「ミトコンドリア」

 

 ビタミンCを取ってみた。何だか、健康になったような気がした。

 体にはたくさんの疑問がある。大人になるに連れて、心と一緒に身体も成長する。人にはいくつかのフィジカルコンプレックスがあって、それは僕にもある。女性と男性、それぞれ異なる悩みがあると思うけれど、僕は、男の子で、男の子なりの悩みを持つ。

 もうすぐ25歳。別に生まれてからすぐにこの悩みだったわけじゃなくて、気が付いたのは、二十歳くらいだ。海に行った時に、友達に言われた。

「おまえって、ハト胸だよなぁ」

 うっそーん。その時はかなりショックだった。まず、ハト胸って何?って思ったけど、ハトなりにショックだった。僕を形成している細胞は、きっとハトか何かで、前世はきっとハトだ。でも、姿勢を正しくすれば、余り分からないし、服を脱がなければいいだけだ。だからそこまで気にしない。

 最近、ますます煙草の本数が増えてしまった。コンピューターに向かえば向かうほど吸ってしまう。僕の体は、日焼けしやすいのだが、今年は、かなり白い。一日ベランダで寝ていれば、もう真夏を先取りだ。そして、僕は健康さを装うために、仕事場には行かず、自宅で仕事をすると言って、ベランダで寝ていた。なんとも陽が高い最高の真夏日よりだった。

「真っ赤だなぁ」

 僕はその夜、鏡を見て思った。これで明日仕事に行ったら、まるでサボったみたいに思われてしまうではないか。まぁ、確かにサボったようなものだけれど、仕事はきちんとやったし。とにかくお風呂から上がった僕は、冷たいアイマスクをしてその赤みを取っていた。

 

 次の日鏡を見てみると、すっかり赤みは引いて、黒くなっていた。これなら健康そうに見える。そして仕事場へ歩いて行った。

「おはよう、なんかおまえ黒いなぁ」

 そう社長に言われて、

「あ、昼寝してたんですよ、ベランダで。でもちゃんと仕事はしてましたよ」

「女と海でも行ってたんじゃないのか?」

 社長は笑って突っ込んできたが、

「まだ海は寒いですよ。それにこの仕事が忙しい時に、そんなにノー天気じゃありませんしね」

 僕は、そう言って何とか普通にやり過ごせたと思って、話題を変えて、そして雑談が終わった後、それぞれ仕事をしていった。

 昨日あっけなく死んでしまったドラマの主人公は医者で、職種は余り関係無いのだけれど、人って死ぬ時は死ぬんだって思った。僕が灰になった時、僕を形成していた物は全て灰になってしまって、残るとしたら思い出だとか、そう言う物だけになってしまうんだろう。悲観的な考えはよした方がいい。だけど、考えたい時だってあるよね。

 細胞が僕の身体を形成するだけでなく、それぞれが活発な意思を持ち、記憶や思い出まで作ってしまったら大変だ。だから僕は、心を守っていく。

一輪の花を大事にしたり、割れてしまったレコード盤をかき集めたり、彼女と手を繋いだり。

 それって、「僕」って言うものを誰かに分かってもらうんじゃなくて、僕が「僕」であることを信じたいだけなんだろうか。

 僕は心を守るためにニコチンやカフェインを摂取する。

 

   「常温で飲むアルコール」

 

 額から出る汗をぬぐうとそこでは着ぐるみを着て踊っている変な人達がたくさんいて、そして僕にチラシをくれた。

「あーっ!」

 と、言う声の中から空の青色に吸いこまれていったのはたくさんの風船達。もうそれはどうしようもなくって誰にも止められなくて、後は海まで飛んでいって、それを鯨が食べてしまい、その鯨は死んでしまう。そして、イルカクジラ会議で大変な問題となり、そして鯨を食べる日本人はいじめられて、そしてそのうち鯨は絶滅してしまう。そこまで考えたのは、このチラシを見たからだ。

 元テロリスト集団の宗教団体。

「ふーん、これって最近聞かないけれど、まだ活動していたんだぁ」

 僕はそう思って、そのチラシをゴミ箱に捨てた。そして、もう風船はどこにも見えなくなってしまって、それでも着ぐるみ達は一生懸命に踊りながらチラシを配っている。風船配るなら、しっかり握って離すんじゃないぞ。

 

 さすがに日曜日は街並みを変える。駅前だからいつも人間は群がっているんだけど、それでもこの数は半端じゃない。歩くスピードが普通の人よりかなり遅い僕には、このスピードは速すぎる。だから、人込みは嫌いだ。

 駅前にある大きなテレビのスクリーンには、こちらのテンションを下げてしまうような、下らない物ばかりを流しつづけている。若者達はかなりの勢いで意気揚々と恋人同士で手を繋いで歩いている。ダンボールで家を作ることを発明した髭モジャのおじいさん達は、そこでアクセサリーやら何やら色々な物を売り、国籍不明のお兄さんたちが怪しく集まり、時折にっこり笑って、誰かに話しかけている。総合すると、こう言う街並みは好きだ。すごく、人間味に溢れている。でも、人込みだからこう言う風景が味わえるのだろう。

 お姉ちゃんとその子供達を駅まで送ってきた僕は、樹理との約束の時間まで何をしようか迷っていた。なるべく避けたいのはギャンブル性のある物だった。人口密度が多ければ多いほど、勝率も上がるかもしれないが、負ける確率も高いからだ。そして、あの音と、ネオンに惹かれて、僕はパチンコ屋に入っていった。

 昨日のニュースで長寿番付が発表されていた。今年の一位は、とあるパチスロメーカーの社長で、実際はそれで儲けているのではなく、株だった。今年は上位の殆どが、株関係の人で、最近何かと話題の人達の名前がそこにはずらりと並んでいた。誉めてやりたいが、何十億と税金を納めていても、僕達庶民には余りピンと来ない数字だ。僕には、国民税、自動車税、酒税、煙草税くらいを払うのが精一杯だった。当たり前の物を払っても、大した金額じゃない。でも、いくら不景気のこの日本でも、払っていない人たくさんいるでしょう。欲張ると良い死に方出来ないよ、払いなさい、溜めこんでいる人達。この時期が過ぎれば、どんどん明るみに出るんだから。

 もちろん僕は、昨日の金持ちが経営するメーカーのスロットの前に腰を下ろした。煙草に火をつけると、コインを買いそれを投下していき、先ずは目押しで、七をポン、ポン、ポン。もちろん入っているわけが無い。それでも千円ぶん回していない頃に、爆撃音なような物が、突然目の前から聞こえてきた。

「入った」

 僕は誰にも悟られないくらいのガッツポーズをして、意気揚々と七を揃えに掛かる。

「はい、どうも」

 と、最後の七を押したが滑って行ってしまった。

「あれ?」

 まさかと思いながら黒いターゲットに変更すると、目押しも何もあったもんじゃない、続けて親父打ちすると、レギュラーボーナスが揃ってしまった。

「なぁーんだー、これって、ビッグ確定じゃないのかぁ」

 まぁ、それでも全然良かった。僕は、それが終わると、すぐ次のゲームを引いており、次はビッグだった。それから、一時間も回していないうちに、ドル箱二箱を積み上げており、おかしいくらいにその勢いは止まらなかった。

「ついているねぇー、俺」

 僕の中では、既に時間と言うものは無かった。携帯電話もバイブにし忘れて、音無きベルの音がポケットの中で鳴っていたことだろう。気が付くと、樹理との約束から、一時間半が経過していた。

「やっべ!」

 僕は急いで換金すると、駅まで猛ダッシュしていた。息つく暇もなく、

「ごめん。本当にごめん」

 樹理はそこで待っていてくれた。

「こっちこそ、ごめんね」

 ん?なんで樹理が謝るんだろう。聞くところによると、樹理も美容院が長引いて、一時間遅刻だそうだ。それで、携帯に僕が出なかったものだから、僕が怒っていたと思ったのだ。僕も本当のことを言うと、やっぱり僕の方が悪かったのか、引き分けと言うわけにはいかなかった。

「で、勝ったんでしょ?いくら勝ったの?」

「十万くらいかな?」

「ごっちー」

 ご馳走するのは構わないけど、別にギャンブルに勝とうが勝とうまいが、大抵僕がお金を出しているのだから、余り変わらない。

「で、何食べたいの?」

「かばーん!」

「カバン?食えねえじゃん!」

「さっきね、赫那を待っている間に、道行く人々を見ていたら、カバン欲しいなぁーって思って、それでね、お腹が空いてきて、カバンが食べたくなっちゃったのー」

「あー、そー、食べたくなっちゃたのー?………食えばっ!」

「いいじゃん、もう!十万も勝ったんでしょ」

「わかったよー、とりあえず、飯でも食おうぜ、午前中から体力使いすぎて、お腹空いたー」

「じゃぁーねー、ラーメン」

「ラーメン?いいねー」

「なんか、この駅前の繁華街にすごくおいしいラーメン屋さんが移転してきたんだって」

「じゃぁ、そこ行こうぜ」

 

 僕達は、ラーメン屋さんまで行くとその余りの行列さにびっくりした。

「超混んでるなぁー」

「どうする?」

「どうせ、ラーメン屋さんは開店率いるからすぐ座れるよ」

僕達は、そう言って並んで待っていた。店内禁煙。うるさいお子様の入店お断り。メニューも、ラーメン、チャーシュー麺、メンマ入りラーメンしかない。お水はセルフサービス、カウンターに小銭が置いてあって、自分で支払ってお釣りをもらって帰っていく。何よりも、注文と、いらっしゃいませ、ありがとうございました以外は誰も喋らない。思いっきり、ラーメン命、頑固一徹親父の一生が見え隠れするお店だった。

「ラーメン二つ」

 僕達はそれぞれ何も話さずに目で話しながら、少しそれにニヤケて店内を見渡していた。

「ごちそうさま」

 そう言って、僕は、二人分のお金をそこに置くと、即即と出てきた。

「ふーっ、息詰まる店だなぁ。うまかったけどな」

「ほんと、誰も喋らないんだもん。でも、おいしかったよ」

 僕達は、ランチの時間にゆったり出来なかったのか、二人速攻同意の元、カフェに入った。カフェに入ると、いつもの勢いで、コーヒーを注文してしまった。ラーメンの食後に果たしてコーヒーが合うのかどうか。樹理は、その点きちんと考えて、紅茶。しかし果たして紅茶も合うかどうか。

「カバンってどんなカバン?」

「あのねー。普通のトートバッグでいいんだけど」

「え?トートでいいの?てっきり、ブランド品の高いカバンかと思ったよ。そんなの楽勝」

「ブランド品だけどね」

 樹理は冷めて笑った。僕も冷めて笑った。

「ふーん、高いの?どこのブランド?」

「楽勝なんでしょ?今日の勝ち分で楽勝だとお思うよ」

 煙草を三本くらい吸い尽くすと、僕達は店を出た。

「どこに店あるの?」

JR西口のすぐそこ」

 JRの西口と言えば、軽いブランド街だ。どう考えても、有名ショップに違いない。そして、足取り半ば重く僕は腕を握られるように樹理に引かれていった。そしてそのまま、綺麗なガラスのドアが警備員によって開かれると、そこはマダムの世界だった。

「まじ?」

「まじ」

 僕は、キョロキョロする以外何も出来なかった。樹理が、これ綺麗だねとか何かを言っていても、僕の脳に伝わっては来なかった。

「あ、あった。あのトートバッグ」

「え?あれ?じゃぁ、店員呼ぶよ」

 僕は店員を呼ぶと、カバンを手にとってその勢いでまず、値札を確認した。

「うっそー。まじ?」

 びっくりしたのは店員で、樹理はびくともしていなかった。確かに、今日の勝ち分では楽勝だったけど、このカバンが、この値段?さすがに、カバンと言えば、このブランド。というだけあって、高い。僕は、何だかんだと言ってももう覚悟は決めていた。たまには、これで樹理が喜ぶならいいだろう。

「すいません、これ包んでください」

 そう言うと、僕は財布の中から簡単にお金を出した。お店を出ると、とても嬉しそうな樹理がいて、

「ありがとう」

 本当に嬉しそうだ。そう言えば、これと言って、何かを樹理に買ったことはそうなかった。しかも結構な値段で。着飾ると言うことは、今よりももっと上にならなくちゃ、道理としておかしい。おいしいビールは別にそのままで飲んでもおいしい。そして、冷やせばさらにおいしい。じゃぁ、トートバッグと、樹理のどっちを冷蔵庫で思いっきり冷やして飲めばいいんだろう。今日のところは樹理だろう。

 

 樹理は今日髪を切った。それは生ビールをおいしく飲むために、グラスを冷やしておくのと同じだろう。普通なら、ここで髪形を変えたことを誉めるのだろうね。今日の帰り際にさらっと言おう。

 

「そう言えば、今日美容院行ったんだよなぁ。いいじゃん、それ」

 

 

   「日傘」

 

 ずっと晴れ間が続いていたこの土地にも、久し振りに雨が降った。僕は原稿を入れたカバンを濡れないように大事そうに抱えて、傘を差して歩いていた。この雨がやめば、また五月晴れが続くのだろうが、六月になれば、紫陽花や雨蛙や、蝸牛がカレンダーに載るような、雨の季節になる。

 僕の顔が緩んだのは、それを見てしまったからで、そこには一人の女の子がいた。その女の子は、ピンク色の長靴に、ピンク色のレインコート、そして、ピンク色の傘を差して、そして、それを映す水溜りが足元にある。そして、その女の子のお母さんが、その子の手を握り返すと、その女の子は、また雨の舗道をテクテクと歩き出した。

 僕にも、晴れの日は晴れの日で、雨の日は雨の日で喜んでいた頃があった。遠足や運動会なんかがあった頃は、天気の悪さも一つの僕達の遊び場で、服を汚すのが僕達の日課だったからだ。それでもテルテル坊主が泣かないように祈ったあの日や、かけっこが嫌で泣いていた女の子なんかがいたりして。遠足の前の日なんかは、クラスのみんなでテルテル坊主を作って、教室の後ろにたくさん並べて、お願いしたっけ。

 雨の雫の静けさと、雨を弾く街の自動車のアスファルトの飛沫が雨の日の音で、僕は目を細めて。そして、スウェードの靴が水分に変色を任され、僕は、少し大人になった自分が雨を余り好きではないんだと考えてしまった。そして、階段を駆け上がると、今日に限って、足音は響かず、そしてドアを開けた。

「こんにちはー。毎度お世話様でーす」

 そう言うと、今日はいつもより静かなそこで、大下さんが迎えてくれた。

「こんにちは、お待ちしていましたよ。何飲みます?」

「じゃぁ、今日は、熱いコーヒーで。磯崎さんは?」

「あ、今日は出てますよ。でも、私が担当として任されてますから、あ、そこに掛けてて下さい」

 見渡すと、今日は余り人がいなかった。どこまでが社員で、アルバイトで、お客さんか普段わからないここでも、今日は、仕事をしている人しかいなかったために、すぐわかった。

「今日は何だか静かだね」

 受け取ったコーヒーを一つ口にすると僕はそう言った。

「取材人は皆さん出てますしね、それに今日は、お客さんが来る予定もないですしね、電話番くらいでいいんですよ」

「そうなんだ、長年ここに足運んでるけど、初めてだよ」

「いつくらいからこの仕事してるんですか?」

「最初は、うちの社長と細々とやってたんだけどね、あれは17くらいかなぁ。はっきり言ってめちゃくちゃ素人だったけどね。磯崎さんとはもう6年くらいかな?」

「結構長いんですね。私ももっとパソコンとかやろうかなぁ。ワードは使えるんですけどね、MACとかやりたいんですよね。だから今回の企画すごく楽しみで、MAC買おうかなぁー、なんて」

「パソコン持ってないの?」

「私、今年からここに来って言ったじゃないですか、それで引っ越してきたんですよー。実家にはウィンドウズがあったんですけど、今は持ってないですからねー。それで、やっぱり仕事上必要だから、パソコン買おうと思って、どう思います?」

「そうだなぁ、MACでもいいんじゃない?だけど、会社でウィンドウズ良く使うなら、家に仕事持ち越すと、面倒くさいと思うよ」

「そうなんですよねー。でも、ここでMACつかえる人少ないから、勉強してもいいって思ってるし、またなんか聞きたい事あったら相談しますよ。そうしたら、使い方教えてくださいね」

「あぁ、いいよ。社長に研修の許可もらって、うちで少し手伝ったら?」

「それいいですね。私お願いしてみますよ」

「じゃぁ、今日持ってきた仕事の話しようか」

 僕は、すんなり頷きを貰うと、

「それじゃぁ、また近々来るから、磯崎さんによろしくって」

「はい、いつでもお待ちしていますから、私も社長に話してみますよ、お手伝いのこと」

 僕は、一度外に出て、雨に気付くと忘れた傘を取りかえりにまたドアを開けた。それに大下さんが気付くと、ただ笑ってくれた。仕事場に戻った僕は、社長に色々と話して、僕は挿絵の仕事を続けた。182枚まで、後三十四枚、もうすぐ完成だ。

 

 そこに一つの詩があって、僕はそれを読んでいて、一つ思い出した。あ、クローバー。そう言えば、この間六つ葉のクローバーを見つけたんだ。それを本に挟んだっけ。うん、この詩いいなぁ。何だかわかる。簡単に、僕は頭の中でまとめてみた。

 

 日傘が作る、そんな薄い影の下で群れている三つ葉の形。そして日傘を差すその女性は妊娠中で、泣きながら幸せの四葉を探している。お腹の中の赤ちゃんはまだ何も知らない。すぐそこにはとても高い壁があって、その子の父親はその向こう側。女性は結局幸せを見つけられなくて、また次の日そこに現れる。全ての三つ葉が枯れる頃、小さな命が誕生して。そしてその命が自分の足で歩き出すと、やがて銃撃がやんで、その壁が崩壊する頃、戦死した男の思い出。またその季節がやってくると。その緑色の丘の上に立派ではないお墓がたくさんあって、そこに男の名前がある。片方の手で日傘を差し、もう片方の手で子供の手を握っている。もう全ての涙を流したはずの女性が、ふと足元を見ると、そこに四葉のクローバー。そして女性は涙を流す。「どうしたの、ママ?泣いているの、ママ?早く動物園に行こうよー。パパがねー、待ってるよ」

 

 思わずその情景が浮かんできてしまって、この風景に言葉は最後のこの文だけなんだけれど、僕には幾通りと読めて、そして難しかった。時代背景も時間の流れも、どこからどこへなのかもわからない。

 

 きっとクローバーに思い出がある人って、たくさんいるんだろうな。

 

 雨はもう上がっていた。そこには殺風景な街しかなくて、僕は早く家に帰りたかった。気になった野球は、雨の後なのに、試合が行われており、僕はそれを見ていた。やっぱり次の日は天気が良くて、日傘日和だった。

 

 僕は少し早く出掛けると、公園に行って、しゃがみこんだ。僕には四葉が見つけることは出来なかった。幼少の記憶では、もっと簡単に見つかったはずだったのに。気が付くと、安浦さんが僕の横に座っていた。

「おはようございます。何してるんですか?」

「びっくりしたー。あ、四つ葉探してるんだよ」

「四つ葉ですかぁ。私も探そー」

 多分、その光景は周りから見たら、少し異常かもしれない。気が付けば、社長も探していた。

「何してるんですか?」

 僕達は光一郎さんの言葉で、我に帰った。たかが五分の間だったが、かなりそれに集中していた。僕達はあきらめてそれぞれ仕事を始めて、そして僕は窓から公園を見ていると、そこに四葉がない理由がわかった。そこは激戦区で、色々な人が四葉を探している。だけど、誰一人日傘は差してなくて、そんなものだよと僕は画面を見つめた。一度外回りで出ていった光一郎さんが帰ってくると、

「ほら、四葉」

 なんとも誇らしげに笑ってそれをみんなに見せた。四葉の幸せって、きっと、こう言う時の喜びなんだろうね。そこに、すごく嬉しそうな光一郎さんがいた。光一郎さんは、その四つ葉を誇示するようにデスクのビニールシートの下に挟んだ。僕はただ、それが羨ましかった。

 

 

   「死の欲動」

 

 この時が来てしまった。お金がない。お金がないと言ってしまえば嘘だけれど、もう給料前になってしまった。これは、早いもので。人間は、お金が無ければ無いなりに生活をするもので、別に僕に恋人がいて無理をしてでもお金を掛けてすごく楽しませると言う時期も過ぎてしまったし、今更それをしても、無駄遣いはダメと怒られてしまう。それは良く捕らえると、また明日もあるのだから、という先を思っての言葉かもしれない。

 僕は、サラリーマンとアーティストの狭間で飢えを凌いでいる。今はまだ、殆どサラリーマンとしてその勤めを果たしているのだが、そろそろアーティストとして伸びてきているのかもしれない。規格外でもらっている仕事が成功すれば、僕は、アーティストとしてお金を貰うことになる。余り今と変わらないのだけれど、グラフィックデザイナーとしては、それが嬉しい。最近は、我が社の小遣い稼ぎであったホームページの作成も半ば中止しており、それは今の時代そう言う職種が増えてきた中で、それを受け賜らなくてすむと言うことは、他の仕事がうまくいっているということなのだ。つまり、光一郎さんや社長は昔から、雑誌などを中心としてきて、今と変わらないけれど、僕には余りそう言う仕事が無かったのだ。

 アーティストというのは、かなりリスクを背負う仕事である。まぁ、アートを仕事として考えてしまっている、僕がいて、それはきっとコンピューターの普及とともに生まれてしまった、現代的なアートのみだとは思うのだけれど、僕にはそれが全ての糧だ。

 社長の本職は、絵本書き。そして今僕達と供にやっている仕事は、本職を補うための貴重な収入源らしいのだ。その考え方はすばらしい。が、社長としての立場では、せめて従業員だけには、逆のことを言って欲しい。まぁ、それでも理に適ってやっているので、誰にも文句は言わせない。

 

 人生と言う茶碗があって、そこにサイコロを二つそっと投げてやる。

 

 その夜、優しく夕食を終えた僕と樹理は、またプールバーへ足を運んだ。ここならそんなにお金掛からないし。

 心理学的慟哭。だけど、別に悲しいわけじゃない。泣きたいわけじゃない。ただ込み上げて来る感情はその言葉に等しいのだ。簡単に言うと、切なさだったり、そうして、それによって気持ちが揺らぐこと。子猫が僕の心を動かすような衝動。

 普段、女性というのは、男性よりも目線が下である。もちろん身体的なことだから、そうであるとは限らない。普通ビリヤードの台と言うのは、屈んでちょうど良い位置になる。そして、やはりこれはゲームなのだから、真剣な顔つきと、目線を感じさせることになる。なかなか普段に無い光景。そして、まぐれでも運でも偶然でもいいから、玉がワンクッションでもしてコーナーに入れば、カッコ良くないはずが無い。そんな小さな衝動が、ビリヤードにはある。もし男性が女性の心を軽く揺さぶろうと思うなら、ビリヤードをお勧めする。

 あれはまだ、日本に心理学と言う物がそこまでみんなに浸透していない、僕が中学生の時だった。もちろん、今みたいにクラスの中で心理ゲームなどと言う遊びは無くて、流行っていた物は、「あきすとぜねこ」のような占いゲーム。僕が中学の時に、女子に教えてもらったのが、この心理学だった。

 今にも壊れそうな釣り橋があって、こちらの岸に僕が立っていて、向こう岸に女性が立っている。そして、女性は、その釣り橋を渡り、僕の方に歩いてくる。そしてその女性は僕を見ながらその橋を渡る。もうその女性の心のどこかには僕がいて、そして、その橋を渡りきった頃、その女性は僕に恋に落ちる。

 当時、そんなおいしい話が存在するのかは、僕にはわからなかったけれど、最近テレビなどでそれを見てこの話しを思い出した。とにかく、ドキドキした者が負け。その時が恋に落ちる時。今にも壊れそうな橋は、実際に渡ったことは無いけれど、他の状況でも、同じような衝撃を与えれないいのだ。

 人はいつか死ぬ。もし死ぬことがなければ、人はそんな事でたやすく恋に落ちたりなんかしない。負けるとわかっていても、時々不用意に勝ってしまうギャンブル性の高い遊び。生の欲動に駆られることは少ない。人は死ぬことが怖いのだから。心を育むと言うことは、死の欲動とともに歩くと言うことだと思う。

 

「ここでハンドルを切ったらどうなるとか考えたことある?」

「ちょっとー、やめてよー。そんな事考えたことないに決まってるでしょー」

 樹理は怒った。

「俺さー、時々あるんだよ。そう言うの。だからって実際やったことなんてないけどね」

「当たり前でしょ」

「って言うか、そんな勇気とかないけどね」

「それって勇気とかじゃないんじゃない」

「うーん、そうかもなー、勇気………ちょっと違うなぁー」

 僕は、音楽をつけると、煙草に火をつけて、窓を開けた。

「このままどこかに行っちゃおうか。誰も知らないようなところに」

「行けばー。私は帰るよ」

「なんか、ロマンチックじゃないなぁー」

「そんな勇気ないでしょ?」

「それは、勇気なのかなぁ……」

「もっと普通の事話してよー」

「普通って何だよー」

「例えば、学校どうなの?とか」

「学校どう?」

「あのねー、多分今週末から、研修で地方の放送局行くと思う」

「え?そうなの?何で、言わないんだよー」

「だって、聞かないんだもん。さっきから変な話してるし、それに今日決まったの」

「どれくらい行くの?」

「多分、五日くらいじゃない?」

 携帯電話が鳴った。もちろん、運転中の携帯電話の使用はだめだ。だけど、そんなにも優等生じゃない。

 「あ、はい、もしもし、え?ラットにいるんですか?」

 僕は樹理を送っていくと、その足で、そのままラットに向かった。

「遅くなりまして」

「ごめんな、急に呼び出したりして」

 そこには、社長と磯崎さんと、そして大下さんがいた。「ラット」でお酒を飲むのは珍しい。社長が昔やっていたショットバーが上にあるから、早々、ここでお酒を飲む機会がないのだ。小出さんも、店が終わると、上に飲みに行ってしまうので、今では営業時間も早い。

「赫那が言ったんだろ?大下さんにパソコンの使い方教えてもいいって」

「あ、はい」

「でな、近々うちにアシスタントとして来てもらう事になったから、よろしくな」

「あ、よろしくお願いします」

 そう、大下さんが言うと、決断早いし、そんなに簡単に決めてしまってもいいのかな?って思ったけれど、確かにアシスタントは一人くらい欲しいと思っていた。

「え、でも、磯崎さんの所は人大丈夫なんですか?」

「うちはいいよ、勉強させてもらうんだから。技術者がいないから、君のところにも仕事頼んでるんだから」

「じゃぁ、大下さんがそっちに帰ったら、仕事減っちゃうじゃないですか」

 僕が笑って言うと、磯崎さんも笑って、

「それは赫那君次第だよ」

「それに、手伝いに来てくれると言うのに、お給料は磯崎さん持ちだから、助かるのはうちだ」

 そう、社長が笑っていった。仕事の話をしているはずなのに、結構飲んでいるらしく、二人ともよく笑っている。

「じゃぁ、そろそろ、俺たちはもう一軒行くから。大下さん頼むぞ」

 社長、磯崎さん、小出さん、この酒豪達は、またどこかに行くらしい。

「あ、私一人で帰れますよ」

「いやー、実は赫那から強い要望があってねー、あいつ君に惚れたかも」

「やめてくださいよー」

 そう言う会話が少し僕の耳を掠めた。一人で帰れると言った大下さんもいたが、僕は送っていくと言って、そこを出た。

 

「なんか、本当にあの話が通ると思っていませんでしたよ」

 大下さんがそう言うと、

「あの人達は、自然と損を逃れて生きているんだよ。まぁ、損得勘定している人達には見えないけどね」

「多分、今月号があがってからのお手伝いになると思いますけど、よろしくお願いします」

「あ、こちらこそね。多分ちょうど、僕もそれまでには、一つ大きな仕事が終わるから、手が空くと思うんで、盗めるところは盗んでいってください」

「ありがとうございます」

 そして、今度は普通の話をしていった。そう、普通の話し。突然、普通の話をしている僕に向かって、大下さんはこう言った。

「ここでハンドルを切ったら、どうなるかとか考えたことあります?」

 僕は、少し間隔を置いて、

「そんな事考えたことないなぁ」

 そう言った。

 

 

 

   「モスキート」

 

 寝る前にショットでテキーラを一杯やる。そして、グレープフルーツジュースを100%で飲んだ。

「なんだよー。まだ三時じゃん」

 そう言って、僕はビデオデッキに表示してあるデジタルの時計を見て、薄暗い部屋にそう思った。

「超かゆい!」

 もうすっかり衣替えをして、半袖と短パンになったパジャマの露わになった僕の手足。最初は重かった瞼もすっかり冴えた。耳元で羽音を立てる、その小さな吸血鬼は、嫌でも僕の神経を逆なでする。おもむろに部屋の電気をつけると、

「くっそー、どこだ、このやろー」

 僕は、煙草に火をつけると、押入れの中から、今年初めての蚊取りマットを出した。蚊に刺された場所に薬を塗っていくと、その数なんと十七箇所。僕は、四匹殺していた。しかし、血を吸っていない蚊が中に二匹もいたので、こいつ等はオスだろう。しかし、刺された数と、殺した蚊の数が合わない。

「奴はまだこの中にいる」

 そんな、推理小説の名探偵が言いそうな言葉を子声で言い放って、僕は蚊を探していた。最悪だったのは、おでこにも一箇所刺されていた事だった。その時初めて、顔も刺されることを知った。よく見ると、天井にとまっている蚊がたくさんいた。その戦いは、真夜中一時間にも及び、疲れ果てると、ぐっすり眠るために、腹筋と腕立て伏せをして、布団に入った。それから、起床の時刻はすぐだった。朝起きてみると、どこにも虫に刺された痕なんてなくて、昨日のあれは夢だったと考えたけど、確かに蚊取りマットは部屋の片隅にあって、無残にも死んでいた蚊が、灰皿の中にたくさんいた。そして、僕のDNAつきのティッシュペーパーもゴミ箱の中にあった。

 しかし、何故あんなにもたくさんの蚊が部屋にいたのだろう。それを聞くと、布団を干した母親が、しまい込んだ後、電話がなって、当分窓を開けっ放しにしていたからだそうだ。僕は、その電話によって、安眠を妨げられたのだ。聞くところによると、電話の主は、お姉ちゃんだった。気を利かして、蚊取りマットを僕の部屋に付けておいてくれればいいものを。

 昔は、一体なんで蚊がいるのかわからなかったけど、最近本をよく読むようになってそれがわかってきた。はっきり言って、蚊に余り役目はない。他の動植物に餌とされてしまうくらいがそれだろう。専門家に言わせれば、それは違うと思うが、製薬会社が、蚊取りマットや蚊取り線香などを売っているくらいで、僕達は、蚊がいるからそれを消費する。

 蚊は血を吸う。血の中には人の遺伝子、つまりDNAがあって、そこにいくつ物数え切れないくらいの記憶が入っている。だから、昔に絶滅してしまった動物なんかの血を吸って、その蚊が現代に木の樹液や琥珀の中から見つかって、そして、昔の記憶を残してくれている。蚊の話しなんてどうでもよいんだけど、もし、昨日殺した蚊を殺さずにそのまま残しておけば、いつの時代にかなって、僕のそれを発見してくれて、僕のクローンを作ってくれるかもしれない。

 僕のクローンは優秀だ。でもきっと、もし、そいつと一緒に酒を飲んでも余り楽しくはないんだろうね。僕はクローンの話しを思っていると、昔読んだあの超有名な物語を思い出した。第三次世界大戦後の世界で、人類はアンドロイドと供に生活をする話。もちろんペットもアンドロイドで出来ていて、そのアンドロイドは、夢を見るのだろうかと言うもの。何だか、すごくありがちな、大戦後の灰が街を覆っている、近未来的な世界。アメリカ人の未来予想図はとても単純過ぎる。僕だったらこう考える。こんなに武装化してしまった世界だもの、核爆発で一発だね。何にも残らなくて、細胞から僕達はまたやり直すんだよ。その時は違った生態系に僕達みたいなのはなっていて、きっともっと優秀になっていることだろう。それは何かの細胞が記憶を持っているから、そこだけ少しお利口さんになるだけ。そして、その類が発達すれば、また人口が増加し、世界がまた破滅する。でもその頃は、きっともっと科学が発達しているから、もう地球を捨てているかもしれない。

 昔テレビで見た、あの超合金で出来たロボットは、いつになれば、僕達の前に現れるのだろう。きっと、技術的には、ある程度出来ると思うんだけど、そんな巨大ロボットを作らないのは、切っ掛けがないからだろう。多分、すごく開発料が掛かるんだよね。だから、どこの企業も余り本腰を上げない。だって、需要がまるでないんだもん。どうすれば良いかって?どこか、遥か何億光年と向こうの星から、悪い奴が地球に攻めてこなくちゃ。しかも日本に。

 アメリカでも、日本で製作した、子供向けの何とかレンジャーみたいなのがやっているけど、向こうは、バイオレンス反対とか言って、余り戦ってくれない。日本の子供が普通に見ているアニメも、規制されまくって、影響力がどうだの言ってる。教育が偏っているから、ダメなんだよ。白い色は、黒い色があってこそ、白く見える。その逆もある。その歴史の教え方もやめたほうがいい。幼稚園の時から、国家尊重なんて教え過ぎだよ。まぁ、その点、日本人は、全く国家に無関心だけどね。そろそろ一回は行こうと思っているんだけどね、選挙にでも。

 まるで僕は簡単に死んでしまう。生活に求めることは、ただ血を吸って生き長らえること。この頃から、僕はよく死について考えるようになった。それは、現時点で何かが僕を満たしたかのようにしているからなのだろうか、僕の心の中にはいったい何が巣作っているのだろう。それと同時に、それは弱さとかじゃなくて、僕の好奇心の端くれなのだ。前向きに「無」を見ることは、坊さんが悟りを開こうとするのと同じでしょ?

 余りにも非現実的な物が、現実に成り得る、現代。まるで簡単な動機で、ゲーム感覚で繰り返される、日替わりメニューの素っ気無い惨劇ニュース。

 

「いってきます」

 僕は、珍しく玄関まで見送ってくれた母親にそう言うと、自分のひいきしている野球チームが、昨日首位に踊り出たことで、足取りよく家を出た。

 僕はまだ、浴衣の裾から君を見ていない。夕涼みも、境内の静けさも、金魚掬いの破れてしまったパルプ紙。

「おはようございます」

 原色を余り好めないその日の僕は、気が付けば、当たりが暗くなるまで、ずっと創作人形として、その椅子に座っていた。僕に何の取り柄も無くなる頃、182枚の全ての僕の創作物が五枚のフロッピーディスクに納まり、今の僕の全てが、このたった薄っぺらい五枚に成ってしまった事に、悲しくなって、また僕と言う物が、リセットされて生まれてくる。僕を祝ってくれたのは、僕の描いたもの達で、僕の吸ったその一本の煙草が、僕への恩賞だった。

 脳から何かを分泌するために、心の中を飽和状態にする。ニコチンとカフェインは僕の中では同じ物質だから、それぞれを感作させる為には、僕は貧しくなければならない。今、一つの事を終えた。充実?それは違う。僕の中で、また大きな穴が開いただけ。そして、それをまた閉じると、またどこかに同じような穴を開ける。その繰り返し。

 僕が芸術家として大成するならば、もっと陰へ、陰へ沈んで行かなくては。白昼夢の全てが、ナイトメア。

 恋人よ。一発殴ってください。最近の僕、ちょっと変です。

 

 

 

   「一本の細糸」

 

 一縷の望み。僕が空を見上げていると、そこから一本の蜘蛛の糸がするすると降りてきて、そして僕のためにそれが言う。

「昇っていらっしゃい」

 でも、僕は騙されたりなんかしない。僕はその話を知っている。生きる欲望を失いかけていたわけじゃないけれど、今のままで満足している。そうやって五枚のディスクに納まった僕は、光一郎さんの手の中に入っていった。

「お、早かったね」

「そりゃー、まぁー、なんて言ったって僕ですから………」

 僕は少し笑って言うと、言った後で、少し得意げな自分がいて、コーヒーと煙草で心を浄化してみた。

「じゃぁ、これは明日にでも当人に会って見てもらうよ」

「あ、お願いします」

 僕と言う物に対しての答えが明確になる。それは、怖い事だけど、現実をそろそろ受け入れようかと言う僕もいたし、もう子供じゃない。

 僕は、一つの区切りがつくと、今度は実用書を取り出して、大下さんのために少し勉強した。はっきり言って、僕は基本的なコンピューターの使い方が余りわかっていない。学校に行っていたときも、やたらめったら、余り知ってしまっては、創作性に欠けるとか言って、学科は余り勉強しなかった。知識だけで、良いものが描けるとは思っていなかった。そして、デザインに使う機能以外余り基本的な事は知らないのだ。それに、相手もやはり進歩し続けているから、段々状況は変わっている。

「へぇーっ、こんなのがあったんだーぁー」

 僕は、本当に基本的なものを読み返して、結構パソコンって使えるじゃん。とか、思いながら、感心して読んでいた。しかし、何だか専門用語が多いよなぁ。専門用語の意味を調べても、その意味の中にさらに専門用語が入っているからわからない。やっぱり、これじゃぁー、老若男女問わず、難しい。会社でパソコンが導入されて、使いこなせていないオッサンがたくさんいる意味も頷ける。若い子でも難しいのに、オッサンにわかる訳が無い。

「よかった、デザインで」

 もし、僕が実用パソコンを取っていたら、絶対にわからないだろうなぁ、ってな思いで、頭が痛くなるのを避け、今使っているデザインツールだけを専門に基礎知識を入れていった。大下さんが欲しがっている知識もきっとこれだし。今は、プロとしてやっているから、知らないことは大抵無いんだけれど、基本的な物って、読んでいると以外に面白かったりする。

 そう言えば、まだ光一郎さんからは、誰からの依頼で僕にあの仕事が回ってきたか聞いていなかった。どんな人なんだろう。きっと、あれだけの想像力を持って、そして言葉も柔らかく、季節で言えば、色々思い当たる節があると思うんだけれど、きっと色白で、細くて、夏なんか、浜辺に立てば、麦藁帽子なんかが似合う人なんだろうね。

「赫那君、あのね、今電話したら、先方の人が明日一緒に来てくれないか?って言っていたんだけど、明日大丈夫だよね?」

「はい、大丈夫ですよ」

「良かったぁ、あ、阿呆裏さんて言うんだけどね、早い仕上がりに、喜んでたよ」

 僕は会話の中で漢字なんて想像できなかった。「アホリ」と言う一人の女性は、とても文学に満ちているなんて、その時はまだ気付かなかった。もう、僕の中では、海岸に佇んで、一人で遠くを見て、白いワンピースが潮風に揺れていた。

 

 夜、樹理からの電話で、僕はイタリア料理を想像していた。明日から、地方に研修に行ってしまう樹理は、学校の友達と、食事をしている。僕は、とても赤いワインが飲みたくなると、近くの酒屋まで歩いて、それを求めに行った。お酒を歩いてまで飲みに行きたくなると言うことは、これは、淋しいのだろうか。いつも会っている人に、突然会わなかったりすると、その間隔は、恐ろしく長く感じる。まるで、そこは地下鉄の始発から、終点まで、一人でその中に乗っているみたい。何のアナウンスも聞こえなくなって、ただ地下鉄の窓ガラスに映る僕が、少しだけぼやけて、その無表情さがなんとも滑稽で、流線型を描く円滑。その映し出された僕のハートを探そうとしても、自分にそれと同じ物をもっていないから、探すことなんて出来ない。この地下鉄の旅を、終点になって、始めて思い出そうとしても、景色も何も変わらないから、思い出せない。ただ、少し空気が汚れている。

「樹理とパスタなんて食べたことがない」

 酒屋に着くと、いつもやっているご近所挨拶をした。そして、渋いワインが飲みたいと言うと、おじさんは、

「これは、赫那君に特別ね」

 なんて言いながら、奥から、高そうなワインを持ってきてくれた。

「なんか、高そうですね」

 恐る恐る言った、僕の口調がおじさんに伝わったのか、おじさんは、恥ずかしそうに奥の方にまた入っていって、今度は違うワインを持ってきてくれた。

「これなら、普通のワインだから、高くないよ。さっきのは、今度、赫那君が、どうしても一緒に飲みたい人がいたら、言ってくれ」

「あ、ありがとうございます。じゃぁ、さっきのは、今度、彼女の誕生日にでも」

 そう言って、僕は、CDが一枚買えるくらいの値段で、その赤いワインを受け取った。そして、これでもおつまみにと、ビーフジャーキーをくれた。

 自分へのご褒美に、とか言って、何やらブツクサ物を買う輩達がいるが、僕は、それもたまには悪くないと言いながら、ささやかながら、自分へ乾杯した。今日は、いつもの橋の下が似合わなかったから、そこから上にある、小さな住宅街の、小さな公園のベンチに座った。そこからは、隣の街が一望できて、近未来的な、工場のオレンジ色の光と、遠くに見える空港の光、そして、高速道路を走る車達の灯火と、それを休めるパーキングエリアのまた違ったオレンジの光。ここは、中学の時に、僕と佑が恋愛について語った小さな吹き溜まりだった。

 ここからは、同時に佑の家が見える。佑の部屋に電気が宿ると、僕は彼に電話した。

「うん、酒持って、公園で」

 そう言うと、佑は5分くらいでここに着いた。

「あの時さぁ、俺達って、バカな話してたよなぁ、理想の彼女像とか、仕事だったり、家族だったり……何か変わったか?」

「さぁ、何も変わらないんじゃない?なるようにはなっていることくらいかなぁ?公に煙草吸えて、酒飲めて、新しい友達が増えて、古い物は消えて………」

「変わらないんだよなぁ………世間から見たら、もう大人だけど、なんか、ここに来たら、別にそんなのどうでも良くなって………」

 何故か、語尾を弱らせて喋る僕達がいて、本質的にはまじで何も変わらない。ビーフジャーキーを渡すと、佑はそれを食べていた。僕はジッポから出るあの独特の匂いが好きで、その煙草が無性に吸いたくなって、佑のジッポで火をつけた。僕は、それを楽しむために、普段は、100円ライターを使用する。その佑のジッポには、トルコ石が入っていて、それは僕があげた物だ。中を取り出すと、僕の名前が入っている。佑は頑なにそれで火をつける。

「不安って何だろうなぁ。今しか抱えれない不安って……警察から逃げていた頃のじゃなくて………なんか違う奴」

「あ、でも、俺それ好きだったよ、今だから笑えるんだろうけどね……あの頃、まじビビってたもん……。でも、あのなんか、胸の中が、スーッと冷たくなって……ちょっと悲しい奴ね」

「彼女とどう?」

「ん?別に普通かなぁ………いない時って、いないなりに欲しいとか思ったけど、別に付き合ったら、普通かなぁ………そりゃ、最初は新鮮だったけどね………。で、赫那は?」

「俺?俺はぁ……イタリア料理が何だろうとか、研修って何するんだ、とか……色々………ないなりに考えてるよ。お互い相手が若いじゃん………。って言うか、ここで酒飲んでるんだもん、それなりの考えとかあるよ」

「そうだよ、ここだもんな。女に振られたって、警察から逃げてきたって、何かを卒業したって、ここだもんなぁ」

 

 半分犬に引っ張られて、何やらブツブツ、犬に向かって喋っている散歩の女性が来た。

「何してるの、あんた達」

「何してるって、飲んでるの」

「何かあったんか?ふーん、珍しいじゃん、最近見ないと思ったら」

「オマエこそ、何してるんだよ」

「見てわかんないの、武田君の散歩」

「自分の犬に、君つけるなよー。相変わらず、でかいなぁ、武田」

「で、あんた達は、女にでも振られたんか?」

「うるせーなぁ……おまえこそ、彼氏出来たのかよー」

「内緒………」

「あ、オマエ、今照れなかったかー?」

「うるさいなー。行こう、武田君。こいつ等うるさいから」

「え、もう行くのー?飲んでいけばいいじゃん」

「じゃぁーねー。おじさん達の相手なんて出来ませーん」

 そう言って、散歩の女性は去っていった。散歩の女性は、一つ下で、名前は、恭子。小学校、中学校、高校、専門、ずーっと一緒だった。そして、一年僕は早く卒業する度に、彼女は僕に花束をくれた。

「あいつ変わんねーなぁ……」

「まだ赫那の事好きなんじゃねーの?」

「そりゃーないな。あいつはそんなに、ロマンティストじゃねーよ……。そう言えば、奈美と飲んだ」

「お、うん、聞いたよ。またフラレたー。って笑ってたけどね」

「別に振ってないって、でも、そこまで気にしてないならいいや、あの話聞いてから、結構気にしてたんだけどな………」

「で、結局、今日は何なんだ?」

「何がー?」

「いや、いつもあれじゃん、ここに来ると言いたい事言ってるじゃん」

「今日は、別に、一つ仕事が片付いたから、お祝いしようと思って、そんで、樹理がいないだけ。それにオマエと飲みたかったしな、最近飲んでないだろ?」

「ふーん、珍しー」

 それから、飛行機を四機、煙草を十三本、ワインを二本、会話を幾つか。僕達は、久し振りを満喫した。すぐ下の川沿いの堤防を、二台のパトカーが、音もなくサイレン灯だけを存在感にして走っていった。それが見えなくなると、僕達は、別に普通にサヨナラを言って、帰っていった。

 

 僕が手繰り寄せてきたものは、僕の身近にある筈で、僕のどこかで根付いて生きているはずだ。そして、僕が手繰り寄せたいものは、そう、とても繊細で、力に任せようものなら、千切れてしまう。僕が、激情に走りたくなり、それを冷静に留まらせるのは、僕の意思。僕が遠慮しながら、少し離れて指をくわえて見てきた一本の細い糸は、やがて赤い糸となり、それはとても強くなる。

 

僕が意味もなく持っていた、コルク栓。煙草を吸おうと思って、ポケットに手を入れると、そいつが顔を出した。何故、これを持っていたのだろう。慣れた夜道に、裏道が好きで、人を避けると、僕とコルク栓二人きりになった。

「君は僕の思い出じゃない」

 そう言って、コルク栓を小さな郵便ポストの上に置いて、振り返らずに家まで歩いた。

 

 

 

   「先入観」

 

「そう言えば、何で、週末挟んで、研修に行くんだ?」

「そんな事知らないよー。別に放送局に、土日定休なんてあるわけないんだから、いいんじゃないの?」

「研修って言うか、研修旅行だろ?」

「どう違うの?遊びも入ってるって事?」

「何か、修学旅行みたいなの」

「そんな感じでもないこともない」

「ちゃんと勉強して来るんだぞー」

「はいはい、じゃぁ、メールするからー」

 朝一番で、電話があって、イタリア料理のことなんて忘れてた。後、お土産も。

 良い感じで、ワインを飲んだのか、お腹がいつもより空いていた。無性にテーブルの上に置いてあった、食パンが食べたくなって、トースターを出した。おかずになりそうな物がなかったから、目玉焼きを焼いて、昨日の残り物だろう、カニとキュウリのサラダを見つけた。家には、昔からパントースターがない。テレビで見ていて、あれに憧れたが、別に飛ぶことによって、何も変わらないのだから、家はオーブントースターでパンを焼く。これなら、ピザも、グラタンも、何でも焼ける。

「バター、バター」

 そう言って、いつもバターと言って、探している、マーガリン。マーガリンサイドとしては、名前を間違えられるのは、かなりショックなことだろう。

 僕は、いつも見ている、まぁ、どうせ当たらないんだけど、なんか確認してしまう、テレビの占いを見ようと、テレビをつけた。良い時だけ信じるのは、当たり前。

「あれ?」

 いつもの時間に、あるはずの占いが今日はやらない。不思議に思っていると、そのコーナーの終わりに、アナウンサーが、今日は、一部内容を変更してお送りしています。そんなぁー、勝手に変更するなよ。で、占いは?僕は、トイレに立って、帰ってくると、占いは始まっていた。

「え?もう魚座?」

 いつも思うんだけど、占いって、絶対に牡羊座の人とか、損してるよなぁ。だって、いきなり占いのコーナー始まって、心の準備も無いままに、終わってるもん。

 

 仕事場にいくと、会社の看板が新しくなっていた。そして、玄関に花まで置いてある。

「今日何の日?」

 安浦さんに聞くと、

「え?覚えてないんですか、創立記念日ですよ、記念日」

「あ、会社のかぁ」

 やっぱり、光一郎さんも、社長も覚えていなかった。

「社長が、新しい看板頼んどいてくれって言ったんじゃないですか」

「そうだけど、別に、創立記念とは関係なかったんだけどなぁ……」

「じゃぁ、今日はお祝いですねー」

 そう、光一郎さんが言うと、社長が、

「じゃぁー、今夜みんなで飯でも食いに行くかぁ」

 

 僕と光一郎さんは、レコーディングスタジオの薄暗い階段を上がっていた。

「阿呆裏さんは、ここで仕事しているんだよ」

「ミュージシャンですか?」

「そう、音楽もやってるよ」

 そう言って、通された部屋で腰を掛けていると、サングラスな丸ボーズの人が入ってきた。厳つい髭を蓄えて。

「あーどうも、ども、阿呆裏さん」

 その、光一郎さんの言葉に、僕の前頭葉が反応した。白いワンピースだったり、麦藁帽子だったり、潮風だったり、一体どこへいったの?

「こんにちは、始めまして、赫那さん」

 サングラスをはずすと、阿呆裏はそう言って名刺を渡してくれた。その名刺を見て思った、阿呆の裏?「アホリ」ってこう書くのかぁ、変わった人だ。

「こんにちは、阿呆裏さん」

 あの海岸は、僕の感情をそっちのけで、どこか波と一緒に行ってしまった。その海岸で、一人で立っていて、僕を襲った大きな波、トランスフェラン現象。

「もう、僕の頼んだ仕事が終わったって聞いて、嬉しくて、レコーディング中なんですけどね、まぁ、そっちの方は今はいいですよ」

「えーっと、これが彼の作品です」

 そう言って、光一郎さんは、僕のフロッピーを渡した。

「これは、今日家に帰って、じっくり見ます。今日は少しお話をさせて頂きたくて」

「あ、その方が僕もいいと思います。絵に、僕の意見はもう要らないと思うんで」

「実は、赫那さんの絵を頂いたのは、これが初めてじゃないんですよ」

「え?でもお会いするのは、初めてですよね?」

「以前、僕のバンドのジャケットの絵を手がけてもらって、それで、赫那さんの絵が気に入ってまたお願いしたんです。「猫缶」って言うバンドなんですけど」

「あー、覚えてますよ。何でも言いから、ふざけた猫の絵を描いてくれって、それで、「ニャーン」って一言入っていればいいって」

「そう、それです。で、バンドの方は全然売れてないんですけどね。僕、元々はライターをしていて、それで趣味でバンドしていて、それで今回は、詩の本でも出さないかと言うことになって、赫那さんに挿絵をお願いしたんです。それと貴重な絵も持ってますよ。赫那さんが学生の頃のも一枚ね」

「そうだったんですかぁ。詩を読ませて頂いたんですけど、全然書いている人の人物像が浮かばなくって、まさか男の人だとも思っていなかったし、なんか、こう細いと言うかそんなのを想像してたんですよ。学生の頃のですか?お恥ずかしいなー。どうやって手に入れたか………」

 僕は、少し和んできたのか、笑って話していた。

「あ、それよく言われます。こんな詩を書いているのに、本人は、こう言う人なんだぁー、って。だから、僕と言う人を伏せてもらっていたんです」

 僕は、この人が好きになった。どこか、すごく仲が良かった誰かに似ている。それは女性だったのかもしれない。態度の類似性。知らないうちに、物腰は軽くなっていった。珈琲の出涸らしのような面影。

「どうですか?今夜食事でも」

「せっかくのお誘いですが、今夜はちょっと会社の創立記念で、用事があるんですよ。普通はこう言うのを断ってはいけないと思うんですけどね、作品を見てもらった後に、ゆっくり話がしたいと思って」

「じゃぁ、今度そちらの都合でお誘いお待ちしていますから。作品は、今夜中に見ちゃうと思いますんで、近いうちに」

「それでは、明日、こちらからお電話差し上げますよ」

 そう言って、面接が面談になって、お話になって、僕と光一郎さんはそこを後にした。帰る時に、スタジオを少し覗かしてもらったが、「猫缶」のメンバーはもっと怖いお兄さん達で一杯だった。

 

「何か、話してみると、とても感じのいい人でしたね。始めはかなりビビりましたけど」

「あー、僕も最初会った時は、違う世界に来てしまったかと思ったけど、見掛けじゃ人はわからないなー、ってあの時は思ったよ」

「あ、ちょっとあそこのレコード屋行ってきてもいいですか?」

「いいよ、じゃぁ、僕は社長にでも電話かけておくから」

 僕は、そう言ってレコード屋さんに入ると、「猫缶」のCDを探した。所があの見覚えのあるジャケットのCDはそこにはなかった。お店の人に聞くと、大型レコード店に行かないとないよ。って言われて、やっぱり売れてないって言うのは本当だった。

「あ、お待たせしました。「猫缶」のCD置いてなかったです」

「なかったの?もっと大きいところ行く?」

「あ、別にいいですよ、今日じゃなくても」

「でねー、社長が、もう今日は終わるから、そのままお店に行ってくれだって。四人じゃ寂しいから、磯崎さんと大下さんも来るそうだから、遅れないようにって」

「で、どこなんですか?」

「磯崎さん達は、時間通り終わるだろうから、磯崎さん達の都合に合わせて、近くの日本料理屋を取ってくれているらしいよ」

「え?じゃぁ、遠いですねー。って言うか、そんな高そうなところ、社長も今日は太っ腹だ」

 僕と光一郎さんは、地下鉄を乗り継ぐと、丁度下校途中の学生ラッシュに飲まれ、何とかそこに着いた。

 

「ここかな?」

 光一郎さんは、そう言って、そこに入っていった。僕の思い描く、日本料理屋とは異なった。こう、座敷が一つ一つ別れていて、中庭には、高そうな錦鯉とがいて………世の中そんなに甘くない。そこは、良く言えば、飲み屋の高級番、悪く言えば、料亭の大衆番だった。それでも、高そうなのは間違いない。

「まだ誰も来てないですね」

「まだ、二十分くらいあるからなぁ」

 そう言って、僕は通された座敷で光一郎さんと、少しかしこまって待っていた。

「ビ、ビンビールが六百円もしますよ」

他にすることないから、メニューを見ていた僕がそう言うと、

「大ビンじゃないの?」

「いや、中ビンです、ほら」

「うそー、高っ!社長も太っ腹だねー」

「料理もハンパじゃないですよ」

 普段特別高い店に行かない僕達は唖然としていた。最近、サラリーマンじみてきた。光一郎さんが、スーツを着ているからかもしれないが、僕も着ていたら、接待相手を待つ、ただのサラリーマンだった。昔は、うまい物は、食わなくちゃいかん。とか言っていた社長も、結婚してからは余り僕を食事に誘ってくれることはなくなった。それで、家族とも余り食事に行かないから、外食は樹理と出掛ける本当に軽い物だった。やっぱり今度、イタリア料理を食べに行こう。そうこうしていると、安浦さんと社長がやってきた。

「お待たせ」

「社長、ここ凄いですよ」

「何が?」

「何が?って、値段ですよ」

「大丈夫、割り勘だから」

 少し引きつった光一郎さんと僕を横に、安浦さんは笑っていた。

「冗談だよ。遠慮するな、たまにしかないんだから。それにお金の管理は安浦さんだから、俺も高かろうが、安かろうが知らん。飲んで、食え」

「遅くなりましたー」

 大下さんが来た。磯崎さんがいない。

「あれ?磯崎さんは?」

「あぁ、もう来ると思いますよ。私も外から来たんで、さっき電話したら、もう出たって言ってましたから」

「じゃぁ、お酒頼んじゃおうか。5分もしない内に来るだろう」

 そして、ビンビールがテーブルに並んだ頃に、やっぱり、磯崎さんは丁度やって来た。

「えー、我が社も今日を持ちまして、えー、えー、で、何年になるんだ?」

 お約束のように、社長がそう言うと、

「とにかく乾杯!」

 結局、乾杯の音頭に詰まると、みんなこう言う。でも、それで良い。もう、席順からか、これが当たり前か、二人一組が出来あがっていた。僕は、久し振りに社長と昔の苦労話をしていた。きっと、光一郎さんと、磯崎さんもそうだろう。女の子は女子なりの話があるに違いない。そして、料理が来ると再び、

「赫那のGデザイナーとしての最初の大きな仕事に、乾杯!」

「で、大下さんはいつから来るんですか?」

 そう、僕が磯崎さんに言うと、

「明日からだよ。明日」

「そう、明日から」

 社長もそう言った。きっと、今決まったに違いない。そうか、とうとう、大下さんもうちでやることになったか。僕は、それでもそこまで関心が無い様にお酒を飲んでいった。

「って言うか、明日土曜日で、僕休みなんですけど」

「え、そうだったか?」

 社長は全然知らないかのように、そう答えた。

「じゃぁ、来週からですね」

 そんな大下さんがいたから、

「いいよ、明日は仕事に出るよ。それに、暇だからね、家にいてもテレビを見ているだけ」

「じゃー、明日は赫那はただ働きな」

「って言うか、別に普段は固定給じゃないですか、あんまり変わりませんよ。家にいて不健康よりはましです」

「お、何だか、やる気だなー、おい」

 それより、阿呆裏さんの答えが気になる。きっと、明日家にいても起きてしまえば、それが気になるだけだ。僕は、今まで存在だけで誰かを好きになったり、嫌いになったりしてきた。ただ、なにかを満たすために隣にいる彼女とか、高いレストランに行けばそれなりに高いワインだとか、実際不便な二人乗りのスポーツカー。何で気付けなかったのだろう。あの182枚の詩は、確かに彼女の詩で、それは白いワンピースを着て麦藁帽子をかぶって、波打ち際に立って。そして、そう言う女性が、阿呆裏さんの心の中に住んでいる。もし、実在するそういう人がそれを書いていたら、安心して片を撫で下ろすだけ。

 実際、相手も僕に会うのは初めてだ。それは、僕の作品に関心を寄せてくれただけで、僕にではない。そして、今日初めて会って、それが何かに変わって、そうしてそれも時と一緒に普通になっていくだけ。僕達は、お互いに何かを掴んだからもう先入観には捕われないだろうが、もし僕が一方的に弱い人間だったら、今回の作品は、こう言う形で完成してはいなかっただろう。

 

 僕は家に帰って、またあの詩達を読み返していた。そして、今度は僕の絵を並べて。お互いの個性はそこにあって、そして別に何も考えなければ、ただの普通。

 一時だけ大人になるのを避けていては、ただの子供じみているだけのガキの遊び。僕は、知識や学習してきた物、記憶からなる失せ物。そう言うのを探したかったに違いない。望んで背伸びをしていたわけじゃないけど、もうあの時の気持ちは、あの時に置いて、今持てる気持ちにあの時が生きていたらいいな。

 

 

   「チムニー」

 

 好色をつかんだ僕は、やはり早起きだった。ニュースでは、山が噴火したって、それを必死に伝えている。そこに住んでいる人の気持ちもわかってあげたいが、それは地球が生きているって証拠だ。それは、誰かが止めてはダメなんだ。ただ治まるのをじっと待っているしかない。

 

 足取り軽く、少し早めに行くともう大下さんは来ていた。

「おはよう。」

「おはようございます。はい、コーヒーです。」

「お、早いねー。気が利くじゃん。」

「今日は特別気が利いてますよ。ずっと見ていましたからね。公園の向こうからいつ来るかって。」

「そうなの?ここに来るのはもちろん初めてだよねー。」

「初めてですよ。でも安浦さんに今色々説明聞いていたんです。あれが、コーヒーメーカーで、あそこがトイレ。ね?」

「説明ってそれだけ?」

「そうですよ。後は雑談です。社長が、なるべく赫那さんに聞けって言うから、今からが仕事です。で、何しましょう。」

「じゃぁーね、大下さんには……」

「はい!」

「え?あ、はい、大下さん。」

「その大下さんって言うの違う呼び方にしてください。」

「え?フルネームなんて言うの?」

「大下由紀です。」

「じゃぁ、由紀さん……」

「由紀でいいですよ。」

「何か、いきなり照れるじゃん。じゃぁ、そのうち由紀で。」

 ペースは少し崩れたが、以前よりも親しくなって、彼女も割と自然に話すようになった。心配って言うほどじゃないけれど、安浦さんとは仲良くやっているようだし。まぁ、光一郎さんの方が、どっちかと言うと、こう言うところでは若い子と話すのには慣れていないようだった。あんなに、コンパでは盛り上げ役を買っている割には。

 

「あ、光一郎さんそれ四つ葉ですよね?」

「あ、そうですよ、この前見つけたんですよ。」

「私、四葉好きですよ。」

 そう言われた光一郎さんは照れていた。

 

 一任されているのは、全く持って僕の仕事だけで、他の人の仕事には全く何の関係も無かった。社長が来ると、社長は来た早々、

「触るなよ。」

 大下さんは笑っていたが、僕は余り笑えず、そう言うことを言う社長がセクハラなんじゃないかって、一人思った。僕は隣の机にノートパソコンを開くと、同じツールを開いて、順に説明していった。

「大体わかった?」

「うーん、難しいですけどね、後はやっていくうちに覚えようかと……」

「じゃぁ、一枚絵を書こうか、僕も同じペイントとカラーでやるから、それで一枚書いていこう。あ、白黒の方がいいかな?とりあえず、今教えた物だけで、一枚書こう。お題は何がいい?」

「じゃぁ、セーヌ川の向こう側に建ち並ぶパン工場。」

「は?何それ。」

「え?ダメですか?」

「ダメじゃないけど、そんなの難しくない?もっと簡単な、キリンとか車とか。」

「実際描いてみれば難しいとは思うんですけど、ある程度知識だけは、一人で勝手につけて来ましたからねー。それに昔絵もやってたんですよ。高校三年間。風景画ばかりでしたけどね。私、人物画苦手なんですよ。」

「じゃぁー、それ描いてみようか、川の辺のパン工場。」

「あ、セーヌ川じゃなくちゃダメですよ。」

「じゃぁー、セーヌ川の辺で……」

 実際、描いてみるのが一番だ。色も無く、黒鉛一本で書くならそれは良いお題かもしれないけれど、それとは違う。多分、彼女は苦戦するだろう。パン工場ねー………僕の頭の中には、ギザギザの屋根に煙突があってそこからモクモクと煙が出ている。それしかわからない。僕は彼女の作品を完成まで見ないように、隣の部屋に場所を移し一人創作意欲を高めた。これは別に、川を描いて、パン工場を描いて、それを見る側に伝えれれば良い。簡単に言えば、その絵の中に、飛行機も像も飛蝗も、そう言う物は描かなくていい事だ。煙突から、慌てたサンタクロースが出てくるなんてもっての他だ。

「お昼にしませんか?」

 そう言って、僕のところに来た大下さんは、別に作品を作る前と変わらない表情で、僕にそう言った。

「うーん、お昼かぁ……そうだな、行こうか。」

「ここら辺って、食事する所あるんですか?」

「無いことも無いけど、喫茶店とうどん屋くらいかなぁ……後ちょっと行けばファミレスあるんだけど、ちょっとそこは遠いよ。」

「私は何でもいいですよ。」

「何でもいいって言われると一番困るけど、じゃー、一度は食べてもらいたいうどん屋だな。」

「おいしいんですか?」

「おいしくないよ、うどんは。」

「え?じゃぁ、何がおいしいんですか。」

「カツ丼。」

 仕事場を出た僕達は、結局うどん屋には行かずに、近くの喫茶店に行った。お昼のカツ丼は、女性には重たいらしい。

「お、いらっしゃい。ちょ、ちょっと、赫那君。女の子なんて連れて来ていいのか?社長いるよ。」

 慌てたマスターが、僕に親切にそう言ってくれたのか、妙に慌てていた。

「大丈夫ですよー。こちらは、今僕の仕事をお手伝いしてくれている人。もちろん社長も知ってるよ。」

「こんにちは。」

「なぁーんだぁー、じゃぁ、おじさんの早とちりだね。」

 そう言って、マスターは笑ってまた笑っていた。何がそんなにおかしかったかは知らないけれど、妙に笑っていた。社長は一番奥の席で誰かと話していたので、わざと声もかけずに、一番遠い席の見えないところに座った。

「何食べる?」

 そう言ってメニューを彼女に渡した。

「赫那さんは何にするんですか?」

「僕は、ここのメニューは既に全部食べたから、日替わりランチ。」

「お勧めとかありますー?」

「何でもお勧め。でも、特にこれ!って言う物もないかなぁ……」

 僕はお絞りで顔を拭くことに何の迷いもなく別に気にしなくたっていいやーとか思いながら顔を拭いた。それを見ていた大下さんが、

「赫那さんお絞りで顔なんて拭いたら、おじさんっぽく見えますよ。」

「別にいいよ、おじさんを隠す歳でもないし。」

「まだ若いじゃないですか、私とそんなに変わらないし。」

「そうか、二つしか変わらないんだよねー。今年大学出たんだっけ?」

「そうですよー、だからあんまり赫那さんがおじさんって言うと、私までおばさんみたいになるじゃないですか。でも、お父さんみたい。」

「ごめん、ごめん、で、決まった?」

「はい。」

 結局彼女は僕と同じ物を頼んで、そして、別に仕事のことは余り触れずに、普通の話をした。そして、サービスの昆布茶を飲むと、二人立ちあがった。一番端の席を見ると、もう社長の姿はなかった。

「あれ?社長もう帰ったんですか?いつの間に。」

「丁度、さっき帰っていったよ。あ、それとね、お勘定終わってるから。」

「え?」

「社長が二人のも払っておいてって。」

「あぁ、そうなんですか。じゃぁ、ご馳走様でした。」

 僕達はそこを出ると、本当にすぐそこの仕事場に戻った。

「社長、あ、さっきはご馳走様です。声掛けてくれれば良かったじゃないですか。」

「あぁー、声掛けようと思ったけど、二人が仲良すぎて、俺の入る幕じゃなかったからな、あ、お金は心配するな、どうせ俺個人で払っているわけじゃないし、マスターもコーヒーチケットから引いとくって言ってたから、どうせ経費で落ちるだろう。」

 

 僕は殆ど線を引かなかった。アウトラインだけのその風景ははっきり言って幼稚園児の絵だ。白いその上に、何本か線を引くだけ。後は、水でぼかしていく。工場だけは、消えないように、それのようにして、直線もちゃんと出したが、後はそれが目立たない様にぼかしていっただけだった。

「さて、由紀の調子はどうかな。」

 僕は、もうすっかり、本人の前以外で由紀と呼んで、彼女の元に行った。僕はもう、既に仕事を終えていた。

 

 

   「スピード違反、チューシャ違反」

 

 彼女も殆ど終わっていたが、彼女なりにやっぱり納得はいってなかった様だ。上手いきれいな物を描こうとしている様は伝わってくるんだけれども、それに技術が追いついていない。もしかすると、彼女は覚えてしまえば凄い物を描いてくれそうな気がする。ただ、風景画よりも創作性のある空想画を描いたほうが、せっかくパソコンを使っているのだから、受けると思う。今日の宿題は、それだな。

「描けた?」

 僕がそう言うと、彼女の顔は、悔しさが結構伝わるような、少し曲がった顔をした。

「うーん、頭の中で構想だけが膨らみすぎちゃって、それに技術が伴わないんですよ。やっぱり、難しいですね、まだまだですよ。で、赫那さんは?」

「俺は、もう終わってるよ。ほら、俺もあんまりこういうのをこれを使って描くことが余りないじゃん、だからいかに簡単に、これは、パソコンだからこうできるなーって言うのを前面に出して、さらっと仕上げたよ」

「本当ですか?見せてもらえます?」

 僕は、そう言われて、自分の作品を彼女に見せた。

「え?すごーい。線が余りない分、見るほうは見やすいですね。それに、これは手で描くのとは絶対に違うって言うのがわかりますよ。ふーん、こういうことかぁ……」

「今日は、じゃぁー、僕のこのPC持っていってもいいから、家で勉強してきなよ。宿題って言うわけじゃないけど、何か描いてきてよ。そう、あー、なんて言うの、空想画みたいなの」

「いいんですか?明日休みですよねー。これ持っていったら、赫那さん仕事できないじゃないですかー」

「社長より、きついなー。明日仕事をしたいなんて、これっぽっちも思わないと思うよ」

「じゃぁ、お借りします。空想画ですね。頑張ります」

 余り張り切らせるのも彼女の仕事に負担になるとは思うけど、本人がやりたければ、それを止めはしない。何やら、ここでの事をまとめて、磯崎さんに報告したり、彼女のあちらの仕事も少しはあるみたいだし、忙しそうだなぁ。やりたい事だと、人は必死になれる。ただ闇雲に、自分が望んでもいない事を、毎日自分を削ってまでしている交通渋滞を作る人達。あぁなるよりはましだね。

 社長には、大下さんをどこか飯でも連れて行ってやれと言われたが、今日は先約があったのでそれを断ると、阿呆裏さんとの待ち合わせに急いだ。

 

「僕はさぁ、自閉症患者で、一日の色があると、もうその色以外はいらないって言うような子だったんだよ」

「ふーん、そうなんだー」

 僕達は、もうすでにたらふく飲んでいた。阿呆裏さんは、友達みたいに喋ってくれって、僕にせがんできた。

「ある日、友達とイチゴ狩りに行くことになってねー。僕は、その友達とならどこにだって行けたんだけれど、それでも僕の閉鎖は進むばかりで」

「イチゴ狩りかー」

「で、イチゴ畑につくと、その友達はおもむろにナイフで人を刺し始めたんだよ」

「は?」

「僕はそれで、病院に入ったんだけど、主治医にはこう言われたよ」

「そんな友達は、本当は存在しちゃいないんだ」って、

「で、僕はこう聞かれたんだよ」

「その友達は、なんて言ったの?」って、

「それで、その友達のことを思い出そうとしたんだけどね、どんな人だったか本当に思い出せなかったんだ。でも、彼の言葉は今でも覚えているよ。彼はこう言ったんだ」

「僕達は、大きなイチゴ畑にいるんだ。そして、僕達はそこにいる人達の、それも僕達に似た人達の一期を狩らなくちゃいけない」って、

「それを主治医に言うと、君は少し疲れているんだ」って、

「それ、いつの頃の話?」

「八歳かな?」

「は、八歳?」

「で、僕も恋がしたくなって、主治医に許しを得たんだよ。もう、その頃は男性ホルモンの分泌が激しくてねー。看護婦さんに手でしてもらっていたんだけど、ある日、それ以上を頼んだら、看護婦さんにこう言われたよ」

「君は、もっといい恋をして、自然の力で、それを得なくちゃいけない」って、

「だから、自律神経が偏らないように、毎日運動と詩心と音楽を繰り返したよ。そうしたら、段々僕のハートは赤くなり始めて、普通の鼓動を帰す事になったんだ」

「で、恋の行方は?」

「最初はダメだよ。まだお家に帰る事すら許されていなかったんだから。でね、その看護婦さんの事が、気持ちとは別かどうかわからないけれど、「好き」というものになり始めて、それで、その人に好きって言ったら」

「君の頭はイカレテいるんだから、もっと弱くなりなさい」って、

「あれは、ショックだったなー。それから、1週間何も食べなかったからねー。そうしたら今度は、その看護婦さんが口でしてくれたんだ」

「泣いてるの?」って、

「そう、あの時僕は泣いていたよ。どこかもっと違う世界に来てしまったみたいで。それからは彼女と普通に話すようになったさ、でも彼女は大人ぶっていただけだったんだよ。本当は凄く弱くて、それでも彼女は十一歳の僕からすれば、二十七歳はやっぱり大人さ。そして、それからは二人大人になったね。まぁ、大人になったのは、僕一人だったかもしれないけれど、僕は彼女の中に入ることが出来たんだ」

「で、今は彼女は?」

「僕も中学に上がるくらいの歳から、段々精神が安定してきて、それで退院することになったんだよ。それで、退院の挨拶をしようと思ったんだけど、その少し前から看護婦さんの姿を見なくなって、それで不思議に思ったんだけど、僕は見たんだよ」

「何を?」

「彼女ねー、顔は少しグチャグチャだったけど、あれは確かに彼女だったなー。僕より上のレベルの病棟にね、白い柵の中にね、真っ白いパジャマを着て彼女がその中で遠くを見ていたんだよ」

「患者になったって言うこと?」

「ああ言う仕事を続けていたんだもん。精神が崩れても仕方ないさ。で、最後に花束をあげようと思って、僕は主治医に頼んで花束を持っていったんだ。そうしたら、彼女は泣いているんだけど何も言わないから、僕はそこを出たんだ。だから僕の話した言葉も一つだけ」

「泣いているの?」って、

「僕は、主治医に何で喋らないの?って聞いたら」

「彼女はもう二度と喋ることはないだろう」って、

「彼女は勝手に患者にあげる薬を持ち出して、夜な夜なチューシャしていたんだって。それでスピード違反で捕まって、もう果物を食べるくらいしか彼女の楽しみはないんだって」

「何だか、凄い話しだね」

「僕は病院から出てきたら、一躍スターになっていたんだ」

「何で?」

「僕が書いていた色々な創作物が、悲痛な境遇と重なって大人達にはそれが涙に代わったんだよ。僕はそれからすぐにオーストラリアに行って、執筆活動に夢中になっていた。だけど、一時だけの癒す道具にしかならなかった僕は、それから誰も僕を買わなくなったね。それで、オーストラリアの夜の街で売りをやって、日本にそれでも書いた物を少しずつ売って何とか僕を留めていた」

「売り?」

「大丈夫安心して、僕はゲイじゃないよ。彼女もいたし、彼女も売りをやっていた。それでも普通に恋はしていたんだ。人間が一番最初に職業として始めたのが、売春だよ。それは、今の世界では禁じられているけどね、普通に考えなかったら、欲を商売にしているんだから、一番合理的で簡単な仕事。割り切るのには時間じゃなくて、回数だよ。最初の一回。後は一緒だからね。何回しようが同じ事」

「何だか、僕も人間としてなら、それを素直に聞けるかもしれない。でもね、僕もアーティストとして自分を持ちたいから、そう言う境遇が羨ましい、って言ったら怒られるかもしれないけど、そう言うのに憧れる」

 僕がそう言う言葉にも、阿呆裏さんは無表情のままだ。

「で、いつ日本に帰ってきたの?」

「日本に帰ってきたのは、いつだったかなぁ………あ、そうだ。十七の時に強制送還で、日本に帰ってきたんだ。それで、自分の家に帰ったら、もうそこには知らない家族が住んでいて、寂しかったなぁ」

「え?家族はもういなかったの?」

「そう、でも警察にそれから言ったら、探してくれるって言って、二日間はそこに泊まって、何だか優しかったよ、日本の警察官。日本の警察官が、未成年にあんなに優しくしてくれるとは思ってもいなかったもん。だって、点数稼げないじゃん。未成年に構っているくらいなら、他の仕事をするでしょ、普通。それでも、弁当食わしてくれて。で、二日後にお父さんが迎えに来たんだけど、お母さんはもういない。って言ったから、そのまま三ヶ月くらいは、普通に暮らしたよ」

「で、お母さんはどうしたの?離婚?死別?」

「さぁ、その事は聞かなかったよ。でもね、いたはずの妹もそんな人は最初からいなかったくらいの勢いで、もうそこにはいなかったんだ」

「じゃぁー、離婚したんだね」

 彼は急に黙り込んだ。きっと、お母さんのことが本当は好きで、会いたくて仕方がないんだと思う。僕は、二人分のビールを追加した。

 

「バンドはいつくらいから組んでるの?」

「大学に入ってからだよ」

「大学出てるんだー」

「頭は悪い方じゃなかったからね、教育と言う物が余り好きじゃなかっただけ。大学入試の資格を取ってから、少し勉強したよ。だけど、それも下らないって、最初はお父さんに反対したんだけど、生活費をくれる人だったからね、連絡さえつけば、日本のどこかにいればいいって、それで親に甘えた。十九歳で、大学に入ると、そこには普通の日本人がたくさんいて、その中に埋もれてみたんだよ。それでも出来た友達は、みんな少し頭がおかしい奴らばっかりで、気が付けば、大学の友達よりも、重低音に酔いしれているモヒカン野郎達と仲良くなって、それでバンドを組んでみたんだ」

「それが「猫缶」?」

「その時は、「猫缶」の前進だったかな?あの事件がなかったら「猫缶」は生まれてこなかったもん」

「あの事件って?」

「うちのギターの奴が目立ちたいばっかりに、ステージの上でウンコしたんだよ」

「ウンコ?」

「そうしたら、調子に乗って、ドラムの奴までウンコしたんだな、これが。そうしたら、観客の奴がステージの上に上がってきて、そのままギターの奴を殴りつけたんだ。で、そいつも何故かそこでウンコして、もうライブハウスはウンコまみれだったよ。観客みんなでその場でウンコ。汚い話しだろ?」

「でも、何でそれで「猫缶」に?」

「それで有名になって、少し売れたんだよ。メジャーに決まって、やっと普通に飯が食えると思ったら、今度は小さなライブハウスじゃなくて少し大きなホールでファンがウンコしたら、みんな捕まっちゃったよ。そこからは低迷線。だけど、何かと話題だけで活動は続けてるけどね。それを裏として、僕は一人個人活動として、絵やら詩などの個展を開いていたんだ。そうしたら、今回の話になって、君に挿絵を頼んだって事」

「そうだったんだ」

「出版側も狙ってはいるとは思うんだけどね。ほら、僕の詩って、全然僕の心からは生まれて来そうにないじゃん。そして、少し宣伝して、何かの話題に乗せていく。そうしたら、少しずつ僕の素性を明かしていって、そのギャップで僕を売ろうというもの。それで、もし僕の詩集が売れちゃったら、少しは「猫缶」も売れるかなぁ?」

「実は、僕も「猫間」聞いたことないんですよねー、すいません。せっかくお仕事もらったのに」

「あー、その方がいいかもしれない」

 阿呆裏さんは笑った。それでも趣味と言っている。

「僕は、君の絵が好きだから、もし僕の詩集が売れれば、必然的に君の絵も売れることになる。こんな僕だけど、よろしく頼むよ」

「じゃあー、僕の絵はあれで良かったって事ですよねー?」

 彼は頷いた。仕事の話はなかなか切り出してもらえなかったから少し不安ではあったが、そしてやっと、僕の胸の内も穏やかになった。

 彼の境遇や昔話は、彼の物で、僕は何一つとして、寂しい思いはしなかった。ただ、彼の作品を見る限り、僕は単純に「彼」に惹かれた。