彼の母親は中毒死、父親は愛情を遠ざけた。

「キスの味を忘れたら、何回でもキスするよ。僕の温もりを忘れそうになったら、何度でも強く抱きしめる。だから僕を一人にしないで」

僕はそう言って、エディアを強く抱きしめた。瞼の中は熱く、少しの涙が滲んだ。惨殺に息を圧し止めて、痛いくらいキスをした。そして、自然に二人は大人になった。外は突然の豪雨で、時折空は青白く光っていた。

「確か、母さんも記憶障害になったと言ったよね?それは事実で、原因と、そして死因は?どうか、本当のことを話して欲しい」

僕は父さんに向かってリンゴを剥きながらそう訪ねた。父さんの返事はこうだった。

「この街の隅に、小さな川が流れている。そこに、小さな橋が掛かっている。そして、穏やかなその流れの中に、身を投げた女性がいる。私は彼女をよく知っている」

僅かだが、父親の思い出が見えたような気がした。

「彼女の脳の萎縮が始まったのは、まるで……まるで遠くない日の出来事。二十年前、彼女が一人の子供を身篭ると、脳の萎縮が始まったんだ。彼女は狂っていったのかな?いや、違う。侵されて、蝕まれていったんだ。精神的知覚的、余りにもすごいスピードで。始めの症状は、私には酷だった。私の名前を忘れ、彼女の父親の名前を私に呼びかけたのだ。そして、幼稚化が進むにつれて、白痴としてでさえ無縁の子供への愛すら、忘れてしまったんだ。そして、あの日……」

鮮明だったか、まるで不鮮明だったか。

「あの日、あの日は彼女を病院まで送り、軽い精神鑑定を受けた後、いつものようにその沿道に咲く花達を見て、笑っていたんだ。だけど、どうだ。赤ん坊が泣き出すと、彼女は狂ったように、その赤ん坊を絞め殺そうとした。そして、私が抵抗すると、彼女は伏せて、今度は自分が泣き出した。そこで、彼女は最後にこう言ったんだ」

その、「最後に」といった言葉に、僕はもう悲しいのか何かわからなくなってしまい、その先を聞くのが、余りにも怖かった。

「記憶を無くして、日々笑っていられるだけなら、思い出の中で暮らしてもいいわ。だけど、掛け替えのないものを、無理に思い出にしようとする、自分がいるの。私は今、小さな命を、思い出に変えようとした。私は時期に、全ての記憶を失くすでしょう。そしたら、思い出の中毒患者として生きなくてはいけない。そして、子供を殺そうとした事も、きっと忘れてしまう。緑色の手の事や、他の事も。あなたを愛している事も、全て。ねぇ、忘れないでね。愛する事や、愛される事……」

そして、父親が思い出から僕の前に帰ってくると、また、父親は僕の目をゆっくり見て話し始めた。

「そして、彼女は、オマエが再び泣き出した瞬間、その後の言葉を濁したまま、その小さな川の、小さな橋の上から身を投げて、そして、もう二度と、呼吸をする事をやめたんだよ。とても悲しげな顔をしていた。今でも覚えている。父さんは、あの日のまま、思い出の中で暮らしているからね。一週間泣いて、一週間酒に溺れた後、もう、あの家に戻る事はなかった。私の事を人は記憶障害だ、狂人だと言うが、私はそれのどれでもないな、記憶溺没者だ。水面から顔を上げるのが怖い。深く深く、落ちていく、誰も見たことのない、深淵の闇の中に」

そこで、プツりと会話が止んだ。僕は、知る事の怖さの他に、知らなくちゃいけない事があった。

「核心ではない。母親の死因は後から付いて来たものだ。僕が知りたいのは、原因だ」

「何度でも言う、脳の萎縮、即ち、急速な脳の老化、薄れていく記憶、意味のない幼稚化。不透明だが、医学的によくある事だ」

彼は少し腹を立てたのか、焦って言葉を発した。

「じゃー、何故だ。あなたが死んでしまうと言った時、隠していた昔の話を口にする?二十年も僕を認めず、あっさりと引き際がわかったように、僕に話をする?直接的なものは?ねぇ、今の僕には大切な事なんだよ。何故だか?僕の最愛の人が、僕の愛を認めた時、記憶を一つ無くしたんだ。これを、そんなものを、偶然だと呼べる?そして、彼女がこのまま記憶を無くしてしまって、残った僕は、素直に笑えるだろうか?そんな筈はない。僕もまた思い出に引き篭もり、嘆く事無く、その中で溺れているだけだ。僕は知りたい。ねぇ、それは、この僕の、この僕の呪われたような緑色の手のせいなの?」

そう言って、僕は、彼の前に両手をかざした。彼は、僕の手をまじまじと眺めると、それを見て、嬉しそうに笑った。父はそれっきり何も話す事をやめた。父はその日、天に召された。それでよかったのだろうか?明かり一つ燈る事のない天に召されて……。結局僕にはわからない。ただ、一つわかったことは、何らかの理由で、僕を愛すると、その人の脳は萎縮され、記憶を失い、狂いだす。

次の日、僕は父親を母親の隣に埋めた。その帰り道、小さな川の、小さな橋の上に佇むと、僕はそこから橋の下を見下ろし、少しの疑問が挙がった。見殺し?どうだろう?今頃二人は、あの頃の思い出からやり直せているだろうか。それとも、そんな深い淵の底には、全くを持って、何もかもを無にする位、何もないのだろうか?それはわからない、何もわからない。

昼食を終え自室に戻り、エディアの乳房に顔を埋めると、その涙は止まらなかった。弱さに限界はないな。

「ねぇ、リーフ?泣かないで。そろそろお昼にしない?私の作ったスープがあるの」

そして、もう一度涙が溢れると、エディアを強く抱きしめずには居られなかった。そして、祖母の愛に疑問を感じた。

「本当は僕を憎んでいたんだろうか?」

その疑問は、深い所に落ちたままだ。考えるのはよそう。否定すれば、更にまた悲しくなるだけだ。「一人にしないで」そんな風に哀願するのは、僕は一人じゃないからなんだ……。

 

〜深愛〜

母の残したものが、父の死後初めて僕の目に触れた。それは古い古い日記帳で、途切れたのはもう大分前の事になる。

—今日、街へ音楽を聴きに行った。彼は、君の好きな曲だろ?と訪ねるけれど、私には旋律の記憶しかなく、そこに思い出がない事が悲しかった。人の感情を揺さぶるものまで消えてしまうなんて、私はいったいこれからどうなってしまうんだろう。それが怖い—

—今日、街に一つしかない教会の前を通ると、一組のカップルが嬉しそうに笑っていた。幸せそうだな。私もあの純白のウェディングドレスをもう一度身に纏えたなら、そう、もう一度……。私は急いで写真を探した。よかった。そこに思い出があった。これだけは忘れたくない。そのまま机に写真を立て掛けると、それが悲しい行いじゃないかと、不安になった—

—今日、彼が家に帰ってくると、急に私に怒鳴り声を上げたので、それが怖くて仕方なかった。私はまた、忘れてしまう事の傍で、何かをしたのかと思った。でも、やっぱりそうだった。思い出が嫌いになった私は、無数の写真を乱雑に破き、自ら思い出を無に返そうと勤めたみたいだ。ただその記憶がない—

—不幸は続くものなのか?そう義母の声が聞こえた。私が眩暈を覚えると、ちっとも泣き止まない赤ん坊を抱いて、彼が私に見せてくれた。「僕等の子供だ」そう言ってくれたけれど、余りよく覚えていない。この思い出が創られたものでなければよいが—

—この子はおかしな手の色をしているなぁ、と思って、その両手を太陽に透かしてみた。私の赤ちゃんなの?それを考える自分が怖いはずがない。でも、抱きしめると安らぐ。やっぱりこの子を愛している。この子との思い出や記憶は、失う事の方が少ないから、私は今ある感情を持って、最大の愛を与えればいい。最近、記憶の薄れや思い出の消失より、それより怖い夢をたくさん見る。見た事もない大きな獣が襲ってきたり、真夜中の街並みが大きな、とても大きな炎に包まれている悲観的な図。その度に大きな声をあげるが、周りの皆の目は冷たくなるばかりだ。だってそれは、眠りの中で見る夢なんかじゃなくて、街の教会の前や、美味しそうなパン屋さんの前を一人歩いている時なんだから—

—急に思い出す懐かしい記憶もある。それは私の中で、時間と言うものが少し曖昧になったせいだろうか?それは眠りに着いた中での夢だっただろうか?子供の頃、私はとても湿っぽい池の隣に家族と住んでいた。父さんや母さんが、いつも口々に言っていたのは、その先へ行ってはいけない。「その先に何があるの?」と訪ねはしたが、二人は口を紡ぐばかりだ。或る日、街へ両親が買い物へ出かけた後、私はそこへ足を踏み入れた。大して変わった様子がないかと思うと、突然どこからか声がした。「遊ぼう」そう言われると、私は、「誰?」とだけ言った。振り向くとそこには、とても鮮やかな緑色の目をした男の子が立っていた。「僕は君の幻覚だ」そして、彼は魔法を使った。私は自由に空を飛びまわり、そして気持ち良くなった。そして、空を飛ぶのをやめたかと思うと、私はマスクをした大人達に抱きかかえられていた。そして、意識が完全に飛んで、次に目を覚ました時、私はベッドの上にいた。両親にはこっぴどく怒られた。それ以来そこには行ってない。でも、何故あんなにキレイなその大群を、大人達がヒタ隠しにするのかはわからなかった。あの鮮やかな緑色の瞳は、今でも胸に焼き付いて離れない。あれは何だったんだろうか?そんな記憶を急に思い出した—

—この日記帳を机の上に見つけた。私は初め何故こんなものがあるのかがわからなかった。所々抜けている毎日に、この日記帳を頼りにしていたんだと思い出した。読み返してみれば、この悲しい言葉を綴る女性は私なんだと、涙が止まらなかった。死んでしまおうか?それとも塞ごうか?いずれにしろ、答えは同じような気がする。義母は息子を裏切ったと、私を憎むだろう。彼は、自分を裏切ったんだと、私を憎むだろう。我が子は、彼を裏切ったんだと、私を憎むだろう。でも、それでいい。いっそ、憎まれた方がいい。愛を抱えたまま消えてしまう事を考えれば、些細な方だ。今日の夜にでも、手首を切ろうか?鮮やかだ。でも、この日記帳を閉じた瞬間、私のそんな軽い衝動なんて、きっと忘れてしまう。忘れやすいことは、私にとっての償い。それでもそんな軽い衝動で死んでしまったら、私の意思なんて残らない。だから、責めてでもここに、こうして言葉を残すんだよね。誰が拾う?私の言葉達。いつか私を見つけたら、本当は全てを愛していたんだとわかってください。リーフ、日時計が日毎影を落とすくらいしか愛せなかったけれど、そんな母を許してください—

—また思い出して日記帳を開くと、そんな悲観的な自分を慰めた。私、やっぱり衝動に駆られていない。最近、自分が死んでしまう事より、他の万物が死んでしまって孤独になる方が、一思いなのかと考えた。明日は街に出かけ、先生と思い出話をする。最近冷たい衝動が脳を揺さぶるかと思うと、必ずリーフが泣いている。幸せの意味を考えた。言葉が浮かばなかった—

と、そこで母の日記は終わっていた。きっと次の日、母はそんな衝動に駆られて死んでしまったんだと思う。誰も憎んではいないよ。そう言いたいが、それは僕一人の本心ではない。みんな、あなたを愛していたよ。そう言いたいが、それも僕一人の本心ではないだろう。この思い出は、父や祖母が居なくなってしまった今では、僕一人の胸にしまって置いた方がよいのだ。そして、僕は今一人の女性を愛している。彼女の病気は軽い偶然だと思うようになった。彼女の記憶は日々薄れ、脳の萎縮は始まったが、幻覚作用や、唾液の分泌は特に増えた様子はない。ただ、時折遠くを見て笑っているが、それは思い出と話をしているだけだと思う。彼女は正常に普通の暮らしを送っている。学校を出た後そのまま病院で介護の仕事を続けているが、患者とのその間柄はしっかりと守っているようだった。僕は新聞社に勤め、金属音をカタカタと響かせてタイプライターを叩いている。そうだな?父が深淵を崇拝してから三年くらい経っただろうか?きっと、そんな闇の中で母と深い愛を分かち合っていると思う。祖母はきっと、もう母のことを憎んではいないだろう。時は幾度となく流れるが、同じ所へ戻って来る事は二度とない。静かにでも、見た事のない景色からでも、やり直せない事はないさ。

戦争が始まった。大統領に徴兵を取り下げ願わなくても、僕は銃を担ぐことはない。僕は鳥の羽とインクを持つと死を覚悟して、今戦場へ行く。深愛の妻を残して。

「たった一つの心残りは君だよ、エディア」

そう言ったのは隣町に爆弾が落ちた日の夜だった。本当の心残りはエディアの記憶と、彼女との思い出だった。僕の中にはいつでも彼女を見つけ出せる。だけど、彼女の中には……、時間がないかもしれない。父のように愛を遠ざけ、思い出の中だけに溺没すればよいかもしれないが、彼女は生死が掛かった恋人に、日毎無事を祈るのだ。そこに愛がないはずがない。僕はそれが怖かった。僕が戦場から戻ると、彼女の中には僕が残らないかもしれない。そしてその事を告げた後、エディアは僕の額に口づけをくれ、

「私は絶対にあなたを忘れないわ。でも、絶対なんて要らないから、今が欲しい。ねぇ、教会へ行かない?母のウェディングドレスが着てみたいの。そしたら、母の事やリーフの事を忘れてしまっても心残りはないでしょ?戦争が早く終わってしまえば良いんだけど、この国ではそうはいかないわ。小さな愛なんて興味ないみたい。たくさんの人が死んでしまってから平和を手にして、残された者だけで愛を賛美しても悲しいだけ。思い出が欲しい、事実が欲しい、記憶が欲しい。強くなるために、今弱くては駄目?」

涙を流したエディアを抱きしめると、

「じゃぁ僕は先に教会へ行っているね」

そう言って、急いで宝石商へ向かった。そして神父を叩き起こすと、二人で急いでロウソクに火をつけた。後ろ手に扉が開く音がすると、まるで静けさの中、鼓動が響いた。父親にゆっくりと手を引かれて、純白の君が歩み寄る。指輪を確かめたりキスを確かめたり、そしてその日愛を確かめると、僕は深愛なる妻を残し、今戦場へ行く。

そして、途切れてしまった日記帳を何気なしにパラパラとめくると、最後のページには、父の言葉が残っていた。

—言葉は余り要らない。君にはわかるはずだ。脳からハートを伝い爪の先まで、愛している。ただそれを悔やんだのは、全てを失くした後だった。最愛なる妻と息子へ—

卑怯だ。こんな愛され方は望んではいない。だけど、ほんの少しだけ嬉しかったんだ。

 

〜深悲〜

あの日以来、僕の見る夢に色調が消えた。セピアに色ボケたその世界は、全くを持って、現実と成り得るだろう。幼さを忘れてしまったのだろうか?いつも二人は躓き易いから、その手を取り合っていなくてはならなかったはずなのに。僕と言う片翼を見失って、飛べなくなってしまった悲しい一羽の雛鳥。だけどその翼は余りにも鮮やかだ。そうだ、あの続きを話そう。僕が戦場を駆け抜け、その鉄砲の玉を擦り抜けながら死を免れた日々からの続きを……。そして、今ここで死に至るまでの話を……。

僕は最前線を救急隊と共に回っていた。銃の乱射のいつも五秒ほど後を着いて回っていた。だから黒インクに時折鮮血が混じっていたんだ。それを見て驚き狂うことはない。終戦を迎えたのは、空を飛ぶ平和のハトを一羽も見なくなった頃だった。偏食を余儀なくされてから、もう二年くらい経ってしまった。そこに勝ち負けなんかなかった。愚かな人達は無意味な生死を繰り返し、手にしたものは一つもなく、失ったものばかりが目に付く。爆撃と共に空から落ちてきた少年の最後の言葉を頭の中に残すと、そう、それ以来幼さを保つ事が出来なくなってしまった。涙で上擦り、彼が残した言葉は、「……、ママ……」それはその後感謝の言葉を言ったのか、それとも謝罪の言葉を言ったのか、僕にはわからなかった。ただその日、争いに幕は閉じた。

小さな川の小さな橋の上を通りかかり、一度足を止めた。そして、そこから下を見下ろした。あの頃より、大分水が濁った。墓には、まだ新しい花が添えられていた事を思い出し、様々な感情の中、エディアの元へ急いだ。

「誰?」

そこは冷たい、冷たい氷の世界。

「忘れてしまったのかい?」

「まさか。忘れるわけないじゃない。でも、時折忘れてしまうんじゃないかって、すごく不安だった。だって一度きりの手紙じゃ、寂しいに決まっている」

「一度きり?そんなはずはない、僕は何度も君に手紙を書いたよ。君の返事がないから、僕は不安で仕方なかったんだ」

「そうなの?あの状態では仕方なかったのかもね」

「記者の妻に伝達が遅れるなんて、間抜けなものだよ」

「でも、今こうして目の前にいるわ。それで十分。幾文の文字も、それに勝てない」

「ねぇ、こっちへおいで、そして思いっきり抱きしめさせて。君の温もりをどれだけ待ったか」

エディアはあの頃より随分長くなった髪を掻き揚げると、はじめて出逢った頃の顔で笑った。そして、ゆっくりと歩み寄って、僕はその半歩手前の歩みを取り消し、そのままエディアを強く抱きしめた。

「よかった。あなたがここにこうしている。私、もう、あなたが死んでしまったかと思って、もう、会えないかと思って、こうされる日が逆に怖かった。手にしているものは日々褪せてしまうし、そう、まるで写真のように。記憶や思い出が、明日の朝にでも消えてしまうのが怖かった。それを保つのに、時折疲れて見せたりもした。でも、こうして……」

「もう、いいよ。言葉は余り要らない。今はこうしていたいんだ。こうして、君をずっとずっと抱きしめていたいんだ。褪せたりなんかしない。決して褪せるものか」

そこは冷たい、冷たい氷の世界。

僕はその橋の上から濁った水を見下ろして、そこに映る自分の顔の情けなさに笑った。そうか、これが思い出への溺没だ。彼の意思がわかったような気がする。いっそ縋り(すが)たい。毎日果物を食してもいいから、あの頃のまま笑っていたいんだ。むしろ正常だ。人は弱すぎる。褪せないものなんてない。ただ、僕は愚かでも、愛を永遠と呼ぶ。涙が止まらない。涙が止まらない。約束したじゃないか。あの日、誓ったじゃないか。君は僕を祈りながら傷んでいたんだね。そうだよ。返事が来るはずがない。僕がどれだけ毎日手紙を書こうが、花束は何も語らない。思い出は語らない。

「ねぇ?リーフの夢って白黒?それとも、ちゃんと現実世界のように色が付いている?」

「え?ちゃんと色付いているよ。今朝見た夢には、一面雪のように真っ白な花が咲いていたよ」

「真っ白な花?」

「そう、真っ白な花。白黒じゃないよ。だって、そこに立っていた男の子の瞳は、鮮やかな緑色をしていたから」

「男の子?誰なの?」

「僕が、誰?って訪ねたら。君の種子って言うんだ。それから、一人の女の子がそこに居た」

「女の子?誰なの?」

「わからない。突然その女の子が倒れたかと思うと、僕はそこで目を覚ましたから」

「変な夢を見るものね」

「普通夢は変なものでしょ?ねぇ、エディアの夢は?」

「もちろん三原色で構成されているわ。今朝見た夢はね……。リーフが泣いているの」

「僕が?」

「そう、小さな川の、小さな橋の上で。ねぇ、知ってる?色のない夢は、子供心を忘れてしまった証拠なのよ」

そして、そんな思い出の中で悲しむと、僕は橋の上から立ち去った。来た道を戻り、まだ新しい花束の前に座り込むと、エディアを偲んで、もう一度泣いた。彼女はもういない。抱きしめたくても、キスを交わしたくても、君はもういない。思い出の中を泳がない限り。僕は何を憎めばいい?何を愛すればいい?そうだよ。憎むべきものはこの深緑の手で、愛すべきはエディア。何も考えることはないじゃないか。この話は、僕が死に至るまでの話。そこから先は、深淵を辿るかもしれない。何もわからない。エディア、君と永遠を愛することができるだろうか。父や母に会えるだろうか。唯一人間が永遠等と下らない思想を抱くのは、愛。でも、それだけで手首を切らない衝動は、今の僕には、辛すぎる。僕は、様々な感情を抱き、エディアの元へ急いだ。

 

〜深々〜

そして深淵の出口を見つけると、いつもの部屋だった。

「ねぇ。ちょっと、広基(ヒロキ)。あんた大丈夫?ずっとブッ飛んでたみたいだけど」

「何だ、穎佳(エイカ)かよー」

「何だじゃないでしょ?あんたまた、ハッパ吸ってたでしょ?いい加減やめなさいよ。ガキじゃないんだから……」

「俺はまだ白黒の夢なんか見たりしない」

「はぁ?」

「俺、なんとなくわかった気がするよ」

エイカは少し呆れている。クロスボーンの描かれたクリームソーダのライターで、僕はメンソールの煙草に火をつけた。そして、ミネラルウォーターを飲むと、僕は少し記憶を辿り、その思い出話をした。

「で、その後どうなったの?」

「彼らが本当にその先出会えたかはわからないよ。ただ……」

「ただ?」

「ただ、彼は自分のその深緑の手をエディアの墓に埋めた後、そこで息絶えたんだ。そして、時が流れると、そこから一つの小さな芽が生まれた。それは人々の脳の萎縮を栄養とし、すくすく育った。そして、彼の手と同じ鮮やかな緑色をした植物に育ったんだ。もうそれは見事に鮮やかで、まるで彼の手その物だった。俺が脳に溜め込む煙や、そしてそこから広がる世界が始まったのは、きっとそこからだと思う。だから言っただろ?わかったような気がするって」

「悲しい話ね」

穎佳は何故か親身になって僕の下らない想像に心を打たれていた。僕は雑に積まれたCDの中から、サラ・マクラクランの曲を探した。そして、彼女が渇いた心を癒そうと、俺に触れて、そのままキスをくれた。そして、ステレオが一度歪むと、そこから音楽が流れてきた。彼女は見つめても仕方のない音源のデジタル画面を不乱に見ていた。

「悲しい曲ね」

僕はケムリを吸った後の空腹感に、甘いものが欲しくなった。

「穎佳は俺を忘れたりはしない?」

サラの曲を聞いて、心を打たれたのか、俺の話に不安を覚えたのか、穎佳は急に抱きついてきた。空になりかけのミネラルウォータのペットボトルが床に落ちたが、そんなことも気にしないで、そのまま彼女を愛した。脳からハートを伝い、爪の先まで愛した。深々と日常の中に見つける深々を、想像力と創造の中に。弱さに限界がないと知って、それでいて抱きしめてくれる深愛なる人。リンゴを剥きながらでもその人と向かい合い、言葉を交わす。忘れてしまう事の怖さは簡単な暮らしに紛れて。初めて君に出会った日の君の顔はもう忘れてしまった。それでも動物は繋がる。思い出したり、知ってしまう事の方が怖い事もあるんだ。

「一人にしないで……」

そんな風に哀願するのは、俺は一人じゃないからなんだ……。

「穎佳?」

「何?」

「忘れないでね。愛する事と……、愛される事……」

そして深々と積もる白い煙が、脳をほんの少し萎縮した。