「憧れることに憧れる」

 

コウスケは、翔をニューヨークまで導いて、そして、紀子に頭を下げると、後はよろしくと言って、そこから去った。靖章に自分の仕事を任せると、この機会にやっておきたいことがあったからだった。そして、そのままイリノイ州に向かうと、シカゴの街に立っていた。その日は、少しだけ雨が降っていて、この地にいることが少し不安だったけれど、それは武者震いのようなもので、お酒を飲んで自分を落ち着かせると、アメリカ人なんか大したことないって、更に笑って自分を落ち着かせた。その日、ホテルに早く戻ると、コウスケは雷蔵に電話した。

「やっと夢が叶うね」

「あー、ずっと走りたかったからね」

「ルートロクロク、できれば僕も走りたかった」

やんちゃな頃から、コウスケの夢は、ロクロクの上だった。ホテルで、枕もとにあったバイブルを手に取ると、それをパラパラとめくった。そして、そのまま寝た。

次の日、ハーレー・ダヴィットソンにまたがった。準備は全て整っていた。ニューヨークにいる友達が紹介してくれて、後はビギンの看板を目で確かめると、エンジニアブーツでギアをキックするだけだった。4,000キロの道のりは、そんなに簡単じゃない。ヒョウ柄のバンダナをハンドルに結び付けて、翔も一緒に連れて行こうと思った。一人で行くことに決めたのは、それが憧れだったからだった。でも、本当は一人じゃないって思える。途中でハンバーガーやチキンやポテトを胃袋にビールで押し込むと、こんなに清々しく走れることに嬉しくなっていた。どれだけ懐かしい歌を口ずさんだだろうか?「赤いカルマンギア」この歌を口ずさんで、走っていく。ロスまで後ちょっと。切っ掛けは簡単で、軽い接触だったんだけど、思ったより体が浮いた。平坦な道だったはずだった。死ぬってこう言うことだったんだ。その余りにもドデカイエンジンはひしゃけたイチゴのショートケーキみたいになっていた。

 

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賢治の疑問は、別に果てしなかったりはしないけれど、微妙なところだった。ミツヲさんがいなくなると次第に馬鹿なことはしなくなったけれど、一人でペットショップに行くこともなくなって、心を潤せなくなっていた。女子高生がピンチになってから、特に何の問題もないことは、ミツヲさんにはきっとショックだとは思うけど、時代の流れが女子高生に本当に支配されてしまっては、この世は終わりだった。「ミツヲさんはこの世の中に何か残せたかな?」って考えたけれど、特に何もなかった。穏やかな日常に、ちょっと勢いのいい風が吹いただけだった。歳を少しずつ重ねるごとに、やっぱり自分の周りに「死」というものが多くなって、みんな死んでしまう。逆に、生き残ったほうが、その分寂しさが募って、ただかわいそうになっていくのかな?普通なら、新しいものが生まれてくるはずなのに、そう言ったことも特にない。日常を振り返れば、だからそれだけ淋しくなる。沙耶香が死んでしまったのはちょっと残念だった。そして、今ではそういう性癖はなくなってしまった。違う方向に向くこともなくなってしまったし、別に少女が好きになったわけでもない。

モモはあどけない。それより疑問は、そんな恋愛観だった。別に、それが不思議なこととは思わない。そういうのもあっていいとは思う。だけど、あのタトゥーは滑らか過ぎる。僕がだんだん人を観察するようになってしまうって言うことは、興味が、間接的になってしまうって言うことだ。いつのまにか、優れていたと思っていた、想像力も薄れ、このまま蝶ネクタイをして、お酒を提供していくんだなと思う。軽く蓄え始めた髭も、だんだん顔に似合うようになって、普通にオヤジになっていくんだ。

愛理さんが店にやって来た。本当に、いつもキレイだと思う。セブンスターの白いフィルターが口紅で濡れると、ノーマルな自分が厭になる。或る日、やっぱり髭をきれいに剃って、紅を引いてみる。でも、素材が違いすぎた。そっと口紅を落とすと、ノーマルもそれはそれでいいなって、思った。

 

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溝口君は、そろそろ結婚しようと決めていた。そして、それを沙耶香に告げると、沙耶香はそれを拒んだ。理由はまだ若かったからだった。別に仕方ないとは思うものの、そこで終わってしまうものでもない。僕の就職はたわいもなく、大学で4年間何を学んできたかなんか、全く関係なかった。僕は、そのままファミリーレストランに就職した。そして、僕はそこの店長を任されることになった。前の店長は、その系列では結構上の人間で、人手ができて、元の椅子に戻っただけだった。沙耶香は相変わらず理由をつけては、高価なものを所持することを僕に隠そうとした。それでも、あれから別に何の変哲もなく過ごしているから、特に問題はなかった。最近溝口さんに会ってないのは、精神が落ち着いている証拠で、自分ではもうすでに、もう一人の自分なんか、この世に存在していないんじゃないかと思っていた。僕にだって、結構憧れがあったりするものである。それは、ゆっくりとはしているけれど、いつかは漫画家になりたいと思う。これは沙耶香には話していないんだけど、僕の作品だって、雑誌に載ったことがある。青年雑誌の下らない三流エロ漫画で、ストーリーもどこを見ても同じようで、実際現実ではありえないような夢のような話だった。ただ、エッチなものを描いていればいいし、それはすぐに風化してしまうものだから、大衆娯楽としての感性を出していれば、何も問題はなかった。それでもいつかは、単行本なんかを出して、いっちょ前の漫画家として大成したいものだ。それでも今は、ムカツク客に間の抜けた声を出して、普通にコーヒーを出している。

婚約指輪というつもりはないんだけれど、僕は沙耶香にささやかだけどダイアモンドの指輪をプレゼントした。彼女は特別喜び、僕に笑顔を見せた。本当は、ただテレアポの変な電話に引っかかって、簡単について行ってしまって抜け出せなくなり、渋々指輪を購入したのだった。それが、切っ掛けなら、別にいいと思う。ただ値段は、沙耶香に伝えたのよりゼロが一個多かっただけだ。それは、漫画を描いて貯めていた小遣いから当てた。それを贈った次の日、朝から沙耶香の顔はにやけて、左手にはめてみると、似合うのかどうか気になって、それをずっと眺めていた。そんな沙耶香が好きだった。

 

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聖子はバナナジュースが好きだった。それを飲んでいると、一人幸せになる。目の前にいる男はどこか違うって思った。私がスーツを着ているのは、プライベートとビジネスを区別させたいだけで、人に惚れやすい私は、それを着て身を引き締める。電話をして声を聞いたときはなんだか気の抜けていた声だったけれど、話してみて、単純に話がしたいと思った。

「溝口さんですか?私ジューン・ブライドの田口と申します。今、アンケートを取っているのですが、お時間よろしかったですか?」

彼はきっと寝起きなのに、とても快く返事をしてくれた。そして、今、彼は私の目の前にいる。彼は、特に気取ることなくクリームソーダを食べている。そのメロンソーダの色といったら、私をソソル。そして、普通の話を済ませると、私は彼を会社のほうへ招いた。彼みたいな人はやり易い。もう、私は仕事として彼を見るようになっていて、それが止まらない。彼は、私の会社の中へ入ると、いささか緊張していて、エレベーターに乗ると、こう言った。

「なんだか、エロイね」

余り、彼の言った言葉の意味はわからなかったけれど、その部屋に案内された彼は、更に緊張していた。

「ねぇ、怖いお兄さんだとか、出てきたりしないだろうね?」

「大丈夫よ。みんな最初はそう言うけれど」

溝口君は、あなたがきれいだからそう思うんだと、聖子に言いたかった。本当にきれいだった。

聖子は、最初は自分のしている仕事の話を自分の観念から見た形で溝口君に話し始めた。彼はとても興味を持っていた。だけど、まだダイアモンドなんて特に興味なく、それでも話を聞いていた。溝口君は考えていた。この間、なんとなくほろめかした結婚について、沙耶香の反応はゼロだった。それに答えられるのは、永遠の石しかないのだろうか。それでも、今の僕には早いって思っていた。溝口君は、何とかそういうチャンスを窺っていたけれど、聖子は一生懸命話しているし、本当によく喋る。話をするチャンスもないまま、やっぱり核心に迫られると、僕は「ノー」と言った。それでも聖子は納得できなくて、今日がチャンスだ、価値観がどうだと言う。僕は、必至に貯めていたお金を頭の中で数えると、仕方なく返事を「イエス」に変えてしまった。聖子は、これ以上になく喜び、その顔は本心から喜んでいた。それは、「この人は良い買い物をした」か、「この人は騙された」か、はわからなかった。でも、この人の笑顔が、特に棘のあるものではなかったので、溝口君も心の中で頷いていた。

聖子の本心は、単純に「売れてよかった」だった。仕事としてでも、そうでなくても、本当に嬉しかった。お客さんが買ってくれなくたって、別に子供のように癇癪を起こしたりはしない。それが、仕事というものだった。聖子は自分で、別に頭なんかよくなくたっていいと思う。とても感受性が鋭く、なんでも感動してしまう自分がいてよかったと思う。ただ、恋愛は上手じゃなかった。皆は、私のことをキレイだって言う。それだけがあまり好きじゃなかった。普通に恋愛をしたいのに、美しいことは多少邪魔だった。聖子はそんな出会いを待っていた。

聖子はまた同じように電話をかけていた。今、勢いづけて、次のお客さんに出会いたかった。受話器の向こうに「もしもし」と聞こえるとこう言った。

「賢治さん、ご本人ですか?私ジューン・ブライドの田口と申します。今、アンケートを取っているのですが、お時間よろしかったですか?」

日常的に目まぐるしく出会いが在ると、どれが良い出会いだったか余り考えなくなった。それでも、それを考えるたびに、普通の恋に憧れた。

 

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靖章は栞が生まれたときに絶望した。美咲はもう何も言わず口を閉ざしていた。それでもすくすくと栞は育ち、別に普通に笑う。いつだって思い出が真っ黒なのは、別に誰のせいでもなかった。はじめ子供ができたと聞いたとき、靖章は安楽な気持ちでいた。生まれてくる子供に期待ではなく、美咲とは普通に別れればいいと思っていたからだった。だけど、そういう訳にはいかなかった。いつものように仕事場に行くと、コウスケさんに殴られた。やる気のなさそうな僕に彼が手を上げるなんて、思ってもいなかった。いろいろなことを聞くと、僕は本当にそれに順じて、家族を持つのもいいと考えた。だけど娘の目には光さえ与えてくれなかった。普通の幸せを望んでいただけ、それはかなり辛かった。栞が言葉を覚えると、何やら猫と話しているのを聞いた。それが自然ではないことはわかっていたけれど、守ってあげられるのは自分しかいなかったから、その子を必至に見守りつづけた。栞が11歳になると、更に靖章の前に不幸せが待っていた。美咲の命はもう長くないという。それを聞かされたときに、はじめて靖章は思った。そう言えば、美咲が笑った顔を今までに見たことがあっただろうか。自分が一番不幸だと感じたのが愚かだった。目の前には二人も、自然に笑えない人間がいるのに。美咲の体はすぐに痩せ細った。美咲の最後の願いは、栞に光を与えることだった。その弱った体で、眼球の移植など、到底無理だった。それでも強い意思に負けると、僕もその同意書にサインをした。そして、栞が光を手に入れた二週間後、美咲は逝ってしまった。病室の壁を何回か殴ると、靖章のこぶしは血で真っ赤に染まっていた。サンタクロースが、余りにも無力だった。

 

 

 

 

「日常的な軽い疑問」

 

溝口君がおかしいと思ったのは、そこに手首が落ちていたからだった。その指には見覚えのある、ダイアモンドが光っていた。

 

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賢治は、とりあえず掛かってきた電話に応対していた。そう言った日常にいきなり割り込んで来る日常が好きだった。僕は、聖子と名乗る女性の話をとりあえず聞いていた。聖子とは上手く話せそうな気がして、彼女が一生懸命話す思想に耳を傾けていた。どんな甘い誘惑でも、女性の方から誘われては、断る理由なんて見つけられない。とりあえず、日常的には、彼女がいて、仕事も上手くいっている。最近、沙耶香に覚えさせた色々な恥らう行為も、それが一度続けば日常になって、それもそろそろいいかと思っていた。キャバクラで知り合った女だし、男の一人や二人がいたって、何の問題もない。それでも、僕の思うように動いてくれて、思うものを飲んでくれれば、それで構わないのだ。セクフレだろうが、幼馴染だろうが、何かを満たしてくれるのなら、今の賢治には構わなかった。

約束の時間に間に合うように賢治は少し早めに家を出た。どちらかと言えば時間を気にするほうで、どちらかといえば、そのどちらでもなく、自由であることに意義がある。駅について少しおかしいことに気がついた。

「おかしいな、平日のこの時間なのに、駅には溢れるほどの人がいる」

その駅は大して混むような急行が止まるような大きな駅ではなく、いつにもない賑わいに少し疑問を感じた。賢治は、そこにいた一人の男に声をかけた。

「どうしたんですか?」

「いやー、なにやら次の駅が停電らしくて、電車が動かないみたいなんですよー。いやー、困ったよ」

その男はどうも気になる声をしていて、どこか聞き覚えのある声だと思ったけれど、それはあんまり気にしなかった。仕方なく、10分くらい待ってみたものの、再運転のめどは立たないという。それどころか、更に多くの人がその駅から溢れた。次の駅が停電ということで、この駅と次の駅との間で、電車が2時間もの間、客を乗せたまま止まっていたのだ。その電車が引き返してきて、そしてやっとおいしい空気にありつけたような顔のその閉じ込められていた乗客たちが、いっせいに溢れたのだ。分の悪いことに、ここら辺のタクシーたちは、急行の止まる次の大きな駅に出払ってしまい、全くといっていいほど、タクシーがこない。業を煮やした人達は、近くのバスの駅を探そうとしていたけれど、賢治は知っていた。ここら辺に、バスの駅はない。賢治は、時計を見て、少し焦った。待ち合わせの時間まで後30分しかないのだ。今から家に帰って、車を取りに行くのでは間に合わなかった。仕方なく、賢治は歩き出した。ここからなら店の方が近いと思って、とりあえずマスターを当てにして歩いた。そして、10分ほど歩くと、ようやく店についた。そして、嘆いた。マスターの車がない。そう言えば、今日はモモのやっている個展に顔を出すとか言ってたかな?いつもなら家にも帰らずにそのまま寝てしまうマスターが、今日に限っていない。つくづく賢治は、自分の運のなさを恨んだ。そこへ、突然クラクションの音がした。振り返ると、先ほど尋ねた男がタクシーに乗って、僕の方を見ている。そして、僕の前で止まった。

「よろしかったら、ご一緒しませんか?」

相変わらず気になる声で話し掛けてきた。そして、僕に選ぶ手段などなく、僕はそれに同意した。

「あ、ありがとうございます」

「いえ、困ったときはお互い様ですよ。で、どちらまで?」

そう、溝口君は尋ねた。

「近くの駅で結構なんですけどね。街の方へ行きたいので、どこかの駅で降ろしてもらえれば、たどり着くと思うんで」

「ちょうど良かった、僕も私鉄のほうへ行こうと思って」

そういって、タクシーは軽くスピードを出して走った。私鉄の駅に着くと、僕はタクシー代を全て払うと、いそいそと歩き出した。すると、後ろから彼が走ってきた。

「あのー、お金、お金」

「あー、別にいいよ。助かったのは俺のほうだし」

「そう言う訳にもいきませんよ」

「だから、いいってば。気持ちだけでいいよ」

「じゃー、これ、うちの店なんですけど、良かったら今度来て下さい」

そういって、溝口君はファミリーレストランのクーポン券を渡した。

「あ、僕、そこで店長やってますんで、よろしくお願いします」

ついでに賢治は、名刺までもらった。

「あ、ここよく行くよ。そうかー、ここの店長やってるんだ。じゃー、何度か会ってるね」

「はい、きっと会ってると思いますよ」

「でも、なんで?今日はお店いいの?」

「あ、こう見えても一応店長なんで、店長会議という奴に出席しなくちゃいけませんのでね。僕も結局サラリーマンですよ。本当は、会社の方に行くのはあんまり好きじゃないんですけどね」

そう言って、僕はその彼と別れた。なるべく会わないようにと改札口を通ると、反対側の階段を下りていった。それでも電車の車両数は多くなく、結局同じ車両に乗ると、僕はいきなり腰掛けて、狸寝入りを決めていた。ついでに、降りた駅も同じ駅だった。そして、僕は扉が開くと、さも急いでいるかのように走り出した。

結局15分も遅れて待ち合わせの場所についた。急いでいるのは本当のことだったけれど、そこに着いて誰もいないのにちょっと焦った。ちょうど携帯電話が鳴った。

「あのー、聖子ですけど、今どこです?」

「あー、ごめん、遅くなっちゃった。今ね、待ち合わせの場所にいるよ。聖子は?どこにいるの?」

「ちょっと待っててね、階段の上にいるから今から降りていくから」

そう言って、電話が切れると、一人の女性が降りてきた。賢治は驚いた。聖子はかわいかった。

地下街のコーヒーショップに入ると、最初は沈黙だった。お互い何を話していいのか余りわからなかった。聖子は、それが仕事で慣れているはずなのに、少し今日はおとなしかった。

「あの、あー、どう?第一印象とかは……」

「いえ、なんか、怖そうな人かなーって……」

「そんな事ないよ。こう見えても、言葉を綴ったり空想の中で生きるのが好きなロマンチストだから」

聖子は、この人は何を言っているのか余りわからなかったけれど、笑顔はとりあえず絶やさなかった。そして、暫く話していると、なんだか、この人に惹かれてると気が付いた。でも、それはいつもの事だった。

彼女の会社に着くと、なんだか落ち着かなくて、エレベーターに乗ると賢治はこう言った。

「なんだか、エロイね」

この間も同じセリフを聞いた。そして、中へ案内すると、賢治は落ち着きがなくなっていた。聖子はそれを察してこう言った。

「大丈夫ですよ。別に怖そうなお兄さんが出てくるわけじゃないし、そんなに緊張しなくても」

賢治は違った。ただ変な想像をしていただけだった。彼は、痴虐的考えに脳みそを紅潮させていた。そして、聖子が本題を切り出して、賢治は素直にそれを聞いていた。賢治にダイアモンドなんて必要なかった。ダイアモンドを買って自己満足をしているくらいなら、同じお金を出して、自分の店の資金の足しにすればいいと考えていたからだった。結局、高価なものというのは、人の価値観で決まり、特にそれに興味がなかったら、とことんつまらないものなのだ。すごい画家のすごい絵があったとしても、それより賢治を惹きつける絵を小学生が描いたのならば、そちらをいくらでも称える。別に、もし本当に気が向いて結婚でもするんだったら、その気が向いたときに、気の向くまま、ダイアモンドを買ったって構わない。そして、賢治の思想に負けると、聖子はもうどうでも良くなった。仕事と結びつかなくなった男は、全くといって興味が失われる。さっきまで惹かれていたはずの彼に、ハートが少しも疼かなかった。

賢治は聖子を食事に誘ったが、愛想笑いの聖子は、もうそれに乗る気になれなかった。目まぐるしく、そんな日常に疲れて、やはり今日も一人で眠るかと思うと、聖子は普通の恋に憧れた。

 

世間で言う給料前と、月曜日のかったるさ、そしてあいにくの雨。マスターもモモも、二人して食事をしてくるといって、出て行ってしまった。そして電話が鳴ると「後は任せた」そんなのありかよ。賢治も早く店をしまいたいと思っていた。どうせ客が来ることもなく、こうやって耳に残らないヴォサ・ノヴァを聞きながら音のないテレビを見ているだけ。生ビールはいくらでもサーバーから注ぎ放題だったが、いささか今日はビールという気分でもなかった。自分のボトルも空いてしまい、やっぱり給料日前の自分に、新しいボトルを入れるお金なんかなかった。こう言う時間は、想像力に任せて時を委ねるくらいしかできない。紙とペンがあったって、何一つ気の利いた言葉もそこに書き残せない。大体、酒好きな僕が余り気乗りして飲みたくない日なんだから、他のみんなも大して今日はお酒を飲みたくないのだろう。後5分待って誰もお客さんがこなかったら、本当に閉めようと思っていたところだった。だけど、そこに一人の来客。

「いらっしゃ……い?」

そこには、聖子が立っていた。向こうも少し驚いた顔をしていて、少し戸惑っていた。

「こんなところで店やってたんですか」

「こんなところとは、ずいぶんきついなー」

「あ、そういう意味じゃなくって、この店、すごく私の家から近いんですよ」

「奇遇なのかな?一人?」

「今日はなんだか飲みたくて、でも、給料日前だとか言って、それにこの時間でしょ?誰誘っても断られるから、思い切ってここに来ようかと思ってね」

「何飲む?」

「そうねー、仕事の後はやっぱりビールかな?」

「本当にこんな時間まで仕事してたの?終電ギリギリじゃん」

「色々大変なのよ。知ってるでしょ?」

賢治はなぜか生ビールを二杯注いで、勝手に乾杯して、聖子が口をつけるより早くビールを飲んでいた。

「まぁ、大変なのはわかるけど、で、明日は早いの?」

「明日は休みよ。じゃなかったら、今ごろはもう寝てなくちゃ」

「大変だねー。そこまでしてその仕事やってるんだから、やっぱり好きな仕事してるんだよ」

賢治は、この間いろいろと聞いた聖子の言葉を思い出して、そしてそう言った。そして、最初の一杯の勢いで、聖子はもう二杯目を飲んでいた。

「おまえ、酒強いの?ひょっとして」

「そんなわけないでしょ。お酒は好きだけどね。たまにはこうして飲んでないと、やってられない時だってあるでしょ?」

「なんか、つまむか?ちょっと待ってろよ」

そう言って、賢治は冷蔵庫からゴルゴンゾーラとカマンベールを取り出すと、きゅうりを切って、生ハムでそれを巻いた。

「はい、何か食わんとおいしい酒飲めないぞ」

もう、聖子は酔っ払っているように見えた。それでも、余り顔色を変えないように気を使っているのか、自然に話すように振舞っていた。それでも、乱れれば、乱れるもので、聖子はこんなことを言い出した。

「本当は、ダイアモンドなんか売りたくないのよ」

「何で?」

「何でって、何でもよ」

聖子は理由こそ言わなかったけれど、なんだか切なそうにそう言った。

「私も本当は、あんなの自己満足じゃないかなって……私も仕事がら身につけているけどね。価値がなければただの石よ。素敵な恋の一つも出来やしない」

それが、彼女の本音だった。僕は、やっぱり店を閉めると、聖子の隣に座って、ただの酔っ払いになってみた。それから少し、そうやって二人で飲んでいた。

「私、そろそろミーちゃんが心配だから帰るね」

「ミーちゃん?誰それ?」

「ミーちゃんは、ミーちゃん」

「何わけわからないこと言ってるんだよ。ちょっと待ってろよ。俺も帰るからさー」

そう言うと、今日は何も酒屋に頼まなくても補充するものがないことを確かめると、帰り支度を整えて聖子がトイレから出てくるのを待った。僕が気がついたのは、聖子がメイクを直していたことだった。

結局僕は、聖子の部屋に上がりこんでいた。紅茶を勧められると、それを飲んだ。ミーちゃんの正体はハムスターだった。聖子は仕事柄スーツを着ていた。ジャージに着替えるから後ろを向いていての言葉に頷くと、僕は10秒後には聖子の上に乗っかっていた。

朝、目が覚めると、聖子は普通に上機嫌で、なにやら朝食を作っていた。コーヒーを余り言葉ないまま飲んでいると、食卓に朝食が並ぶ。僕は、テレビが気になるという素振りで、下らないワイドショーに目と耳を奪われていると、昨日とは全く違う猫なで声の聖子の「オンナ」にまたシタクなった。朝食を済ますと、食器も片付けないで、また聖子に乗っかった。3時頃家に帰った。そして熱いシャワーを浴びると不精に伸びた髭が心地よかった。

それから、聖子はたまにお店に顔を出すようになった。少し話しては、少し飲んで帰ると言う感じで、あれ以来、体の関係はなかった。僕は、沙耶香と普通に満たして、そして日常に帰っていた。だけどもう、そんな日常が訪れなくなるのは間近だった。

 

それから三ヶ月くらい経って、僕は家に帰るとおかしなことに気がついた。テーブルの上に婚姻届が置いてあった。僕は、それが気持ち悪くて、破り捨てた。とても怖くて、その日は家にいることが出来なかった。僕は仕方なく、あのファミリーレストランに出かけた。溝口君に会うと、特別電気の使用許可をもらって、ずっとコンピューターをやっていた。そして、日が明けて、やっと家に帰った。テーブルの上には、やっぱり婚姻届が置いてあった。

次の日、家に帰ると、テーブルの上に、ダイアモンドと手紙が置いてあった。手紙には、「子供が出来た」そう書いてあった。送り主は、聖子だった。僕は、すぐに聖子の家に出かけると、三ヶ月前のあの聖子の部屋でないことに気がつくのに、1秒しか掛からなかった。その部屋の匂いは、僕の使っているゴルチェのパヒュームの匂いがした。そして、上がりこむと、聖子は僕が来るのが当たり前のような顔をしていた。暖かい湯気の立った紅茶がすでに僕の分まで用意してあって、そして聖子は笑っている。

「もうすぐクリスマスだね」

「あぁ、そうだな」

僕は、そんな状況で、当たり前の受け答えをしてしまった。

「何ヶ月って、聞くまでもないけど、妊娠したのは、本当なのか?」

「本当だよ。だって、あの日ゴムつけてなかったでしょ。ドンピシャだね」

僕の変な勘が働くと、スクリーンセーバーが妙に動いている、コンピューターを触った。それを見て、驚愕した。その画面に、自分の部屋が映っていた。

「何だこれ?」

僕は、本当に恐怖を覚えたのがこれが二回目で、一回目はミツヲさんが殺されたときだった。僕は、もう何がなんだかわからなくなって、こう言った。

「堕ろせよ!そんな、望まれないもの堕ろせよ!」

「何言ってるの?望まれてないなんて誰が決めたの?」

そう言って、聖子は自分のお腹を触った。僕は、その光景がとても厭で、また言った。

「本当にさー、おまえどうかしてるよ。話せばいいことなのに、何で俺の部屋をのぞいたり、そんな事するんだ?」

僕は、余りに興奮していたのか、隣の部屋から「ドン、ドン」と壁を叩かれるまで気がつかなかった。

「私はただ、素敵な恋がしたいだけ……私見ちゃったもん」

「何をだ?」

「赤ちゃんの名前、もう決めたんだ。あのね、…………沙耶香」

その名前を言って、聖子は笑った。微妙に笑った。

「って言うか、マジだからな」

「わかった。うん、わかった。沙耶香に聞いておく」

「沙耶香って、あいつは関係ないからな。絶対に近づくなよ」

僕は、もうそこにいるのが厭で、半分逃げ出すような形でそこを後にした。僕は、部屋に戻ると、カメラを探した。それを見つけると、アパートの下にある、コンビニのごみ箱に捨てた。部屋に戻ると、もう一度くまなく調べて、何もないと思うと、その日は電気をつけたまま、朝まで過ごした。そして、また日が明けてから少し眠った。

 

沙耶香が出勤すると、オーナーに新しい一日体験の女の子が入ったからといって紹介された。

「この子、聖子ちゃんね。沙耶香ちゃん、いろいろ教えてあげてね」

そう言われて、沙耶香は普通に色々と教えてあげた。お店が終わると、沙耶香は聖子に飲みに行こうと誘われた。沙耶香は、それもいいかなって思って一緒に飲みに行った。

「沙耶香さんは、彼氏とかいるんですか?」

「うん、いるよ。この間、結婚しようなんて言われちゃった」

聖子は全て知っていても、何も言わずにそう聞いた。

「え?本当ですか?で、結婚するんですか?」

「あー、しない、しない。彼氏も私もまだ若いからね。でも見て、これ、彼がくれたの」

そう言って、沙耶香は少し自慢気にそのダイアの指輪を聖子に見せた。もちろんそれは、聖子が売ったものとは沙耶香が知る由もなかった。

「すごーい。羨ましいなー」

「聖子ちゃんは彼氏いないの?」

「いないですよー。クリスマス近いって言うのに、あーあ、私も指輪欲しいなー」

聖子は吐き気がするくらいムカツイテいたけれど、それを抑えてその日はやり過ごした。

一番いい方法を考えていた。沙耶香の賢治じゃない彼氏のほうを刺激させて別れさせてしまっては駄目だと思った。だから、簡単に殺してしまえばいいと思った。そんな単純なことに気がつくのに一晩も掛かった。三日後、簡単に沙耶香の所持しているものに興味を見せると、アパートに上がりこめた。殺害方法は自殺に見せかけた薬毒死。ただ、次の日の新聞には、遺体が二つと書いてあった。一つの死因は薬物の毒。もう一つは大量の血をぶちまけて死んでいた。そこに、その遺体の片方の手首がなかった。

 

賢治は、そのニュースを知って驚いた。どおりで、クリスマス・イヴなのに沙耶香が電話に出ないと思った。どおりで、クリスマス・イヴなのに聖子から電話がないと思った。人間とは恐ろしい生き物だと思った。また、自分の周りで人が死んでいく。結局、どれをどこを悲しんでいいかわからなかった。

 

溝口君がおかしいと思ったの、そこに手首が落ちていたからだった。その指には見覚えのある、ダイアモンドが光っていた。そして、溝口君は出頭した。カレの覚醒を阻止するために。

 

聖子の部屋のコンピューターは正常に作動しなくなっていた。画面にはヒョウ柄の一点張りで、もう、賢治の行方を探るものは何もなかった。犯罪者というものは、以外に几帳面なものだ。最後にお金を振り込んだ場所は、もう存在していなかった。警察はいつもの事件と関連付けた。今回の過ちは他殺だった。

 

賢治が自分の部屋を掃除していると、聖子の形見になってしまったダイアモンドを見つけた。最初は捨ててしまおうと思ったんだけれど、質屋に持っていってみた。意外に高く売れた。300万で売れた。

 

 

 

 

「黒豹」

 

芳雄は走っていた。今日は天気もよくデートにはもってこいの日柄だった。待ち合わせの時間に少し遅れそうになると、芳雄は走っていた。もう、目の前には水族館が待っている。芳雄は寿香に会える喜びと期待で、胸が疼いていた。手首の傷は疼かなかった。寿香の顔は知っていた。この間デジタルカメラで撮ったものをメールで送ってもらったのだった。その肌は白く、彼女はきれいだった。芳雄が走っていると、その横を白い1BOXカーが走り抜ける。その車窓からは一人のキレイな目をした女性がこちらを見ていた。そして、僕の前方にその車が停車すると、その扉が開いた。上手に笑えない女性が笑った。僕のよく知っている人だった。その女性の肌は白く、とてもキレイだった。リフトが下がり終えたと同時に、芳雄はそこにたどり着いた。その間、たいした時間は流れていなかった。芳雄は胸が痛かった。とても痛かった。走ったことを少し悔やんだ。走ったことを悔やんだ。彼女の前で走ったことを悔やんだ。だけれどそれは仕方なく、今こうして巡り会う為に、走った。涙が溢れて止まらなくなる。涙が溢れて止まらない。僕の全身は涙で濡れて、そして僕は泣いていた。

「違うんだよ。その涙に意味があったら、僕は今ごろ誰かによって銃殺されている。それに意味はないんだよ。ただ、涙が溢れて止まらない」

そして、寿香が言った。

「どうしたの?」

お互い顔は知っていた。でもデジカメはね、全てを写してはくれていなかった。あの笑顔は、僕にくれたもの。僕だけにくれたもの。

「やっと会えたね」

それが言葉になっていたかは、あんまりわからなかった。

「うん、やっと会えたね」

「あの………足………」

「うん、黙っていてごめんね」

芳雄は、「本当に泣いてないからね」と言うと、車椅子のハンドルを握った。水族館の入場券売り場で、僕は水族館の好意を無視して「大人二枚」を買った。中に入ると、そこにはたくさんの魚がいた。彼女は一人の女性で、死んでしまったお姉さんとは少し違う。お姉さんはもう呼吸を止めて、思い出の中にだけ息衝くのだ。僕は知らなかった。どうやら長い間変な夢を見ていたみたいだった。僕は罪深い。それから手首の傷が疼くことがあっただろうか。ハートは高鳴り、いくらでも疼く。僕は彼女に言った。

「俺さ、最初にメールで顔見たとき思ったんだよね。キレイな目をしているって……」

 

黒豹は、あのヒョウ柄に憧れたことがあるのだろうか?

 

芳雄はその日、水族館の中を自由に泳ぎまわり、そして食事を済ませると、その日は寿香と別れた。彼女には束縛とか不自由とかじゃなくて、都合というものがあったからだった。寿香は一人で芳雄に出会い、一人で笑ったのだ。飛べない鳥だとか、羽をなくした天使だとか、そういうのに憧れているだけの小さな人間はやめた。芳雄はそれからずっと電車の中でも顔が自然とにやけていた。ただの少年のようだった。

 

家に帰るとどうせ客なんかや来ないと思って、それでもいつものように店を開けた。昔から喫茶店なんて、マスターの都合でどうにでもなるものだった。別にアルバイトがいるわけでもないし、お金に困っているわけでもなかった。だから、平然と店を開けられる。でも、そこで期待を裏切って来てくれるのが客である。

「あら、めずらしい」

「そうだなー、もうかれこれ……」

「ミツヲさん死んだんだよねー」

「あぁ………」

「それから一回も顔出してないじゃないですか」

「なんとなくな、馴染みのある所は自分の店以外あんまり顔を出してないよ」

「何か飲みます?」

「じゃー、いつもの苦いやつダブルでちょうだい」

そう言うと、芳雄はいい音を立てて苦いエスプレッソを賢治のために入れた。賢治は、それを飲むと、やっぱり苦そうな顔をして、それでも懐かしそうにそれを飲む。

「なぁ、チョコある?」

「ありますよ」

「これだけ売って。あと、アミもちょうだい」

そう言って、賢治は指を一本立てた。芳雄は頷くとドデカイ電動のコーヒーミルのカバーをはずすと、その中から怪しいものを取り出す。

「はい」

「この間さー、彼女死んじゃって……なんか、物足りないんだよなー」

「マジですか?」

「あのさー、内緒にしといてくれよ」

「もちろんですよ。それが商売の掟………」

「クリスマスに、女の子の変死体の事件知ってるだろ?結構テレビでやっていたし」

「あー、あれ。知っていますよ。でも、犯人自首したんですよねー」

「それがさー、面倒な話でさー。犯人も知ってるやつだし、それに死んでいた女の子二人とも俺知ってるんだよね。で、一人が彼女なわけでさー。でも、よく聞いたら、その犯人の彼女が、俺と付き合っていた彼女だったわけ。もう、意味わかんなくて。ノイローゼになろうか自閉症になろうか迷ったんだけど、結局もう一人の死んだ女の方も、妊娠してたらしいんだけど、それも狂言でさー、結局俺全く足ついてないのね………で、その犯人も多重人格者だとか………」

賢治はそう言って、その時のことや、その後のことなんかを芳雄に話した。

「で、何でまたケムリ吸いたくなったんです?」

「なんか、代わり映えしないじゃん。昔の方が楽しかったなーって、ちょっと昔に逃げてみようかなんて、ちっちゃい人間になろうと思ってさー」

「またまた、めちゃくちゃ悲観的ですねー。まぁ、わからないこともないですけど」

「違うよ。これが通りだよ。明日の朝のニュース見たら、もうみんな大慌て、CNNニュースなんかがんばっちゃって、世界はもう終わりですなんて言い出すの」

「どんな事で?」

「ウサギの目が赤かったり、パンダの目の周りだったり、シマウマだったり、あれさー、実は俺が色塗っているのね。一つ一つ。それ、今日辺り発表しようと思って」

「マジっすか?で、パンダは目の周りだけなんですか?」

「そう、あとは生まれつき」

芳雄はツッコンデみたつもりだったけれど、なぜか賢治の目が本気で、もうそれ以上聞くのがバカらしくなった。

「そう言えば芳雄、おまえ彼女とかいるの?」

「よく、聞いてくれましたねー。ちょっと待っていてくださいよー」

そう言って、ラップトップを賢治の目の前に置くと、それを見せた。

「どうです?かわいいでしょ?」

「なんだよ、おまえー。メチャメチャかわいいじゃん!俺にも紹介してくれよー」

芳雄は、寿香の事を少し賢治に話した。赤いカルマンギアの連中達と空から落ちたことから、そのあとの惨劇も………。

賢治はそれを聞くと、「そうかー」そう言って、少し遠くを見た。

「じゃー、また来るわ。おまえもたまにはうちに来いよ」

そう言って賢治は店から出て行った。

メールをチェックすると、新着メールが46件届いていた。今日のお昼出かける前に見たはずだったのに、もうこんなにも届いている。適当に気になる人のメールから見ていった。そこに寿香の名前を見つけた。

 

寿香が、「ここでいいよ」と芳雄を制したのは、あの間が好きではなかったからだった。「さようなら」と言った後に、一人障害者用の車にリフトで乗り込む時の、あの間がいやだったからだった。

その車に揺られて外の景色を見ていると、寂しいに決まっている。それは否定しようがなくて、別にそれは今、持ち合わせられる普通の感情だから気にしなければよいことだった。ちょうど夕方で、街ではちらほらカップル達が寄り添って歩いているのが目に入った。自分の足で歩くことよりも、腕を組んで道を進みたいと願う。その方が寒くない。やっぱり冬だから、それに憧れる。そう言えばこの間のクリスマスも独りだった。両親はシャンパンとケーキ、それにチキンを用意してくれたけれど、そう言う事じゃなくて、私は独り。愛理さんは仕事の都合でイヴには会えなかった。芳雄のメールはとても嬉しかったけれど、やっぱり文字に慣れ過ぎた。感情が、一つ一つ、少し弱くなる。私が強いと言えば、それは強がりにしか聞こえないし、弱いといえば、自分を責めるようでいやだ。

家に帰ると、母親がとても心配そうな顔をして待っていた。「アリガトウ」と本当に言いたいんだけれど、私は感謝の言葉を使いすぎた。だけど、今日は卑屈になりたくない。余りドキドキしないけれど、芳雄の気持ちが伝わって、それがやがて恋になるという兆しを感じた。今日の夜にでも、それが募り募って、ハートが赤くなって、そして、ドキドキというスコールは降り続くのだろう。そして枯れた大地に芽が出て、花が咲く。それが何度も巡って、そしてそれは恋の病となる。そして、それに完全に気がついたときに二つのことを思うだろう。「イキタイ」か、「シニタイ」。

寿香はコンピューターを開くと、新着メールを確認した。まだ、芳雄からのメールは入っていなかった。寿香は、そのままコンピューターの画面をしばらく見つめると、どういう書き出しで、メールを書こうか迷っていた。そして結局、件名に「アリガトウ」と入れて、書き出し文に、「今日はありがとう」とした。それは、少なからず「イキタイ」を表していた。もし、「ゴメンナサイ」そして、「足の事、黙っていてごめんなさい」そう書いたなら、それは「シニタイ」を表していたに違いなかった。

 

寿香と芳雄が出会ってから、半年くらい経った。まだ、芳雄にはそんな勇気がなくて、寿香の足を見た事はなかった。寿香の気持ちの中に「ダカレタイ」というものがあっても、芳雄にはどうしていいのか、本当にわからなかったからだった。夏が過ぎると、普通に思い出が増えていって、普通に季節は過ぎ行く。芳雄と寿香は別にどこにでもいる人達の中に溶け込んで、きれいな夜景を簡単に見ることが出来る。ただ、芳雄はあれ以来、まだ一度も走っていない。

 

あれは、十月に入って間もなかった頃かな?芳雄が自分のサイトにぶっ飛ぶと、管理人らしくチャットを覗いた。そこで見た一人のハンドルネームに思わず話に入った。「ジュカ」と言うハンドルネームの人を見つけたからだった。その人も自殺志願者だった。「なぜか?」と尋ねると、平気で、両足がないという。僕は尋ねた。「水族館、好き?」その人は、その答えもないまま、出て行ってしまった。僕はすぐさまホストを調べた。それは、寿香のものではなかった。

僕は、寿香の携帯にメールすると、ICQで話そうと誘った。寿香は普通に現れて、普通に話している。僕はその時、ただの弱虫だった。

次の日、またジュカが現れた。「彼氏がいる」と告白してきた。話を聞いていると「ダカレタイ」と思うって、そう言う。まだ、彼氏に足を見せたことがないと言う。僕は、次第に頭がおかしくなってきて、そこにいるのが耐えられなくなってきた。その時ICQが僕を呼び出して、そして寿香と話す。これは二窓ではなくて、二台のコンピューターからのものであると考えた。だけど、まだログを見ながらICQをやっている僕には、どうもそんなに器用に出来るとは考えにくかった。僕はそれでもその時、寿香を疑っていたのだった。

僕は、普通の会話の中で、コンピューターを買い換える話をした。デスクトップを残して、ラップトップを買ったほうがいいか訪ねた。そして、さりげなく聞きただすと、彼女の答えは、やはり「2」だった。

12月に入ると、ジュカはもう最後に手を出そうとしていた。僕は、そうでないことを願い、最後の切符を渡した。彼女は深く、更に深く潜っていった。彼女はやはり「購入」したと下の人から教えてもらった。

僕はとてつもない大金を払って、ジュカのカードの番号を買った。そして、寿香を呼び出すと、さりげなく財布を見せてと言って、カード番号を照らし合わせた。合致した。

クリスマス・イヴ。芳雄は寿香と食事に出かけた。食事が終わると、芳雄は車椅子を押しながら、「抱きたい」ことを寿香に言った。ホテルに入ると、芳雄は寿香をベッドの上に寝かせて、そして、その長いスカートをめくった。そこには、白くてきれいなはずの足がなかった。僕はそんな事は気にしないで、必至に彼女を愛撫した。彼女も僕のをくわえてくれたし、僕は今、一つになれるって思った。だけど、僕のは完全に萎えてしまって、彼女の中に入ることが出来ない。彼女はこれが現実と諦めた。それでも、「仕方ないのよ」って、そう彼女は言った。そして、寿香の安堵感も緊張が取れて普通になる。それは、溜息じゃなかった。だけど、漏れてしまったその溜息に、芳雄の手首の傷が疼いた。芳雄は勝手に逆切れして、寿香に言った。

「おまえ、本当は死にたいんだろ?俺、本当は、何もかも知っているんだよ。なぁ、嘘だと言ってみろよ」

寿香の顔は呆然としていて、泣いていいのかわからない表情をしていた。そして、唇が動く。

「……あなたはそうやって…自分の……自分のお姉さんと、いつまでも夢の中で善がっていればいいのよ。けっきょく下らなかったわ」

「は?何言ってるんだ?何で、姉さんのことを知ってるんだよ」

「愚かね……死神さん」

芳雄はまだ理解していなかった。そして、普通に泣きじゃくって、今度はいつもの寿香が言った。

「生きてみようと思ったのよ。もう、あの頃の自分じゃないって言い聞かせて。本当、あなたからのメールは偶然だったわ。そう、本当にあれは偶然。私、私……」

そして、寿香はカバンに手を伸ばすと、何かを飲んだ。そして、すごい形相で芳雄の顔を見ると、血を吐いてそのシーツを真っ赤に染めた。芳雄はただ見ているだけだった。姉さんの思い出が過ぎると、手首の傷が疼いて、芳雄は我に返った。もう、寿香は動かなかった。寿香は死んでいた。そして、「クララ」は二度と歩くことはなかった。

 

黒豹は、あのヒョウ柄に憧れたことがあるのだろうか?

 

次の日、その事件が明らかになる前、もうすでにその本は店頭に並べられており、たくさんの人が買っていった。『「イキタイ」と「シニタイ」』と言うそのタイトルの本は、一時発売が中止されたが、それも文学に間違いないということで、また続刊された。それは、当たり前のようにベストセラーになった。作者は、その本の中で、「イキタイ」を主張していて、それでも自殺したのだ。人の興味は卑しい。それとも、そもそも人には必ずしも自殺願望と言うものがあって、それを傍観者で満足したいのか、それはわからないけれど悲しい事実だ。

 

芳雄は後追い自殺ということで処理された。死因は同じ薬物死だったけれど、彼の痛々しい躊躇い傷がひときわ輝く。芳雄はやっとお姉さんに会うことが出来て、そこでは手首の傷なんて見当たらない。死んだ時、芳雄は勃起していた。

 

寿香のコンピューターも、芳雄のコンピューターも、もう動くことはなかった。ただ、動かないままのその真っ黒な画面が、少しだけ何かの模様を欲しがっていた。あのサイトはもう誰にも見つけられず、「NOT FOUND」と志願者達を刺激した。

 

黒豹は、あのヒョウ柄に憧れたことがあるのだろうか?

 

 

 

 

「例えば僕が……」

 

ある程度時が経てば、ムカツクほど急速に展開は変わる。雷蔵が店のドアをノックすると、とても誇らしげに顔を出した。

「あ!」

「どうも、お久しぶりです」

「どうしたの、最近顔出してなかったじゃん」

「いやー、色々忙しくて、それに今日はちょっとご報告が……」

気の弱そうな彼が少し大人らしく見えて、そして鬣が風に靡く。

「子供が生まれたんですよ。ちょうど一時それで忙しくて」

「あれ?二人目だっけ?」

「そうなんですよ。僕もこれで、少しは自由に咳が出来ます……」

色がつくほど激しい感情の高鳴りは、自由に色を変えて、そして、賢治は特に何も代わり映えのない日常に溢れ返っていた。芳雄が死んでしまうと、あんなに悲しくケムリを心の中にしまい込む事がなくなって、少し肌寒い。どうせなら形あるように悲しく生きたい。賢治だって、寿香の文章を読んだ。でも、世間が騒ぐほどのものでもなかった。本人の塊が世間を誘っただけで、別に普通にテレビドラマで放映されていたら、たいした内容ではなかったからだった。羨ましい。それくらいの事で、簡単に涙が出せるなら、僕はありったけの感情を使って、言葉を感情に変えたりしない。僕は、それでも詩人でいたいと思う。確かにいつしかより想像力は乏しくなった。それでも僕が心を動かしている間は、「動物」に本当の色がなくたって、このまま臭いディーゼルの排気ガスを吸うよりましだ。それで酸欠になったって、誰かの脳細胞が少し歪むだけで、僕には関係ない。だけど、勝手に心は動く。本当に僕の周りでは死に行く人が多い。勝手に死ぬなと言ったって、勝手に死んでしまったものにその言葉は無駄になる。ヨダレが勝手に知らない女の子の恥部に触れることがないのだ。僕はノーマルだ。でも、ちょっと違ってきたのは、僕はノーマルな詩人だ。ある程度表現すれば、後は人任せ、風すら吹いてはくれない。愛していると、誰かにねだる。

モモとマスターはとっくに別れてしまった。それは簡単な死別だった。だからこの店に残されたものは、マスターのカクテルと、マスターがかき集めた、ブルージーでジャジーで、そう言った音楽たち。余りにもジョー・パスが奏でるギターの音色が悲しくて、モモですら泣いていいのかわからない。愛理さんが持ってきたその悲しき絵が、そこに釣り合い過ぎて怖い。車椅子に乗った女性がそこには描かれていて、その小指には切れてしまった赤い糸が少し揺らぐ。人と人のラインって、一体どこの誰が定める。神様がいないと信じるのは、余りにも大量に賢治の中に持ち込まれる「死」と、そして、神様がいると信じるのは、余りにも大量に賢治の中に持ち込まれる「死」。どちらをとっても、それが悪戯にしか見えない。

 

例えば僕が………。

 

例えば僕が死んでしまったなら、そのラインはどうなってしまうのかな?そこには、一体どんな音楽が残って、いくつの言葉が残る?誰が泣き崩れて、誰が嘲笑う?どんな花が咲き誇り、どんな花が枯れ誇る?僕と言うマスターピースは、虫歯くらいを気にして、一生懸命キシリトール入りのガムをクチャクチャ音を立てながら噛んでいる人よりも小さい。斬新な空の色が、一生懸命僕の心の中身をメチャクチャに破壊していき、誰かを想うことが出来ない僕のハートを更に小さくする。

「あぁ、誰かを想いたい」

僅かながらそこから生まれてくる、そんな感情に、僕は最後に一本だけカッコよくタバコを吸って死ねるのだろうか。「ユウサク」みたいに死ねるのだろうか。そして、ヘヴンが存在するならば、僕はそこで「ユウサク」に会えるのだろうか。

 

666

 

モモはここでそのまま仕事をしたいと願った。モモは震えながら、片時も僕が手をつないでいないと、怖くて死にそうだという。僕はそのバーをそのままの形で残し、そして自分の夢が定めることも出来ないまま、ここを守っていくのだろう。だけれど、損得勘定で僕は動かない。強い意思でもない。成り行きだ。

 

そして、愛理さんの作品がそこに展示されると、モモは僕の知っているモモより、いつのまにか女性になっていた。モモの背中のタトゥーは世間の目を完全に奪ってしまった。そう、余りにも滑らかだったから。そして、モモは僕の手を離した。もう、震えることなんてなかった。若者の指示を集めると、モモはタトゥーデザインをはじめ、そして愛理と一緒に、また絵を描き始めた。そんなモモが羨ましかった。

 

666

 

例えば僕が………。

 

例えば僕が愛の詩人だったなら、僕は潔く死ねる。僕にはまだそんな切っ掛けもないし、僕には見つかる才もない。今一度こうして考えると、僕は今まで本当に誰かを好きになったことがないことに気がつく。僕の初恋はいつで、そしてそれが叶ったか敗れたかもわからない。最近恋をしたかも思い出せないし、本当に僕は人を愛したことがない。捕らわれたのは外見だけで、心を揺るがされるのは、いつもその人を失った時だけだ。僕は、恋をまだ知らない。

 

例えば僕が………。そんな想像ばかりが僕を絡み合う。


 

クサのカケラたち 666

 

コウスケ:憧れだったルート66を走行中、バイク事故で死亡。

賢治  :回りの朽ちていくやつ等を見て、自分がノーマルだと思う、愛の詩人。或る日、聖子と出会うと、自分が溝口君と沙耶香と奇妙な関係にあることに気が付く。そして、また死に直面すると、自分が何なのかを考え出す。芳雄とは売人の頃からの知り合い。

モモ  :恋人のマスターを失う。それから愛理と仕事をはじめ、タトゥーデザイナーの道を歩む。

溝口君 :沙耶香と結婚を望み、或る日聖子と出会うと、そこでダイアモンドを買う。そして、気が付けば、また別の人格により最愛の沙耶香の死にぶち当たり、その犯人である聖子を殺害する。そして、自首をする。

聖子  :普通の恋に憧れる、ダイアモンドの販売員。バナナジュースをこよなく愛する。溝口君にダイアモンドを売った勢いで、賢治と知り合う。そして、賢治との関係を持つと、それを普通の恋愛と理解できずに、一人気をおかしくする。彼女はストーカーとして、彼女の狂言を元に賢治を手に入れようとするが、沙耶香を殺害後、逆に殺されてしまう。

靖章  :栞の父親。娘に光がないことを知ると、それを嘆く。そして、美咲の死を覚悟すると、自分は不幸せじゃないと気づく。

美咲  :栞の母親。自分の人生とは何かを考えるもなく、自分の死の危機を知る。そして、娘に眼球の移植を決意すると、その衰弱した体は抵抗力を失い、翔が死んでしまったあの日に、美咲は天に還った。

芳雄  :芳雄はネットで知り合った寿香と会う。そして、彼女の両足がないことを知るが、それでも恋を知った芳雄は、寿香と交際を続けた。或る日、裏の世界の中で、「ジュカ」に疑問を抱くと、寿香に対しての不可解が捕らえられない。やっぱり、その日、寿香を抱こうと決意すると、それは叶わず、逆上した寿香は自分の正体を言って、自決。そして、「死神」は朽ちた。

寿香  :表での寿香は本当に両足がなくても普通に芳雄と恋をしたいと願う女性。「イキタイ」と「シニタイ」と言う言葉達の狭間で、「イキタイ」を願う。しかし、それを主張して、死亡。「クララ」と言うハンドルネームを使い、アンダーグランドから芳雄を操っていた本人。だが、妙な食い違いで、自らの死を呼んだことになる。


 

 

 

「ヒョウ柄感覚」

 

翔が大学に入ると、頷けるものには頷いた。楽しい時間というのは食事の時間でもなければ、寝る時間でもなかった。鈍ってしまっていた体が、時折悲鳴をあげるように脳を揺さぶる。等間隔で僕を揺さぶるあの記憶が少しずつ蘇ると、ウェンディーの記憶を少し思い出す。でもそれは、そんな思い出でしかない。ウェンディーは元気かな?泣いてはいないかな?そんな当たり前のようなことを考えては、普通に翔は学校に通う。だいぶ栞のことを妹と呼べるようになって、心が軽くなる。

「さて、バイトの時間だな」

翔はそう言うと、学校の友達にさようならを言って、駅まで歩いた。その大学の近くの駅は、とても寒く感じる。遠くを見ながら僕がベンチに腰掛けていると、隣に一人の女性が座った。翔はどこかウェンディーを思い出して、それでも似てないって、勝手に一人心の中で照れる。そして、急行の止まらないその駅で、急行が通り過ぎるのを目の前で見ると、その時に煽る風が、僕達を揺らした。そしてその風に、彼女の手からヒョウ柄のペンが落ちて僕の足元に転がる。僕はそれを拾い上げると、彼女にそのヒョウ柄のペンを渡した。

「ありがとう」

そう言って彼女が微笑むと、僕は何も言い返すことなくまた遠くを見た。そして、それから余り考えることなく電車が来ると、それに乗り込んだ。電車が揺れ出すと、僕の心も少しずつ揺れ出した。

 

「おはようございます」

そう言って、僕は店の中に入っていった。

「あれ?マスター、いないのー」

翔は仕方なく、マスターを探したがどこにもいないのに諦めて、さっさと掃除をはじめた。トイレの掃除が済むと、次は掃除機をかけた。そしてテーブルを拭くとイップクつくためにカウンターに座った。僕は、目の前の絵を見ながら考えていた。なんて悲しき絵なんだろう。でもそれが釣り合っていて、その車椅子の女性は笑わない。あれ?笑っているのかな?僕には単純な人の感情くらいしかまだわからないはずだったから、それでもいいと思ったけれど、その赤い糸は何故切れているのだろう。音楽が勝手に次の音楽に変わると、珍しく変わった曲が流れて来た。僕はそのセンスのいいバラードに耳を傾けると、さっきの駅で出会った女の子の顔を思い出した。でも、余りはっきりと脳裏にない。

「おはよう」

そう賢治が言って店に入ってきた。

「マスター、どこに行ってたんです。鍵開けっ放しでしたよ」

「おー、悪い。どうせ何も捕られるものなんてないだろう?」

「そう言う問題じゃないじゃないですか」

「って言うか、鍵なくしたし……」

「じゃー、何で開いてるんですか?」

「酒屋に、鍵開けたらそのまま開けっ放しにしておいてって頼んでおいたんだよ」

翔は呆れてしまったが、別にいつものマスターがそこにいるのだから、余り考えなかった。

 

 

或る日学校で講習を聞いていると、翔は斜め前の席でクルクルとヒョウ柄のペンをまわしている女の子を見つけた。

「あれ?」

翔はこの間駅であったことを思い出した。

「そう言えば、俺はあのペンに触れた」

スペイン語の授業を受けているからといって、別に情熱的に憧れたり、メキシコに行ってテキーラをやりたいわけじゃない。どうしても言語の授業を取らなくてはいけなかったからだった。だから、その時間中、ずっと翔はその女の子の後ろ姿を見ていた。そして、その斬新なヒョウ柄のペンがクルクルと回るのを。翔は、その子の顔がどうしても思い出せなくて、どんな顔をしているの見たくて仕方がなかった。僕は、その泣きたいくらい過ぎていかない時間と戦いながら、その講義を終えると、彼女の顔を確認するべく、さっさと教室から出た。そして、入り口の所で待ち侘びた。彼女が来た。ふと、目と目が合う。だけど、彼女は少しも笑うことなく、僕の目線から空にそれをずらし、すたすたと歩いて行ってしまった。

 

香澄はその風に煽られると、ふと手の力が抜けて、握っていたはずのペンの重さを忘れる。

「ありがとう」

そう言って、香澄は少し微笑んだ。それでもその光景を簡単に忘れてしまった香澄の目には、遠くに揺れる高速道路の上の吹流しに奪われた。そう、あの空はあんなに風が強い。どうしても覚えられないスペイン語の単語帳をカバンにしまうと、香澄はその電車に乗り込んだ。連結部分が軋んだ音を立てて、それが悲しみの音とともに引っ張られていくような感覚で、ゆっくりと電車は走り出す。電車の窓に映るまったく反対側の殆ど透明な景色と、見ている事にあまり意味を持たない、そこからの風景を二重に見ると、こう言う空間がおかしかった。見ず知らずの人達をこんな箱にたくさん乗せて、それは走っていく。隣に座った人との間隔がこんなにも近いのに、それが遠く感じてしまう。携帯電話を必死な顔して見つめながら操作している人たちを見ていると、おかしくて仕方がない。

「それは君を形成していくけれど、それは君を育まない」

無論、毎日余り代わり映えすることのない景色をただ眺めているだけでも変わらないのだけれど、感受性は自然に任せた方がいいと勝手な解釈を持っていたからだった。でも、それは違う。同じ時間を使っているのだ。それも、ただ勝手に目的地に向かって揺れる、そんな箱の中で……。

 

香澄がスペイン語の授業を終えて教室を出ると、どこかに見覚えのある男の人と目が合った。どこにでもある妙に勢いのよい学園生活の中に、それを特別不思議に思うことはないが、顔の表現すら忘れて、香澄はその光景を後にした。

香澄が階段を下りていくとそこに一人の女の子が待っていた。これからその女の子と買い物に行く。普通の女子大生ならば、そう言うことに慣れているのだから、特別というわけではないけれど、でも、特別。

「你好」

香澄がそう言うと、その女の子もそれに答えた。香澄が小紅(しゃおほう )に出会ったのは二ヶ月前だった。基本的に国際学部が有名なこの学校ではこうやって留学生と付き合うのが普通だった。小紅は中国人とアメリカ人とのハーフで、とてもきれいな顔立ちをしていた。ニューヨークの話をよくしてくれて、その話を聞くのが香澄は好きだった。いつかは一緒に小紅とニューヨークに行くのが夢だった。英語にそんなに自信があったわけじゃないけれど、色々な言葉を覚えるのが好きな香澄にとって、そう言う時間を過ごせて本当に嬉しく思う。いつもの駅でいつものように電車を待っていると小紅が香澄に聞いた。

「ねぇ、香澄」

「ん?何?」

「日本では、恋人とクリスマス・イヴを過ごすんでしょ?」

「うーん、そうとも言うのかなー。私は別にそんなこと気にしていないけれど、やっぱり……そうかもね」

「ふーん、じゃー、香澄は一緒に過ごさないの?」

「過ごさないって、私、結局あの人断ったよ」

「え?本当?何で?」

「何でだろうなー。やっぱり、クリスマスが近いからって、そんな勢いだけに任せて好きでもない人と付き合ってもねー」

「ふーん、そうなんだ」

「小紅は?」

「私は…私は出来るなら一緒に過ごしてみたいな。ほら、アメリカって、家族で過ごすでしょ?だけど、今は一緒じゃないから、やっぱり一人よりはね」

「一人じゃないよ。私がいるじゃん」

そう言って、香澄は笑った。そして、電車がやって来た。電車の中では余り会話はしなかった。二人とも、なぜか簡単に外の景色を見て、学生ばかり乗っているその電車に二人にはない雰囲気を持った人達もいて、やっぱり一人よりは二人の方がいいなんて思ったりもした。電車を降りるとみんなに歩幅を合わせて、みんなと同じように道を歩く。そして、やっぱり特別買いたい物なんかなくて、ふらふらと欲しいものを見るだけの時間を過ごして、カフェレストランに入ると、そこでお茶をした。そこへ電話が掛かってきた。

「もしもし、うん。どうした?」

「いや、何してるのかな?って」

「別に、何もしてないよ。小紅と一緒にふらふらしてただけ」

「小紅?」

「あれ?知らなかったっけ?」

「あ、あの、留学生のかわいい子?」

「うん、そう、そう」

「まじ?今日、何してるわけ?」

「うーん、別に何もしてないけど。何で?」

「じゃーさー、その小紅誘えないかなー」

「どこか行くの?」

「特に決まってないけど、俺達も二人だからさー、一緒に飲みにでも行かない?」

「ちょっと待ってね、小紅に聞いてみるから」

そして、香澄が小紅に聞くと、特に何もなく、飲みに行ってもいいと返事をした。

「うん、いいって。で、誰といるの?」

「多分、おまえ知らないから、後で紹介するよ」

「カッコいい人?」

「多分な」

「じゃー、俺達、今学校出たから、そこまで行くよ。どこにいるの?」

「ヴァージン・レコードの近く」

「じゃー、20分くらいかな。近く行ったらまた電話するよ。じゃーなー」

そう言って、千歳は電話を切った。

 

666

 

小紅はクリスマスカードを書いていた。それは母に宛てたもので、遠くで暮らす母への唯一の思い入れ。離れ離れになることが悲しいって思った。そう、だって、本当に悲しかったから。人は大きくなるに連れて、勝手な尺度や解釈だけれど、いろいろなことを理解するようになってくる。私はそれを知り、そしてもっと知る。ニューヨークの冬は寒い。それは知っている。でも、そこはとてつもなく暖かい。子宮(はは)のヌクモリ、覚えたい。

「メリー・クリスマス・ママ」

 

666

 

四人はそれぞれ驚いた。覚醒する直前の竜の子みたいな黄金色。まるでヒョウ柄感覚。

「紹介するよ、彼、翔ね。で、俺、千歳」

当たり前のように軽く頭を下げて、そして、なぜか照れる。そして笑う。

「あ、小紅、で、私が香澄」

そして、香澄がそれに気づくと、翔に言った。

「あのー、スペイン語とってますよね」

「うん、とってるよ。しかも、今日君の後ろに座っていたし」

「あー、あの時廊下ですれ違ったの、翔君だったんだ、やっぱりね」

「翔でいいよ」

そんな会話をしているときに、千歳は小紅に話し掛けていた。

「あの、あの、僕のこと覚えています?あー、多分、覚えていないかなー。ゼミの飲み会で、先輩達に呼ばれたときに、僕いたんですよ。その時小紅見かけて、ピンと来たね。これは恋だって……あ、別に気にしないでくださいよ。深い意味はないんだから」

「……覚えていますよ。だって、一人でずっと飲まされてたじゃないですか。しかも、トイレの前で話しましたよ。すごく酔っ払っていましたけどね、千歳さん」

「そうだっけ?って言うか、千歳でいいよ。しかし偶然だねー、香澄と小紅が友達だったなんて」

「あんた何言ってるの?わざとらしくこの前聞いてきたじゃない。それに、さっきの電話の時だって、あんた別に忘れてないでしょ?」

「おまえ、余計なこと言うなよ」

「で、香澄と千歳はどういう知り合いなの?」

「別に大したことないよ。幼稚園からずっと一緒なだけ。腐れ縁てやつだから気にしなくていいよ」

「そうそう、まぁ、そんなところかな?」

「じゃー、翔と千歳は?」

「ゼミが一緒なんだよ。プラス、その他諸々」

「でも、この間の飲み会のときいなかったよね?」

「あー、こいつバーでバイトしてるから、夜誘っても来れないの」

「そうなんだー、今日は休み?」

「うん、マスターの気まぐれなんだけどね。今度よかったら千歳と一緒に来なよ」

「オイ、オイ、気が利き過ぎてるな、おまえ」

「って言うか、あんたは調子に乗るな」

そう、香澄が言った。

「どこに行く?お腹空いてきちゃった」

「どこでもいいよ。俺は飲めればいいから」

「じゃー、「徳兵衛」行こうか」

「近いし、あそこなら食いもん美味いしな」

「じゃー、決まり、早く行こう」

四人はそうして歩き出した。

 

666

 

長い間壁にもたれていると、背中のあたりが痒くなってきたのでそこから離れた。いよいよここから明日出られる。溝口君の病気は重かったけれど、溝口君の精神力が結局勝ってそれを保ちながら早く出所するようにがんばってきた甲斐があった。塀の中で描き続けていた絵本が児童向けに刊行されるらしい。それが新しい生活の始まりだった。

 

666

 

豊が瞼を閉じると、そっと涙が零れ落ちる。その暖まった体に冷たい牛乳を飲むと、牛乳が体内を駆け巡るのがわかる。余りにも長かったその動物園の檻の中のような生活を抜け出すと、そこはやっぱり動物園と変わらない。動物的ではなくて、動物臭さが鼻を掠める。やっぱり人間は弱い動物だ。あの日、それを奪ってしまったことは少し後悔した。誰だって大人になるのだから、自分だって少しは大人にならなくてはならない。牛乳を冷蔵庫にしまうと、思い立って、また豊は机に向かった。

 

 

 

 

「開眼」

 

コウスケが死んでしまうと、靖章は必至に食らいついた。予期せぬことが軽く予期できるならば、人はそれを必要と認め、コンドームを体中につけるだろう。だけど、靖章はコンドームをつけない。ピルを勧めるわけでもなければ、中で果てるわけでもない。ただ陰毛に隠れてしまった自分を見ていると、もう起つことすら億劫になる。食らいつくだけでは駄目だった。齧りつかなければいけなかった。精神に異常を来たし、更にそれを信じ続ければ、脳みそは勝手に蝕まれる。軽いと思っていた鬱は、そんなに軽くはなかった。見たこともない鳥が飛び続けると、靖章の髪の色は日に日に白くなっていき、とてもその年輪を削ってきたような形相は、そこに残っていなかった。或る日動かなくと、その鳥達は飛ぶのもやめて、靖章の中で羽を落とす。美咲には会えただろうか、その聖なる夜に。ちょうど美咲が死んで、四年経った日だった。

 

666

 

栞の認識力は確かで、お兄さんと妹、あるいはお姉さんが同時に出来た。翔と、伊織だった。伊織は栞と同い年で、同じ高校に通った。もう、全くの障害など持ち合わせてはおらず、普通に生活をしていた。

「やめてー!」

そう叫んだのは栞だった。それが回りの注意を奪ったのは当たり前で、そのすぐ隣にいた伊織もそれに従うしか術がなかった。それは、学校から帰る途中の出来事で、電車の中にはたくさんの乗客がいた。栞は、自分の姿がおかしいことに気がついた。

「どうしたの?」

そう伊織が訪ねると、半べそをかいた栞が、何もなかったように、頭を振った。ただ、その満員の電車の中で、誰かと接触するのは当たり前のことだ。そして、それは日常的なことなのだから、今日が特別だったというわけでもない。ただ、特別なことだったのは、栞のビジョンが崩れたことだった。

見える。見える。見える。

栞はまた、何かに頭の中を揺さぶられた。そして、気分が優れなくなると、次の駅で伊織の手を引っ張るような形で下車した。白線の向こう側で倒れこむようにその場に耐え切れなくなると、まもなく駅員さんが歩み寄ってきて「大丈夫ですか?」と訪ねた。

「ごめんなさい。大丈夫です」

そう、栞が言うと、伊織もすいませんと頭を下げて、伊織はベンチに栞を引っ張りあげて座らせた。

「何か飲み物買ってくるね。お茶でいい?」

「うん、ありがとう」

さっきまで下を向いて余り回りの景色を落ち着いて見ていなかった栞が、ふと頭を上げると、それが不思議なくらいかわいそうな光景に見えてきて。そしてまた耳を塞いだ。

「あ、あの人死んじゃう」

なぜか、その後ろ姿しか確認できなかったはずのその駅員さんに、栞はそう感じた。そして、またビジョンが崩れると、今度はどことなく記憶が遡って行く。

どこ?ここはどこ?でも、知ってる。あれ?知らないうちに真っ赤になった。死とは突然だった。それは時間の流れを止めるのに十分だった。ラズベリー色に染まったナイフがホームの上に落ちた。誰もが予期せぬ事を誰もが見ていた、心も使わずに。

「私、見ている」

それは不確かで確かだった。そして、頭を抱えると、伊織が戻ってきた。

「はい、お茶。どう、少しは気分よくなった?」

「うん、ありがとう」

栞は今見たことを黙っていた。きっと、話しても仕方のないことだから。そして、そんなビジョンが崩れることがなくなると、いつものように家に帰った。

栞はロードショーを見ていた。涙した。そもそもこう言うものは涙を流させるために作ってあるのだ。それでも泣いてしまった。複雑な思いが胸を過る。製作側に負けたのか、私の心が素直なのか。どちらにしろ栞は泣いた、なんだか久し振りに。私には、偽物の感動は届かなかったはずなのに……。寝る前にする事がある。電子メールをチェックすることだ。悲しくもいつも見るだけ無駄のメールに期待をしてみる。私は少し空しくなって、目を閉じた。

 

翔はその日、珍しく早く家に帰った。翔は友達を連れて帰って来た。栞はその様を見ていた。そして、軽く嘆く。栞はそのビジョンを少し歪めて、そして、心に思う。

「悲しいな」

彼女は覚醒していた。その光を得た眼球は、まるで見てはいけないものを映し出す。時折脳裏には、美咲の記憶。心には美咲の感情。景色には、美咲のビジョン。栞の中に新しい人格が生まれたわけではなかった。栞の中で美咲が呼吸をしているのだ。だけど、栞は栞。それを自覚できる。期待すら感じていた、この先のビジョンに。

 

666

 

「もしもし?」

「あ、ねー、そう言えば、電話くれたよねー」

「電話?したかなー?」

「うん、ちゃんと着歴残ってたよ」

「うん、って言うか、ごめん、誰?」

「えー!久美子だよー。先週かけてくれたよねー。親に携帯取り上げられてて、それで出れなくってさー、ごめん、って言うか、なにー、消しちゃったの?」

「別に消してないよ。消えたんだよ」

「あー、それ、なんかすっごく嘘っぽい。みんなそう言うもん」

「違うって。ごめん、ちょっと今混んでるから、またかけ直すよ。おまえこそ消すなよ」

そう言って、秀平は電話を切った。本当に誰だかわからなかった。電話をかけた記憶もないし、きっとまた試されていて、その手前で立ち往生しているだけなのだと思った。

「さて、そろそろ沸いたかな?風呂」

そう独り言を言って、秀平は洗面所まで確認しに行った。そして、沸いているのを確認すると、服を脱いで、湯船に浸かった。

「それにしても、さっきの女は誰だろうなー。まぁ、いっか」

そんなうわ言を行った後、暖まった体に上機嫌になって、歌を口ずさみ始めた。それは、聞き覚えのある歌。そう、遠い昔に流れていた歌。そして、母さんの一番好きな人の歌。僕の胸を一番熱く震わせるのは、そのイカツいベース音。秀平は、両手を湯船から出して、ベースの旋律を頭の中で思い出しながら、ついでにそれに合わせて指を動かした。はっきり言って、父さんの記憶はまるでない。知る手がかりは、残された写真と、その音だけ。秀平は、湯船に鼻まで浸かると、そのボーズ頭を撫でて、気持ちいいと思った。彼はベーシスト、いい低音を出す。

 

666

 

豊は少し病を患っていた。医者に何度尋ねても忘れてしまうほどの長い名前の症候群で、それをいちいち記憶にとどめて、誰かにそれを自慢するほどの病ではなかったからだ。寝ていると呼吸が止まってしまって、深く深く眠っていることが出来ない。だから何時間寝ても、何年寝ても、普通の人と同じ快眠を得ることは出来ないのだ。そして、また気だるい一日が始まると、冷たい牛乳でも飲んで自分を起こしてやらないと、眼だけが、唯一の自分のコンプレックスとして手元に残る。そして、体を誰かに預けたように一日を過ごし、半分自分を押し殺して、ヒッソリと呼吸をするのだ。体が完全に眠っているのに、脳だけは覚醒する。時折押し寄せるそんな衝動に、自分が抑えきれなくて、今まで生きてきて、恋を誤るのだ。その日、机に向かって仕事をしているのに飽きると、豊はゆっくりとその階段を下りる。そして、いつもの席に座って、こう言う。

「サファイア、ロックで」

そして、それを受け取ると、グラスを三十回くらいクルクルと回して、程よく冷えた牛乳と同じように、一気に飲み干す。そして、喉が焼けるような痛みに、もう一杯それを注文する。

「チーズちょうだい」

そう、豊が言うと、「ブラックペッパー別盛りね」そう、翔が言った。豊はいつもここでナチュラルチーズを注文する。そして、ブラックペッパーを別盛りでもらい、それをつけてはナチュラルチーズを食すのだ。

まだ、あの時の記憶が消えない。そして、愚かだった自分と、愚かだったあいつと。だんだん眠りが深くなっていく。そして、同時に目覚めがいい。

スノウブランドの乳製品メーカーが今年、問題を起こした。マスコミや消費者はそれを不安がり、それをいかにも悪いように指摘する。最善の注意を払ったって、乳製品をたらふく食らえばお腹も機嫌を損ねるし、違う食品の中に虫が混入していたって、そんなのわざとじゃないじゃん。虫だって生きているんだもの、工場の中に迷い込む事だってある。琥珀の中に虫が化石として残っていたら、それを偶然だというのに、ソーセージに入っていただけで、その偶然を罵る。仕方ないけどね、一応食べ物だし。だけど、スノウブランドをバカにしちゃいけない。今まで、あんなに美味しく飲んでいたんだもの、一度の過ちでバカにしちゃいけない。そして、人は忘れやすいから、また朝目が覚めると、朝食と一緒に牛乳を飲んで、カルシウムだったり、ビフィズス菌だったりを気にする。美味しいよ、牛乳。豊はそうやって、眠たげな目を擦り、牛乳を飲みながら、目が覚めることを望むのだから。

 

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体の仕組みというものはおかしなもので、私がいつ女性になったかはわからない。初めて生理になった時は恥ずかしさの余り泣きたくなったけれど、お母さんにそれを話すと、さほど恥ずかしいことじゃないって思った。女性ならば誰でも経験することで、そしてそれを覚えて、生理というものを生きていく上で当たり前のことだと思うようになる。そして、陰毛が生え乳房が膨らみ始めると、今度は女性として生きていくことを自然に思う。

お赤飯を炊いてくれたお母さんがお父さんに照れていたのは知っていた。お兄ちゃんは、食べたくも無いお赤飯に文句を言って、それに気づかない振りをしていた。

初めてキスをしたのは中学一年生の時で、音楽室の掃除をしている時に、友達とした。初めてのキスを同姓とするなんて、きっと自分でも思ってもいなかったけれど、別にした後で、全然おかしくないって感じた。それから男子生徒がエッチな話をしているのに耳を傾けては、その友達と憧れを抱いた。中学二年生の時に、少し不良の男の子の家に遊びに行った。その子も友達と一緒にいて、私も友達といて、結局始めて交わったときに二人とエッチをしてしまった。私は血が出なかったけれど、友達は血が出たって言っていた。その帰り道、担任の先生に出くわすと、すごく不安になって、そんな自分がいたりした。次の日クラスの女の子も男の子も、すごく子供に思えてきて、自分だけが大人になれたような気がした。そして、その性への願望は、飛ぶ鳥なんか絶対に落とせないような勢いをつけて、思春期は老けていく。大人だと背伸びをしても、結局大人なんかになりきれない。そして、私が子供を産んだときに、後で自分を笑うんだろうな。

教室のドアが開くと、教室中が静かになって、そして、私はいつも憂鬱や感動と共に、窓の外を眺めて、一日を過ごす。あの頃の痛みをまだ持っていたくて、そして、誰かに心を動かされて、熱くなって、そして濡れて。

伊織は気がつくと、栞を好きになっていた。

 

 

 

 

「レモン味、ミルク味」

 

実は何にも知らない。

 

知っているのは、舌が絡みつくことと、世の中には雄と雌しかいないこと。自分が雄だって言うこと。

 

実は何にも知らない。

 

知っているのは、口にくわえることと、世の中には雄と雌しかいないこと。自分が雌だって言うこと。

 

お酒も煙草も許される世間で、まだ何も知らないこと。それは恥ずかしいことなんかじゃない。だけど、他はみんな知っているという想像と、恐怖。遅れたと感じる切なさと、恥じらい。それは他人にさらけ出す恥じらい。

 

エレベーターを登ったところまでは覚えているんだけれど、何で自分がここにいるのかわからない。部屋の番号を何度も確認すると、二人で呼吸を押し殺したようにそのドアを開ける。引き下がれない衝動と、大人になろうとする認知。それでもちゃんと恋をして、それをあくまで始まりと終わりの通過点みたいなものだと言い聞かす。香澄がシャワーを浴びている間、翔はその部屋の中を見渡して、色々なものに興味を抱いた。この冷蔵庫のドリンクには手を出してはいけないことと、この自動販売機の中に存在するおもちゃはまだ早いことと。ライトはどれくらいの暗がりを演出すればいいのかとか、テレビは消して、音楽はつけるのとか。煙草を持つ手が震えて、そしてベッドの脇においてある避妊具とティッシュに現実を見て。後ろから思いっきり誰かにお腹を捕まれたようなキリキリ感が、僕というものを襲って。少し明るく透ける磨りガラスの向こうの水の音が今を奏でていて、そんな調べは僕のハートを圧迫するだけだと思って。そして、やがて水の音が止まると、僕は軽くこぶしを握って、後ろを向いていた。僕は本当に口から心臓を吐き出していた。

 

別にいつかはこの日が来るって知っていたから、それを怖がることはないって知っていた。ただ、今日この日が来るって思ってもいなかった。とりあえず汗ばんだ自分が動物的嗅覚をかき立てるような匂いを放つのに恐れて、シャワーを浴びに行った。洋服を脱ぐとき、自分が震えているのを香澄は確認したけれど、それでも翔のことが好きだったから、飛び出してきた心臓をつかむと、鏡に向かい合った。自分の腰のラインを軽く撫でると、男の人に今まで内緒にしていたこのラインを初公開することに少しおかしくなった。そして、その相手が翔でいてよかったって思う。彼が未経験者なのは知っていた。口の軽い千歳が、酒の席で言っていた。それに軽くキレて恥ずかしがっている翔を見て、それは本当だと思った。だけど、私にも経験なんて無い。シャワーの音が幾分か私の心を落ち着かせてくれて、そしてこのシャワーを浴び終えたとき、自分の中で何かが変わるんだと思って、少し嬉しくなった。そして、よくドラマなんかで見ているあの格好に憧れて、バスタオルで生まれたての自分を包むと私は呼吸を整えて、バスルームのドアを開けた。彼は後ろを向いていて、タイミングを失っていることに彼女は気づいた。

「シャワー浴びてきたら?落ち着くよ」

そう言うと、翔は、「うん」といって、私の姿を見ることができないまま、バスルームの中へ入っていった。香澄は、この人でよかったって思った。

 

香澄が冗談で煙草をちょうだいって言うと、翔はなんだか焦ったように、あたふたした。「冗談よ」と言う香澄に、溜息をついて、次いでそうに翔は煙草に火をつけた。そして言葉ないままに香澄の顔を直視できない翔は、天井に向かって、その煙を吐いた。どんな実感だったとか、大人になるって意外に簡単だったとか、もうよくわからない。あれだけ友達に聞いた経験談や、風俗雑誌の閉じこみページ、ひん曲がった笑顔の女優が下手な芝居で喘ぐアダルトビデオは全く役に立たなかった。ただ、知識なんかじゃ図れないものが、僕の中には備わっていて、それを駆使しただけだ。それでもゼンギだけですでにイキソウだった彼は、挿入してから何が気持ちいいのかわからないくらいの時間で果ててしまった。それでも香澄は優しくキスをしてくれて、僕は人を愛したんだとそう単純に思える。

 

決して交わることの無かったレモンとミルクが、実は簡単に交わることを知って、少し落ち着いた。

 

雄と雌しかいない意味が少しだけわかった。

 

実は何にも知らない。

 

それは、アタラシイものを創りだす若気の至りだと。

 

 

 

 

「ロックンロール」

 

「マジで?」

「マジ!」

それだけでよかったのは男の会話で、千歳はなぜか少し鼻息が荒い。昨夜の香澄の体のラインを少しだけ思い出すと、翔の顔は余りにも緩んでいた。

「なぁ、どうだった?初めての感想は」

「ん?別にー」

そう言って、無理にでも言いたい言葉の数々を翔は飲み込んだ。今更ながらだけど、今更ながら言う必要はない。浮かれていることを隠したかった。そして、そんな会話をしているところに香澄と小紅がやって来た。

「おう!あ、なんだ?飯食いに行くのか?」

「うん、そうだよ」

「おう、ちょうどいいじゃん。俺たちも飯食いに行こうとしてたんだよ。な、翔?」

「あ、あぁ」

「オマエら何食いたい?」

「何でもいいよ。別に決めてないから」

「じゃー、適当に駅前に行くかー」

そう言って、四人は歩き出した。

 

小紅と千歳の背中を見ながら翔と香澄は歩いていた。そして、お互いに何を話していいのかわからずに、少し静かに歩いていた。その時、翔が手の平を差し出すと、それが自然じゃないのがわかったけど、香澄はそれが嬉しくて、自分も手を差し出した。そして、手を繋ぐと、それはもう不自然ではなかった。

「翔?」

そう香澄が女らしく言った。

「ん?何?」

「うぅん。何にも……」

「何だよー」

そう言いながらも、翔は照れていた。

 

666

 

「ニャーン!今日もいい天気だねー」

そう朗らかにハローと言ったのは秀平で、そこにいた一匹の犬は全く秀平に見向きもしなかった。

「おい、おい。オマエ、ご主人様を無視するのはちょっと悲しいんでない?」

それでもその犬は全然秀平を見向きもしない。

「仕方ねーなー。全く図体だけはデカくなりやがって」

そう言って、散歩用の紐をちらつかせると、ニャーンの耳だけが反応した。

「おう、おう。これには反応するんだなー。でも、残念でした。散歩には行きません」

そう言うと、秀平はニャーンの反応がイマイチなのにムカツイテ、頭を軽く叩いた。そして、次の瞬間、ニャーンは秀平の手を噛んだ。

「イテッ!ニャーン、このヤロー!誰が飯食わしてると思ってるんだよ、この馬鹿犬!ご主人様の顔が見てみたいわ!」

そう言って、秀平は不貞腐れた。でも、これはいつもの習慣で、ニャーンが楯突かないとなんだか秀平は不安だった。こいつは友達の少ない秀平の、何でも話せる友達だったからだ。

 

秀平がこのアパートに引っ越した時、どうも荷物の中に妙な違和感があった。荷物は引越し屋に頼んで、そして、引越し屋が運び終えた後で秀平はここを訪れた。そして、いよいよ新しい生活が始まるんだなと扉を開けた時、どうも自分の荷物でないものがそこにはあった。ダンボールからひょっこり顔を出してこっちを見ている子犬がなぜかそこにいた。

「オマエ、誰だ?何でここにいる?」

そう、その子犬に話し掛けても、答えは返ってこない。そして、引越し屋に慌てて電話をすると、確かに子犬は届けたが、それは俺から預かったものだと言う。俺にはそんな記憶はなかった。そして、どうしようもなくなって、とりあえず子犬の入ったダンボールを持ち上げると、それを捨てに行こうと思って、アパートの階段を下りた。そして、近くの公園まで来ると、ベンチに座って、その子犬を見ていた。

「あのな。オマエとは運命的なものを感じたよ。でもな。俺にはオマエを養っていく力がない。おい、おい。そんな愛くるしい顔するなよ。名残惜しくなるだろ?」

そして、秀平はベンチの横にそのダンボールを置くと、「達者でな」と言って、そこから去っていった。そして、公園の前にあったコンビニに入ると、軽く弁当でも買おうかと思って、そして、そこでドッグフードを見つけると、なんだか虚しくなって、そして、結局缶詰を買ってしまった。そして、公園に戻ると、ベンチの横にダンボールがあって、そして駆け寄ると、やっぱりそいつは愛くるしい顔をしていた。

「ラッキーだな、オマエ。でもな、管理人さんが駄目って言ったら、諦めろよ」

そう言って、またそれを抱えると、アパートまで戻っていった。そして、恐る恐る管理人さんに尋ねると、快い返事をくれた。そして、そいつは俺と共に生活することになった。

「そうだなー、やっぱりまず名前かな?」

そう、秀平はその子犬を前にして会話をしていた。

「やっぱりカッコいい名前がいいなー。何か、英語でさー、何かねーかなー」

その時、その部屋に流れていた音楽のイントロから「ガッテム!」って聞こえてきた。

「お!これでいいじゃん!ガッテム。よし!オマエ、ガッテムな」

そして、その犬は笑っていたような顔をしていた。

「お!気に入ったみたいだな」

その時、そいつが突然ウンコした。

「うわっ!オマエ、ウンコするなよー」

そう言って、軽く鼻をつまむと、なぜかそいつは怒って、秀平の手を噛んだ。

「イテッ!」

反射的にそう言うと、なんか少しムッと来て、

「おまえの名前は、ニャーンだ。犬なのに、ニャーン……ププッ」

そう言って、秀平は一人笑った。笑うのも過ぎていくと、ニャーンは日ごとに大きくなっていく。子犬だから小さいと侮っていた秀平は、余り笑えなくなった。ニャーンは普通の小学生よりは平気で大きくなってしまったからだった。そして、秀平の部屋は六畳。部屋の半分以上は、犬で占領されていた。押入れを防音に改造して、秀平は一日の四分の一くらいは、そこの中で過ごした。そこには、親父の形見のベースが置いてあって、さすがに犬も入って来れない。そして、余りにも押入れの中は熱いから、真夏にそこで練習をしていると、一日で二キロは痩せる。そんな生活を過ごしながら、親父に憧れを抱いて、秀平はベースを響かせる。

 

「もしもし?」

「あ、久美子だけど、今電話いいかなぁ?」

「別にいいよ」

「あのさー、髪切りに行くんだけど、どんな髪型がいいと思う?」

「あれ?オマエどんな髪型だっけ?」

「ん?今は肩ぐらいまでの長さで、普通のオネエって感じだけど」

「あ、そうだったなー」

「ねぇ、別に短いのでも好き?」

「うん、いいんじゃない?似合えばいいよ」

「あー、何それ。じゃー、少し切っちゃお」

「あ、ごめん。俺、バイト行かなくちゃいかん」

「マジでー?じゃー、また電話するよ。今度、また会おうね」

「うん、電話して。じゃーね」

そう言うと、電話は切れた。秀平は思った。「って言うか、こいつ誰だ?」

 

666

 

やっぱり初めは抵抗があった。誰にも触れさせていなかった陰部をさらけ出すのだ。そして、今ではせがまれると、それを簡単に許してしまう。

「ねぇ、栞、エッチな話だけれどさ、セックスってした事ある?」

それが馴れ合いの初めの言葉だった。そして、伊織は私にキスをしてみようと言うと、伊織は自然に舌を入れてきた。そして、わけのわからないうちに、伊織は私の陰部に触れてきた。

「今までにない刺激、感情、熱、トランス」

そして、肩の力が抜けると、何も着けていない所まで手は伸びていて、背筋が冷たくなるような感情があった後、その指はいとも簡単に中に入ってきた。そして、ベッドの上に横になると、伊織もして欲しいとせがんだ。そして、何かを越えてしまうと、それが気持ちのいいことだとわかった。そして、今では簡単に許してしまう。初めのうちはよくわからなかったけれど、私を愛撫している誰かがまた他にもいて、その人を研ぎ澄ますと、いつも彼は優しい目をしている。血液の中は軽いヒョウ柄感覚で、その人の匂いは、いつもクサの匂いがした。

 

 

 

 

「ナミダ」

 

愛理が自分の生まれた家を訪れたのはもう三十年ぶりくらいになるだろうか……。家に帰ると、母親は泣いて、そして愛理も泣いた。メディアだけが便りで、愛理の存在を知っていた母親は、驚きなんかとうに捨ててしまい、ただこちらから声を掛けるのを躊躇っては、時をアヤフヤにしてきたのだ。そして、今やっと泣き合える。愛理が実家に帰ろうと決意したのは、愛理が癌を宣告されたからだった。そして、一足遅く、父親は他界していた。残されたのは母親だけで、そしてそれを一人で強がって生活していたのは、どんなに辛かっただろうか……。父親と弟に線香を上げると、愛理はまた涙が出てしまって、今まで我慢していたからだろうか、もうそれは止まらなかった。愛理は余生を楽しめたのだろうか、何を思ったのだろうか、愛理が最後に描き残した絵だけが残ると、彼女の壮絶な一生を描いたドキュメンタリーがメディアに載った。そして清らかなゴスペルが流れると、それを願う人たちは、愛理の冥福を祈った。

 

 

 

「黒い糸」

 

「ニャーン!帰るぞ!」

そう言ったのは千歳だった。

「ったくー、何で俺がこいつの散歩しなくちゃなんねーんだよ」

そう言いながらも、結構犬は好きだった。

「さてと、帰ったら秀平君迎えに行くかな」

そう言って、あまり大した差のない二匹は堤防沿いを歩いていた。

 

「店長、これ、全部ディスプレイし直しですか?」

「うん、さっき全部納品されたからね。そんな事言わないで、やってよー。お願い」

そう、雷蔵は言った。

「あ、秀平君。週末にライブやるんだって?」

「あ、一応、はい。その為にも金稼がないと」

「悪かったね、時給安いくせに頼りにしちゃって」

「いえいえ、管理人さんとしては、こっちも助かってますよ。あんなドデカイ犬を飼ってる挙句、押入れ改造しちゃうし、それに、家賃も安くしてもらって」

「賢治さんと僕は掛けてるんだよ、やっぱり秀平君の低音は気になるからね。今度のライブで、カルマンギアはやらないの?」

「まだ千歳がそんなに上手くないですから」

そう言って、秀平は笑った。それからシルバーのアクセを並び変えて一息ついていると、千歳がやって来た。

「あー、疲れた。だって、全然あいつ帰ろうとしないんですよ。あんなドデカイ犬にこんなカヨワイ俺が一人で散歩させるの無理なんですよ……」

「あ、っそう。誰がおまえのギターの代金立て替えてると思ってるんだよ」

「あ、秀平様ですけど……」

「じゃー、文句言うな」

「翔はもうバイトっすかねー?」

「じゃねーか?今日は見てないけど」

「なんだか最近、翔の奴冷たいなー。女出来ると、あーも変わるんかなー、やっぱ人間って」

「マジ?なんだ、あいつ彼女出来たのか。そうか、そうか、いいじゃん」

その時、店のドアが開いて、一人の女性が入ってきた。

「おっ、そろったな。さて、さて、始めましょうか」

「珍しーはね、あんたがやる気なの……」

「こう、何ていうのかなー、やっぱ、近づいてくると、身の入りようが違うんだよね」

「おー、言うねー。じゃー、今日は一個も間違えずに弾けよ」

「余裕っすよ、余裕」

「真帆!俺のギターに太鼓着いて来いよ」

「ばっかじゃねーのー」

「オマエな、女の子はもっと優しい言葉使えよ」

「あんたが下らない事言うからよ」

「はい、はい……」

そう言って、三人は裏の倉庫へ歩いていった。

 

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溝口君が朝起きると、珍しく勃起していたので若い頃を思い出した。別に女の人と最近関係がなかったわけではなかった。そうでもしなくちゃ、僕の想像力は児童向けに処理しきれなくなるからだった。正義や欲を剥き出しにしてはならない。ささやかな優しさがあればいいんだ。その朝は珍しく牛乳を飲まなかった。前日の日差しがとても強かったからだった。僕は何を抑えて今まで損や得を考えてきたんだろう。きっと僕の過去は全てがあの手首から始まって、きっとその経緯には幾つもの手首が転がって、そしていつかもう一度誰かの手首を拾った時、きっとそれは自分の手首じゃないかって臆するんだ。変えがたい事実、僕は殺人者。

 

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豊はその日、仕事の打ち合わせで溝口君と会った。豊は彼を見て、どこか煮え切らない死の香りを自然に覚える。震える衝動はいつもご機嫌斜めで、僕は、自分がハサミを使うのが不器用でよかったって思う。彼の物語には、死への独創性とフワフワ飛んでいってしまう空虚感で一杯だった。でも、それが時に子供の心を捉える。溺れてしまって死にそうな子供達に、たった一口の新鮮な酸素を「これは森からだよ」って与えているだけだ。そしてやっぱり羨ましい。

 

「溝口さん、僕はあなたに言わなければいけないことを隠し持っています」

そう、豊は言った。

「それは?」

「それは、あなたが、あなたのお姉さんを殺した理由」

「何故それを?」

「ご存知でしょうが……」

罵り……。

「潔癖は立派な癖です」

「具体的に?」

「抜群なケシの大群」

「あそこはあの後見つかって、焼き払われた」

「でも、姉さんは……」

「そうさ、姉さんはいつも患者だった……」

「でも、あなたは医者じゃない」

「あの乳液はよく効くんだ……」

「何に?」

「人格を壊すのに……」

 

そして溝口君は豊の手首を切り落とした。

「あ、あれ?」

冷蔵庫の扉を右手で開けると、牛乳を左手で取ろうとして気が付いた。

「手首ないじゃん」

そう言ったのは溝口君だったが、それを冷静に見ていた豊はこう言った。

「人格者にたいした自覚はない……」

そう言って倒れこむと、軽く呟いた。

「そうか、姉さんを殺したのは、僕で、僕は君によって創り出された人格だったんだ。やっとわかった、僕の正体は、アヘンのカタマリ……」

そして、空からケシのカケラたちが舞い降りる白い夜、溝口豊は幻覚さえ見せるそのビジョンと一生を閉じた。

 

666

 

モモが自殺したのは、最後に愛理が描き残した絵を見たからだった。その如来菩薩はいつまでもキレイなままで、もう色褪せてしまった自分の背中を疎ましく思ったからだった。それでも最後に本当の愛を知れて良かったって思った。流れ行く血液を見て、この色に憧れていたんだ、この色を早く知ることが出来たら、そう思って、焼失は一つの理由になるんだと、また思った。


 

クサのカケラたち 666

 

翔   :日本に帰国後、普通に大学に通う。或る日、香澄に出会う。そして、初めて女性との関係を持つ。ウェンディーの記憶を時折思い出す。

香澄  :気が付けば翔と出会い、そして恋に落ちて、体を預けた。

小紅  :中国人とアメリカ人のハーフでニューヨークからやって来る。香澄と友達。いつもママを寂しく想い、楽しかったあの頃を思い出す。

千歳  :バンド、「ライオニズム」のギタリスト。翔とは大学で友達。小紅に恋をする。

溝口 豊:刑務所から出所。児童向けの絵本を描く仕事につく。アヘンのカタマリ。実は多重人格のホストだと思っていたのは、勘違い。それに気が付かないで、人を殺めていたことを溝口さん「豊」に重ねていた。そして、自ら手首を切り落とし自害。

靖章  :美咲の死後、一人栞を育ててきた。が、精神的に朽ちる速度を加速させ、精神異常を来たし死亡。

栞   :靖章の死後、雷蔵に引き取られる。或る日、美咲のビジョンが覚醒して、栞の中に美咲が息衝くようになる。ヒョウ柄の存在を少しだけ知る。

伊織  :翔の妹で、栞と同じ高校に通う。性的環境のズレで、栞を好きになる。

秀平  :赤いカルマンギアのベーシストのボーズ頭の息子。バンド、「ライオニズム」のベーシスト。ニャーンの買主。雷蔵の雑貨屋で仕事をしている。

久美子 :秀平の知っている記憶の外から、いつも秀平に電話をかける女性。

愛理  :癌で死亡。

モモ  :愛理の遺作を見て、自分を嘆き、アーティストらしく、その一生を自ら締める。

真帆  :バンド、「ライオニズム」のドラマー。


 

 

「恋愛」

 

「はい、これ、あげるよ」

「何これ?」

その余りにも唐突な会話自体が不自然さをまだ、かもしているんだけど、それでも千歳は勇気を振り絞った感じだった。やっとつかんだあの流線型なギターの滑らかさ、特に代わり映えのないこの世界に、一発歪みを入れる。そして、君のハートを真っ赤に染めることが出来たら、俺はきっと世界で一番幸せだろう。

「何?って、ライブのチケット」

「誰の?何で三枚?」

「香澄と翔と来てくれよ」

「いつ?」

「明後日の土曜日」

「翔はバイトなんじゃない?」

「あ、店休みなんだって、マスターも見に来てくれるみたいだし、結構適当なんだよ、あそこのマスター」

「ふぅーん、そう言うものなんだ」

「で、空いてるの?」

「うん、一応予定はないけどさー、香澄にも聞いてみないと」

「翔が来るなら、香澄も来るだろ?」

「そうだよね、あぁー、いいな、あの二人ラブラブで」

「ラブラブかー、そっかー、ラブラブかー」

「っていうか、二人に直接渡せば?」

「だって、今日も明日も学校休みじゃん」

「香澄の家近いんでしょ?」

「それ、一番メンドクセー」

「翔は?」

「あいつの家には行くけど、そう言うのじゃ駄目なんだよ。小紅が来てくれるのが前提だし」

「素直にそう言えばいいじゃん」

少し小声で、小紅は千歳の胸のあたりを見ながらそう言った。

「って言うか、あのさー、今この状況見てわかるでしょ?」

「うん、忙しそうだね、それになんかあの人こっち睨んでるよ」

「あれ、うちの店の店長だもん」

「あー、コワッ。じゃー、土曜日な」

「何も買ってくれないの?」

「じゃー、抹茶ぜんざい」

「子供みたいじゃん」

そう言って、小紅は笑った。

「何頼んでも、アイスクリーム屋だったら、そうなるだろ?結構シブイ選択だぜ。それに、白玉好きだしな」

「はい、三百八十円」

「アリガトウ、じゃぁな」

そう言って、千歳は店長に軽く会釈すると、抹茶ぜんざいを握り締めて、そのアイスクリーム屋を出て行った。

 

                                                           666

 

「ねぇ、香澄?俺のこと好き?」

「え、何、突然。そんなの当たり前じゃん」

「そっか……」

「何?何でそんなこと訊くの?」

「ん?別にー。確かめないと怖いときもあるじゃん」

「意外にロマンチスト?」

「そう、常にね」

そう言って、翔は少し笑った。でも、翔が香澄を抱いて、香澄に自分をくわえさせると、翔は少し飛んでしまった状態になって、なぜかあの時のことを思い出した。

俺は確か毎日遺書を書き加えたり、更新しては、自分の毎日をただの絵日記のように過ごしてきた。どちらかと言えば死を尊み、死を侮り、自分は大してそれに興味を示すようにしてきただけではないだろうか。考えたことがなかったのは、生に対しての興味だった。ただ、今こうして香澄とマグワルごとに、それに対して、少しながら期待とかそう言うのが持てる。そして、だんだんそれを思い浮かべる度に、あの時の事も思い浮かんでくる。そう言えば、いつから俺は脳を労わる人間になったんだろう。確か、いつもそれを刺激して、それに何かの信号を送りつづけては、卑屈になろうって考えていた。成り下がってしまったのは、人間味を帯びたのではなくて、体温を感じたから。体温は体温を駄目にする。

 

666

 

「メリークリスマス、ミセス」

「ありがとう、ほらおあがんなさい、暖炉のそばへ」

そう言って、ウェンディーのママは僕に言ってくれた。

「これ、日本のお土産です。これをあなたへ」

そう言って、翔は日本では余りにも下らなさ過ぎる、文化のカケラでしかないものを彼女に渡した。そして、三人で夕食を囲むと、少なからず楽しいときが過ごせた。その時のターキーの味が、やっと今思い出せる。そして、夕食が済むと、ウェンディーのママは教会へ行くといって出て行った。そして、その日やっぱり俺はシタクなって、ウェンディーをもう一度ベッドへ招いたんだ。ウェンディーは僕のものをやっぱり上手に含みあげて、そして、一度はそこで果てた。クサの効力はその時の俺の生活を形作っていたものだったから、メリーゴーランドの勢いで回転を続けると、彼女は雪解けのように濡れて、俺というものを拒む感情を作らなかった。そして、その時扉が開くと、青ざめたママの顔がそこにあった。やはり声が響いたのか、すでにママの手には包丁が握られていて、そして「アーメン」と言うと、そのまま俺の上に倒れこむように振りかぶってきた。そして、俺の肩を少しだけ掠めると、そこがとても熱くなったのがわかって、そして、思いっきりママを蹴り飛ばした。ママが落とした包丁を俺は後ろに蹴ると、突然「うわぁー!!」と言う声が後からして、俺の脇をウェンディーがすり抜けると、そのまま、ウェンディーはママに向かって、それを突き刺した。そして、嫌な鈍い音がした後、静かにジワジワとそのブドウ酒は流れ出した。そして、ママが息絶えてしまうと、ウェンディーは泣き出した。そのまま蹲ると、それはまるで子供のような感覚で、後はサイレンが近づくのを待つだけだった。そして、俺は言った。

「ウェンディー、行こう」

そして、その手を引っ張ると、俺はその亡骸の上を飛び越して、テーブルの上に置いてあったプレゼントの下らない文化のカケラを取ると、そのまま家を飛び出した。そして、そこから三百メートルほど離れたところにある、小さなメインストリートを走り抜けようとした瞬間、俺はウェンディーの手を離してしまって、そして、引き戻ったところを確か車に跳ねられた。そして、そこから記憶がない……。ただ、覚えているのは、その車は赤い車だった。

 

ママが死んでしまった一年前、確かそのクリスマスカードには、俺のよく知る少女の面影が………。その写真に映っていたのは、そう、似ているんだ………。俺のよく知る少女に………。でも、何故……。

 

そして、俺は彼女に尋ねたんだ。「ママは元気かい?」

 

「ねぇ、翔?どうしたの?」

「あ、ごめん、他事考えてた」

「何?他事って」

「うん、近い昔の事……。そして、悲しいことも」

「小紅?」

「何?」

「人は何で誰かを好きになるんだろうね」

「何それ、早く行こ。香澄怒ってるよ」

そう言って、俺はもう一度飛ぶために、ライブハウスへ向かって歩いていった。

 

666

 

真帆が相変わらずクリーンな目で秀平のベースの指使いを眺めていると、真帆は自分が熱くなるのがわかる。真帆は秀平が好きだった。初めて秀平に会ったのは雷蔵が経営する雑貨屋で、客と店員だった。そして、もう、五年も前になる。なんとなく新しいピアスが欲しくなって、そこを訪れて、そして人を好きになった。アルバイトの募集広告をみて、すぐにそこにアルバイトとして入った。その時真帆はまだ高校一年生で、秀平にその時彼女がいたことも知っていた。よく店先に訪れては、秀平とキスをして帰っていく、久美子の事をあまりよく思っていなかった。店が暇な時は、秀平は店の中で平気でベースを鳴らしていた。そして、ある程度真帆もリズムを覚えると、楽器がやりたいって思った。そして、倉庫の裏に眠っていた、そのタイコ達を、雷蔵に借りて、稽古した。やがて思い通りにツーバスが踏めるようになると、秀平から俺と一緒にやらないか?と誘われた。それから楽しい時を数えると、久美子の存在が更に嫌になってきた。

 

そして、まだその催眠は解いていない。

 

「さて、いっちょ気合入れますか」

「よし、せーの」

そして、その言葉が終わると同時に二人の顔面は少し歪んだ。

「うぉー、いってー」

そう言って、頬っぺたを軽く抑えて、千歳は痛がった。それはいつものことで、ライブをやる前には必ずすることだった。お互いをグーで殴る。でも、真帆はそれをいつも見ているだけで、男達はこれだから頭が悪いと思うだけだった。

「じゃー、俺からね、ほら、真帆、こっち来いよ」

「っていうか、これって気合の意味あるの?」

「うるせーなー、キマリなんだよ」

「あんたが触りたいだけじゃん」

「おっぱいターッチ!」

そう言って、千歳は真帆の胸を揉んだ。そして、やっぱり真帆は千歳を殴った。そして、結局気合は入ったことになる。

「さ、行こうか」

そう、秀平が言うと三人の顔つきが俄かに変わった。

 

「あいつ、カッコいいじゃん」

そう言ったのは小紅だった。カールスバーグの瓶を持つ手に力を入れると、今、自分がどんな顔をしているのか少し気になった。そして、次の曲が始まると、みんなまたアタマを振りしきって、その音楽を少し撹乱させた。

 

久美子は一人アタマを振っている人達とは離れて、遠くの方から秀平の指を見ていた。

「あの指が欲しい……」

そして、最近では自分が秀平の彼女だと言う意識が少し薄れてきた。彼は本気で言葉を使っているのだろうか。あれは、クスリのせいにしておこう。私も薬を飲みすぎている。最近、アタマが痛くなる事が多過ぎる。

「あの指が欲しい……」

ベーシストはタマラナイ……。

 

「ライオニズム」は加速していた。千歳のギターはいい音を出して、その高音がイカセテくれる。余りにもアンプに近いもんだから、ハウリングの共鳴が脳みそを揺さぶった。そして、千歳は完璧に入ってしまって、そこで何が起きているのか気づかなかった。ただ、観客はさらにカールスバーグの瓶を固く握る。もう、誰もアタマを振っていない。そんな音を出す千歳以外は。

 

サイレンがその店の前で止まると、もうみんなは震えが止まらなくて、泣き崩れるのを我慢している子供達だった。そして、秀平が運び込まれると、千歳は頭を完全にやられていて、そこでただ呆然と立ち尽くすだけだった。真帆の震えが止まらなかったのは、自分の過ちを少しだけ感じたからだった。そして、久美子は泣いている。雷蔵が一緒に救急車に乗り込むと、そのサイレンはまた鳴り出して、そして遠くの方へかき消されていった。大丈夫、大丈夫、大丈夫。人はそう簡単に死んだりしない。

 

「千歳!おい、千歳!何やってるんだよ、俺達も病院に行くぞ!」

そう、ステージの上で体を揺さぶって声を掛けたのは、翔だった。そして、そのまま千歳の腕をつかむと、ギターを外させて、そのままステージから階段を駆け上がり、車に向かって歩き出した。その後を、心配そうな顔をして、香澄と小紅が歩いてきた。

「ねぇ、大丈夫だよね」

「うん、当たり前じゃん。あんまりそう言うことを考えるな、多分大丈夫だよ」

「でもなんで、何が原因なんだろう。あのベースの人、突然頭を抑えて倒れちゃったけど」

「そんなことわかんないよ。とにかく急ごうぜ。おい!千歳!しっかりしろよ!」

「う、うん。でも、本当に、何でだろう……」

そして、おれは車のエンジンを効率よく回すと、サイレンを追わないばかりに信号を無視して、スタートを決めた。

 

真帆は、自分の過ちを確認すると同時に、その一瞬の光景をベースを持った秀平の後ろから一人見ていた。スティックを持つ手に力が入らなくなると、バスだけそのリズムに乗せて、やっぱりそれを見ていた。そして、次の瞬間秀平はそこに倒れこんだんだ。もう、その時は千歳の音が最高過ぎて、そして、それが邪魔で仕方なかった。

「きっと、何かに反応している。そして、それはきっと誰にも聞こえないような余りにも高音の催眠……」

そして、その催眠はまだ解いていない。

そこでライブハウスを慌てて閉め出したそこのスタッフ達のキツイ目の横で、真帆は久美子の姿を見つけた。泣き崩れて蹲っていた。彼女の脳には響いたのだろうか。あのとても清潔な高音が……。

 

久美子は落ちていく秀平をスローモーションで見ていた。そう、そして、その体が床に叩きつけられてバウンドする奇妙な人間の体の曲がり具合を見ていた。余りにも唐突だった。そして、その時久美子の頭も痛くなって、そしてあの時の事を思い出した。真帆のあの奇妙な行動……。

 

三ヶ月くらい前、あの雑貨屋には、確か秀平と久美子と、そして真帆しか居なかった。奇妙な遊びが、奇妙な体験を生み出すこともある。切っ掛けは真帆が一週間前に見たテレビで特集していたのを興味にして、そして、とりあえず本屋に向かった。そして、「簡単に人を操る講座」なる、本を買った。それは、ただの催眠術の本で、そんなの嘘だって思っていた。でも、適当に千歳に試したら、千歳は一人体を揺さぶられて、真帆の思い通りになっていた。確信した。人って簡単に操れる。簡単な暗示でよかったんだもん。そして、秀平と久美子に一つずつ、催眠をかけた。

そして、その催眠はまだ解いていない。

 

容態は、原因不明の重態。意識は全くと言ってよいほど戻らず、呼吸や脈は落ち着いている。そこが病室じゃなかったら、普通に寝ているのと変わらない。そして、香澄の涙は止まらない。

「もう、帰ろう。な、千歳、なぁ」

そして、その後無言が続くと、雷蔵は、翔の肩を叩いて、そして千歳の肩を叩いた。賢治が病室へ入ってくると、「行くぞ」といって、みんなを病室から出した。

「明日、朝一番で来るそうだ」

「そうですか……」

秀平の母親に電話をした賢治が、雷蔵にそう言うと、そしてみんなは病院を後にした。それと入れ違いに、久美子が病室を勘で探り当てると、秀平のベッドの前でもう一度泣いた。そして、その日、秀平が目を覚ますことはなかった。久美子はあの日のことを頭の中で思い出して、そしてそこに真帆の顔が映ると、頭の中でこう呟いた。

そして、その催眠はまだ解いていない。

不可解な三人は、禁じられた遊びの中で、命の火を削っていくんだろう。

 

 

 

 

「このラブソング」

 

その青い海で、石油を積んだタンカーが座礁した。そして、数え切れないほどの生物がその黒い毒にやられて死んでいく。一度汚れてしまったものは、そう簡単には拭えない。例えそれが、些細なものであっても。伊織がはじめてウッタのは、欲のためだった。そして、一度油についた火は、なかなか消えない。思い出が、振り返る頃には、悲しいものだと気づくだろう。伊織はカラダを自ら商品として販売した。結構高くウレタ。

水を張ったバケツに、一滴の油を落としてやる。それは、混ざることなく、溶けることもなく、油としてそこに残る。群集の中で伊織は二度とキレイな呼吸を出来ない。簡単にはまる罠。簡単には抜け出せない。その日はオイシイ仕事だと思って、いつものように背中を流した。そして、簡単にゴムを外すと、口だけで三万くれると言った。ホンバンで十万。援助交際の秩序は、誰の管轄にもない。と、突然殴られた。その男に殴られた。知らないうちに、三人の別の男が入ってくると、私をマワシタ。その時思い出した。ホテルのフロントの男が一瞬笑ったんだった。そして、その男がビデオカメラを持って、今、私の前に居る。私は完全に撮られている。

「金はやるから」

もう、そんな言葉なんかどうでもよかった。今の現実を自分のものとしたくなかった。でも、私、完全に汚れている。飛び降り自殺をした後の自分の亡骸を見られるより恥ずかしい。私の中で、結局三人ともイッた。そして、すぐにシャワーを浴びに行くと、殴られた顔面が痛くて、泣きながら中のものを洗い流した。少し放心状態になると、カミソリを探した。でも、そこにそんな気の利いた物は置いてなかった。男達は、私の最高の「汚れ」を手に入れると、さらに強要して、結局私は頷くしかなかった。そして、それが始まりで、今ではインディーズファンを魅了していた。栞を汚さないために、その夜から栞を濡らす事はなかった。

 

666

 

結局あれから秀平の意識は戻らない。真帆はあれからタイコをやめてしまった。千歳は夜になれば駅のホームで歌っている。ニャーンを雷蔵は引き取った。賢治は翔と今までどおり店を開けてシェーカーを振る。今年初の雪が降った。もう、すっかり外は寒かった。クリスマスツリーを見かける度に、小紅はまたあの頃を思い出す。ママが死んでしまった病院に駆けつけて泣き崩れる自分を。手がかりは、翔という日本人が一緒に同居していたことと、その悲しき事実を知るために。ママは、自分を守るためにピストルを放ったんだ。そして、自分を隠してまで近づいた翔という日本人は、ママの死を知らないこと。そして、彼はこう訪ねたんだ、「ママは元気かい?」

「ママは…、ママは死んだわ」

その時の翔の顔は本当に悲しんでいた。翔に色々訊くと、翔の記憶も曖昧で、よくわかんないんだって。もう、自分を偽ることはなかった。千歳と香澄に言うと、その悲しい出来事を理解してくれて、そして、それ以上深くは触れなかった。でも、それで居て、別に今までと何も変わらない。チャイニーズタウンのすぐ隣のストリートに家があって、私はただそこで、小紅というあだ名で呼ばれていただけで、私は本当は日本人とアメリカ人のハーフ。紀子の娘。だけどそこで、全て引っかかっていた胸のうちが取れた。それでも、私のあだ名は小紅で、私はそれに違和感を覚えない。千歳が私の目の前でギターを弾いて歌っている。

「私、その歌好き」

自動販売機の珈琲の温もりを千歳に伝えると、私も同じように温もりたいって願う。

「ラブソングは歌わないの?」

「柄じゃないからなー」

「ねぇ、私に歌作ってよ」

「マジで?」

「たとえば、たとえばこんなラブソング……」

そう言って、小紅は千歳に触れた。

 

666

 

ウェンディーが死んだことを、今初めて知った。翔は、あの後の続きを、一人頭の中で思い浮かべていた。そして、紀子が死んでしまったことも。やっぱり、小紅はあの時クリスマスカードの中の写真で笑っていた、女の子だった。色々な事を知ると、すごく誰かに抱きしめられたくて、香澄に頭を撫でてもらった。弱さを簡単に人に見せることは、難しい。だけど、涙が止まらなくて仕方なかったんだ。そして、その理由を香澄に告げると、香澄はすぐには理解できていなかった。そして、小紅と千歳と四人で、その時の事を知り合う。海水を染み込んだ砂の城は、そんなに簡単に崩れたりしない。例えそれが、少し汚れた海水でも。そして、街のネオンに少し怯えると、幾度となく強く香澄の手を握るんだ。サンタクロースは決して死を運ばない。そう、サンタクロースにお願いするんだ。

 

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一度だけ聞いた事があった。雷蔵はその光景を見ながら、そう思った。光を手に入れる前に、そんな奇妙な光景を持つ女の子の話を。

「ねぇ、お話しようか。私の目が見える頃には、そんな事ないって思ったんだけどね、でも、今また、こうして理解できる」

そうニャーンに話し掛けていたのは、栞だった。そして、それを雷蔵は見ていた。雷蔵は、自分の回りの人達を今まで注意してみる事がなかったが、どうもおかしいことに気づく。何故、余りにも普通でないものばかりが死を呼ぶ。そして、遠い記憶を辿ると、あの時何故、翔と出会ったのか不思議に考えていた。もし、あの時翔が僕に声をかけなかったら、こんな風に僕の人生は回らなかったはずだ。僕は、組みかけのバイクに必至になり、ムカツク奴のことをただ普通にムカツイていただけだった。そう、あの時翔に出会わなければ。そして、もう一つの悲しい疑問。僕はその日に死ぬのだろうか。

「そっかー、ニャーンは、ヒョウに生まれたかったんだー。何で?え!ヒョウ柄が好きだから?なにそれ」

そう言って、栞は笑った。

 

 

 

 

「ラスト・クリスマス」

 

その年のクリスマス・イヴは、雪を忘れた。

 

666

 

秀平の体が衰弱しきって、その数字がゼロになったのはその年のクリスマス・イヴだった。もう、あのテレビでよく見る、ミドリ色の生命の糸が波打つことはなくなって、それ以上「ライオニズム」は加速することはなかった。母親は一人、二重の苦しみを味わうだけだった。

 

666

 

千歳がそのステージに立っていたのは、金が必要だったからだ。騙されたと気が付いた時には、もう遅かった。秀平が千歳の借金を肩代わりしていて、その肝心な秀平が倒れてしまっては、今までの金を見過ごすわけにはいかない。どうしても千歳は簡単に大枚が欲しかった。乗せられたのは、自分だって知っている。ただ、その甘さが命取りになるとは知らなかった。千歳にそれを紹介したのは、知り合いのライブハウスのマスターで、「簡単に稼げる」とだけ言ってくれた。危ない橋は、渡るしかないのだ。それが千歳の現状だった。このラブソングを君に……。君は、今どうしているだろうか。千歳は自分が売られてしまったことにやっぱり後悔した。そのライブハウスのマスターは、千歳に一千万の金を現金で渡した。後はそれを持って、オークションの会場で、出来るだけ、ある商品を値上げさせればよいとの事だった。ただゆっくりと、十万単位で良いから、値を上げるんだと。そして、そのかけ引きで、千歳の取り分は三割だった。だけど、そんな上手い話はあるはずがない。オークションの会場で、千歳は思った。何故自分が競売に掛けられているのかと……。金持達の遊びの駒の一つで、そう、今日はクリスマス・イヴ、これ以上にないパーティーだもの。遊び道具も人間じゃないとね。そして、俺は、騙されたと。俺は、そのゲームの内容に死を覚悟した。このリスクで一千万円は安すぎる。このラブソングを君に……。君は、今どうしているだろうか。そう、頭の中で呟くと、それ以上「ライオニズム」は加速することはなかった。

 

666

 

アセロラジュースをケースでたくさん買うと、賢治は店へ向かった。今日は、あの思い出達が蘇る、一番悲しい日だった。そして、あの味が体の中のビタミンを整える。余りにもたくさんの死に直面してしまった賢治の隣に、また死者を招き入れるかと思うと、もうたくさんだと思う。ミツヲさんのように、簡単に朽ちるのだろうか。それとも、愛理さんのように、キレイに死ねる?「赤いカルマンギア」の奴等は、思い遣りを上手く使えているだろうか。思い出の老朽化が進むに当たって、なかなか現実に進めない。躍動を使い分けた記憶なんてない。

例えば僕が……。

例えば僕が今日死んでしまったなら、僕はその中に溶け込めるだろうか。簡単に死を受け入れられるだろうか。そして僕が死んでしまったことによって、そのラインは簡単に切れてしまうのだろうか。思えば荒んだ記憶しかない。溝口君は結局自分に負けた。でも、死によって、勝ち負けなんかじゃなくなる。僕は、いつまでも詩人で、僕の描いたストーリーは、きっとその周りを形成しているのだ。本当は、僕が書き溜めていたストーリー達が、現実の死を呼び起こしてしまっていたのかもしれない。僕が、キレイな死を描く度、それが現実のものとなっていくようで、余りにも怖い。僕は、「詩」と言う言葉達を使って「死」というものをあまりにも簡単にキレイにしてしまっていた。でも僕は、書き溜めていたものを、自分の中で満足してしまって、それに余りにも惚れ込んでいた為に、それを人の意見に変えるのが怖かったんだ。僕は結局何もしていない。そんな簡単な勇気がなかった。今朝、僕の全てを描き終えた。こんな言葉達、

例えば僕が……。

例えば僕が今日死んでしまったなら、そんな言葉達がたくさん並ぶ、悲しい詩だった。僕はそこで幕を閉じて、一切の想像力を断つ。そして、アセロラジュースを抱え込んで、店への階段を下りていった。そんな悲しいことばかりを考えながら。そして、店のドアを開けた。

「あれ?」

そう言って、僕は店の電気をつけた。軽く電流が走ると、そこに充満していたガスに、あっという間に引火した。そして、すごい音と共に、爆発したんだ。僕は、跡形も無く吹っ飛ぶと、一瞬だけ、思い出を見た。そして、その思い出達も一瞬に吹っ飛んだ。「ユウサク」みたいに死ねなかったな。

例えば僕が……。

例えば僕が今日死んでしまっても、何も変わらない。ましてや愛の詩人でもなければ、「ユウサク」でもない。

「あぁ、誰かを想いたい」

もう、死ぬんだぜ。アタマ吹っ飛んでるもん。口がなけりゃ、煙草さえ吸えやしない。

「あ!なんだ、ミツヲさん、そこにいたんだ……」

 

666

 

恋人達の日に、これを仕事としてくわえたくなかった。そう思ったのはカメラの前の伊織で、ソフトSMの嘆きを映像に出していた。最近では、制服を着ているだけでは駄目なんだって。世間で、確かに女子高生の勢いはなくなっていた。電車の中でハシャいで許される特権も、最近では使えない。私から見ても、ムカツクだけだし。あれじゃ、ただのバカじゃん。脳みそもカラダも、何もかも腐ってきている奴等が増え過ぎた。同じ女子高生として恥ずかしい。きっと、本当の恥を知ってしまったからだろうか。

「苦しかったら言ってね。じゃぁ、本番ヨーイ!」

そう言って、カメラが再び回りだした。首を絞めながら悶え喘ぐ、そんな馬鹿げた事で、男は私を何かに重ねて出すんだね。私の顔は、苦痛に飛んでいた?それ、演技じゃないよ。本当に苦しいんだよ。ねぇ、テレビの前の小太りのメガネ達。どう?私のイッてる顔は。ぐったりして、呼吸を止めてるでしょ?演技だと思う?うぅん、違う。私、その時すでに息絶えてるんだー。

 

666

 

秀平の死を二人ともほぼ同じように知った。そして、二人ともほぼ同じように思った。そして、その催眠はまだ解いていない。秀平の死を真帆に教えたのは、久美子だった。そして、病院の公衆電話から泣きながら電話したのには分けがあったからだった。真帆は、すぐに行くといって、電話を切った。病院だから携帯電話を使わなかったわけじゃなかった。そして、久美子はすぐに駅に向かうと、真帆が来るはずのホームとは反対のホームに立っていた。そして、禁じられた遊びは、その禁じを破る。

真帆は、久美子から悲報を受け取ると、駅まで迎えに来てとせがんだ。それには分けがあったからだった。そして、真帆は電車に乗り込むと、その駅まで行った。

そして、その催眠はまだ解いていない。

その駅は、次の電車の間隔が早い。早い時には、二分おきに来る。地下鉄は市民の味方だった。そして、真帆や久美子にとっても。

真帆は駅に降り立つと、久美子の姿を探した。しかし、そこには久美子の姿なんて見当たらなかった。そして、約二分が経過すると、次の電車が入ってくる。その時、反対側のホームから久美子が姿をあらわした。それを真帆は確認した。そして、反対側のホームで携帯電話を鳴らす、久美子の姿があった。そして、真帆の携帯電話が鳴った。真帆は、自分も携帯を掛けるつもりだったので、ワンコールでそれに答えると、こう言った。

「バイバイ」

その地下鉄は、早い時で二分間隔で、次の電車がやって来る。そして、二つのホームには、二つの次の電車がやってきて、そして、二つの生き物が息絶えた。

そして、その催眠は完全に解けた。禁じられた遊びを簡単に使って。

久美子の暗示は、真帆の携帯の着信音。久美子からのマイコールの着信音、それにしか反応しない。

真帆の暗示は、「バイバイ」の一言。それは、真帆の肉声からにしか反応しない。

二人とも、同じようにあの日、催眠を遊びにしていた。死にたくなる衝動と、それを簡単にしてしまうもの。二人とも同じように笑って線路の中に飛び込むと、その二分おきにやって来る地下鉄の勢いに、真っ赤に染まった。

 

666

 

小紅は、JFK空港に降り立つ寸前のそのマンハッタンの夜景を見て、懐かしいと思った。久しぶりの帰国。千歳がクリスマスを一緒に過ごそうと言えば、もう少し後に帰るはずだったけれど、家族と過ごすのも良いって考えた。私の座席は一番窓側で、マンハッタンの夜景を一人占めしたような気持ちになった。でも、こんな若さでと思うかもしれないけれど、その溜まった血栓は簡単に吹っ飛んだよ。完全に飛行機が止まると、私は今かと、その外を見て思った。そして、一言、この地に帰ってきたことを、ママに言いたかった。

「ママ、ただいま」

そう言って、小紅は座席から立ち上がると、そこで不思議な感触を抱いた。

「おかえり」

その声は確かに紀子の声だった。そして、次の瞬間、私の血栓が完全に吹っ飛ぶと、私は胸を抑えて、その場に倒れこんだ。あのラブソングを私に……。君は今何をしているだろうか。あのラブソングを私に……。

「メリー・クリスマス・ママ」

 

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香澄はその風に煽られると、ふと手の力が抜けて、握っていたはずのペンの重さを忘れる。

香澄はその日、翔へのクリスマスプレゼントを買うと、一緒に買ったクリスマスカードに何を書こうか迷いながら、そのバス停でバスを待っていた。そんな切っ掛けが簡単なことだとは香澄も翔も気づいていなかった。香澄は翔の子供を身ごもっていた。でも、それは、初めての夜じゃなくて、ここ二週間前のアクシデント。だから、香澄もまだ知らない。でも、確かに宿っていた。それは、香澄の遺体を調べてからわかったのだから。香澄は今、翔に逢いたくて、抱きしめられたくて、キスしたくて、声が聞きたくて、それほどまでに強い恋愛感情を抱いて、そのクリスマスカードへのメッセージを考えていた。思えばあの夜、少し震えていたんだ。だって、裸体をさらけ出すのは、怖いことだもの。でも、それって、一度見せてしまえば、これ以上にお互いを知ることなんて出来ない。だって、彼は私の一部になって、私は彼を受け入れられる。そして、私は愛しているという実感を少しずつ確立していって、君を好きだと言える。大して、カードに添える言葉を真剣に考えるよりも、思い出や空想の方が先に出てしまって、言葉が浮かんでこない。ただ、この気持ちは揺るがなくて、言葉にしてしまう方が、彼を受け入れるより怖いことかもしれない。そんなことを考えながら、次に来るバスを待ちながら、香澄はバス停に座っていた。そして、翔と出会った時のように、香澄はヒョウ柄のそのペンをクルクルと回しながら、少し飛沫を立てる。あの海の青さが空に映る感覚を覚えて、夜になれば、街は色彩を奏でることを夢見た。そう、初めてのクリスマス。恋人と過ごす、初めてのクリスマス。このヒョウ柄のペンと、その風がなければ、そう、初めてのクリスマスだったはず……。

香澄はその風に煽られると、ふと手の力が抜けて、握っていたはずのペンの重さを忘れる。

香澄は、その風に煽られたペンを拾い上げようと、バス停から身を乗り出して、そのペンを握った。そして、安堵感が来ないうちに、クラクションの勢いだけで、簡単にイケる。バス停から道路へ飛び出してしまった香澄の顔面は、その勢いの余った車のボディーに、簡単にひしゃけた。その残酷さは、言葉では言えない。そして、車もそのまま吹っ飛ぶと、運転していた男も絶滅した。何でこんなに悲しいんだろう。もう十分だ。余りにも十分だ。些細なラインなんて、ない方がましだ。

 

666

 

その年のクリスマス・イヴは、雪を忘れた。

 

666

 

「今日は、伊織の奴、彼氏とデートだって」

「オマエも彼女と一緒なんだろ?」

そう親子らしい会話をしていたのは、雷蔵と翔だった。

「親父も知ってるだろ?あの店今日が一番混むんだよ」

「なんだ、バイトかー、かわいそうに」

「でも、一応店に来てくれるし、その後一緒にどこかに出かけるよ」

「俺も、母さんと今日は賢治さんのところにでも行くかな」

「親父のプロポーズしたのって、あの店を出た後なんだろ?」

「あぁ、まぁな。あの時は、人生の山場だったなー」

「なんだそれ」

そう言って、翔は少し笑った。

「母さんと出かけたら、栞はどうするんだよ。一人じゃん」

「そうだなー、別に、未成年でも入っていいんだろ?」

「まぁ、別にいいけどさー、俺も未成年の頃からあそこにいるし」

「じゃー、一緒に行くよ。一度あそこに足を運ぶのも良いだろう」

翔が雷蔵を乗せて車を運転していたのは、その日、雷蔵の母親とそして、翔の祖母のために、少し足を運んで、病院へ見舞いに行ったからだった。

 

思えば僕の恋愛は、人見知りの繰り返しで、若さというものだけが僕を動かしていた。そうでなければ、どんな大胆な行動も、言動も、何も意志を持たず、ただ思うだけで廃れてしまう。クサの力を頼らなくなったのは、きっと何かトラウマのようなものがいつも胸の中にあって、ウェンディーの裸体や、そのママの異体が、どこかで鮮明な意識として残っているからだった。でも、今は違う。一人の女性を普通に愛して、それを不自然だとか思わない。素直に言えたりすることが、逆に僕を活性化させる。

「僕は君が好きだ」

そんな言葉って、声に出しては言わないよね。だからこそ、誰にも言わないでも、それを相手の胸に伝える。少しは大人になったかな?

もし、君が死んでしまったなら、僕は果たして君の後を追えるような愚か者になれるだろうか。もし、僕が死んでしまったら、君は果たして僕の後を追えるような愚か者になれるだろうか。息詰まって、どうしても二人の居場所がなくなってしまうようなことがあったら、僕は、君という死を選んで、二人で赤い糸を信じながら、「来世で逢おう!」なんて、気の利かないセリフが言えるだろうか。

「僕が死ぬって言ったら、君も死ぬって言うから、僕は死なない」

「君が死ぬって言ったら、僕も死ぬって言うから、君は死なない」

僕等二人で、小指と小指の間に、赤い糸をしっかりと結んだ。学生紛争なんて、もう昔の話だけれど、自殺志願者は増えるばかりだ。そんな時間の中、僕等はやっぱり手を繋いで、赤い糸を信じて、生きてみるんだ。そして、そんなカーブが人の死角を作り出して、まるで、幻想世界への入り口だった。白と黒の四次元の色彩が、まるで鮮明に脳に働く。そして、その時、香澄はその風に煽られると、ふと手の力が抜けて、握っていたはずのペンの重さを忘れる。

 

僕等、結局死んじゃったんだ。でも、これって赤い糸を証明できたよね?僕は見ていたよ、全くのスローモーションで……。僕の運転している車のボディーが、君の顔面を抉るのを。クラクションが鳴り響いたのは、僕の潰れた体が、そこから離れなかったから。僕は、君の顔面を乗り上げた後、そのまま車と一緒に確か一回転くらい、宙を舞ったんだ。そして、僕が今まで人生で見てきたものを、ほんの少しだけ見ると、僕の肺は完全に生ゴミと化していて、もう、地球の一部を吸うのをやめたんだ。そして、何時の間にか、それは完全に灰と化した。

 

赤いカルマンギアは、爆発炎上した。

 

雷蔵は、死に行く淵で、ある言葉を思い出した。

「地球は二つ在る」

確か、翔が言っていたっけ、ある老人に、そう教えてもらったと。もし、あの日、翔と出会わなかったら、こんな死には直面しなかったはず。地球は二つあるって、きっと人は二択の中で生きていると言う事なのかな?僕が今朝、この車に乗るも乗らないも、きっとまた違うストーリーが繰り広げられるだろう。もし、あの時、翔に声を掛けられてもついて行かなければ、また違う地球が在ったかもしれなかった。でも、結局、地球は一つ。何を言っているんだろう。馬鹿げた?僕はあの日、何かを拭いたかっただけだった。ムカツク奴に、ムカツクと言う感情を剥き出しにして、当たり前のことじゃないか。でも、死に行く淵で、今更何故そんなことを思う?これは、間接的に、人をたくさん殺めてきたんじゃないのか?連続殺人の犯人は、全て、ラインに敷かれた人達が被害者で、そして、加害者となり、死人と化す。動機は、寂しさで。凶器は出会い。そして死因は、慰め合い。そして、命日の合致は、覚悟と偶然。きっと、そのラインに乗ってしまった人達は、今日、こうやって命を落とすのだろう。

「あぁ、とてつもなく今、あの鼻先を掠める香ばしい匂い、あの頃に戻ってガラムが吸いたい」

そう言って、雷蔵と言う一人の犯人が生まれた。

 

 

 

 

「クサのカケラたち」

 

その死を聞きつけて、お母さんは慌てて家を飛び出した。家族の私を置いて。私は、少し素に返って、ニャーンの傍で、空を見上げていた。

「ねぇ、ニャーン?って言うか、ニャーンて言うのもおかしいか」

そう言って、あくび一つしないニャーンに向かって、栞は話していた。

「あ!また一つ、クサのカケラが飛んだ」

そう感じたのは、栞の中に息衝く、美咲の鼓動がそれを感じたからだった。

「ねぇ、翔?どうして、クサのカケラたちは、普通に死を選ばないの?」

大して、ニャーンはそれを気にも留めず、ただ黙々と、何かを吸いたそうだった。その時だった、栞の中に、全てのヴィジョンが入り込んだのは。

「不思議ね、こうしてまた逢うなんて」

台所の方から、お湯の沸く音が聞こえた。それを気にすると、栞は台所に行って、安っぽいインスタントコーヒーをティースプーンで一杯半すくうと、そのヒョウ柄のカップに入れた。そして、その熱湯を注いだ。そして、それを冷まそうと、そのティースプーンでクルクルとそれを回した。朽ちていった、クサのカケラの数だけ錠剤を入れた。私は十分に否定したんだ。でもね、君がこうしてここにいるっていうことは、それを少しだけ証明したんだよね。

「簡単に死ぬのかぁ、なんだか、少し怖いな」

それに乗ってしまった最後のクサのカケラを看取ると、テレビをつけて、三流ドラマの、三流役者の言葉を頭の中で反復させる。死は、無を連想させない。むしろ、永遠を示すのだ。黙示録の亡者達が、いっせいに笑ったら、怖いに決まっている。きっと明日は眠れない。だったら深く深く眠ろうよ。もう覚める事のない、そんな遠い寝床で。

栞は、その金属バットの冷たさを感じて、そして、動物愛護団体の銀色の手錠が気になった。そして、美咲が言った。

「愛している」と………。

真っ赤に染まったものは、全く爆発炎上した赤いカルマンギアと変わらない。

 

クサのカケラは、大いに笑った。

 

そのヒョウ柄のコーヒーカップが音を立てて倒れると、そのクサのカケラは、深い眠りに落ちていった。もう、きっと目が覚める事のない、そんな世界へ。


 

クサのカケラたち 666

 

千歳  :おいしい話に乗せられて、競売に掛けられる。そして、そのゲームの内容に死を覚悟して、そのまま死亡。小紅にこのラブソングを……。

小紅  :紀子の娘。そして、母親と同じ地でクリスマスを祝おうと、そこへ着陸。しかし、そこに溜まっていた血栓がぶっ飛び死亡。俗に言う「エコノミー症候群」に掛かった。千歳から、あのラブソングを……。

ウェンディー:翔の昔の彼女。母親を殺害後、紀子に殺される。

秀平  :真帆によって催眠を掛けられ、そして、それが千歳のギターと共鳴して、意識不明の重態。そして、そのまま二度と目を開けることなく、衰弱して死亡。

真帆  :禁じられた遊びによって、久美子と秀平に催眠を掛ける。そして、秀平の死を嘆くと、久美子の殺害を決意。しかし、久美子の禁じられた遊びにはまる。そして、地下鉄に飛び込み、死亡。

久美子 :禁じられた遊びによって、真帆に催眠を掛ける。そして、秀平の死を嘆くと、真帆の殺害を決意。しかし、真帆の禁じられた遊びにはまる。そして、地下鉄に飛び込み、死亡。

賢治  :愛の詩人。自分の描いてきたストーリーが回りの死を招いたと考える。しかし実際は、自分の死をキレイに描けないで、簡単に朽ちる。余りにも思い出達が集まり過ぎたあのバーと一緒に、跡形もなくガス爆発する。

伊織  :映像の中で息絶えていた伊織は、それを見ていたものに何を与えただろうか?それは正しい欲の使い方?何かを満たすのに、何かをきっと犠牲にしているのだろう。

雷蔵  :一連の悲しい死を長く見てきた彼は、全ての死の要因には、必ず加害者と被害者がいて、それは全てを犯す要因が全ての人に備わっていると主張する。もしあの時、翔に出会わなければ、きっと起こり得る悲しい事はなかったかもしれないのに……。それを勝手な妄想とし、朽ちる時、誤った選択をしたのだと、後悔をする。

香澄  :本当に恋をして、本当に誰かに抱かれ、そして、本当の愛はきっと生や死に導いたものを簡単に受け入れられることだと感じる。彼女はあの時気づいてはいなかっただろう、彼女を殺めたのは、その最愛なる人だったと言う事…そして最愛なる人の死を。それは愛なんかじゃないかもしれない。ただの悲しい偶然。

翔   :香澄と同じような事を考え、生きる事や死ぬ事を愛する人とならば…、などと愚かな考えを持つ。決してそれは純愛ではないのだ。彼は少なくとも、死に至る直前に最愛の人を殺めた。そして、それに気がつけて、どんな風に嘆いた?運命の赤い糸?彼はただの殺人者で、そして死刑が早まっただけ。

栞   :全ての死を確認すると、翔とまた出会うために、死を図る。それは、栞の感情じゃない。美咲。そして、その犬を殺すと、きっとまた、あの頃に戻れるんじゃないかって、ちょっと頭のイカレた、動物に戻る。