「休日」

 

 昨日の阿呆裏さんとの深酒で、僕は久し振りにぐっすりと眠る。起きたら、昼飯時も過ぎていた。

 

「日曜日かぁ」

 

 僕は特別何の予定もないその日に、カトリック教徒だったら、聖餐式にでも出るんだけどなぁ、って考えもせず、新聞を読みにコーヒーを入れた。確かに何かの儀式には要るとは思うけど、すがりたい気持ちもわからなくはない。だけど、お祈りのし過ぎは、ノイローゼと変わらない。せいぜい、一年に一回くらいは、おみくじでも引くくらいかな?

 

 僕が精神科医だったら、間違いなく教祖達に白衣を着せるね。

 

 寂しいからって、ネガティブに生きるのは良そう。ナンセンスだ。

 

 僕は、気を取り戻すと、今日一日に出来る事を考えた。まず、樹理にメールを打つことと、読みたい新刊がたくさんあるだろう、マンガ喫茶。

 

「何だか、久し振りに庶民じみた休日だなぁ」

 

 別に、普段も樹理か誰かが居るくらいで、休日だからと言って、これと言う物はないけれど、昨日の阿呆裏さんの話しから戻ってきた僕は、何だかこう言うのが新鮮に思えた。

 

 そう言えば、メールをすると言っていた樹理からメールが来ない。何だか少しムッとして、それでもそれが大切なのだから、僕は考えた挙句一言メールをした。

 

「調子はどうだい?」

 

 僕は、甘口のカレーにとても辛いスパイスを沢山入れて、水もなくそれを食べたような感じになった。別に、樹理からの返事を待つこともなく、僕は久し振りにマンガ喫茶へ出かけた。そこに行くと、久し振りだねってな感じで、そこに置いてあるスロットのゲーム機でチケットを溜めていった。僕がそこに行くと必ず飲む物がある。グリーンティーなんだけど、ここは他にない味わいを僕にくれる。ある程度チケットを溜めると、僕は完全にマンガを読むんだと言う体制になり、それに没頭した。久し振りに読んだマンガの中では、僕の知らない間に主人公が大人になっていた。少しショックだったけど、それでも何故か嬉しかった。この時、日本人で良かったと賛美する。

 

 家に帰ると、久し振りに家族で食事をしに出かけた。

 

それから、大下さんからの電話があって、少し話して、それでもう疲れたって寝たんだ。僕は、大下さんと電話で、自分の芸術においての定義みたいなのを話していた。とても悲観的で冷たい定義。僕の脳みそが砕け散った時、僕は完成される。こんな言葉を漏らしていた。

「人の死によって、完成する芸術もあるんだよ」

 

 

 

   「日記」

 

「お!いいじゃん。大分色々なツールを使いこなせるようになってるねー」

「いえいえ、これはまだ過程ですよ。これからもっと……」

 もう大分慣れたそのマウスの動きがとてもリアルだった。僕の中で一つ物が動き出していた。あれからまた、今日阿呆裏さんと話をして、決めたことなのだが、今度一緒に個展を開こうと言うことになって、その話に乗った。

 

「機会があれば、それは同時に自分を試すことの出来るチャンスになるんだよ。惜しんでちゃーいけない」

 僕はそう大下さんに言うと君も何かを出展できれば出展するべきだと、そう言った。社長は一躍プロジェクトとか言って、もうすっかりスポンサーと自分も作者としてそれに乗っていた。ただし、それを開くのも大分先の話だ。まず、僕と阿呆裏さんの詩集を出版してから、その反響を見る。その結果は関係ないんだけど、それに乗っ取って大体同じ時期にやろうと言うから、多分もうすっかり夏にはなっているだろう。

 

 その日、やっと大下さんを飲みに連れて行けると、結構色々今まで余り話さなかったことを急に話すようになった。

 

「私、ずっと日記付けてるんですよ」

「へーっ、感心だなぁー。僕も何度か試みたけれど、全て三日坊主でねー……」

「でも、私のは、完全に日記じゃなくて長く書く時は何ページか書くんですけど、それでも余り書かない時は、何行かですらすら書いて終わっちゃいますけどね」

「それでも、毎日続くなんて凄いことだよ」

「小学校の頃から書いているんですけどね、昔の字なんて読めた物じゃないですよ」

 彼女は少し笑った。

「あー、それわかる、俺は日記付けてないけど昔の文集とかあるじゃん。そう言うのふと読み返しても、何書いてあるかわかんねーもん」

「で、この話しは内緒なんですけど、あれは十四歳の頃かなぁ……丁度この時期なんですけど、毎日書いていたはずの日記に、空白の四日間があるんですよ」

「何?その四日間って」

「さぁ、未だにわからないんですよ。何でそこに何も書いていないのか。その前と後は、別に何もなかったかのように普通に書いているんですけどね。それで、親とかに聞いてみたんだけど、あ、私、里子だから、本当の親じゃないんですけど。別に何もなかったとか、友達もみんなそう言うんです」

「うーん、それは不思議だー」

「だけど、一つだけ気がかりな事があるんですよ」

「何?」

「その私の空白の間に一人の女の子が転校していってるんですよね。だけど、結局その子の消息はつかめなくて、それで、日増しにその子の顔が思い出せなくなっているんですよ」

「写真とかは?」

「それがクラス写真も気が付いたら私の家からなくなっていて、それで友達もみんな、無くしたとか……」

「それって、何だかおかしくない。まさか、全員の写真が無くなったわけじゃないでしょ?」

「そう、それで何とか写真を探したんですけど、そこに写っていたのが……」

「え、何?怖い話し?」

「うんうん、大丈夫ですよ。そんなに怖くないですよ」

「やっぱり怖いんじゃん」

「とにかく聞いてくださいよ」

「うん、聞く」

「でー、その子いたんですよ。だけど……私が思い出そうとしていた子じゃなかったんですよ。私はもっと………こう………」

「もっと?」

「彼女はもっと、激しく青ざめていてそれでびしょ濡れなんです」

「どう言うこと?」

「わかりません」

「うーん、謎だー」

「で、やっぱり、その子転校なんてしてなかったです」

「じゃぁ、どうしてたの?」

「私が求めていた答え通り、死んでいたんです」

「まじ?」

「はい、で、ある日部室の掃除をしている時に、少し思い出したんです。もうここへ来るのはよそうって」

「部室?」

「私とその子バレー部で一緒だったんですけど、そこで私見たんですよね」

「そうか」

 僕はもう、こんな話聞きたくないなぁー、とか思いながら、阿呆裏さんの話しといい、連チャンはキツイよーってな感じで、何だか僕の回り、不幸ばっかり。

「だからほら、私強くなろうと思って。あ、今のこと忘れてくださいね」

 忘れてくださいね。って、そう簡単に忘れられないだろうよ、普通。

 

「凄く胸騒ぎとかして、全然寝つけない夜とかってありますよねー」

「うん、たまにあるなー」

 この子の話しは少し気持ちに不が入っているなぁ。

「何か、薄目とか開けちゃうんですけど、それが凄く怖くて、なんかいきなり誰かがそこに立っていたら、怖いですよねー」

 そりゃー確かに怖い。確かにそう言う夜もあるけど、この後帰って寝る前に考えちゃうじゃん。

「ねぇ、赫那さんの理想の女性ってどんな人です?」

「え?理想の女性?そうだなぁ………昔は、あぁだ、こうだと、友達と話したけど、どうだろう。単純で優しい人かなぁ」

「単純で優しい人……」

「でも、どっちかって言うと、単純に優しい人かな?」

「素直に、って事?」

「まぁ、大体そんな感じ。でも言葉一つで少し変わるでしょ?」

「微妙に違うのかなぁ……」

「由紀は彼氏は?」

「いますよ」

「お、いるんだ?」

「どう言うことですー」

「いや、こんな俺と飲んでいるからいないのかなぁー、って思って」

「今一緒に飲んでいるじゃないですかぁー。彼氏と」

「え?」

 どこ、どこ、と辺りをキョロキョロして探したい自分もいたが、どう見ても二人だった。

「あはっ」

 あー、笑いやがった。大人をからかうと、痛い目に、痛い目に、会わせると言いたいところだが、本気だったらあれだし………。

「はい、写真」

 ちゃんといるじゃん、本物が。

「おっとこ前じゃん」

「もう、ずっと会ってないんですけどね、仕事し始めてから、まだ三回ですよ。二ヶ月で」

「強いのか寂しがりやなのか、どっちだ?」

「どっちも」

「どっちもか」

「大人の恋愛をしようって決めてるんです。お互いに仕事始めたばかりだから、本当に弱音吐きたい時だけ、優先にお互いに会いに行く。そう言う、大人の恋をね」

「何か、悲しいじゃん」

「なんでですー。大丈夫ですよ、慣れもあるし。それに、今が大事な時で、楽しい時ですもん」

「そうじゃなくて、恋愛事に取り決めを作ること。決め事なんて要らないじゃん。それは省いた方がいいよ。それに、独りに慣れるのは、別に今じゃなくてもいい」

「何か、大人だね」

 だって大人だもん。

「赫那さんは?彼女」

「いるよ」

「いいんですか、会わなくて」

「あ、今日ね、彼女いないの。研修とかで、どっか行っちゃった」

「いくつの人?」

「今年で二十一かな?」

「え?私よりも下なんですかぁー」

「そう、丁度、子供と大人の間かな?単純に優しい子だよ」

「あ、自分の彼女をそう言う表現するのって、素敵ですね」

「やめてよー、恥ずかしいじゃん」

 僕の胸の内は、まだメールが返って来ない樹理の方に向かって、そして、ひたすら懇願する、素敵な彼氏とは裏腹な僕がいた。

 

「今日も日記書くの?」

「日記ですから」

 

 

 

   「手紙」

 

 朝起きると、手紙が来ていた。実際には昨日届いていたんだろうが、昨日は帰ってから薄目開けようとも思わないほど、もし、そこに誰かが立っていてもどうでもいいくらい疲れて、眠かった。

 

 樹理から絵葉書が届いた。

 

「こうして手紙を書くのは初めてですね」

 何だか、あらたまっているなぁ。

「本当は、メールをしようと思ったんだけど、手紙を書くのにメールしてたら、アホみたいじゃん」

 そりゃ確かに。

「それで、この手紙が読み終わったら、メールしてください」

 それって、意味あるのかなー。

「ちゃんと、勉強しているから、安心して」

 俺は、オマエの親じゃないって。

「帰ったら、何したい?」

 そ、そりゃー、決まってんじゃん。

「寂しいからって泣いてないかな?」

 ・・・・・・・・・。

「水曜日に帰るのでよろしく」

 明日じゃん。

「それでは、あなたの樹理ちゃんより」

 はい、僕の樹理ちゃんです。うーん、手紙を貰う事はとても嬉しいのだが、手紙は一つの文化としては廃れたもんだな。って言うか、この絵葉書の写真、ただ白い花が写ってるだけじゃん。シロツメクサかぁ。

 

 まぁ、いいや、メールしよう。

 

 

   「たまご」

 

 こうして見ると、やっぱり樹理は若いんだなー。

 駅に着いた何人かの専門の生徒を見ると、その中に溶け込んでいる樹理は、全くいつもより若かった。

「おかえり」

「仕事はー?」

「仕事はー?って、おまえが来いって言ったんじゃん」

「休んだの?」

「別に休んだわけじゃないよ。さっきまで仕事してたから、早引き。それに、先週の土曜日、仕事出たから、別にいいと思うよ。それに今暇だし。あれ、終わったもん」

「何、あれって……」

「まーいいや、一つ仕事が片付いたの」

「手紙見た?」

「って言うか、見たから迎えに来たんじゃん。メールもしたし。ねぇ、あの子達みんなアナウンサー志望の子達?」

「そう、みんなかわいいことなーい?」

「うん、めちゃくちゃかわいいじゃん」

「でしょ?」

 その言葉と同時に樹理は持っていたトートバッグで僕のお尻を軽く小突いた。微妙な顔の変化は樹理には見抜かれる。

「おまえ、そのカバンで叩くなよー、壊れるだろ」

「何か今日は、オマエ、オマエって、私が居ない間に一皮剥けた?」

「あ、ごめん、え?オマエって言われるの気にする?」

「別にー、そっちの方がいいかも。なんか、男らしくなったじゃん」

 僕はただ、友達の前だったから、少し格好をつけていただけかもしれない。それから、樹理の友達も何人か迎えに来て帰っていった。そして、三人になった。

「何か、布川ちゃん彼氏が来るの遅くなるからお茶でもしようか」

「あ、俺はいいよ。別に用事ないし」

 そう言って、その布川ちゃんと呼ばれた女の子と三人でカフェに入った。独りでは家路に帰る事すら出来なくなってしまった若者達。その中に僕も混じって、今更否定することなくそれに染まった。布川ちゃん、うーん、かわいいんだけど、少しおとなしめの子だ。

「あ、布川ちゃんね、私達の一つ下なの」

「え?彼そんなに若いの?」

 布川ちゃんが私達を、僕も含めて計算してしまった。

「あ、僕は24だよ」

「あー、そうなんだ、そうですよねー」

 少し天然の入ったこの子は今年二十歳かぁ………本当に若い。確か、奈美と同い年だ。

「え、布川ちゃんは大学行ってないの?」

「違うよ、布川ちゃんは私と違って短大じゃなくて、大学行ってるの。凄くなーい?」

「って言うことは、大学二年生プラス、専門生?」

「はい、ダブルスクールなんですよ」

「すっげー。樹理も大学入り直したら?」

「私はいいよ。専門で一杯一杯」

「じゃぁ、かなり大変じゃん。凄いわー、そりゃー」

 世の中には勉強が好きな子がいるんだねー。感心だ。

「でも専門の方は、取れる学科だけしかとってないですから、卒業は、樹理ちゃんと変わらないですよ」

「へーっ。じゃぁ、別に卒業してからでいいじゃん。って四大だったよなー」

 なるほど早いうちから勉強をこつこつして、卒業と同時にアナウンサーになろうって言うのか、じゃぁ、短大出の樹理じゃ適わないじゃん。もしくは、大きなテレビ局とかに勤めたりなんかするのかなぁ。

「大変ですけどね、やりたいことですから」

 うん、それは納得。

「布川ちゃんはねー。英語も喋れるんだよー。高校の時半年と、去年三ヶ月留学してたんだって」

 妙に布川ちゃんを誉めている樹理がいるが、君は他人事ではない。

「凄いじゃん、英語喋れるの?」

「いや、喋れないですよ。大した事ないし、まだ英会話教室行ってますからね」

「いや、それが凄い。うちのなんか、見てー」

 僕はそう言って、樹理の方を見た。

「あ、私は別にFMラジオのDJになるわけでもないし、海外リポーターやるわけでもないから必要ないよ」

 開き直って見せたが、心の底でマンハッタンの高級レストランで晩餐会に高そうなドレス来て出席している自分の未来がどこかにあるはずだ。

「布川ちゃんの彼氏はDJやってるんだよ」

「あ、そんなの全然有名じゃないですから」

「君の彼氏もGDやってるんだけど」

「グラフィックデザイナーでしょ?ディスクジョッキーと全然違うじゃん」

 その半笑いは可愛いが、少しおばさんくさい言い草だった。

「え?グラフィックデザインやってるんですか?かっこいいじゃないですか」

「まぁね」

「あ、その言い方ムカツクー」

 やっぱり、若者同士の会話なんだろう。普通にある日常の会話だ。それがやっと、僕の手中にまた納まり始めている。布川ちゃんの彼氏が来た。うーん、かっこいいじゃないか、それに若者らしい。やりたい事に向かうのはいい事だ。僕もまだタマゴ、あの子もタマゴ、彼女もタマゴ。僕は最近、内側から少しずつ殻をクチバシで破ることに挑戦している。そして、一気にそれをぶち破る。きっと、もうすぐヒナに孵るだろう。

 

「私がいない間寂しかった?」

「別にー」

「うそつき」

「お腹空いた」

「何食べに行こうか」

「え、俺の食べたい物でいいの?」

「いいよ」

「じゃぁ、イタリア料理」

「私この間食べたもん」

「俺の食べたい物でいいって、言ったじゃん」

「お金ないよ」

「割り勘の割り勘ね」

「もう一声」

「じゃぁ、ワインはおごり」

「乗った!」

「食後は?」

「若いお嬢さんがここにいるんだけど……」

「え?どこ、どこ?」

 バンッ!

「いってー、だからそのカバンで叩くなよ。あぁー、49,350円がー!あぁー、よし、よし」

「細かーっ」

「で、イタリア料理って、結局何?」

「パスタとかぁ……」

「やっぱりパスタかぁ……」

「パスタじゃダメなの?」

「パスタでいいけど、イタリア料理って………スパゲッティーでいいじゃん」

「もう、ブツブツうるさいわねー。ほら、行くよ」

「はい、いきます」

 俺らしい?らしくない?そんなの関係ないかぁー。

 

 

 

   「数字」

 

 仕事を終えた僕は独りを好きになる。って言うか、樹理はバイトがある。

 

 早々に家に帰って、僕は夕飯を家で食べた。両親は僕と夕飯を供にすると言う習慣を忘れてしまい、僕がご飯を食べるとなると少し面倒くさそうにする。二人分の食事を三人分にするのだ。肉じゃがやサラダならいいが、焼き魚だと困る。肉じゃがやサラダには決まった数がない。英語で言うなら「S」を付けるか付けないかと言う問題になる。もしくは単語の前に「A」を付けるかどうか。これは深刻だ。だけどその日はあいにく、単品個数が明確なメインディッシュはなかった。

 

 その団らんの一時にお父さんが、

「そう言えば赫那、商店街に小さなバーが出来たらしいなぁ」

「え、そうなの?商店街に?」

「あー、何だかあの商店街には似合わないけど、夜は別物だからなー、若い子が結構行ってるらしいぞ」

「たしか、ほれ、おまえの同級生の女の子のお兄ちゃんだとかがやってるって聞いたけど」

「誰?」

「さー、名前までは知らないけど、隣の小学校だったしなー、一回行ってきたらどうだ」

「そうだなー、どうせ今日暇だから行ってみるよ」

 僕は夕食を済ませると夕美香に電話した。

「もしもし、商店街にバーが出来たの知ってた?」

「あのねー、久し振りとか元気?とかないの?」

「あー、ごめん、ごめん、赤ちゃんどう?」

「うーん、あんまり実感ないかな、お腹も大きくならないし」

「そう言うもんなの?で、バーの話しは?」

「赤ちゃんで思い出したんだけどさー、凄く不思議なことがあってね。十月十日ってあるじゃない。赤ちゃん生まれるまでのー。で、妊娠三ヶ月とか言うじゃーん、あれね、数えるのって難しいんだよねー」

「俺、数字苦手なんだよ、どっちにしろ」

「何か、普通妊娠してから分泌までが大体266日で、普通の人の生理の周期が28日くらいなのね。で、最後の生理の初日から数えて二週間目に排卵するらしいの。だから、その二週間の14日と266日を足して280日目が予定日なんだって。だから、妊娠何ヶ月とかも、最後の生理から数えるんだよ。知ってた?」

「知らなかった」

「でしょ?難しい事なーい」

「って言うか、数字のことはよく分からないけど、ようするに妊娠した時にはもうすでに二週間経ってるんだな?」

「あ、そんな感じ。だから十月十日って言うのは十ヶ月目の十日が予定日になるの」

「は?」

「だから、三十日を掛けることの九ヶ月に十日足すと、丁度280日になるの。でも、それでも超音波検査で今は大体正確に予定日がわかるんだけどね」

「じゃー、それでいいじゃん」

「あー!そう言うことは女性に口にしちゃーいけないよ。色々考えることもあるの。初出産や育児の不安とかあるんだからね。だから、人に優しく」

「ごめん、って言うか難しい話してるし、俺にはあんまり実感ないからなー」

「結局男の人はそう言うものだって、私の彼氏だってこういう話したって、たまに聞いてない時あるもん。でも凄いよね、元は卵子と精子が受精した一つの細胞でしょ。それがとてつもない数になって、十ヶ月後には赤ちゃんになるんだよ。凄いよねー」

 やっぱり子供が出来るっていうことは凄いことだ。神秘だね。そして女性は強くなる。こういう話を惜しみなく何の迷いもなくこの僕に話すんだもん。

「で、結婚式しないの?籍だってまだ入れてないんだろ?」

「多分、まだ正確には決まってないけど、決まったら話すからいいよ、心配しなくても。でも、披露宴は呼ばないからねー。お祝い金だけでいいよ」

「別に披露宴はいいよ。お祝い金?じゃー二万な」

「いやらしー、せめて二万五円にしてよ。それなら割れないから」

「じゃー、一円でもいいじゃん」

「ダメ、その五円はご縁がありますようにの五円なの」

「くっだらねー」

 こうやって話していると、結婚するのが嘘みたいだ。

「二次会は呼べよな」

「じゃー、幹事ね」

「えー、俺がー?考えとくよ。って言うか、バーの話しは?」

「あぁ、バーね。知ってるよ。妙ちゃんのお兄ちゃんがやってるところでしょ?」

「あー、妙のお兄ちゃんかー、めちゃめちゃよく知ってるじゃん。最近会ってなかったもんなー」

「行ってきたらいいじゃん」

「おまえも一緒に飲みに行くか?」

「私はダメ」

「何でー?」

「お酒飲めないもん。大事に触るでしょ」

「あ、そっか。じゃー、別に聡君の所だったら俺一人でも行けるな。わかった、じゃー決まったら連絡して」

「うん、わかったよ。じゃーねー」

 

 お母さんの自転車で夜道を行くと、商店街まで十分だった。商店街と言っても、そんなに大きくないからすぐにわかった。それにまだ開店した時のお祝いのお花の残骸が店の前に置いてあった。さすが地元の商店街だ。バーの雰囲気には似合わず、こう言う物だけは置いてある。ワビサビはいつだって重要だ。

 お店の中に入ると聡君の懐かしい顔があった。

「お、赫那じゃん、超おひさ」

「ほんと、ご無沙汰ですね」

「何か、礼儀よくなってるなー、それともかしこまってるのか?」

「いや、そんな事ないですけどね」

「あの悪ガキが社会なんぞに揉まれよって」

「悪ガキって……俺はただの不良少年ですよ」

聡君は、僕に色々なことを教えてくれた人だ。ストリートでの遊びは全て聡君から学んだ事だった。スケボーだとか、ダンスとか草を吸ったり、色々なこと。服も聡君に色々教えてもらって、よく服なんかも貰ったりした。ギャンブルも最初は確か聡君だった。女は違ったけど。そして、聡君に出会っていなかったら、今の仕事もしていないだろうし。社長と小出さんがまだバンドをしていた頃から聡君は社長達と仲が良かった。その切っ掛けがなければ、今の僕は成立していない。人って、どこで誰に出会うかわからないよなー。昔はこの街は余りにも田舎だったから、その世界から踏み出せない人達で一杯だった。だけど、聡君のお陰でこの街の若者も少しずつ街中に出るようになり、そして今ではおしゃれな若者達もこの街には沢山見かけるようになった。先住人意識の強かったこの街もいつしか住宅街になり、もうそんな事は誰も気にしなくなった。ここの客層も知っている人は見かけなかった、一組を除いては。

「たえ」

「あれ?赫那じゃん。どうしたのこんな所に。一人?」

「こんな所って、オマエの兄貴の店だろ。って言うか、一人でもいいじゃん」

 聡君はもう他のお客さんの相手をしていた。そして代わりに妙を見つけてしまった。

「そう言えばさぁ、さっき夕美香と電話してたんだけど、あいつ赤ちゃん生まれるって知ってた?」

「知ってるよー、そういう情報は女の子は早いの」

「で、オマエは最近どうなの。結婚しないのか?」

「まだ大丈夫だよ。意外にみんなまだしてないし」

「確かに俺等の回りは、そんなに早く結婚する奴少ないよなー。でも、そう言ってると知らない内に行き遅れてるかもしれねーな」

「余計なお世話。あ、赫那、この子ねー、友達、直子」

 よく見ると、って言うかずっと視界には入っていたんだけど、妙の向こうでせっせと何かを組み立てている女の子がいる。なんか、変なパズルみたいな物だ。よっぽど夢中なのか、紹介されたことにも気付いていないようだ。

「ねぇ、ちょっとー、直子ってー」

「え?」

「え?じゃないよー。友達紹介するよ、同中の赫那」

「あー、こんばんは。直子です。ねーちょっと、たえー、これって向きとか別にこうじゃなくてもいいのー?」

 直子はもうすでにパズルに夢中だ。

「で、今オマエは何してるの?」

「わたしー?別に普通。前と一緒の会社」

 この普通の意味はよくわからない。

「そう言えば、去年のバーベキュー以来だよね」

「そうだなー、これと言って今年は集まってないからなー。もうすぐ夕美香が結婚するから二次会で集まるんじゃない?」

「そっかー。そういう時にしかみんな集まらなくなっちゃうんだよねー。知らない内に地元の行事も減ったね」

「そう言えば、無くしたって言ってたカメラ見つかったよ」

「まじ?やっぱり赫那が持ってたんじゃん。そう言えば、和歌子と別れたんでしょ?」

「あぁ、あのバーベキューの後ちょっと経ってからね」

「何で?ほら、私は一回も同じクラスになってないから赫那と付き合ってる時以外はあんまり面識無いから知らないけど、何で?」

「何でって………」

「ほいっ、これは赫那へおごり」

 そう言って、聡君が白ワインをボトルごと僕にくれた。

「ありがとうございます」

「ほら、妙子も、それと友達も飲むだろ?」

 そう言って、聡君は僕達にグラスを用意してくれて注いでくれた。

「俺も飲んじゃおーっと」

「ほいっ、乾杯」

 少し話題がそれた。和歌子の話は別に今更たいしてする必要もない。

「ねぇ、赫那とお兄ちゃんゲームするー?」

「何の?」

 妙が渡してきたのは裏表合わせて三十二個のマスに、一から八までの数字が四つずつランダムに書いてあって、それが自由に動くように間に三本切込みが入っている。

「じゃー、お手本ね」

 そう言って、妙は一を四つ揃えて見せた。適当に書いてあるようで実はちゃんと並んでいる数字をいくつかに折ってとにかく数字を合わせればいいと言うものだ。これが意外に難しい。答えを知ってしまえば実に単純な物なのだが、ゲームやクイズはいつだってそうだ。

「二人とも頭硬いんじゃなーい?おっさんだよ、おっさん」

「うっさい!」

 二人ほぼ同時に言った。もう半ば二人とも諦めていた。

「できたー!」

 そう声をあげたのは直子だった。何だか滅茶苦茶笑っている。

「あー、もうヤメヤメ。そっちやらしてよー」

 そう言って聡君は、今度はそっちのパズルに手を出した。

「もうーっ、妙の持ってくるのいつも難しいんだもん」

「って言うか、おまえ等いつもこんな事してるのか?」

「こんな事って、いいじゃんねー。コンパのネタにもなるし」

「じゃー、俺が問題出してやるよ」

「いいよ」

「産婦人科に行きました。丸渕メガネを掛けた黒いヤギのお医者さんが言いました。「あなたは妊娠三ヶ月です」って……」

「ちょっと待った。ヤギのお医者さんだから、実は「メェ〜」って言ったとかそんな落ち?」

「うるさい、黙って聞けよ。そんなんじゃないって、あほか、おまえ。じゃー、別に人間のお医者さんでもいいよ」

「わかった、わかった」

「お医者さんに行った日が四月一日とします………。ねぇ、エイプリルフールが落ち?とか突っ込まないの?」

「だって、黙って聞けって言ったじゃん。わかった、じゃー、エイプリルフールが落ち?」

「違うわ、バカ!」

「むっかっつっくー!」

「赤ちゃんが生まれるまでを十月十日としたら、予定日は?」

「ちょっと待ってよー、三ヶ月なんだからー、七ヶ月と十日を足して………」

「足して?」

「は!元旦早々やったってことー?」

「そんな事はどうでもいい。って言うか、それ既に違うし」

「え?じゃー、十月十日じゃないのー?」

「はい、ブーッ!」

「うっそー、じゃぁー、今の知ってる限りじゃわからないわ、答え教えてよー」

「嫌だね。正解は、夕美香に聞けよ、お祝いの言葉ついでに。長々と教えてくれるぞ、色々な事。オマエもそろそろそういう知識いれといた方がいいぞ、いずれ時期が来るかもしれないんだからな」

「じゃー、電話してこよー」

「はやー」

 そう言って、妙は外に電話しに出ていった。

 

「まだやってるんですか?」

 まだ聡君は懲りずにパズルをやっている。

「これ、絶対に揃わないって。もうやめー」

「そう言えば、社長や小出さんは知ってるんですか?お店出したの」

「小出さんは来たよ、初日にね。あ、でも加賀見さんはまだ来てないよ。って言うか、連絡してなかったから一応小出さんには頼んだんだけどなー。加賀見さんから聞いてないの?」

「社長、別に何も言ってなかったですから多分知らないと思いますよ。明日、僕が言っておきますよ」

「って言うか、まだオープンして1週間も経ってないからなー、いつでも暇な時に来てくださいって伝えといて。それにオマエが加賀見さんのこと社長社長って言うから、なんか遠くなったような感じがするだろー」

「もう、加賀見さんって言うより、社長って言ってる方が長いですからね。癖って奴ですよ」

「ふーん、何だか色々変わるなー、加賀見さんのあのリーゼントが懐かしいよー。即行解散しちゃったけどな、あのバンド」

「俺も見たかったなー、俺が最初に会った時には、もうシェイカー振ってましたからねー」

「それが今や小会社の社長かー。人ってわからないよなー。俺も一緒にシェーカー振ってたんだよなー。まぁ、俺はそのまま定着しちゃったけど。まぁ、店構えたから社長と言えば社長だ。会社じゃないけど」

「バイトいないんですか?」

「今のところいないなー。高校の時の連れがたまに入ってくれるけど、そいつも仕事あるし。後は忙しくなったら妙が料理作ってくれるから何とかなってはいるけど。一人くらいは正規のバイト入れたいなー。で、隣店舗空いてるじゃん。調子良ければ、そこの壁ぶち抜こうかと思ってるんだけどね、そうしたらメニュー増やして人も増やそうかなーって。あ、そうだ、赫那の絵飾りたいんだけど、なんかちょうだい」

「あ、本当ですか?全然OKですよ。何なら、店のチラシ作りましょうか?」

「まじで?じゃー適当にお願いするよ。超かっこいいか、超ダサい奴のどっちかね?」

「じゃー、二通り描いて来ますね。もしテレビとか置くなら、CGのスクリーンセーバー作ってそれずっと流しておいても面白いんじゃないです?」

「おー、それいいねー、って言うかテレビ沢山買わなくちゃ。一個じゃカッコつかないだろ?今は金ないからなー」

「じゃー、時間空いた時に作っておきますよ、一応。どっちにしろ、個展やるんでそれ用に作ろうかと思ってたんですけどね」

「この店にだったら、適当に色々な物置いていっていいから、イベントの広告とか、作品とかそういうの歓迎だから」

「あ、じゃー、そろそろ行きますね。なんかそう言う話していたら、俄然やる気が出てきましたよ。なんか、描きたくなってきた」

「おー、加賀見さんによろしくなー、いつでもお待ちしてますって。オマエもちょくちょく来いよ」

「はい、あ、ワインご馳走様でした。それじゃー、おやすみなさい。あ、直子ちゃん、じゃーねー」

 僕はそう言って聡君の店を後にした。入り口を出たところで座りこんで電話をしている女がいる。妙だ。こっちに気が付くと電話に向かっていそいそと喋って、そして電話を切った。

 

「夕美香だろ?電話切ることないのに」

「あー、丁度話し終わる頃だったから。で、何?帰るの?」

「あー、そろそろ帰ろうかなーって……多分、また来るよ。よくここにいるんだろ。手伝い兼ねて」

「そう、手伝い兼ねて。それに暇だしー。いいよ、ここで働いてたらきっと出会いあるはずだし。上等じゃん」

「頑張れよ。おまえならいい出会いあるってー。顔は悪くないんだし」

「そう、顔はねー。でも、正確がねー」

「あ、自分で言うの?って言うか、直子待ってるんじゃねーのー?まー、他の問題またやってたけど」

「そうだ!じゃぁ、また来てよ」

「おん、わかった、じゃーなー。おやすみ」

「あ、そうだ、十月十日の謎は解けたよ。いい勉強になったよ。後は仕込むだけ」

「勝手に仕込めー、じゃーなー」

 ふらふらとほろ酔いで自転車。家から十分の距離にいい店が出来たなー。

「あれ?五月って三十一日まであったっけ?」

 僕は創作意欲を燃やして家に帰ると、重大なことに気が付いた。パソコン、大下さんに貸してたじゃん。今日と言う日に湧いた創作物は、今日しか表現できないかもしれないけど、まぁ、いいかー、明日それを覚えていたら、それは心に残るくらい良い物かもしれないから、明日に賭けてみよう。

 

「そうかー、あれから十年かー………」

 

 

 

   「縁日」

 

「姉ちゃん、お小遣いちょうだい」

 僕はその日、書道教室から帰るとお姉ちゃんにそうお願いした。あれはお姉ちゃんが地方の大学から久し振りに帰って来ていた時だ。もう義兄さんと出会って恋をしていた頃だろう。

「何、赫那、神社に行くの?」

「うん、で、お母さん達もう先に出かけちゃったから、お小遣い貰いそびれちゃって」

 それはもう十年前、僕が中学二年生の夏だった。書道教室の先生がお父さんの友達と言うこともあって、僕はそこで書道を習い、ついでに小学生に字も教えていた。お姉ちゃんも高校を卒業するまではそこに通っていた。

「赫那、そういえば昨日母さんと買い物している時に見たよ。誰、あの子、彼女?かわいい子ね」

「そ、そんなんじゃないよ、たまたま図書館で会ったんだよ」

「へーっ、たまたまねー。あんた、図書館なんかに行く子だったっけ?」

「いいからお金ちょうだい」

「わかった、じゃー、五千円ね。後で母さんに請求しておくから大丈夫」

「姉ちゃんは行かないの?」

「私は夜になったら友達と行くから、後で会うかもね」

「じゃー行ってくるよ」

 リリリリリーンッ!リリリリリーンッ!

「ちょっとー、赫那電話とって」

「はい、森川です。あ、恭子?うん、うん、うん、ごめん、今日他の人と行くから、うん、じゃー」

「誰?恭子ちゃん?今年は一緒に行かないのー?毎年一緒に行ってるのに」

「あ、今年は友達と……」

「あれ?夕美香ちゃんは?」

「夕美香も今年は行かないよ。それに最近あいつと喋ってないし」

「何?変な意識でもしてるの?」

「別にそんなんじゃないよ」

「あー、わかった、昨日の子と行くんだー。やるねー、あんた。デート?」

「だから、友達と行くんだってばー。佑だよ、佑」

 僕はビーチサンダルで真夏の中、自転車を漕いで走っていた。夏祭りは、田舎町に住むあの頃の僕達にとったら、大イベントだった。僕は、少しずつ高鳴る胸を押さえて、それでも有酸素運動を続けている僕は、激しい鼓動を押さえることは出来なかった。夕美香の家を過ぎ、恭子の家を過ぎ、佑の家を過ぎ、公園に着くと、その子は待っていた。

「杉崎、ごめん、待った?」

「うーん、今来たところ。それにしても暑いね」

 木陰に入っても、風が吹かなければ何も冷めないそんな日に、そんな僕等は夜空に花火を見たいって思う。

「六時半過ぎたのに、まだこんなに明るいね」

「もうちょっとしたら、少しは涼しくなるって。とりあえず、行こうぜ、乗れよ」

「あ、歩いていけばいいじゃん。私重いよ」

「いいよ、ゆっくり行くから。別に恥ずかしがることないじゃん」

「恥ずかしいとかじゃなくて、いいの?重くても知らないからね」

「余裕」

 アイスキャンディーの冷たい記憶。小さな子供にあげた金魚。いつかは割れてしまう風船ヨーヨー。懐かしいヒーロー達のお面。食べきれない甘酸っぱい林檎飴。ラムネの空き瓶。道端に捨ててある安物のうちわ。石畳に響く下駄の音。

 

「あれ?和歌子。あ、森川も一緒じゃん」

 苗字でよそよそしく僕の事を呼ぶ夕美香がいた。

「やっぱりそうだったんだー」

 その頃余り仲良くなかった妙もいた。そう言えば、何で名前で呼ぶことに抵抗を覚えたんだろう。

「あれ?後藤、佑は?」

「知らないよ。森川と一緒だって思ってた。恭子ちゃんと一緒なんじゃない?」

「そっか、じゃー、俺達行くわ」

 案の定、佑は恭子と来ていた。だけど、会わないように自然と避けてしまった。

 提灯の周りを踊って回るおじさんやおばさんを横目に、僕達は境内の夜道を少しそれた。ヒンヤリとしたのは僕の生唾と胸の中で、唇の感触がどうだったかなんて思い出せない。果物の味に例え切れなかった僕は、少し照れた。虫の鳴き声と蛙の鳴き声と、遠くで聞こえる倭人のざわめきが妙な静けさを作っていた。

 和歌子との恋は中学三年生になって間も無く終わった。理由はクラスが一緒じゃなくなったからだ。お互い変な意識をしてしまって、そう、自然消滅と言う中学生に有りがちな結末だった。三年生になって、妙と同じクラスになった。席も隣同士になって、普通に喋るようになって。修学旅行の時、妙と仲良かった子から告白された。僕は、それを断ることも知らず、しばらくその子と恋愛をした。その恋は余り続かなかったんだけど、廊下ですれ違った和歌子は髪を伸ばし、少し大人になっていた。でも、僕の目を見ることはなかった。

 高校に入ると、大体地元の悪巧み連中は確定してきて、お酒を持ちよって、煙草を吸いながら花見やバーベキューなんかするようになり、妙が連れてきた夕美香が僕の友達を好きになって、そして恋の話をするようになった。僕は、昔の頃のように夕美香と色々な話をするようになり、夕美香にも彼氏が出来た。それから地元の集まりは年々減っていったんだけど、僕は聡君に出会い、加賀見さんに出会い、違う世界を広げていったんだ。

 

 僕が高校二年生になったばかりの頃、恭子が僕に電話をしてきた。

「子犬いらない?」

 僕はとにかく公園まで行くと、恭子は子犬を抱いていた。子犬にしてはでかいと思ったけど、余り子犬の尺度を知らなかった僕は、それも普通だと思っていた。

「名前決めたの?」

「まだ」

「じゃーねー、武田」

 僕は、恭子の家の階段を上がっていた。その傾斜はやけに鈍角だった。

「今日は誰も居ないんだな」

 その言葉に恭子は黙りこくってしまった。僕は積んであった雑誌に気が付かないでいると、それを蹴飛ばしてしまった。それは部屋中に散乱して、もうそこは表紙のモデル達が散乱したのと同じだった。そのモデル達は、一斉に僕の方を見たかのように冷めた目をしていた。

 ぼくは初めて指を入れた。

 武田は一ヶ月で二倍、三ヶ月で三倍にもなった。

 高校を卒業する頃、恭子はもう僕の女ではなかったけど、彼女は花束をくれた。恭子以外の女性が武田を散歩することは出来ないだろう。

 卒業すると、僕は専門学校に入って、デザインの勉強をした。僕は、街角でギターを弾いて歌っていた。そこで一人の女性に出会った。

 その女性はコーヒーミルで豆を砕く。

 僕は若さ故の過ちを犯すと、やがて珈琲は苦い物だって思い始める。だけど、苦いと言うのは味覚で、珈琲はコーヒーだった。専門学校を卒業すると、花束が家に届いていた。

 二十歳になると僕は成人式に出席した。杉崎和歌子と再開する。もうその頃の街並みはあの頃の田舎町ではなかった。それから、何かが蘇った。その年の夏、僕達は夜祭に出かけた。地元の噂は早い。妙から電話があって、

「女は敏感なのよ」

 二十二歳に別れが来て、二十三歳で出会いをする。夏も暮れかかると、僕は一つ年をとる。

 僕の思い出達は現実的に見て、押入れの中で黄色い紙袋の中に形として残っていた。僕はそれを燃やした。

 もうこんな時間かぁ。明日も俺の想像力をかき混ぜる。

 

「もしもし、俺だけど、あ、うん、ごめん、寝てた?あ、よかった。うん、おやすみ。うん、それだけ」

 いつか僕がお盆に帰郷すると、小さな手を引いて、石畳の上を歩いているんだろうね。

 十年と言う月日、僕は人並みに急いで生きてきただろうか。

 

 

 

 

   「青過ぎたもの」

 

 余りにも大きな希望と言う奴を両手に抱えて、僕はズボンを履いた。

「おはようございます、社長、小出さんから聞いたかもしれないですけど、聡君いますよねー。で、最近会わないと思ってたら、地元戻ってきてて、今バーを開いてるんですよー」

「え?まじで?聡かー、で、赫那はもうそこに行ったのか?」

「はい、昨日行ってきました。で、ぜひ加賀見さんも来てくださいって、聡君言ってましたよ」

「じゃー、拓朗誘っていかないとなー」

「あ、なんか、小出さん初日に行ったらしいですけどね」

「あ、そうなの、まー、どうせ行くとしても、あいつか、赫那だしな、今度暇を見つけていこうか」

「はい」

「あ、別に今日でもいいなー。拓朗に電話でもするかなー。で、オマエはどうだ?」

「あ、僕は今日ちょっと、あの、用事が……」

 僕は、昔のものを掘り出して、作ったスクリーンセーバーを眺めていた。単調に動く、電子回路的パイプを流れる、その生き物。

「あ、由紀、そう言えば、PC買う目処たった?」

「あ、今週末にでも見に行こうかと思うんですけどねー、何を買おうかー……」

「あ、ここに業者が持ってきた、新しいPCのカタログあるから、後で見ておきなよ。はっきり言って、何を買っても、余り変わらないと思うよ」

「そうだとは思うんですけどねー。後は、あれですよ。デザインツールを買ったり、そう言ったのでお金が掛かりそうで」

「あ、大丈夫、そんなの俺の持ってる奴勝手に入れちゃえばいいんだよ」

「でも、それって違法ですよねー?」

「まぁー、違法だけど、別にばれないって。それに、それを売るわけじゃないんだし。えっと、たしか、学校とか会社は、一枚のロムから沢山の機械にインストールしても良かったような気が………」

「本当ですか?」

「いや……多分ダメだと思う。まぁー、あんまり気にするな。で、買うなら普通の電気屋より、業者に直接頼んだ方が安いから、性能だけは電気屋とかで見て来た方がいいかなぁ。あ、電気屋なら最近夜遅くまでやってるでしょー、大型店なら別に平日でも行けるんじゃない?」

「じゃー、明日あたり見てきますよ。って言うか、どっちにしろ週末ですけどね」

 由紀の空想画は、日増しにカッコ良くなっていった。独創性の探求物、例えるなら老婆のレイプ未遂。

 

 樹理は、研修の後だったので、今週末は学校が三連休だった。僕は煙草を吸ってビールを買って戻ってくると、丁度相手チームの攻撃が終わっていた。

「はい、ビール。なんか、ヤキソバちょっと時間掛かるって言ってたから、フランクフルト買ってきたよ。お腹空いたら別に試合終わってからどこか行ったっていいじゃん」

 首位攻防戦のチケットを手に入れたのを聞いたのは昨日の夜だった。レフトスタンド側の外野席に座っているのはそこに指定席があったからではなく、僕のひいきしているチームが必然的にアウェイだったのだ。樹理は特に決まったチームが無いので、別にそれにも快く了承してくれた。万年最下位のチームって気持ちがいい。それも首位攻防戦なんてやっているから、奇跡なんだとか言われちゃって。

 ドームの大きなスクリーンに攻守の入れ替わりの間に僕達が映った。

「ちょっとあれ見て」

 そう言って、気が付かなかった僕は樹理が指を指した方向を見ると、そこには樹理が丁度指を指した形で映像になっていて、僕の慌てた顔がとても大きく映っていた。

「おー、すごいじゃん」

「ねぇー、これってテレビにも映ってるのかなぁ?」

「さぁー、CM中だから映ってないんじゃない?」

「なんだー、そうなのー」

 そう言うと、そのスクリーンを見ていた僕達の絵が、またそこに映し出されて、パッパパーン!と言う音楽が流れた。

「本日のベストカップルです」

「うそー!」

 突然、回りの席に座っている人達から拍手が巻き起こった。

「やったねー!」

 そう言う樹理もいたが、これって、もしお忍びで来てたらどうするんだよ。俺と樹理が普通の恋人と言う証拠はどこにもない。もし僕に違う奥さんや恋人がいて、たまたま来ていたらどうするんだよ。兄弟って事も有り得るんだぞ。って言うか、別にいっか。

「チケットくれた人が、今日のアナウンサーだからスクリーンに映った瞬間に、私達に決めたのかもね」

「そんな事って、アナウンサーに決めれる事なのか?」

「わかんないけど、ウグイス嬢だって私の先輩だし、結構関係してる人多いんだよね、今日のテレビ局だって、私がバイトしているところだし」

「じゃー、今度アナウンス室からとか見れないの?」

「私は見れると思うけど、赫那は関係者じゃないからねー、無理かもね」

 見に来た人からすれば、乱打戦の方が盛り上がるとは思うんだけど、今日の試合は投手戦になってしまった。野球に余り興味のない樹理には退屈な試合だろう。

「点が入らないから、面白くないだろう」

「うーん、良くわからないけど、試合より私は雰囲気楽しみ派だね」

 と、突然、どよめきが湧いて、白い玉が一瞬空に舞って消えたかと思うと、僕達の回りがそれよりもっと大きな声をあげて、僅か四メートル手前ぐらいの所で、再び白い玉が姿を表した。ホームランだ。そしてそのざわめきは一丸となって、今度は一つの歌を歌い出した。

「わー、凄い、ホームランだよ」

「今日はこれで決まりだな」

 そのまま結局それが決勝点となり僕の応援しているチームが、単独首位になった。そして、その球場の中にいた、凄い人達の塊が、いっせいに最寄の駅まで歩き出した。僕達は、陽気になり過ぎて、みんながみんな応援歌を歌いながら駅まで歩いている。すると突然。

「なんだオマエー!」

 振り返った時には、一人のオッサンが殴られてた。そして、原因もわからないまま、その喧嘩は広がっていった。多分、どうでもいい理由なんだろうが、喧嘩をしているのは勝ったチームのファンと負けたチームのファンだろう。

「ちょっと樹理、ここ動くなよ」

 僕はそう言って、お酒も入っていたせいか、その中に割って入っていった。僕の顔に一発いいのが入ると、僕は何年かぶりに血が上り、そのまま誰かを殴りつけていた。それはもう男だけでなく、女の子から子供までみんな巻き込まれてしまって、泣いている人達で一杯になった。何人かの警備員がいっせいにその場に駆けつけると耳を劈く笛の音だけが響き、次第にその場所も冷めていった。僕のは顔を拭うとその血に気がついた。

 

 樹理の姿が見えない。

 

 警察もそこに駆けつけて、警察は誰をしょっ引いていいかも判らないほどになっていたから、とにかく顔などに怪我を負っている人から順に取り押さえていった。僕は、自分も血を流しているから、やばいと思ってそこから逃げた。救急車が来ると、泣いている女の子の声が無性に耳に残って、それが居た堪れなかったが、それはもう僕の知るところではなかった。駅とは反対方向の方に僕はいた。僕は喉が乾いたので自動販売機でウーロン茶を買うと、それをごくごくと大きな喉の鳴りで三口ほど飲んだ。そして煙草に火をつけて携帯電話を取ろうとズボンの後ろポケットに手を入れると、そこには携帯電話なんてなかった。

 僕は、慌てて樹理の携帯電話の番号を思い出そうとしたが、近年携帯電話のメモリーに頼りすぎていたせいか、仕事の人以外は手帳にそれを書く事も忘れていた。そして、自分の携帯電話の番号も思い出すことが出来ずに、何だか、人って本当に退化して行っているんだなぁーって、つくづく思った。仕方なく、最終的には絶対に一緒になれることが出来る、自分の車まで向かった。駐車場がないことがわかっていたから、二駅前から電車で乗ってきた。そして、それを同じ駅の数だけ戻った。

「樹理」

 僕はそう言って見つけた樹理と、自分の車まで走ると、樹理は泣いていた。

「ごめん、携帯なくしちゃって」

 樹理は僕の顔を見ると、不思議そうに僕の顔を見て、そしてまだ泣き止まない。そうだ、僕の顔は殴られたままの顔だったんだ。そして、樹理は何故か僕を抱きしめないで、僕のお腹を殴った。

「いたっ!だから、ごめんって」

 そうしたら、樹理は少し笑ったような感じになった。でも、顔は良く見えない。

「あのねー、私、あの後、赫那とはぐれてから、とにかく携帯鳴らしたのね、そうしたら私のカバンの中で鳴ってるんだもん。泣こうか笑おうか迷ったんだけど、その時はちょっと笑えなくって、それで全然来ないから、泣きたくなって泣いてた」

「え?携帯って樹理が持ってたっけ?あー、そうだ。邪魔だから俺が勝手にカバンの中に入れておいたんだ。あー、忘れてたー。いやー、ごめん」

「って言うか、大丈夫、顔。血が出てるけど」

「あー、こんなの平気。って言うか、まさかあんな事になるとは……」

「殴ってたでしょ」

「うん、殴っちゃった」

「約束して。もう人殴らないって。私怖くなっちゃうからね」

「あー、もちろん絶対、樹理には手を上げないよ。もし、樹理に手を上げる奴がいたら、俺がそいつ殴ってやる」

「ダメ、それもダメ、誰も殴っちゃダメ。約束」

「わかった、約束するよ」

 樹理が泣いた。しかも、怖くなって泣いたんだ。怖くて怖くてどうしようもなくて。それって、まだ僕が熟すことのない果実だからだ。僕は約束した、早く色付くために。早く枯れる為に。

 

 樹理の家に行くと、僕は無理やり顔を洗うように言われて、少し痛く滲んだが、我慢して顔を洗った。バンソーコーが勲章だった頃の自分とはもう違うのだ。

「手紙、書いて」

「何の?」

「何でもいいから、私に手紙を書いて」

 そう言って、便箋とサインペンを持たされると、僕は静かなその部屋の中手紙を書いていた。樹理がシャワーから上がってくると、

「書けた?」

「あ、うん、一応」

「はい、封筒」

「まさか、出してくるの?」

「そう、そのまさか。切手は自分で買ってね。コンビニで売ってるから」

 僕は宛名を書くとそれを持って外に出た。煙草に火をつけると、コンビニまで歩く。僕は、黙って投函した。

「お帰り。お腹空いたから何か買ってきてもらおうと思ったら、携帯まだカバンの中にあるじゃん」

「あ、後で買いに行くよ」

「後でって、あ、ちょ、ちょっとー」

 僕は今日、闘争本心と言う物をありったけ出したのか、動物になれた。樹理は生理前だったのか、恐怖心から泣いた事からなるか、動物になれた。

 付けっぱなしにしたニュースでは、今日の乱闘事件がやっていたけれど、果てしなく上に昇りたい僕達の耳には届いていなかった。そして、そんな事なんてどうでも良かった。

 

 次の日。僕はいつもの様に新聞を読んだ。そこにはやっぱり昨日の乱闘記事が載っており、僕が痛みを覚えたのは、小さな女の子が、足の骨を折る重傷を負っていた事だった。あの時泣きながら救急車に運ばれていった少女がそうなのかなぁ。顔を見ていない事が唯一の救いだった。そう考えた僕は、卑怯者だった。

 樹理は朝からバイトだった。樹理は今朝、自転車に乗ることが出来たのだろうか。

 

 

   「雑食動物」

 

「あ、由紀ー、今日は急だけど、外に出るぞ」

 僕はそう言って、昼過ぎまでに今日の仮題を済ませておく様に言っておいた。せっかくの土曜日だって言うのに、樹理がバイトでは仕方がない。研修に行っていた分の遅れと、昨日野球でバイトを早く切り上げてきたのだから仕方がない。だから今日は、大下さんにも色々として上げなければ、仕事の先輩として。僕の顔の怪我はもちろんみんなに指摘されたが、新聞のその写真を見せるとなにも言わずにみんな納得していた。昔はちょくちょく喧嘩して、そんな顔で出社していた頃もあったからだ。

「いってきまーす。皆様良い週末を。あ、大下もそのまま連れてって、今日は戻りませんから」

「変な所に連れていくなよ。日にちが変わるまでには帰すんだぞー」

 そう言って、また社長はセクハラじみた事を言っていた。

「さて、まずはPCでも見に行くかー、その後はちょっと付き合ってもらうけどね」

「どこかいいところにでも連れて行ってくれるんですか?今日土曜日ですよ。ひょっとして、彼女まだ研修中?」

「まぁ、いい所と言えば、いい所だな。あー、彼女ね、もう帰ってきたよ。じゃなくちゃ、昨日野球見に行ってないって」

「あー、昨日彼女と行ったんですか、凄かったですね、昨日。で、その傷からすると、赫那さんも喧嘩したってことですよねぇ」

「あー、彼女に怒られちゃったよ。人は殴っちゃダメだって。まー、当然だけどな」

 そう言いながら、僕達は歩いて国道沿いまで出た。街中を走る国道沿いには大きなお店が多い。そして、値段も、競争相手が多いからとても安い。そして、駐車場もたくさんあるから、別にお店を利用してなくてもとめておいて文句を言われることも少ない。

「でー、カタログ見といた?」

「あー、はい見ましたよ。でもあんまりあれ見てもどれも同じに見えて、だからやっぱり現物見ておかないと」

 お店に入ると、除湿が効いていて、とても良い環境になっていた。電化製品は知らない内に進化している。ある程度現物を見ていると大体品定めが完了して、そして大下さんは洗濯機を見ていた。

「洗濯機ないの?」

「そうなんですよ、引っ越したばかりで余りお金なくて、今月買おうかと思ってたんですけど、PC買っちゃいますからね。一ヶ月お預けです」

「じゃー、今はコインランドリー?大変でしょー?」

「すぐ横に銭湯があって、そこにコインランドリーがあるからそこまで不便でもないですよ」

「お風呂は?」

「お風呂はあります。でも銭湯に行くことも結構ありますね。その方がさっぱりするじゃないですか。あんなうちみたいに狭いお風呂よりは。それに、サウナ好きなんですよ。後お風呂あがりの生ビール」

「何だか、生活感があっていいなぁ。俺は家にお世話になりっぱなしで、一人暮しもしたことないから、自分の下着すら洗ったことないよ。たまにお布団干してるけどね」

「あー、私お布団干せないんですよ。出かける時に窓閉めなくちゃ危ないし、それにベランダないんですよね、せいぜい鉢植えが置けるくらい。羨ましいなー、お布団干せることが喜びですよ」

「で、決まったんでしょ?」

「あ、はい、もう決めました。頑張ってローンで買います」

「ねー、ちょっとあれ座ってもいい?」

 僕はそう言って、マッサージ器の上に腰掛けてぐうたらしてみた。

「どうです?気持ちいいですか?」

「あー、最高。至福の一時だね」

「私も座っちゃお」

 そう言って、僕達は十分ほど並んで置いてあったそれに座っていた。そこに店員さんが来て、

「あ、奥様、先ほどのパソコンですけど、あの、一応業者の方に問い合わさせて頂きまして、一番お安いので見積もりを出しましたが」

 そう言って、店員さんが大下さんに見積書を渡した。

「あ、主人の方にお願いします。私では余りお金のことはわかりませんので」

 そう言った大下さんに、店員は僕にその紙を渡した。僕はその紙に書いてあった値段と、頭の中にあった業者のカタログの値段と比較すると、店員に向かってこう言った。

「あ、そうだ、来月洗濯機も買い換えようかと思うんだけど……一応他の店も回ろうかと思っているんだけどね、どうせなら一つのお店で澄ませたいし……」

 そう言うと店員は、店長と話をしてきます、と言って行ってしまった。

「誰が主人だよ」

「だって、奥様って言われたんですもん。別にいいじゃないですかー」

「まー、それで良かったと思うんじゃないかなぁー。新婚って思われたって事は、電化製品買っちゃうかもって事だし。結構安かったよ。業者と変わらないし、別にうちの会社は大量に買うわけじゃないから、そこまでひいき見ることないし、電気屋さんの特権は、配達してくれるからね、ただで」

「で、洗濯機も買うからもっと安くしてくれれば、儲け物って事ですよねー」

「そう、そんな感じ」

 そこに店長がやって来た。

「いやー、ご主人、毎度うちをひいきにしてもらってありがとうございます。店長の橋本でございます」

「あー、どうも森川です」

「えー、失礼ですが、ご結婚されてどのくらいで……」

「まだ半年です。見ての通り若いですからねー、僕達。それで、まぁ、今はパソコン流行っていますから、思いきって買っちゃおうかなー、何て話してたんですよ。洗濯機とかなんですけどね、結婚してもお古ばっかりで、だから、少しずつ新しい物に変えて行こうかと………」

「そうですか、そうですか、それでしたら、私共もかなり勉強をさせて頂きます。先ほどのパソコンの見積もりですがね、来週から私共消費税還元セールなんて言う物をしまして、まぁー今ご購入頂けるなら、何とかその辺をちょちょっといじらせて頂きますが」

「さすが店長さん。それでですね、こちらも少し苦しくて、一括で買うというわけには……」

「あー、それでしたら、まだまだ色々とお安くする方法がありまして………」

 それから、お互いを探りながら、何とか洗濯機まで辿り着いた。そして、僕がこれなら納得と言う所まで来ると、大下さんに買うことを勧めた。

「それでは、お支払いの方なんですけれども、本日御用意して頂くものは、印鑑とカードの方なんですが、お持ちで?」

「はい、確かに、それではカード会社の方に問い合わせてもらいますので、少々お待ち下さい………ん?」

「どうかしました?」

「あのー、こちらお名前の方が大下様になっておりますが。ご本人の物ですよねー?」

「あ、それ結婚する前に作りましたので、まだ名前が変わっていないんですよ」

「あ、そう言うことでしたか。それでは、少々お待ち下さい」

「面倒くさいから、夫婦別姓だとか言っちゃえば、どうせ後で住所とか名前とか書くんだし、それに印鑑も大下だろ?」

「あ、そうか、って言うか、別に見積もり出ちゃったんだからバラしてもいいんだけどね」

「じゃ、洗濯機買ってからバラそうよ。その時は俺も来るから、店長の騙された顔が見てみたいし」

「でも、夫婦でも銀行印とかって、苗字違ってもいいんだよね。それに下の名前でもいいし」

「あー、そうなの?俺、その辺は良くわかんないなー」

「確か、一人暮しする時に必要になるからって、色々話し聞いたことがあるけど、凄い適当」

「まー、銀行とかカードは個人だから、結婚してるとかあんまり関係ないしな、それに新婚って言ってあるから、多分大丈夫だよ。それに店長なんか凄腕っぽいんだけど、間が抜けてそうだし」

 案の定、それからは何の不都合なく事が進んでいった。そして店を出ると、

「私、こう言うゲーム感覚の好きなんですよ。特に日常の中にこう言うのがあるとドキドキしますよねー」

 日常にありふれているゲーム。そう言うのって、下手すれば犯罪もそうなんだよなー。

「あれ?あの車って、赫那さんの車と同じ車ですよねー?」

「あれ、俺のだよ」

 僕は今朝、あらかじめ車をここに止めておいた。この後の用事のために公共交通機関を使うのが苦痛だったからだ。

「今から行く用事って言うのが、電車とかで行くと遠いんだよ」

「え?どこ行くんですか?」

「海上国際展示場」

 

 僕は車を走らせると、勢いよく埋立地まで走った。海の上に台地を人工的に作るということは凄いことだと思う。だけど、人が進化をしなくちゃいけないって事は、そう言う事じゃないと思う。残りの七割の海をいかに使うって言うことは、この後の人口増加に備えて土地を増やすのではなく、僕達は海に帰れるようにならなくちゃいけない。多分、人口増加の方に人間の身体的進化は追いつかないんだけどね。よく人口増加対策とか、景気回復策とかを耳にすると、戦争すれば問題ない。とか心無い人達は言っているけど、それって、動物として進歩ないよ。

 会場に付くと僕は携帯電話からその人を呼び出した。

「こんにちは、こちらうちの大下です。で、こちら僕と新しく仕事を組む阿呆裏さんです」

 そう言って、僕はお互いを紹介した。

「こんにちは、よろしく」

 そう言って、阿呆李さんは大下さんに名刺を渡した。

「始めまして、大下です。あのー、今お手伝いで森川さんのところにいますので名刺ないですが、よろしくお願いします」

 僕の目的は大下さんを編集だけに留めておきたくなかったから、もっと芸術的な物に触れてもらおうかと思っていた。彼女はいずれ磯崎さんのところに帰る事になる。それは止めはしない。だが、新しい所に羽根を伸ばしたい僕は、アーティストとしてチームを組んでいきたいと思っているからだ。これはお互い、雑誌を作るとは別の所で会いたい。僕は彼女の成長を買っている。

 

 ここで二週間後、色々な人達と展示会をする予定なのだ。創作物なら何でもよく、スポンサーは大手デパート会社が引き受けてくれるから、若者達が新しい道を切り開くには絶好のチャンスなのだ。一チームが貰えるスペースは四畳くらいの広さなのだが、僕達は特別に、プロと言うこともあって少しだけ広いスペースを頂いていた。ただそれだけで、そこにはプロもアマチュアも余り関係ない。お金を貰っていなくても才能を持っている人達はいくらでもいる、だから結構プロの人もそこに参加して、自分を刺激しているのだろう。

 

 今回、大下さんにももちろん作品を出してもらうが、一応未来も兼ねて、違う仕事をしてもらうことにした。それは、その現場の総責任者だ。僕と阿呆裏さんは、今回は徹底的にアーティストとして専念する。もちろんこれは、普段の仕事外だからチームは三人しかいない。そして、もう一人作品は出さないが、手伝いを買ってくれた人がいた、それは僕と阿呆裏さんの詩集の担当の人だった。ようするに、個展の前に前評判を頂いておくのだ。そして、その個展の日取りも大体一ヶ月後と言うことに決定している。多分、ぎらぎらした若者達が多いこちらの方が、渋くなるとは思う。個展は、あらかじめ僕達と言う人間を知ってもらってのことだが、今回は名もなき芸術家なのだ。

 

 僕達三人は、ある程度のことをそこで打ち合わせすると、色々な人と挨拶なんかもしたりして。場所の提供はスポンサーがしてくれるが、作品に掛かるお金は自分達で何とかしなくてはならなかった。社長がどれだけ僕を買ってくれるのかがわかる。僕が雑誌の仕事を手がけなくなって、アーティストとして一本でやっていっても、社長はそれを許してくれるだろうし、僕は会社から籍をはずすことはないだろう。だから、僕は堕落なんてしている暇はない。上り詰めて、そして永遠に影を落とす。

 

「阿呆裏さんて優しい方ですね」

「由紀にはこれからまた色々と宿題を沢山やってもらうことになる。自分の会社の仕事だとか、俺の手伝いとか、今回の話だとか、忙しいとは思うけど、よろしく頼むよ」

「いいえ、今とっても楽しいんです。色々と」

「僕の今まで創作してきた作品を君に全て託すよ。悔いを残すことなくね」

「はい」

「また恋愛の障害物を一個作っちゃったな」

「それは気にしなくていいんです。相手がそれで納得しなかったら、それだけのことです」

「あれから会ったの?」

「いいえ、まだですよ。この一週間の私の生活知ってるじゃないですか」

「今日、夕食も無理やり付き合わせちゃったかなぁ?」

「いえ、最初から今日は何も予定なかったですから、一人で電気屋さんにでも行くつもりでしたし」

 そう言って、阿呆裏さんに言われた店に僕達はついた。

 

 

 

   「美女と野獣」

 

「結構いけるねー」

「普段日本酒って飲まないんですけど、これ凄くおいしいですねー。とても飲みやすいです」

「ほら、赫那君も飲んで」

「そうですよ、赫那さんも。私のお酌じゃ嫌ですか?」

「いや、そうじゃないけど、車が………」

「そんなの気にしてたら、上手い酒は呑めないよ」

 僕は一人、スローペースで飲んでいたが、阿呆裏さんと大下さんは、かなりいいペースで飲んでいる。何が凄いって、阿呆裏さんはかなり酔っ払っているけど、大下さんはそんなに変化がなかった。二合の徳利で十二本だから、僕が飲んだのが二合ぐらいだから、二人は一人一升以上呑んでいることになる。そして、阿呆裏さんも少し辛くなったのか、ペースが上がらなくなって、僕に呑めとさっきから攻めてくるのだ。そして、日本酒が余り強くない僕は、とうとう寝てしまった。

「あーあー、赫那さんつぶれちゃいましたね」

「しまったなー、これじゃ本当に運転できないじゃん。僕達もお酒変えようか、僕も相当酔っ払っているよ、今日は」

「そうですね、お酒変えましょうか、阿呆裏さんまでつぶれちゃったら、私一人になっちゃいますからねー」

 そう言って、阿呆裏と大下さんは、韓国焼酎の水割りに変えた。

「阿呆裏さんって、おいくつなんですか?」

「え?いくつに見える?」

「いや、失礼になるから言えないですよー。」

「いいよ、その手のには慣れてるから」

「じゃー、四十くらいですか?」

「え?冗談でしょ?久し振りに言われたよ、四十って。ひどい時なんて、四十五とか言われるし」

 大下さんは言葉を詰まらせた。

「赫那君は僕の歳知ってるよ。って、寝ちゃってるかー」

「私の計算で言うと、三十三」

「お、よく分かったねー」

「そう言えば、今日赫那さんに着いて来てもらって、電気屋さんにいったんですよ。そこでね、私達、夫婦と間違えられちゃったんですよー」

「おー、じゃぁー、由紀は若奥様かぁー」

「そうなんですよ、若奥様なんです。そう言うこと初めて言われたもので、何だか嬉しくって。あー、あー、赫那さん本当に結婚してくれないかなー?」

「で、本当の所は、プロポーズとかは無いの?」

「プロポーズも何も、お互いそれぞれに恋人がいて、別に二人付き合っているわけじゃないですから」

「あー、そうなのー。でも、由紀は赫那君のことが好きなんだね?」

「はい。好きになっちゃいました」

「あー、あー、何だか俺、一人オッサンになっちゃった気分だよー」

「阿呆裏さんはいないんですか?彼女さんとか………」

「好きな人はいるんだけどね。って言うか、いたんだけどね………」

「え?どう言うことです?」

「死別だよ。とは言っても、死んだって聞いたのは、僕達が引き裂かれた後なんだけどね」

「じゃー、昔は二人恋人同士だったんですね。って言うか、引き裂かれたって事は、自分達の意思で別れたんじゃないって事ですよねー」

「そう、三人ともね」

「三人?三角関係って言う奴ですか?」

「そうじゃない。三人の女性をお互いの意思じゃなく引き裂かれたんだ。そして、僕との思い出に浸る頃、三人の女性はこの世からいなくなっている。三人もだよ。ハンパじゃないよ。だからもう、僕は思い出の中でしか恋をしないって決めたんだ」

「三人も好きになった人を亡くす。凄く悲しいですね、それって」

「悲しいどころじゃないよ、気が触れて、当分は一日中ロウソクの火を見て暮らす日々を送るんだ」

「話聞いちゃってもいいですか?」

「いいけど、体中の水分が飛んでいかないように、あそこをしっかりと閉めて、よく聞くんだよ」

 阿呆裏は、赫那に自分の過去を話したように、大下さんにも同じような話をした。看護婦さんの自分が退院後に悲報を聞いたことと、オーストラリアでの出来事とその時の彼女の事と、その彼女の悲報と。そして、三人目の話になると阿呆裏はその日初めて煙草を吸った。

「最近煙草辞めてるんだけどね、何だか吸いたくなっちゃって」

「どうぞ、私も辞めてたんですけど、一本貰っていいですか?」

 阿呆裏は彼女に火を勧めた。炎が一瞬揺らいだ。

「そのオーストラリアの時の彼女は、やっぱり売春婦だったからね、普通の恋をしていたんだけど、それでもやっぱりダメだったよ。彼女は最後まで売春婦だった。せめて、ウェディングドレスを着せてあげたかったなー、死ぬ前に一度でも」

「ウェディングドレスかー………」

「なんで、彼女だけ発病して、僕は発病しなかったのか、それが悔やまれるよ。いっそのこと、あの時僕は死んでもいいって思った。もしくはそんな悲しい報告なんて無くてもよかった。知らなかったら、映画のようにきれいな思い出だけで済んだのに」

「看護婦さんの方の死因は何だったんですか?」

「さぁ、僕が退院してからすぐだからね、あの時はまだ若かったから、誰も僕にそれを教えてはくれなかったよ。そして、遺体を見ることも出来なかった。何でだろう」

「楽にお亡くなりになったのか、そうでなかったかのどちらかだったんですね、きっと」

「あー、赫那君は彼女達のその後の話は知らないから、出会った事だけしか話していない。三人目なんて、人物の存在すら知らないからね」

「はい、わかりました」

「まー、多分赫那君にはばれないとは思いますよ。だって、三人目は君なんだから」

 そして、阿呆裏は一瞬真剣な表情をすると、

「ウキッ!なーんてね。冗談だよ」

「わかってますよ、私わかりますもの、殺意のある人の凄味とか……」

「それで、三人目なんだけれど、その彼女人殺しちゃったんだよねー。しかも、自分の子供。まだ七歳だよ。彼女が殺したのは、彼女の連れ子で、血は繋がっていた。彼女がその子を殺したのは、僕との間に子供が生まれたすぐ後だったんだ。動機は、今の幸せが裏切られた男の血を受け継ぐ奴に邪魔されたくなかったんだって。それが自分がお腹を傷めて産んだ子でも」

「ワイドショーみたいな内容ですね。私こんなに冷静に聞いてていいのかしら」

「ワイドショー。あれはやっている内容が下らないからそう思っているかもしれないが、流れているニュースは本当のこと。思いたくはないかもしれないけどね。僕は何かに慣れすぎたんだよ」

「で、いつの話しなんですか、それ」

「三年前かな?もちろん彼女は捕まって、刑務所に入ったよ。僕は、毎日毎日その塀の外まで出かけたね。僕達の子供を抱いて」

「好きだったんですか?それでもその人の事を」

「僕には、これが全て最後のことだと思っていたからだよ。これだけ辛い思いをしてきて、何か、もっと辛くなれば本当に最後に誰かを好きでいられることが出きるって思って。それで、そこの刑務所の塀の周りにはクローバーがたくさんあって、僕は毎日四葉を探していたっけ。だけど、段々、おかしいって思うようになってきたんだ。確かに僕は親族でもないし婚約者と言う証拠もなかったからね、面会は許されなかったと思うよ、罪も重かったしね。それでも、手紙くらいは送ってきてもいいと思うだろ?僕は彼女に貰った一枚の絵だけを見ていたんだ。僕は彼女の家族に問い合わせたんだけど、何も答えなくなって、そして、黒い服を来て後をつけてみると、そこにはやっぱり線香が立ってた。僕は、その時いても立ってもいられなくなって、つい自分をそこに出してしまったんだ。そうしたら、義理のお父さんもお母さんも、妙にすっきり笑っていたよ」

「孫は面倒見るから」って、

「彼女は取り調べのときに、そこに置いてあった電気スタンドの蛍光灯をはずして、警官をぶん殴ったんだ。そしてその残った破片で、自殺したんだって。あー、残酷な割には儚いなって。警官は無事だったみたいだよ。僕は彼女が最初から精神異常者だって知ってたよ。だって、僕と同じ目をしていたんだもの。彼女は進んで自分から天使にはならないと思うけど、きっと彼女は天使になったよ。ほら、僕は羽根を拾ったんだ、そう、この四葉のクローバーをね」

 そう言って、阿呆裏は自分の胸元から四葉のクローバーが入った、透明な物に鎖をつけてネックレスにしたものを大下さんに見せた。

「これは、彼女がくれた四葉なんだ」

「それで、阿呆裏さんは四葉のクローバーを探していたんですね。私も持っていますよ、四葉。赫那さんの仕事場の前にある公園で見つけたんです」

「やっぱり聞かなかった方がよかったんじゃない?」

「大丈夫ですよ、私も一人、人を殺めているんです。それも、友人を」

「そうかー、人って色々あるんだよねー。今この空間にいる人、平気な顔をしているけれど、殺人の一つや二つ、きっと犯していて、それに怯えることなく生活を送っているのかもしれない。娘は元気なかー?もう、今年で四歳かー。早いもんだよねー。由紀は兄弟いるの?」

「はい、妹が一人……できました。三年ですかー。私なんて、九年ですよ。早いものです」

「由紀は、どんな風に?」

「実は計画犯なんです。大人しい子でしたからね、誰も疑わなかったです。部室に呼び出して、その日は絶対に雨が降るって知っていたし、道具はとても簡単な物で、手で首絞めちゃうと、子供の手だってばれちゃいますからね、で、犯行の後部室に呼び出したことだけ後悔して、それで、その後私は、すぐにレイプされに行きました。誰の精子でもよかったんです、その頃はまだDNA鑑定なんて盛んじゃなかったですからね。それで、あらかじめアソコも破って傷を付けておいて、あざも幾つか付けておきました。そうしたら、先生が来て、慌てて私も被害者に代わりましたね、私は少々の怪我でしたから、抵抗しなかったと、それでそこでうずくまって、わざと泣いたんです。そうしたら、先生がやって来て、すぐに警察に通報がいって、でもその先生面白かったですよ、怪しい人を見ただって、誰だったんでしょうね?私の恩人は。私もレイプされて良かったって事ですよ。今だったら、絶対に捕まってますよ」

「計画犯ってことは、動機があるんだよね?」

「はい、私が好きになった人と彼女付き合ってたんです」

「それだけ?」

「はい、それだけです」

「はーっはっはっはーっ。いい想像力だ。気に入ったよ、由紀」

「ありがとうございます」

「君はまだ処女だね?」

「そうですよ」

「赫那君にも話したんだね?その話し」

「はい、でも途中で止めました」

「そうか、これから悲しくなるなー。せっかく出会えたのに」

「阿呆裏さん、あなた天才ですよ」

「そう言う誉められ方は久し振りだなー。よせよ、僕はただの自閉症患者だよ」

「謙遜ですか?」

「錯覚ですよ」

「一ついいですか?、何で私が処女ってわかったんですか?」

「あ、あれハッタリです」

「で、本当は?」

「君のために煙草の火をつけたとき、一瞬、炎が揺れたんだよ」

「それ、理由ですか?」

「君は、一瞬炎を罵って、そして弱さを見せた。それは言葉ではなく、感情だったけどね、弱い動物ほど怯える。君は本能に逆らっていたって事だよ。だから君は……後は、勘だよ。言った通り、ハッタリ」

「……本能……ですか……気に入りました。その言葉」

「巻き込んじゃって悪いね」

「いえ、別に後のことは考えてないです。私も好きになってしまったんだし、こうするしか奪えないんですよ。色々と」

「彼の作品は認めないとね。そして彼は完成していく」

「あ、私にもよく言ってましたよ。死によって完成になるって」

「彼、よく言ってたから、切っ掛けがないんだって。いっそ不慮な事故でも起きないかって」

「だから、手を貸そうってね。逆恨みかなー?もう、私には何が正しいのかわからなくなっちゃいましたよ」

「彼女泣くだろうなー」

 

「お母さんはどんな人でした?お父さん」

「とても優しい人だったよ」

「どんな風に?」

「素直に……優しかった」

「妹に会ってみたいなー」

「弟はもう会えないけれど、赫那君にそっくりだったよ」

「お義母さんは?」

「彼女も優しい人だったけど、ノイローゼだった。それで、毎日コーヒーミルで豆を砕いてた」

「変わった人ね」

「でも、あのコーヒーは苦くて、一度飲んだらやめられないんだ」

「私も飲んでみたかったな。彼が好きだった苦すぎたもの」

「明日ウェディングドレスでも買いに行こうか」

「はい」

「動機は?」

「興味……です」

「で、何で俺が父親だってわかったんだい?」

「え?ハッタリですよ。ハッタリ」

 

 僕は次の日、遺体で発見された。

 

 僕の死によって、創作性は一つのものになった。

 

 

 

 

 

 

   「遺書」

 

 雨の季節になると、樹理は一つ歳をとった。その日、一本のワインが樹理の元に届けられた。とても澄んだ赤いぶどう酒。

 

 樹理は一人で手紙を読み返していた。それは、樹理が必ず毎日見るもので、そう、思い出。そして、手紙と一緒に入っていた、六つ葉のクローバー。

 

「シアワセ」って何?

 

 彼女は観葉植物が呼吸する、その中でマイナスイオンを補給した。それでも、彼女はカナリアだ。もうずっと怯え続けている。彼女は余りの寂しさに打ち震えて、都会のカナリアのように死んでしまう。彼女は声を忘れたカナリア。

 

「ごめんね」

 

 何で、私への手紙の文頭がこの言葉なんだろう、私を悲しませるための言葉じゃなかったはず。

 

「人を殴るとか、殴らないとかじゃなくて、君を怯えさせてしまった、そんな自分が悲しかったよ。君は、初めて僕に弱さの中で涙を見せたよね」

 

 私の事を「君」と呼ぶ、あなたが遠いよー。あなたが私を弱いと感じたなら、あなたは私を包んでくれなくちゃいけない筈でしょ?ねぇ、どこに行ったの?何で、こんなにも虚しさばかりが私の傍へやって来るの?

 

「初めて君へ手紙を書くよ。きっと、もうこうやって書くことはないと思うけどね。今日みたいにせがんで来たって駄目だからね。これが最初で最後。だって、何だか照れるじゃん。あ、こう言う時しか言えないからね。「ありがとう」って」

 

 もう、いくら甘えたって、もう二度と手紙は届かない。届くはずないじゃん、バカ………バカ………

 

「あ、そうだ、誕生日おめでとう。ちょっと早いかな?来週の月曜日だから、すぐかー。ねぇ、どこで、食事する?」

 

 問い掛けるのやめて。私の中で終わることのないリフレーン。あ、もう二十一になったよ。ありがとう。

 

「あ、六つ葉のクローバー見つけたんだけど、めずらしいでしょ?シアワセの四葉って言うけど、六つ葉はどうなのかなー?四つ葉探したんだけど見つからなくて……気に入らなかったら二枚捨てちゃっていいよ。でも、無理やり幸せって望んじゃいけないかもね」

 

 煙草ってこんな味なんだぁ。ちっともおいしくないよ。

 

「縁日にさぁ、地元でお祭りがあるんだけど、一緒に行きたいね。二人で浴衣着てさぁ、石畳の上を音を立てて歩くんだよ」

 

 もう、夏だよ。

 

「何か、慣れてないから文章バラバラだね。あ、君がシャワーから上がってきた。じゃー、今夜、手紙の中の僕と出会ってください。日本人って、最近きれいな言葉を忘れてるよね。だから最後はこの言葉で、「さようなら」       森川赫那」

 

 樹理は、僕が吸っていた煙草を消した。当初、投函する予定のなかった手紙は、悲しくも樹理の誕生日に届いてしまった。あれから、僕の誕生日を迎え、個展が開かれると、僕の名前は色々な人の心を捉えた。悲痛な境遇を安買いしてしまう人間の心理に、上手く乗れたんだと思う。樹理は、そんな僕を理解できずにいた。きっと、これから新しい恋をしてもしなくても、それを理解することはできないだろう。

 

 それからまた、夏になって、僕の誕生日がやってきた。

 

 今年もまた僕に会いに片方の手で日傘を差し、もう片方の手で子供の手を握っている。

 

「どうしたの、ママ?泣いているの、ママ?早く動物園に行こうよー。パパがねー、待ってるよ」