「誤認逮捕」

 

 まず、真意というものは本人しか知らない。拒否と嘘はまるで異なる。

 

 私あなたの涙を診ます。

 

 僕は樹理の好きなカスタードプリンを買って、アパートの階段を駆け上がる。ドアをノックする。笑った樹理の顔が飛び出す。そして僕は、唖然とする。僕にはめられた心の手錠が外れた。

 

「ごめんなさい。間違いだった」

「そっか」

 僕は、安心したのかすらも分からない返事で彼女の目を見ることなく、冷蔵庫にプリンをしまった。

「一つ聞いていい?」

「あ?」

 何を聞かれるかは瞬時にして分かった。

「もし、もしだよ、妊娠してたらどうしてた?」

「そんなの、わかんないよ。だって、妊娠してないんだろ?じゃぁ、別に考える事ないし、その答えによって、俺たちが変わるわけー?」

 僕は、ただその答えによって不安になることを避けた。もちろん、今のままじゃ産んで育てることはできても、それが必ずしも幸せとは限らない。

「ちょっと、感じ悪くなーい?そんな事言ってるんじゃなくて、もしかしての話!」

「あ、ごめん。でも、おまえだってさぁ、学生じゃん。だから、もしにしろ俺は自然に任せることはできないって思うよ。それに、子供産んでできる仕事じゃないだろ?だから、俺は今まで結婚の話、したことないし、それは今必要ないって思ってるし」

「ふーん、産むにしろ、下ろすにしろ、答えはきっとその時になってみないと分からないと思うけれど、ちゃんと考えてるならいいや。わかったよ」

 和らいでくれた口調の後に、「結婚かぁ………」

 そう言った、彼女の気持ちはわからなかったけれど、彼女はまだ自分のやりたことを持つ、二十歳の学生だ。考える事はたくさんあるだろうなぁ。

 

「ちょっと、車移動してくるよ。急だったから、目の前に路駐しっぱなしだから」

 

 僕はそう言うと、普通の足取りで車に乗り込んだ。やっぱり、車は狭くなくいつも通りの広さだ。部屋に戻るとコーヒーのいい匂いがして、そう言えば、エスプレッソマシーンでコーヒーを立てるのは久し振りだなぁって思って、その機械を買ったまだ学生だった頃の自分を思い出して、その頃は本気で結婚をしたいって願っていた僕がいた。

 

 あれは、専門に行っていたころ、僕はまだ18で一度外を見渡せば、その頃は自分はまだ若くて、少し背伸びをしていた自分がいた。明日にでも大人になれると思っていた僕は、勢いだけじゃ駄目なんだって事も覚えたし、それに順ずることは、回りにもたくさんの迷惑をかけていたことも気づいた。

 

 その女性は、コーヒーミルで豆を砕く。

 

 当時その女性は、今の僕と同じ年で、離婚経験があった。出会った頃に、丁度その問題が解決したところで、なぜかわからず、夜を共にした。出会いは、弾き語りをしていた僕の歌が、彼女の足を止めた。背伸びして書いた曲が、彼女の心には届いてしまったらしい。週に五日は彼女の家にいた。彼女はコーヒーが好きだった。とても彼女の作るコーヒーは、僕には苦かった。僕は彼女の誕生日に、当時学生だった僕には少し高いあのエスプレッソマシーンをプレゼントした。そして、僕が初めて仮題として描いた下手くそな絵も一緒にプレゼントした。僕は、本気で彼女との結婚を考えていた。でも、彼女との恋が終わると、それは僕が若さ故に引き起こしてしまった、悲痛な境遇を安買いしようとしていただけだった。それは悪い癖だった。彼女はきっと、僕にそういったものを望んでいなかったのだ。離婚したのだって、結婚生活が嫌になって別れたのかもしれないし、今となっては分からなくなってしまったけど、僕が軽く言ってしまった、「結婚しよう」の一言からそんな生活が終わってしまったのはわかっている。彼女は弱っていた。きっと精神も不安定だったんだろう。

 

 彼女と別れて、僕はどうしようもなく苦いコーヒーが飲みたくなった。そして、「ラット」にコーヒーを飲みに行くと、そこにはあのエスプレッソマシーンが置いてあった。小出さんに聞くと、彼女がこれは苦いから、といって、僕に渡してくれと持ってきたそうだ。どんなに苦くたって、彼女のコーヒーは、もっと苦かった。きっと今でも、彼女はコーヒーミルで豆を砕いているだろう。

 

 樹理がコーヒーを僕に勧めると、僕は、苦いって言うことはそう言うことだったんだって、ただ頷いて、一人で納得してしまった。

 

「ねぇ、窮屈だって思う?」

「何が?」

「色々と………この部屋だったり、空間だったり、一人の時間だったり、二人の呼吸だったり………」

「全然」

 樹理はあまり人には見せない、はにかむと言う笑顔を少し覗かせた。

「プリン食べていい?」

「あ、俺も食べる」

 

 僕は彼女に指輪を強制したりなんかしない。夜の駅の構内で、若者達が我を我をと、声を嗄らしながらギターを弾くその様は、感受性の塊で、それを周りで笑ってみている人たちは、ただの傍観者だ。今は僕は傍観者の一人だけど、僕は笑ったりしない。

 

「今日はもう、仕事いいや。何しようかぁ?」

 僕がそう言うと、

「エッチ」

 樹理がそう言う。

「は、まじ?」

「うっそー」

 そう言って、ふざけあっているうちに、僕はキスをしたんだけれども、

「今日は駄目」

「何でー?」

 そういう僕に、

「さっき生理が来たから、こういう話になってるんでしょ?」

「あ、そうだった」

 

 僕は、すっかり忘れていた。でも、こういう風でいいんだな、すごく自然。その夜、最後のプリンで喧嘩した。それがすごく嬉しかった。

 

 

 

 

 

   「初秋」

 

 僕は友達に、テレビに出てみないかと誘われた。テレビに出るといっても、一時間座ってて言われたことを最後にするだけの簡単なことだった。余り売れていないようなお笑い芸人が、夜中にこっそりとやっている、そんなマイナーな地方の番組だった。役柄は陪審員。決められた審査を決められた風にこなすだけ。男女それぞれ3人ずつ陪審員がいて、その中に僕はかわいい子を見つけた。収録が終わると、そんな芸能人なんかどうでもよくて、テレビ局からお金をもらって即即スタジオを出た。陪審員が男女それぞれ3人ずつということは、一緒に仲良く飲みに行かないと。僕は、収録の休憩中に、そのADの友達にその話を持ちかけて、それに漕ぎ着けた。もちろん、男三人は友達だったから、もう普通のありふれたコンパ状態で、僕はきっとそんなことから運命的な出会いをしたんだと思う。彼女達は短大生で、やっぱり暇だったから来ていたみたいでその後どうせ三人で飲みに行くのだったらと、こうして来てくれた訳だ。

 

「名前なんて言うの?」

 僕がそう尋ねると、

「樹理です」

 そのかわいい子は言った。

「樹理?本名?」

 僕もよく言われる。僕の名前だって難しいし、読めない人のほうが多い。

「本名ですよ。何て言うんですか?」

 そう聞かれて、僕も本名ですか?って言われると思って、

「赫那」

「かっこいい名前ですね」

「ありがとう」

 今、思えばその時にもう樹理は僕のこと好きだったのかなぁ?って、まぁ、思ってはいなかったけれど、そういう事にしておきたい。

「で、赫那さんたちは何で、今日来てたんですか?」

「あ、カクナでいいよ。さんなんて恥ずかしい」

 そういう風にして、仕事の話なんかしたり、特に年の差を感じることなく話を進めていった。

 

「あ、もしもし、俺だけど、今夜空いてる?」

「あ、はい」

「じゃぁ、食事でもしようよ」

 そう言って、僕たちはそれからよく遊ぶようになった。ADの友達に感謝の気持ちをこめて一緒に飲みに行った。もちろん、その友達は、樹理のことをよく知っていた。僕はまだ、そいつに樹理とうまくやっていることを言わなかったから、そいつは、彼女の話をし始めて、そして僕はそいつを殴った。

 

 言わなくていいことだってある。聞かなくていいことだってある。

 

 人の過去なんてさぁ、もう二十年も生きていればいろいろあるんだよ。僕は、その話を聞いて、樹理と付き合うのは無理だな、って思ったけれども、それを受け止めてあげられない自分があまりにも弱くて、情けなくて、僕はいろいろ考えて、そして、次の日、僕は樹理を公園まで呼んでいた。

 

「いい天気だね。夏はもう終わっちゃったね」

 別にいつもの樹理だ。

「今年も暑かったなぁ、毎年そう言ってるけどね」

 木漏れ日というやつが、ベンチに座っていた僕達の足元を軽く揺さぶっている。

「ねぇ、サンタクロースとか、まだ信じてる?」

「まだってどういうこと?私は、ずっと信じているかも」

「一緒に居たいね、クリスマス」

「そうだね」

 アルミホイルが、電子レンジの中で火花を上げて、バチバチと音を立てて、そして、「チーンッ」って言って、止まった。

 

「お互い、まだ大切な日を二人で迎えてないよ」

「誕生日?」

「そう、命を授かった日」

 その時は、そんな表現をしたって、少しも恥ずかしくなかったんだよ、お互い恋に勢いづいていたから。

 

 煙草に火をつけると、やがて僕の体は地球に溶け込み始めた。

 

 そして、やがて聖なる鐘が鳴り始めると、僕たちは向かい合って座って、食事をしていた。

 

「ねぇ、出会った頃の気持ちって覚えてたりする?」

「ん?気持ち?どうだろうなぁ………ただ普通に恋をしているなぁー、って言うくらいかなぁ」

「私ね、最初はすごく不安だったんだ。もちろん今でも、この先のこととかで悩んだり、ほら、もう短大生でいられるのも後少しでしょ?そうしたらどうなっちゃうのかなぁー、とかそう言うの。ごめん、よくわかんない事言ってるね」

 樹理はもう、そのシャンパンの気泡の細かさに酔ったのか、そう言うことを突然のように言い出した。僕は自分の中でも、樹理が言った言葉を反復してみたが、やっぱりその時の気持ちなんて思い出せない。しみじみ思えばこそ分からなくなるものだ。

 

 初めて出会ったときの樹理の顔はもう忘れてしまった。でも今ここに、今の樹理がいる。それだけで、別に何も望まない。

 

 クリスマスが終わり、歳が明けると、思い出に頼る生活が始まる。樹理が自分を必要とすれば、何処にだって飛んでいったが、生活を変えるほどの事は自分自身出来やしなかった。そして、樹理の新しい生活が始まった。僕は樹理に花束を贈り、僕達は、そうして水飛沫を浴びる。雨の季節になれば、樹理の誕生日がやってくる。そして、僕も除湿がすんだ後、また歳をとる。

 

 今年の夏が終われば、きっと、もうすぐ一年だねだとか、今年の夏は暑かっただとか、そう言う話をしていることだろう。

 

 過去を振り返り終わると、僕はコンピューターの画面の中にまた吸い込まれていった。描き掛けだったその絵は、何処か紅く色付いて、まるで秋の匂いまで届きそうだった。この詩人は、僕の様々な出会いや別れだとか、そう言ったものを思い呼び起こさせる。こう言う空間は悪くない。ただ少しずつ思い出と言うものは増えていくのだから、僕が知ってたり知らなかったりしていた情景すら、ちょっとした言葉なんかで、勝手に感情移入してしまって、目の前にそれが現れる。感慨にふけっているのか、ただ何も考えず、遠くを見ているだけなのか、でも、あの頃の気持ちなんかを思い出していたりする僕がいてよかったと思う。ただ、初めて出会った彼女の顔は、もう忘れてしまっていただけ。

 

 僕は、押入れの中から黄色い紙袋を取り出した。

 

「少し休憩でもするか」

 僕はそう言うと、その黄色い紙袋を持って、外に歩き出した。

 その川原の橋の下は、昔中学生だった頃、よく友達と余りおいしいなんて感じなかった煙草を吸っていたところだ。そして、地元のみんなで最後に集まってバーベキューをしたところでもある。

「ここからの風景は余り変わってないなぁ」

 そう言うと、煙草に火をつけて、僕は紙袋の中から思い出を取り出した。

 何だか、本当に笑ったり、泣いたりしていた、あの頃の僕等。僕は、撫でてみた頬の不精髭が痛々しくなってきて、そして突然、涙のようなものが、目の周りに溜まり出した。

 そこにはかなり茶色くさび付いてしまったドラム缶がある。すぐ上にある神社から盗んで持ってきたのは、若かりし頃の僕等。人目につかないから、ここで火を起こしていても、誰からも文句を言わせない。冬でも僕等はそうして、暖を取って、ここで未来について語っていた。

 

「さようなら」

 

 そう言うと、その紙袋ごと、それに火をつけて、僕はドラム缶の中にそれを落とした。その中には風すら入らないから、それはとてもゆっくりと燃えて、そして灰になった。僕は、その燃え終わったものをしばらく無心で見ていると、急に何かを達成したかのように、心を川の流れに奪われていった。

 一番暑いあの季節に、僕の恋は終わって、そして、出会いがあった。

 その黄色い紙袋の中には、捨てきれないでいた、昔の僕と、そして、その時一番愛していた人がいた。僕はそれを燃やした。

 

「わーーーーーーっ!」

 

 僕は、誰かに届かなくてもいいから、とにかく大きな声をあげた。それと同時に、その橋に巣作っていたハトの群れが、一斉に大空へ向かって飛び立って行った。そして僕は、思い出を断ち切れたのか、また、ざわめきのある方へと歩いて行った。

 

 

 

 

 

 

   「すいさいど」

 

 朝、僕はコーヒーを飲みながらテレビを見ていると、そこに白い犬が映っていた。

 

「あれ?」

 

 ぼくはその犬を何処かで見たような気がして、それが何処で見たのか、思い出せなかった。でも、その犬を抱きしめた時、体温を感じなかったから、きっと今朝の夢の中ででも見たのだろう。でも、どんな夢だったのかは、全く思い出せない。夢と言うものは、とてもまどろっこしいものである。

 

 今日は、朝刊が休みだ。昨日の野球の結果が気になって仕方なかった僕に、下らない情報番組が圧し掛かる。どの局も同じような番組をやって、どうして情報を取りたい人達に向かって、そんなテレビカメラ越しに、そんな下らないことが言えるのか。もう、そのギャグは見飽きたよ、おっさん。おっさんにしろ、ババアにしろ、一斉を風靡した、そのギャグだけで、のうのうと生きている奴等。もう、それは古いんだよ。何で、ゲストだからって、そんなにも、そいつを立ててあげられるんだ、アホ司会者。視聴者が本当に見たがっているのは、そんなのじゃなくて、もっと新しいものと、綺麗なものだ。それが、本当にコメディー番組で売っているならまだしも、朝の情報番組だぞ。そんなさわやかな顔で、生放送で、下らないことばっかりやってるんじゃねー。

 結局、野球の結果が分からず、テレビに一人で、ぶつぶつ文句を言って、どうでもよくなって、歯を磨きに顔を洗いに行った。

 

 今日も家は静かだった。姉夫婦ともうすっかりおじいちゃんおばあちゃんになってしまった両親は、明日まで旅行に行って帰って来ない。本当だったら、僕もそこに同席して、おいしいものを食べていた筈だったのに、日本人であるが故に、仕事をしなくちゃならない。その窓から見える、いつもの街並みは、とても眩しくて、家で閉じこもって、コンピューターに向かっている自分が、とても愚かだ。

 

 樹理は結局、僕の仕事の都合で遊べないから、実家に帰ってしまっていた。

 

 せっかく昨日、僕は思い出を心の中から、この地球上にばら撒いて、拡散させたのに、肝心なその隙間を埋めてくれる人がいない。僕は、とにかくこの現実に踏みとどまろうと、仕事をこなしていった。少しさぼりがちだった、この仕事をこなすべく、僕はコーヒーと煙草だけに頼って、寿命は自分で決めるんだとばかりに、不健康さを保って、そして、気が付けば、もう夜になっていた。電話が鳴ると、僕は初めてそれに気付いた。

 

「もしもし、どうよ、彼女とは。今、休みか?」

「あ、うん。明後日まで休みかな」

「どうした?もう別れたのか?」

「いや、違うけど、何してるのかなー?って思って、明日暇かなー?って」

「暇と言えば、暇だけれど、何で?」

「いや、そろそろ彼女にも会わせてあげたいし、こう言う時しか会えないからねー」

 佑は周りから見れば親友だが、あえて僕はそう呼ばない。

「樹理ちゃんも連れてきなよ。四人で何処か行こうか」

「それが、あいつ実家に今帰ってるから、いないんだよねー」

「なんだ、じゃぁ、赫那一人なのかぁ」

「そう、仕事の持ちこみで休みだから、時間あんまり取れないって言ったら、じゃぁ、いい機会だから、実家にでも帰るって、帰っちゃった」

「とにかく、明日どうする?」

「あ、じゃ、一目会っておくよ、やっと出来たおまえの彼女だからな」

 僕はそう言って、どんな彼女なんだろうって気になりながら、またコンピューターに向かっていった。それから二時間くらい、またそれにのめり込んで、終わらせると、無性にお腹が空いていることに気が付いた。僕は、夕美香の店に何か食べ物をご馳走になるかのごとく、家を出た。

 

「いらっしゃい、もう閉店の時間だぞ」

 そう、おじさんが言うと、

「そう言わずに、作れるものでいいから、作ってくださいよ」

「じゃぁ、そこでテレビでも見て待ってな」

「夕美香は?」

「さぁ、何処かに出掛けたんじゃないかなぁ?家にはいなかったみたいだし」

 なんだ、居ないのか。急に、僕は独りぼっちになったみたいな気がした。テレビのチャンネルを変えると、ちょうど僕のひいきにしている野球のチームが延長の末、サヨナラ勝ちを決めていたところだった。僕は、少し嬉しくなって、またチャンネルを変えると、今度は未成年に迫ったドキュメンタリー番組がやっていた。僕は、それを見始めて、ものの五分で胸糞悪くなって、チャンネルを変えた。やっぱり、未成年達は、この何年かで、確実に進化し、退化して行っている。僕は、残り物にしては豪華な特別メニューを食べて、そして家に帰った。

 

 お風呂から上がると、僕は少し汗ばみながら、冷蔵庫の中に手を入れた。そして、こんなにも冷えてしまった缶ビールを取り出して、よい音を立てて、泡をまず飲んだ。あんまり家でお酒を飲むことが無かった。そう言う習慣はなるべく無いようにして、寝つきの悪いのを直していたからだ。昔から、枕元に小説が置いてある。大抵次の夜また読み続けようと思うと、意外な内容と、知らない内容にびっくりするのだが、三ページほど前に戻ると、あぁなるほど、って思って、またそこから読み始める。それを繰り返して、一冊の本が終わるまでに時間がかかり、余り内容もしっかり把握しないまま、エンディングだけで満足して、また新しい本を読み始める。でも今日は、誰も居ないせいか、ビールを見ながらリビングで、一人ニュースを見ていた。

 

 何処の局も夜のニュースが終わり、低俗な深夜番組が始まると、僕は興味ないままそれを見ていた。恥ずかしい限りだが、こう言うのを見ている僕が居て、そしてそれを作っている製作側が居る。日本は、いつからか、適当という言葉が好きになっている。

 

 枕元の電気スタンドをつけると、僕は久し振りにその本を開いた。全く内容というものが把握できない。そして、いつものように昔のページを探ると、ほら、少しずつ蘇ってくる。サスペンスや、歴史の小説はなるべくこう言う機会に読まない。もっとさらっとしていて、作者のどうでもよい、それでもって誰かを惹き付けてしまうような、日常に溢れている物語の方が、こういう時間は合っている。やがて、身体が眠ってしまうと、それに釣られて、僕の脳も眠ってしまった。

 

 朝が来てくれた。牛乳を飲むと、いつもあるはずの朝刊が無くて、僕はわざわざポストまで出向き、それを取りに行った。ぼさぼさになっている髪の毛を掻き毟りながら朝日に目をやられると、真向かいの家から一人の女性が出てきた。

「おはようございます」

「あ、おはよう、久し振りだね。こんなに近くてもなかなか会わないよねー」

 僕は眠たげな目をこすり、別に女性だからといって、恥ずかしがることも無く、普通の朝の挨拶を交わす。

「それじゃ、行ってきますね。今度、うちにも遊びに来てくださいよ」

「ああ、じゃぁねー」

 その女性はそう言って、歩き出してしまっていた。遊びに来てくださいと言って、真向かいの家だからって、遊びに行けるわけがない。小学校から、中学校まで見てきたその女性とは、もう違うのだ。女性というのは、親しければ親しかったほど、何故かしら、遠くに行ってしまう距離が、男よりも遠い。

 

 緑茶を啜って、珍しく朝ご飯を食べた。冷蔵庫を覗いたら、賞味期限が今日までの納豆を発見して、何処からか来る貧乏性に負けて、食べなくてはと言う使命感が生まれ、レトルトのすぐ出来るご飯と、生味噌のお湯を入れるだけの味噌汁を作り、何だか不自然だ。と思いながら、それをたいらげた。レトルトのご飯を探している時に、ずいぶんと贅沢している家庭を見てしまった。出て来る、出て来る、賞味期限の切れたものや、使い掛けのもの、缶詰だからまだ食べずに取っておこうとする、珍味の缶詰。何に使うか分からないような調理器具、今まで一度も見たことのない食器。本当は、緑茶じゃなくて、紅茶が飲みたかったけれど、見つかったのはリーフの紅茶で、パックに入っていない奴。今度はそれを飲もうとしたけれど、ティーメーカー見つからないし、きゅうす洗うの面倒くさいし、家族のキッチンは、いつしか、母親の物だけになっていた。

 

 昼に佑が迎えに来るまでに、もう少し絵を完成させておこうとコンピューターを起動させる。そして、いつまでもパジャマでは身がしまらないと、ジーンズに履き替えて、椅子に座った。そして、見事に昼になった。

 

 携帯電話が鳴って、外を見ると、佑の車が止まっていた。すぐに行くと言って、電話を切ると、コンピューターを終わらせて、階段を下りる。素直に履けない靴下に苛立って、そして、外に出た。

「待たせたな」

「赫那、髪伸びたなー」

 そう言って、挨拶なんていまさら別に大して意味もなく、車に乗りこむと懐かしい曲が流れていた。僕達の青春の歌は、いくらだってある。別に言葉も余り無いまま、僕達は、思い思いに歌を歌って、交差点に差し掛かって車が止まる度に、最近どうだのこうだの報告みたいな感じで話した。

 実は佑の彼女は同じ職場で、今年から入ってきた新入社員だと言う。社員研修のとき、佑はその指導に当たっていて、すぐに打ち解けて、そして、なぜか配属先が佑の店舗になってしまったのが切っ掛けで、二人は今に至る。もちろん、会社にバレれば、何処か違うところに飛ばされてしまうので、今ではお忍びで、ひっそりと交際している。でも、それが恋少なき佑には合っているのかもしれない。

 彼女は今年短大を卒業したから、歳は樹理と同い年だ。少しずつ、少しずつ髪の毛の色を黒に戻していったような、そんな髪の毛の色をしている。とても話しやすそうな、感じのよい子だ。

「初めまして、知美って言います」

 その後に、すぐ元気のよい声が後ろの方から聞こえた。

「こんにちは、知美の妹の奈美です」

「あ、初めまして、佑の古き良き友人の………」

 自己紹介も終わらないうちに、奈美が、

「かっこいいですね、名前なんて言うんですか?」

「あ、赫那です」

 今、自己紹介をしてるじゃん。最後まで、話聞けよー。と、思いつつ、この子も来るのかなー?って思う前に、もう車の後部座席に乗り込んでいた。姉は、どちらかといえば、大人しめだが、妹は、すごく元気だった。仕方なく、僕も気を使って後部座席に乗り込んだ。車の中では、ほとんど奈美が一人で話をしていた。知美と奈美は年子で、奈美は高校を出た後、大学には行かずに、エステの仕事をしている。姉妹と言っても、あんまり似ていないものだなぁ。でも、顔は何処と無く似ていて、化粧くらいが、その変化をつけている。二人とも、別に普通にかわいい。

 

 僕達はある場所に向かっていた。そこには、嫌なくらいトーテムポールが立ち並んでいる。

 

 小高い山々とたくさんの大きな河や小さな川がある、そこは少し都会から離れたところだ。奈美は少し話し疲れたのか、向こうの窓の外を眺めていた。簡易トイレがある、自動販売機の激戦区の場所で、僕達は少し休んだ。煙草を吸っていると、奈美がこちらにやって来て、話し始めた。

「なんか、お姉ちゃん達いい感じだよねー。そう思いません?」

「あぁ、いい感じだな。俺は、佑のことも認めてるし、絶対に、損はさせないって自信あるよ」

 僕は、余り口調に変化を付けないように、少し大人の感じでも見せておこうと、目も合わさずに答えた。

「ふーん、赫那さんも、佑さんも、いいお兄さんって感じがしますよね。なんか、私の周りって、ガキばっかりだし、最近面白いこと無いし、お客さん相手に疲れるし、今日は強引に着いて来たけど、来て良かったと思いますよ。でも、私居なかったら、こんな所まで来なかったですよねー」

 奈美は笑って話していた。そう、奈美が居なかったら、別に今日はここまで来る予定はなかった。何処かで普通に食事して、知美と別れた後、佑と二人で、酒でも飲みに行ってたと思う。あ、でも今夜樹理を駅まで迎えに行かなくちゃいけなかったんだ。佑と知美が帰ってきて、四人は出発した。

 

 走っていると、佑がいそいそとシートベルトをはめた。何事かと思ったら、前には警察がたくさんいて、少し混雑していた。こんな田舎のその密度の高い場所を過ぎるときに、僕達は唖然として、余り見ないようにそこを走り去った。すると突然、

 

「車止めてください!」

 

 そう奈美が言って、止まるや否や、その排気ガスの少ない道路の隅で、体の内側を全て、逆流させていた。

 

「大丈夫か?」

 

 僕がそう言いながら、みんなが駆け寄ると、奈美は大丈夫と言わんばかりに片手で口を押さえて、もう片方の手で、僕達を制した。知美がウーロン茶を奈美に勧めて、何やら二人で話している。

 

「奈美大丈夫かなぁ?」

 

 そう、少し離れた所からそれを見ていた僕は、佑に尋ねてみた。

 

「あの子、血がダメみたいなんだよ。色々あって、だから、今日だって、あの子を一緒に連れてきて、少しでもみんなで馴染もうかと」

「でも、あんなに元気のいい子じゃん。特に何かあるようには見えないけどね」

「知美いわく、本人はそれとなく強がっているだけなんだって」

「ふーん」

 

 何とか、落ち着きを取り戻した奈美が、強がりか、笑って謝った後、また普通に車は走り出した。車は少しずつ窓を開けて、換気しながら進んだ。僕は奈美を気にしながらも、ある事に心が少し奪われていた。最近、人の車に乗ることがない。ましてや、後部座席など滅多にないのだ。当たり前の事だが、景色と言うものは、遠いものは余り動かずに、近くなるほど速く動いて見える。僕はそれをボーっと眺めるのが好きだ。バスはよく乗るのだけれど、都会では遠い景色は見れないし、肝心なものがない。それは、風だ。僕は、風を感じながら、その景色達を遠く眺めていた。

 

 一定の時間が経過して、僕は奈美が気になって奈美の方へ振り返った。僕は、悲しいものを目撃してしまった。

 肩肘をついて、物憂げな目をして遠くを見ている奈美のその少しだけ車内を通っていく風に彼女のカーディガンが揺れ、その肩肘をついていた彼女のカーディガンの裾がほんの少しだけ、風に揺らいでいる。彼女の手首は恐ろしく深く傷ついていた。そして、それが僕の目には悲しいものに映った。

 

 トーテムポールの真下で、僕は奈美と二人っきりになった。彼女が笑って話す言葉が、なぜか耳を通って音に伝わるとき、全て悲しくこだましていて、僕は、彼女に嘘でもいいから笑ってあげられない卑屈な自分が嫌になって、冷たい人間になり、遠く樹理の顔を思い出そうとしても、思い出せず、感情を持ってして生まれたことを少しだけ嫌になって、僕は彼女の手を握ってしまった。少しだけその素早さにびくついた奈美の手が、僕の手を握り返すと、僕は悲しい思いでばかりが溢れ、また悲痛な境遇を安買いしてしまうのではないかと、そこで一人恐怖心に襲われた。

「優しすぎますね」

 僕はそう言われて、初めてその手を離すことが出来た。

「私が彼女に怒られちゃいますよー」

 僕は、煙草に火をつけようとするその指を見ても、何処にも指輪なんてついてないのにそう言われてしまった。

「そうだな、彼女に怒られちゃうな」

 僕は、その言葉を言って気付いた。そうだよ、奈美が彼女の存在を知っているわけがない。僕は、もう既に奈美を傷つけていたんだ。

 

 

 

 

 

 

   「フレグランス」

 

 樹理が帰ってきた。僕は駅まで迎えに行くと、何やら大きな荷物を抱えている。

 

「どうだった、実家?」

「別に普通かなぁ、大して遠くもないし、正月に帰ったからね」

 そう言って、荷物を持ってあげるとこれは彼女には重すぎることが、すぐに分かった。

「何?この荷物」

「ん?なんだか、いっぱい、お母さんが、これ持って行けとか、あれ持って行けだとか、いらないって言ったんだけど私もお金ないからね、欲張ってたくさん持って帰ってきちゃった」

「送ってもらえばよかったんじゃないの?」

「あっ!そっか!」

 やっぱり、普通の樹理で、これが今の僕の普通の暮らしだ。

「赫那にもお土産あるんだよ」

「何?」

「多分、カバンの奥のほうに入っているから、後でね」

 そう言って、僕達は樹理の家に向かって走り出した。

「仕事は?順調?私が居なかったから捗ったでしょ?」

 少し嫌味がちに、でも時間の隙間を埋めるべく、樹理はそう言った。

「うーん、まぁまぁかな。やっぱり、世間がお休みの時に、余り仕事はするものじゃないな。ふと仕事から離れるとすっごく寂しいし、何だか一人きりになった気分だもん」

 

 そして、家に着くと何だか、懐かしい気分になった。

「ちょっと待ってて、今お茶入れるから」

「あ、別にいいよ、俺がやる」

 ハーブティーは余り好きじゃないけど、リクエストに答えて、次いでだったから、僕も同じ物にした。お湯を沸かそうと僕がキッチンと呼ぶには余りにも狭いそこで、ごそごそしていると、樹理も何やら、カバンの中をごそごそとあさっていた。

「あった」

 樹理はそう言うと、誇らしげにこっちを見てニヤついた。

「はい、お土産」

 そう言って、渡されたものは、缶コーヒーくらいの大きさの小さな筒方の箱だった。

「何これ?開けていいの?」

 頷く樹理に、僕はその箱を開けた。開けると、中からは割れ物によく付いてくる、あの透明の、プチプチと子供の頃によく潰した、ビニールのカバーが入っていた。それを取り出すと中から、小さな子ビンが出てきた。中には透明な液体が入っていて、ラベルには、「カクナ」って書いてある。

「何これ?」

「ビンのふたを取って、中の匂いを嗅いでみて」

 言われるがままにふたを取って、鼻を近づけると、ライラックのようなそれでいて、余り甘くないような、すっきりとした匂いがした。

「香水?」

「そう、香水」

 僕は、それをテーブルの上に置くと、沸いただろうお湯の方へ歩み寄って、カップにティーパックを入れた。

「ありがとう」

 どう照れてよいか迷ったが、普通にそう言った。

「でも、どうしたの?」

 僕が、お湯を注ぎながら言うと、

「なんかね、実家の方に、香水を作る工場みたいのが出来て、そこで世界で一つのオリジナルフレグランスが作れるって聞いて、弟連れて行ってきた」

「で、これがその香水って事?」

 僕が、カップをテーブルの上に置くと、

「うん、イエス、ノー方式で、好きなものとかそう言うのをコンピューターに入れていくと、その人に合った香水が作れるってやつで、私が勝手に赫那の好きなものとか入れて作ってきた」

「そんなのあるんだぁー。俺、この匂い好きだよ」

 そう言いながら、また確かめるごとく、鼻にそのビンを近づけた。

「よかった、絶対気に入ると思ってたよ。初めて赫那に会った時、こう言うような香水付けてたよね。最近付けてないみたいだったけれど、無くなったんでしょ?」

「あぁ、あれね、そう言えば最近付けてないなぁ」

 僕は言い訳がましさも出さずに、軽くそう言った。

 

 匂いだったり香りだったりと言うものは、たくさんの思い出なんかを連れてくる。人間が持ってしまった感覚の一つ、嗅覚は、他の感覚同様、ふとした事で、脳裏の奥の方からまだ僕の脳みそにはこの思い出を残していたんだと言うくらい古い事まで思い出させる。バスや電車やデパートのエレベーター、見知らぬ少女が懐かしい匂いを持っていれば、また違う誰かを思い出す。そうあれは、昔の恋人だった人が僕にくれたフレグランス。

「私のもあるんだよ」

 樹理はそう言って、筒方の箱を取り出した。そして、それを開けると、僕に匂いを嗅いで欲しいと言わないばかりに僕にそれを手渡した。

「あ、この匂いもいいじゃん」

「あのね、赫那の香水に合わせて作ってもらったの。匂いにも相性って言うのがあって、そこではそう言うのもコンピューターがやってくれて、その匂いが良かったもんだから、私も一緒にね。で、そこに私の名前が入っているでしょ?」

 

 最近はブランド物の香水にしたって、すごく安く一般的にみんなが持つようになってしまった。何処でも彼処も、同じような匂いがして、それで通りすがり様にそれが香る程度ならばいいんだけど、おじさんやおばさんは、匂いの使いすぎに気が付いていないから性質が悪い。海外旅行のお土産として、煙草か、変なお菓子か、香水というのは、免税点で手軽に買えると言う点から、香水確率がやたら増えているのが現状である。ブランド物の匂いが街には溢れている。だから、こうやって樹理が作ったりしてくれて本当に何処にもないような匂いが僕一人のものというのは、とても嬉しい。

 

 料理と一緒で、レシピさえあれば、近くのアロマ屋さんで作ってくれるというし、僕はオリジナルフレグランスをブランド志向じゃないのに付けてしまっている寂しい人達にお勧めしたい。

 

 樹理はハーブティーを飲んですっかり脱力感を覚えたのか、なぜかカレンダーをボーっと見つめて眠たげな目をしていた。

「おい、寝るならちゃんと着替えて布団に入って寝ろよ。あぁ、もうこんな時間かぁ、俺も今日は疲れたからなぁ、結構ダウン気味だし、そろそろ帰るわ」

「ん?帰るの?」

 樹理の声はもう悲しいくらい小さくなってしまっていて、きっと本人では何を言ってるかわからないだろう声をしていた。

「うん、そろそろ帰るわ。おまえも明日から学校なんだろ?」

「そう、学校。明日は七時に起きなくちゃ」

「はい、一瞬起きて、服着替えて、布団に入りなさい。じゃぁ、目覚ましは七時ね」

 そう言って、無理やり樹理を立ち上がらせると、僕は目覚し時計を七時にセットした。飲み終えたティーカップをシンクの中に入れて水につけると、

「お土産ありがとうな、じゃぁ、帰るから、カギは俺が閉めておくから」

「うん、おやすみ。ありがとうね。授業の合間にメールするね」

「あ、うん、おやすみ」

 そう言って、僕はそこから出るとポケットからカギを取り出して、しっかりと施錠した。僕は車に乗りこんでエンジンをかけると、もう一度あの匂いを確かめた。

 

 朝目が覚めると、そこには未来が立っていた。

「おはよう。あれ?ママは?」

「下にいるよ」

 未来がそう言うと、僕は未来を抱きかかえて下の階に下りていった。

「おはよう。遅いわねー。あんたが起きないと布団干せないのよ」

「何でいるんだ?帰ったんじゃなかったのか?義兄さんは?」

「帰ったわよー。昨日の夜行でね、今日から仕事でしょ。一人で帰ってもらった」

「で、姉ちゃんは何してるの?」

「もうちょっとこっちに居ようと思って、たまに帰ってきたんだもん、ゆっくりさせてよ」

 そして、そのゆっくりついでに、結局僕が布団を干すはめになってしまった。お母さんは、近所の人達に新しく生まれた孫を自慢しに行っていたみたいで、帰ってくるなり、

「みんな、小さい頃の赫那にそっくりだって。良かったわねー、赫那おじちゃん、ねー」

 僕とその小さな赤ちゃんをまるで同等のように扱って、僕を少し子供扱いした。僕は苦笑いでその場を凌ぎ、台所に行ってインスタントコーヒーを入れると、普段ではリビングで読むはずの朝刊を、台所のテーブルの上にその場所を移していた。お母さんもお姉ちゃんも何やら出掛ける準備を始めて、

「じゃ、お母さん達はデパートに買い物に行ってくるから、後はよろしくね」

 うーん、どこかの二級ドラマで見たような普通の家族生活が、何だか少し恥ずかしかった。コーヒーと煙草の作用が効いてきて、僕はトイレに入っていった。やっぱり、ここが一番落ち着く。そして、1ヶ月間同じカレンダーを見て、その日その日に様々なことを思い、一日が始まるのだ。今日は何の日だとか、仏滅だったり大安だったり、赤口の意味はわかっていてもいまいちその真意まで知ろうとはしずに、適当にその日その日を思い浮かべる。

 

 昨日お風呂には入れなかったから、カラス並にシャワーを浴びて、髭を剃り、歯を磨く。タオルドライだけのその少し湿った髪をとかして、僕はその場から立ち去った。たくさんある服の中から、もう大体着る服が決まっているものに袖を通すと、僕は昨日樹理からもらった香水を両手首に付けて、そしてそれを首に触れさせた。僕はもう、見知らぬ人からすれば、見知らぬ香りを与える、提供者だ。その匂いによって、誰かが何かを思い出そうとしても、もうそれは僕の知ったところではない。

 

 僕は時間が無いことに気が付いて、今日はバスを選んだ。軽く密封されたその空間に乗りこむと、きっと僕の香りが移り香から残り香になるだろう。

 

 会社に着くと、もうみんな居た。僕の匂いに気が付いたのは、コーヒーを持ってきてくれた、安浦さんだけだった。

 

 

 

   「おいしそうな林檎」

 

 最近、街では蛇を見ることが無くなった。昔では何処にでも居たのに、最近では道路で轢かれているのすら見かけない。通学路だって、昔は砂埃が舞うような道路やカエルが鳴く畦道だったし、すぐそこには草がたくさん生えていた。今ではそれがアスファルトになり、田んぼも消え、有害な排気ガスしか吸えない。本当にここ十年くらいでものすごいスピードで生まれ育ったこの土地が変化していっている。

 

 最近蓮華畑のあの薄紫をこの目で感じていない。

 

 一度風が吹けば、その蓮華草達はまるで全てを一律に合わせたような紫色の波を流していた。この間、仕事場に行く途中に、アスファルトとコンクリートの隙間から、三本のつくしが顔を出していた。それを見て、思わず、つくしの名前を叫んでしまった。昔は卵ととじて食べたものだ。

 

 昔見ていた、昆虫や動物達は、いったい何処に消えてしまったのだろう。

 

 去年の夏に、僕は友達とカブトムシやクワガタムシを採りに行った。あの神社の境内に一本だけ大きく構えているあの大木。昔はスズメバチを恐れながらも、たくさん採ったはずだったのに、去年の夏には、その影がまるで薄れていた。本当に数匹しか居なくて、カナブンとゴキブリばかりが居た。あの恐れていた、スズメバチの姿もなくなり、クワガタムシも小さい奴しか居なかった。とても悲しかった。都心の大型デパートに高額で売られていた時代が、昔の僕等にはバカバカしかったけれど、今ではそれが納得できるような気がした。

 

 用水路に魚を捕りに行っても、昔は四つ網さえ仕掛けておけば、たくさん魚が捕れたのに、今ではフナを捕るのにも困難になってしまった。綺麗な水でしか生きられない魚が、もうここで暮らしていくのには不可能に近い。日本ザリガニも居なくなり、赤いのばかりが居る。池にはバスやブルーギルが溢れ、生命力が弱いものは死んで滅びていく。まるで、日本人と欧米人だ。日本の滅び行く生き物は、全て繁殖養殖が進んでおり、老人が生き長らえている長寿国日本は、病院でひたすら治療を受けるだけ。

 

 僕はジャングルジムを見ながらそう言った事を思い出していた。

 

 コンピューターのキーボードを叩いていると、その伸びた爪が当たって、カチカチとどうでも良い嫌な音がする。僕は、光一郎さんに、爪切りを持っているかと尋ねると、光一郎さんは、引出しの中から爪切りを出して、僕に貸してくれた。

「あ!」

 僕が光一郎さんから爪切りを受けとって、その爪切りを手に取った瞬間、そう叫んでしまった。一番びっくりしたのは光一郎さんだった。

「どうしたの?」

「いや、別に大した事ないんですけど、この爪切りここが無いですよね」

 そう言って、僕はその爪切りの横の爪を溜めておく場所が無いのを指摘した。

「これだと切った爪が何処かに飛んで行ってしまいますよね」

「うん、そうだけど。それって、こだわり?」

「別にこだわりって言うほどじゃないですけれど、僕、あんまりこういうの使ったこと無いんですよね、だからうまく爪が飛んでいかないように出来るかどうか」

 それは僕にとって、本当はすごいこだわりだった。それでも、爪が気になった僕は、ちょっと外で切ってきますって、表に出ていった。そうして、土の上で、誰にも迷惑をかけないように、伸びてしまっていた爪を切った。

 

 樹理からメールが入った。面白いメール送るね。って言ったすぐ後に、またメールが入ってきて、それを見ると、なんとも下品な替え歌の歌詞が載っていた。中学生の男子生徒が嫌がったり面白がったりする女子生徒にしたがる初歩のセクハラみたいなもので、下らないんだけど、ちょっと笑ってしまった。僕は、不慣れなメール捌きで、「下らないことやってないで、勉強しなさい」って打ち返した。すぐに返事が返ってきて、「おっさんみたいな事言うなー」だって、その後だらだらと色々書いてあったけど、その打ち返すスピードは、もうメールの達人だって思った、こう言うことだけは若い子はすごく長けている

 

 煙草の煙を鼻からゆっくり出しながら、溜め息交じりにそれをやると、あぁ、もう若さは保てないのかなぁ、って考えたりする時もある。こうやって、青年から中年へと隔てるわけだ。それでも、大学を卒業してしまって、くたびれたスーツを着て仕事をしていない僕は、同年代よりはそれを少なからずとも防いでいるわけだ。まぁ、それも大して差が無いのかなぁ。

 光一郎さんは、見た目はそんな事は無いけれど、若い子に着いていこうという、気迫だけはある。若者向けの雑誌を担当しているのもあるけれど、聞いたりする音楽や話す話題はそれとなく若い。意外にコンパなんかも数こなしちゃって、その時撮ったプリクラなんかも見せてくれる。この間みたいに極まれに僕をコンパに誘うが、光一郎さんは、人数が足りないとき意外は僕を誘わない。彼女がいることを気遣ってそうしてくれているのか、若い僕を恐れているのかは分からない。でも、連れていかれると、しきりに僕の話題を話して、わざと女の子の前で、「いつもみんな持ってっちゃうんだもん」とか、冗談混じりに言う。彼の中では、それは計算なのだろうが、一向に彼女が出来ない。

 

 お昼が過ぎると、僕は光一郎さんと一緒に出掛けた。出版社まで打ち合わせに行かなくちゃいけない。僕達が仕事をもらっているこの会社は、とても若い子達ばかりで雑誌の編集をやっており、そして、それが若者達に結構人気で、発行部数を毎月伸ばしていっている。そこまで人はいないのだけれども、編集長で、僕達の良きパートナーである磯崎さんは、まだ三十一歳だ。光一郎さんの前の会社の一つ上の先輩で、前の会社を辞めて、今は独立している。光一郎を直属に引き抜きたかった。が、口癖でとても背の高い面白い人だ。光一郎さんも高校を出てから専門学校でコンピューター関係に進んでいたから、二十歳から磯崎さんとは付き合いがある。そして、そこで二年経たないくらいに、今の社長と出会い、そのまま社長と仕事をしている。

「赫那君、前回は本当に良いものもらったよ。それで、今回からね、ほら、今はコンピューター雑誌がたくさん出てるけれど、いくら初心者向けだって言っても、あれね、難しいと思うんだよ。それでね、うちの雑誌に今回から1ページだけだけど、簡単なイラスト感覚で面白くコンピューターを扱っていこうと思って。で、ウインドウズだとどうも硬いような気がするからマックの方を重点的にやっていこうかと、それで、連載を記念して、今回は特集の五ページ。イラストは君のところの社長がまぁ、やることになると思うんだけど、あの絵、社長の絵好きなんだよね。今も、四コマ書いてもらっていて人気あるし。で、その面白くコンピューターを扱うそんなところを赫那君に企画してもらいたいんだ」

「磯崎さん、それいいですね、赫那君なら頭も柔らかいから、きっと若者向けに構想してくれると思うんですよ」

「はい、やってみます。なんか、仕事がたくさん増えてくることが、最近嬉しいんですよ。暇だとどうも、嫌なことばっかり考えるようになってしまって、中途半端に忙しいならとことん忙しい方がいいですもんね」

「じゃ、そう言うことで、早急に頼むよ」

「じゃ、僕は磯崎さんともう少し違う打ち合わせがあるから、その担当に当たってくれる子がいるから、そちらと話してて」

「あ、はいわかりました」

「おい、大下君」

 そう社長が呼ぶと、一人の女性がやってきた。そして、僕の手を引くと、紅茶、コーヒー、日本茶、オレンジジュース、それとも、アイスで何か飲む?って聞きながら、アイスコーヒーって言うと、ニコって笑って、

「ブラックでいいですよね?なんか、そう言う顔してる」

「そう、ブラック」

「苦いのが好きですよね?」

 会議室と言うには、余りにも小さいその部屋で、僕達は話し合った。

「そう言えば、大下さんと会うのは初めてですよね。最近こちらに?」

「そうですよ、今年の春から入ったんです。学生の頃に雑誌の出版社でアルバイトをしていて、それで、そのまま口聞いてもらって、ここにお邪魔したんです。私、赫那さんに会うのが楽しみだったんですよ。どんな人なのかなぁ?って、先月号の表紙見ましたよ。あれ描いたんですよね?とても、コンピューターで描いたようには見えなかったですもの」

「ありがとう。まぁ、会って見て僕なんて大した事ないって思ったでしょ?別に普通ですよ」

「そんなことないですよ、全然大したことある。それにかっこいいですしね、モテますよねー?」

「いやいや、モテないですよ」

 僕は仕事の打ち合わせになんでこんな話しているんだろうって思って、また話を戻そうと、軽く努力をしていった。

 その小さい会議室の小さな窓からオフィスの中を見ると、元気そうな女の子がなにやら笑って、話をしている。その甲高い元気の良い声はどこかで聞き覚えがあった。その他にもそれに似た女の子達がたくさんいた。

「あの女の子達は何ですか?」

「あれね〜、今時の女の子達みたいな、まぁ何処の雑誌でもやっているような、コギャルの特集のためにインタビューとか、そう言ったことで呼んでるのよ、月に何回かは、あぁやってここに呼んで、話とかをしてもらっているの」

「そうなんですか、どおりでうるさい訳だ」

 ぼくはふと、さっきの聞き覚えのある声を確認してみると、そこには特に誰もいなく、別に普通の女子高生ばかりだった。そして、それから三十分くらい仕事の構想を確認して、終わらせると、僕は光一郎さんとそこを出た。

「すごかったですね、あのコギャル達」

 僕は、あんなに密度高くコギャルと一緒にいたことがなかったので、少し興奮気味で話した。

「あ、あれね。僕が打ち合わせなんかに行ったりすると、たまにいるよ。彼女達と話したりするんだけど、これがけこう面白くてね。テレビで見たりする彼女達とは全然違うの。結構すごい発想でいい考え持っていたりするし、あなどれないよ、コギャルは」

「そう言えば、ゴールデンウィークはどうでした?」

「え?僕?うーん、特に何もなかったようなぁ………一人気ままにラーメンツアーしてたくらいかなぁ」

「何です、それ?」

「地方雑誌のラーメン特集があって、それの食べ歩きしてたの。結構いいよ、近い範囲だけど、意外に知らないところに、おいしいラーメン屋さんがあって、うーん、思い出すと、また食べたくなるなぁ」

「何だか、豪遊って言うか優雅って言うか、すごい休みの過ごし方ですねー」

 僕は、何だか、自分と余り変わらない休みの過ごし方で、そんなもんなのかと思って、特にそれ以上触れることはなかった。僕も尋ねられて、それとなく話した。僕は、光一郎さんになら話せると思って、佑と四人で行った日のことを話した。少しすっきりした。

「それじゃぁ、僕はもう一軒回る所があるから、赫那君先に帰っていて」

 そう言って、光一郎さんは、地下鉄の階段を下りていった。僕は、煙草を買いにコンビニに入っていった。

 

「カークーナさんっ!」

 

 突然の声に僕はびっくりした。振りかえると、そこにはあの奈美が笑っていた。僕は煙草とおつりを受け取ると、そこから出た。奈美もそこで何か買うのか、急いでレジを済まして、僕の後を追ってきた。僕は別にどこかへ行こうと言うわけでなく、すぐそこで待っていた。

「ちょっと、待ってよー。ひょっとして無視してるんですか?」

「久し振り。違うよ、無視なんかしてないよ、元にここで待ってたじゃん。一刻も早く煙草が吸いたかっただけ」

「なぁーんだ、超びっくりした」

「で、奈美はここで何してるの?」

「あのね、さっき私あそこにいたんだよ。赫那さんが仕事していたところ。ギャル達いっぱいいたでしょ?」

「まじで?いっぱい居たけど、おまえ別にギャルじゃないじゃん」

「私は、その子達とは違う取材。まぁ、取材って言うか、インタビューかな?前に、エステやってるって言ったでしょ?」

「普通インタビューとかは、向こうが取材に来てくれるんだろ、何で、おまえが来てるんだよ」

「もういいよ、仕事の事は。ねぇ、今から何してます?」

「ん、別にー。仕事場に戻って、社長と少し話してこなくちゃ」

「その後は?」

「何にもないけど。ひょっとして、奈美は暇なのか?」

「あったりーー」

「じゃぁ、知美ちゃんによろしくなー」

 僕は、そのまま帰ろうとした。奈美は僕の腕をつかんできた。

「まじでですかー?」

「うん、まじ」

「じゃーぁー、仕事終わるまで待ってますよー。電話下さいね」

 彼女はその時、僕に林檎を勧める黒い蛇で、そして僕が知る禁断の果実で、そして僕をアダムと見たてるイヴだった。

 

 僕はそして、仕事場に戻って社長と今日のことを話して、そしてお疲れ様と同時に会社を出た。会社を出るときに、どこかからか帰ってきた光一郎さんと出くわした。

「あ、お疲れ様です。それでは、一足お先に失礼します」

「あ、お疲れ様ね。じゃぁ、今日の件よろしく頼むよー」

 僕達は余り高くなく手を上げて、その場を去った。正直言って、余り奈美とは会うのに気が進まなかった。こう言うときに限って、樹理はバイトだし、都合が良いのか悪いのか。僕は奈美に電話をかけると、もうすでに蛇に騙されていて、後は禁断の果実をかじるだけだと思いながら、少し薄暗い街を歩いて行った。

 

 

 

 

 

 

 

   「核融合」

 

 余り僕も良く知らないのだが、核爆弾と言うものは、とても危険なものなのだ。戦争はすでに紙の上や映像でしか知らず、僕達はおいしい食事をして、おいしい酒を飲んで余りそう言ったものを考えずに普通に暮らしている。原子力がどうだとか、放射線が漏れたがどうだとか、ニュースでは良く見かけるけれども、それに実際触れたこともないし、周りにそれによって生活を変えられた人間が居るわけでもないからよく分からない。僕達が使っている電気も、余りそれに知識がないため、これは火だとか水とか風とか原子とか、そう言うのすら分からない。

 属性と言う言葉もある。よく魔法とかで、火は水に弱く雷は水に強い。人にもそれぞれ属性と言うものあがって、きっと僕もそう言うのを持っていると思う。昔誰かがコンパのときに、そう言うのに知識がある人がいて、色々と言われたけれど、忘れてしまった。

 

 別に外はもう暗くなったから、やましいと言う気持ちは段々薄れてきたんだけれど、傍から見たら、これは良い事をやっているとは思えない。だから、こぢんまりとした小さな居酒屋さんを選んだ。僕は、とにかく酒にでも任せようと思っていた。

 

「何飲む?」

 僕がそう、奈美に尋ねると、

「モスコミュールで」

「モスコミュール?乾杯くらいビールでいいじゃん」

「私ビールダメなんですよ、苦いしすぐ酔っちゃうから」

「なんか、女の子って多いよね、ビール駄目とか、すぐ酔うからどうのとか……」

「私を酔わせてどうするつもりですかぁ?」

「すいませーん、生中と、モスコミュールで」

 僕は、笑ってそう言った奈美を制して、とにかく注文した。

「何食べる?あそこに今日のお勧めの看板出てるから、あそこから頼もうか」

「あ、私、赫那さんが注文してくれたのをつまんでればいいですよ」

「じゃぁ、食べれないものとかある?」

「はい、お待ちーっ、生中と、モスコミュールねー。食べ物のご注文は?」

「あ、決まったら言いますんで」

「で、食べれないものとかは無いの?」

「うーん、特に無いですけれどー、セロリかな?食べれないのは」

「え?セロリ食べれないの?」

「なんか匂いとか駄目なんですよ、後、タイ料理とかベトナム料理に入っている香草かな?あれも匂いがちょっと……」

「まぁ、いいや、ここにそんなもの無いから、じゃぁ、適当に頼むよ」

 僕はそう言って、ほとんどサラダとか、つまみばかりを頼んだ。結構調子良くと言うわけでもないけれど、少しいいペースで僕は飲んでいった。奈美も何だかんだ結構飲んで、僕には飲めないような、ミルク系のカクテルだの、色々飲んでいった。

「赫那さん、顔赤いですよ」

「あー、おまえはあんまり顔赤くならないなー。全然平気なの?」

「結構酔っ払ってますよ、私もー」

 僕達は知らない間に、結構普通に笑って話せるようになり、とてもスムーズな動きをしていた。その店には、小さな四人掛けの座敷が二テーブルあって、そこに一組四人女の子のグループがあった。一人の女の子がトイレに立って、そして帰ってきた、いきなり僕の顔を見るなり、こう言った。

「赫那君?」

「あ、ハイそうだけど、えーっと……」

「私、そう言えば、前はメイク違ったからわかんないかなー。里美です」

「あ、里美?えーっ!あのガン黒の?全然違うじゃん」

「この間、卒業だって言ったじゃーん、覚えてないの?」

 覚えていようが、覚えていなかろうが、この状態は、かなりピンチだと言うことは分かっている。だって、僕の隣にいるのは、樹理じゃなく違う女の子だからだ。僕は、一気にお酒が引いた。が、少し酔っ払っているのは隠せない。

「あ、そう言えば、ギャルは卒業とか言ってたね。うーん、全然雰囲気違って分からないよー、それじゃぁ」

「こんなところで会うなんて、すごく偶然ですね」

「そうだよなー。君達みたいな若い子はここでは見かけないもん」

「で、誰ですか?その子」

 里美は、かなり僕に接近してきて、そして小声で僕に尋ねた。

 

「ちょっと、待っててね、すぐ戻るから」

 僕はそう、奈美に言って里美の手を引っ張って外に出た。

「実はさぁ、俺の友達の彼女の妹でさぁ、この間遊びに行って、そして今日偶然会っちゃって、一緒に飲みに来てるんだよ」

「樹理は?まだ付き合ってるんでしょ?」

「もちろん付き合ってるけど、樹理は今日バイトだし、それにさぁ……いろいろあって……」

 僕は、奈美について、少しだけ里美に話した。里美も少し納得してくれて、そしてやっぱりそれに対して、僕を叱った。

「赫那君、でも、それは駄目だよ。いくらその子がそう言う風でも、樹理は絶対怒ると思うよ、もし今日の事知ったら。だって、そんなの、絶対におかしいよ。自分も同じ立場だったら、絶対に嫌でしょ。今日は仕方ないにしろ、もう絶対にあの子に会うのはやめといた方がいいよ」

「うん、わかった。樹理にも俺から正直に言ってみるよ」

「正直に言う必要なんてないよ、もうあの子に会わなければいいだけ、だって何もしてないんでしょ?赫那君は優しすぎるんだよ」

「わかった。自分なりに樹理に伝えるよ」

「後ね、私達今四人で来てるでしょ?全員樹理の事知ってるからね、みんな同じ短大の子だから。でも、言わないようにさせておくから」

 僕と、里美はそうやってまた店の中へと戻っていった。

「ごめん、待たせちゃったね」

「誰なんですか?あの人。まさか、彼女?」

「あの子はね、俺の彼女の友達。なんか、怒られちゃった。君とここで飲んでること、やっぱりおかしいよねー、俺達」

 僕は後ろを振り返ると四人とも僕を見ていて、驚いた。思わず、それ見て、にっこりしてみたけれど、みんなの顔がとても引きつっていて、すぐにそれを後悔した。

「そろそろ行こうか。もう遅いしね、ほら知美ちゃんとか心配するといけないから」

「別にお姉ちゃんは心配しないけど、赫那さんの彼女が心配するといけないので、帰りましょうか」

「あ、うん、ごめんね。今度は、佑達とみんなで飲もうよ」

 それが精一杯の今僕がここで使える優しさだった。

 送っていくって言った僕の言葉を振り払って、奈美は一人で帰って行ってしまった。僕は、もう一度その店に入ると、里美を呼び出して、ごめんとありがとうを言って、またお店を出た。

 

 ほら、蛇がここにいる。僕の心の中に、あの真っ黒い蛇が。ほら、おいしそうな林檎がなっている。僕の心の中に、あのおいしそうな林檎が。

 

 どこかの感動的なドラマのシーンで、タクシーで行けばいいものを、雨に打たれて彼女の所まで走る、あの不可解な行動。それが今やっと分かったような気がする。雨は全く降っていないけどね、走るんだよ、僕は、走るんだよ。

 

 

 

 

 

   「誰がために鐘は鳴る」

 

 走って、走ってどうしようもなく、走って、そして走れなくなって、煙草を吸って、酒に負けて、そして酒が飛んで、走って、走って、スポーツドリンクを飲んで、走って、煙草を吸って、もう走れない。

 勢いと言うものはとても恐ろしくて、そして冷めやすくて。よくよく考えれば、里美に言われなければ、別に何もやましいことは無く、向こうが勝手に好意を抱いただけで、僕は何もしていない。確かに、悪いのは、僕だが、何故ここまでして、走るんだろう。

 樹理がバイトをしている放送局まで、後十分の距離、歩いて行ったって、構わないよ。だって、仕事が終わるまでまだ一時間もある。

 僕は、放送局の後ろの通用門に座って、缶コーヒーを飲みながら煙草を吸って、待っていた。息が完全に落ち着くと、その詩集を読み返していた。あぁ、セーヌ川のほとりで、誰がために鳴るわけでもない鐘の音を聞きながら、そのゆったりとした空間に入っていきたい。恋人達は、その空気の中で、ミラボー橋の上で、きっとベーゼを交わすのだろう。

 僕と言う人は、僕自身が形成していくのではなく。回りの人達によって、作り上げられている。例えば、僕が今知らない人に会う。僕は、その人の容姿をまず見る。そして、言葉を交わすと同時に、その人の声を聞く。そして、感情を少しずつ分かってしまい、またそこでこの人と話すかどうかを決める。僕は、色々な人に出会うが、その出会った人によって、かなり僕を左右し、そして作り上げていき、僕はまた呼吸を始める。

 

 僕は一人の男性と目が合った。その人は、その通用門から出てきたらしくて、どうやら仕事を終えて、送迎車を待っているようだった。

「今日は思ったより早く終わっちゃったからなぁ、後三十分は待たなくちゃ。」

 その人がそう言うと、僕はその声を聞いて、誰かを思い出した。そう、僕が高校の受験勉強をしているときに、毎日夜遅く聞いていた、あのラジオ番組の人の声だった。

「あのー……針ヶ谷さんですよねぇ?」

「え?そうですけど。えー………」

「僕、昔聞いてたんですよ、もうあれは十年くらい前ですかね。夜中にラジオつけると、いつも針ヶ谷さんの番組聞いていて」

「あー、もう大分前だねー。今では余りラジオには出てないからねー。もともとアナウンサーでもなんでも無いから、今では裏方ばっかりだよ」

「僕、針ヶ谷さんの顔は見たことなかったんですけどね、声ですぐにわかりましたよ。なんか、懐かしい声だなぁー、って」

「ありがとう、今では結構薄れちゃったからね、それでも、まだ仕事もらってるから、小さい放送局でもまだ知名度はあるもんだね」

 針ヶ谷さんは、少し笑って言った。

「僕、針ヶ谷さんが歌っているCD持っているんですよ、中学の時に友達がくれて」

「え?あのCD?懐かしいなぁ、今では絶対に手に入らないと思うよ、実際に僕も持ってないし、まぁ、誰も今時聞きたいとは思わないしね」

 少し沈黙の後、

「で、君は何してるの?こんなところで」

「あ、彼女がこちらでバイトしているものですから、迎えに来たんです」

「彼女?ここでバイト?」

「あ、ハイ、なんか殆ど雑用って言ってましたけど、たまにラジオ番組の交通情報なんか喋っているんですけどね」

「あぁー、ひょとして、樹理ちゃん?そうかぁ、君が彼氏ねー」

「知っているんですか?」

「もうすぐ出て来ると思うよ。さっきまで一緒に仕事していたからね」

「あぁ、そうなんですか。なんか、お恥ずかしいですよ」

「彼女アナウンサーの学校に行っているんだろ?それでここ紹介してもらって。彼女いいと思うよ、仕事も出来るし、大事にしてやりなよ」

 そう言うと、迎えの車が来て、針ヶ谷さんを連れ去ってしまった。また、僕は独りぼっちになると、空を仰いだ。吸いすぎてしまった煙草がまるでおいしくなく、僕はチューイングガムを噛んで、今度は地を見つめた。

「何してるの?」

 樹理の声だ。僕は、そのまま顔も上げないで、

「待ってた」

「どうしたの?何かあったの?」

 樹理は、そう言って僕の横に座った。何が起こったのか分からなかったけれど、僕はうっすら目の周りが熱くなってきて、そして、少しだけ、涙が落ちた。

「泣いてるの?」

 そう言われた僕は、人間味を思いっきり出して、それが引き金となって、今度は、もっと涙が出てきた。こんなに夜じゃなく、樹理じゃなかったら、きっとこんな風に泣けはしなかっただろう。

「ふーっ」

 そうやって、僕は深呼吸をすると、おもむろに立ちあがった。

「ごめん、帰ろうか」

「あ、自転車とって来るね」

 彼女はそう言うと、駐輪所の方に歩いて行った。そして、すぐに戻ってくると、僕はその自転車にまたがり、樹理を乗せて夜の中へ走っていった。

「風が気持ちいいけど、まだ少し寒いなぁ」

「ねぇ、何かあったのー?」

「えー?聞こえなーい」

「何かあったのー?って言ったのー」

「聞こえなーい」

 僕はわざとそう言うと、樹理が僕の脇腹をつねった。僕は、また少しスピードを上げて、夜の街を走り出した。

「思いっきり叫んでいーいー?」

「いーよー」

「じゅーりーがー、好きーーーーー!」

「ははぁっ。何それー?」

「だって、叫んでいいって言ったじゃん」

 高架下のその道で、僕達は笑いながらそう叫んだ。数人のすれ違う飲み屋帰りのおじさんは振り返ったり振りかえらなかったりしたが、大型の車がよく通るその道では、殆ど僕達の声はかき消されて、こだますることもなかった。

「ねぇ、何処行くのー?家あっちだよー」

「ちょっとドライブー」

 僕達は、その平坦な道を自転車で難なく走っていた。やがて僕に疲れが見え始めると、僕達はオレンジ色の街灯が似合う公園で喉を潤した。さっきとは、打って変わって静かな夜になると、僕はその沈黙を破り始めた。

「今日ね、飲み屋さんで、里美に会ったよ。なんか、あいつすっげー変わってた。最初は分からなかったもん」

「どこの飲み屋?」

「前に行ったじゃん、あの、短大の近くの安い所、あの狭いさー」

「あぁ、あそこね。里美、あぁ言うところ行くんだ。前はクラブとかばっかりだったのに」

「それでね、俺はさぁ、女の子と一々で飲んでたの」

「誰ー?」

「佑に彼女出来たって言ったじゃん。その彼女の妹」

「ふぅーん、で、何で?」

「今日の仕事の帰りにばったり会っちゃって、それでそのまま飲みに行こうって誘われて」

 樹理は余り表情を変えずに、淡々と質問をしてきた。

「で、その現場で里美に出くわして、里美に怒られた」

「で、さっき泣いてたの?」

「怒られた事よりも、あの時はよく分からないよ、樹理の声だって思ったら、自然にね、、、、、あぁ、もう、泣いてたのはいいじゃん。とにかく、謝ろうと思って、その子と飲んでた事よりも、自分が同じ立場だったらって、考えたら、あのさぁ、急に分けわからず、走ってた」

「バカ」

「ごめん」

「信じる、信じないってあるけど、私は赫那のこと信じているよ。まぁ、信じてるって言うか、赫那にはそんな事できっこないって思ってるからね」

「誉めてるの、それ?」

「違うわよ、バカ」

「バカ、バカ言うなよー」

「だって、バカでしょ?じゃぁ、バカでいいじゃん。バカバカバカバカー」

「バカ、バカ言うな、バカ」

「私はバカじゃなーい、あんたがバカ」

「だから、ごめんってー」

「ハイ、もう終わりー」

 何か、こんなのでいいのかなぁ、きっといいんだろうね。

 

「ガム食べる?」

「うん」

「帰ろうかぁ」

「うん」

 僕達は、そのオレンジ色がよく似合う公園を離れると、また夜の中を自転車で走っていった。やがて、風を感じ始めると、車輪はとても一定の音を立てて、それはこの街にとって、何の音にも変わらず、自転車を二人乗りしている僕達は、まるで無敵だった。

「ねぇ、今日どうするの?」

「どうするって?」

「もう終電ないよ」

「え?もうそんな時間?」

 僕は、時計を見ると、ちょうど深夜を指していて、音無き鐘の音がどこかで響いている。

「泊まってったら?」

「いいの?」

「うーん、どうしようかなぁ?」

「駄目なのー?」

「あれ?お兄さん、いい香水つけてますねー」

「まぁねー」

 樹理のセットした目覚し時計で、僕も一緒に起きてしまった。と、言うより、樹理はまだ寝てる。僕が起きてしまった。

「樹理、朝だよ。起きろってー」

「ん?今起きるよ」

 僕はおもむろに台所の方へ行って、お湯を沸かし始めた。カーテンを開けると、これ以上に無い眩しいものが飛びこんできて、そして窓を開けると、密かにひんやりとした。そして、たぼこに火をつけると、なるべく窓の外に煙を追いやるように、僕は軽い朝の呼吸と一緒に、その煙を吐いた。時間差で、僕の携帯の目覚ましが鳴ると、僕はそれを止めて、電気コンロの不便さを確かめに行くと、もう間も無くお湯が沸いた。そして、コーヒーの匂いがすると、樹理がベットからするすると落ちてきて、コーヒーを飲み始めた。

「おはよう」

「おはよう。あのねー、今日ゴミの日だから、ゴミ出してきてー。階段下りたすぐの所にあるから」

 僕は言われるがままに、家中のゴミを集めて、そして外にそれを出しに行った。部屋に戻ると、樹理はシャワーを浴びており、僕は仕方なくテレビをつけた。そこには相変わらずの番組しか映っていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

   「文字」

 

 僕は電車に乗ると学生だらけのその狭い空間で、天井にぶら下がっている、色々な広告を呼んでいた。まぁ、広告と言うものは、勝手に目に飛び込んでこなくちゃ意味がないのだから、こう言う空間にあるのは最適だ。そして、影響力もかなりのものがある。僕達は、言葉を話すようになって、そしてそれをビジュアル化させて文字を作り、そして国を作り、ケンカをした。

 電車の中に線路の名前があって、そして各駅の名前と場所が示してある、まぁ、鉄道マップがあるんだけれど、地名と言うものは、恐ろしく読めない。そして、意外に近いところに、知らない地名と言うものもあるものだなぁ、と感心した。漢字を考えた中国人はすごいが、それをもっと増やしてしまった日本人はもっとすごい。でも、後々になって勉強する人の立場になると、世界の人が日本語を話したり使えるようになれば、色々なところでもっと文化は発展すると思うんだけど、これは、難し過ぎる。だから、影響力とか、容易さを考えれば、地球語は英語でもいいと思う。

 僕はいつもの街並みとは逆方向を見ながら仕事場に向かった。多大なる影響力。十字架が大好きで仕方ないあの宗教団体の、まぁ色々な宗派があるとは思うけど、知らない人からしたら、一緒。とにかく、十字架好きな人達。電信柱に何だか、世界が破滅するだのどうのって、訴えは自由だと思う、でも僕のようにそんな事知りたくないし、考えたくも無かった人間が、公の場にそんなもの見つけたら、考えてしまうじゃないか。勝手に、人に影響を及ぼすなよ。かの有名な預言者だって、別に誰かが勝手に、メディアの中で言ったから、知っただけで、後始末して無いだろ?過ぎてしまったことはいいのか?まぁ、いいや。今日もこうやって、呼吸をしているのだから。

 商店街の中を歩いていると、何処からとも無く有線放送が聞こえてくる。俺はそんな気分じゃないんだよ、ましてやこの歌手嫌いだし、声がむかつく。勝手な影響力で僕を操るのは辞めにしてくれないか。音楽は良い歌でさえ、何であれ、メディアに乗った者勝ち。後、歌手の容姿が、何故か良い事。

歌が良くても、声が良くても、顔で消えていった女性シンガーを何人か知っている。でも、思い出そうとしたからであって、そうでなければ、もう忘れてしまっている。みんなが知っている唯一の歌を聴いて、懐かしむくらいである。

 

「おはようございます」

 

 僕がそう言うと、安浦さんがコーヒーを持ってきて、昨日と同じ服だと笑って指摘した。今日は、昨日磯崎さんにもらった仕事をやってしまおうと思い、珍しくペンを取った。忘れてしまった漢字と戦いながら、何とか辞書片手に、僕は企画を進めていった。特集五ページ、結構な量だ。まず、コンピューターと言うものを若者達に分かり易く説明しなくちゃならない。

 第一に、コンピューターと言うものは、とても便利であって、不便であること。第二に、コンピューターと言うものは、必要であって、不必要なもの。第三に、コンピューターと言うものは、高い割には、寿命が短く、すぐに無駄なものになってしまうもの。第四に、コンピューターと言うものは、新しいものが出れば出るほど、機能が多様になり、難しくなり、そして簡単になり、早く始めなければそれだけ、習得するのに時間が掛かるもの。第五に、若者がコンピューターをやることによって、絶対にやって無さそうな人に限って、そのギャップが受け入れられ、モテると言うことだ。ようは、ピアノが弾けると言う感覚で、お宅っぽいんだけど、かっこいいから、モテるのだ。ハイ、これが五ページ分の内容。

 僕は、超適当でいいんだ。ってな事で、この企画をまず、原案として、マンガにする内容をまとめていった。そして、社長にそれを下書き程度にマンガにしてもらったものを磯崎さんにファックスした。はっきり言って、社長の描く絵は、小学生程度だ。だけど、それが読者にも受け、あの売れてしまった絵本としても受けたのだろう。

 またいつものようにジャングルジムを見ていると、目の錯覚か、季節外れの雪か、白いものがたくさん降っていた。僕はあくびをすると、外が気持ちよさそうに思えてきて、少し煙草を吸ってくると言って、公園に出掛けた。白いものはたんぽぽの綿帽子の群れだった。こうやって緩やかなり激しいなりする風に飛ばされて、また来年の春には黄色いたんぽぽを咲かせるのだろう。

「あれ?この花何だったかなぁ?これって四葉とかあるやつだよなぁ、、、、、」

 僕は、花の名前は別にいいやと思いながら、そのクローバーの緑の横に座った。確か前に女性がここで何かを探していたっけ。これを探していたんだ。それは、三枚しか葉の無いクローバー達で、なかなか四葉は見つからない。たしか、四つ葉って「シアワセ」をもたらすんだったよなぁ。僕は、探した。

「やったー、四葉……ん?これは?」

 数を数えてみても、どう見ても、四葉じゃない……六つ葉だった。こんなのあったんだ。これって、「シアワセ」?僕はとにかくそれを摘むと、仕事場に戻ってみんなに自慢した。そして、それを本の中に形よく挟んだ。

「シアワセ」って何?

 磯崎さんからファックスが届いた。どうやらあれでよいらしい。早速社長と一緒に最終ネームを打ち合わせすると、社長は隣の部屋でマンガを描き始めた。僕も、後半月に迫った詩集の挿絵を描いていった。気が付けば、もうすっかり夕方で安浦さんはとっくに帰っていた。僕も帰り支度を始めると社長がコーヒーを取りに来た。

「お、もうお帰りか?」

「社長はまだやっていくんですか?」

「あぁ、もう少しな。明日は休みだし、ペンが動き出したら止まらなくなっちゃって、今日は調子がいいよ」

「じゃぁ、僕はお先に失礼します」

「気をつけてな、色々と」

 何を悟ったか、社長はそう言うと、コーヒーを持って、また絵を描き始めた。僕は、歩き出して、さらに歩いて、家に帰った。家に帰ると、談笑が家庭に響いていた。まだお姉ちゃんは帰っていなかった。

 

「ただいま」

 僕はそう言うと、すぐに階段を上り自分の部屋に入った。そして、また階段を今度は下りると、僕は浴室に向かった。久し振りに目に止まった体重計に乗ると、びっくり。体重こそ変わらないもの、体脂肪が余りにも無くなっている。そう言えば、最近不規則だったから……そう言えば、何時の間にか髭も濃くなってきている。

 お風呂から上がると、僕はトマトジュースを飲んだ。そして自分の部屋に戻ると携帯電話が鳴った後があり、よく見るとそれは樹理だった。煙草に火をつけると、僕は樹理に電話した。

「もしもし、あれ?バイトは?」

「今日はもう終わったよ、学校が終わってすぐに行ったから、その分早く帰れたの」

「そうかぁ、じゃぁ、今何してるの?」

「パソコンやってた。でね、ちょっとおかしい事があってね、今から来れる?」

「うん、行くよ。この時間なら二十分くらいかな?」

「分かった、待ってるね。じゃぁー」

 僕は急いで服を身につけると車を走らせた。途中手土産に、女性用ファッション誌を二冊買うともう樹理の家はすぐそこだった。

「ただいま、で、何がどうなった?あ、これお土産」

 僕は途中で買ってきた雑誌を袋ごと手渡した。樹理は自分でもファッション誌を買うのだけれど、きっとこう言うのって男の人から渡したら効果がさらにあると思って、僕はたまにこう言うものを買っていったりする。暗黙の「もっと綺麗になれよ」みたいなものだ。男はわがままだね、こう言うことに女性よりこだわったりする。

「何だか変なメールが送られてきてファイルを開けたら、エッチな写真が次ぎから次ぎへと出て来るの、それでバグっちゃった」

「エッチな写真?どんな?」

 僕は画面の電源を入れると、思わず言ってしまった。

「超エロいじゃん、これ」

 その固まってコントロール不能になってしまったパソコンの画面には、一面に、どう見ても小学生くらいの女の子が○×○×されている写真で埋め尽くされていた。

「電源は切ってないの?」

「なんか、怖くなって触らない方がいいかなぁ?って思って」

 僕は再起動を試みた。どうやら動いてくれそうに無かった。仕方が無いので、パソコン事態の電源を落として、そしてまた起動させた。

「誰からのメール?」

「よく分からないんだけど、お試しポストペットとか書いてあってファイルを開けてくださいって書いてあったから開けたら、こんな風になっちゃって」

「変なウィルスじゃないの?」

 そう言っているうちにコンピューターは完全に立ちあがっていた。別にこれと言っておかしな所はなかった。もう一度、そのメールを開くと、確かに変なファイルがついていた。ファイル名は、「WITH CHILD」。どう見ても怪しい。

「おい、これファイル名見た?ウィズチャイルドだって。気付けよ、どう見ても怪しいじゃんか」

「だって、ポスペってそう言う名前でもおかしくないじゃん」

 発信源を見ると、送信者はかなり色々な人に送っているようだ。

「ねぇ、このメール送られている人達に見覚えある?」

「あ、オークションの人達だよ、あそこのホームページでチャットしている人達ばっかりだもん」

「じゃぁ、誰が送ったんだ?」

 そのメールの主は、簡易メールから送っているため、誰かは分からなかった。僕はNETに繋ぐとそのページのチャットに入っていった。そこでは、既にその話題になっていて、中には開けてしまった人もいた。色々それについて聞くと、別にコンピューター自体には影響無いってみんな言っていた。そこへ、一人の女性らしき人がチャットに入ってきた。

「こんにちは>ALL<実は変なメールが入っていたんですけれど」

「こんにちは、初めまして>アッシュさん<そのメールならみんなもらったみたいですよ」

「え?みんな騙されたんですか?>カクナさん<じゃぁ、違う商品もそうなんですかね?」

「騙された?どう言うこと?>アッシュさん<卑猥な送付ファイル付きのメールじゃなくて?」

「違いますよ、私が落札した商品が届かなくて、お金は払ったんですけど、購入した人から、メールで……↓>カクナさん」

 彼女はタイプが遅いのか、なかなか時間をかけながらゆっくり話していった。

「↑続き、で、そのメールで騙されたようなことを本人から告げられて、で、さっきそこを覗いたらもう何も無かったんです(;`д`;)/>カクナさん」

「本当に?それって一応警察に届けた方がいいよ、当てにならないとは思うけど、後ここを運営している会社にも>アッシュさん」

「あ、分かりました。じゃぁ、そうしてみます>カクナさん」

「それでは僕は落ちますので>ALL<また」

 僕はそんな風にして、その実態を知った。言葉だけの世界だもの、怖いに決まっている。僕は、そのページのオークションのサイトに足を運ぶと、別に普通に商品が並んでいた。この中にそう言うあくどい人達がいるのか。

「なぁ、樹理。もうネットで買い物するのは止めろよ、結構危険だからな」

 僕はもう雑誌を見入って、何か獲物を見つけたかのように物欲しそうにしている樹理がこう答えた。

「うん、わかった、やめるよ。ねぇ、これかわいくない?」

 樹理はそう言ってその雑誌を僕に見せると、オークションはやらないから、買ってと言わんばかりだった。 

 人間だけが与えられたものってたくさんあると思うけれど、何でだろうね。

 僕達はきっと昔は翼が生えていたと思うんだ。だけど、「自由」って言葉を考え出してから、僕達はきっと羽根を失ったんだ。

 鳥のように飛んでみたいと思うけれど、鳥にはなりたくない。だって、無理だもん。

 

 

 

 

 

 

   「永遠の石」

 

 僕が聞いたところによると、もう天然のダイアモンドが地球上で誕生することは無いらしい。うーん、それは困った。何が困ったかと言うと、女性は意外な程に宝石が好きだ。しかもやっぱりダイアモンド。最初に誓いの証にダイアモンドをあげた人。誰だったかなぁ、確かヨーロッパの方の騎士か貴族だったような………これって、風習なのかな、気持ちをお金に換算するともう否が応でもダイアモンド以外の物は贈れないじゃないか、日本人とその他先進国の皆さん。

 

 誰かがピアノを弾いている。僕は目を覚ました。下に下りていくと、お姉ちゃんがピアノを弾いていた。

「おはよう。何だか久し振りだね、お姉ちゃんのピアノ。お陰で目が覚めたけどね」

 コーヒーを入れると、電話が鳴った。

「はい、もしもし」

「えー、こちら株式会社ホワイトリングと申しますが、赫那さんはご在宅でしょうか?」

「あ、僕ですけど」

「あ、ご本人様で、私河合と申します、よろしくお願いします。えーっと、お時間の方は大丈夫でしょうか?」

 うーん、テレアポだ。まぁ、暇だし聞くだけ聞くか。

「大丈夫だけど、で?」

「あのですね、私どもホワイトリングでは、婚約指輪などを扱っておりましてー、それでお伺いしたいことがあるんですが」

「どうぞ、あ、後ねー、そんなに堅苦しく話さなくていいよ、もっと楽しく喋って」

「あ、はい。なんか機嫌悪いかと思って、ドキドキしましたよ。ごめんなさい、堅苦しくなっちゃって。えーっとですね、いきなりですけど、ご結婚の方は成されています?」

「いや、してないですけど、後、敬語みたいなのもやめて」

「あ、すいません。それじゃぁ、彼女とかはいます?」

「いるよ」

「そーですか、それでは、もう結婚をしようとか、そう言うのって考えたりするんです?」

「いや、全然考えてないよ。まだ時期じゃないかなって」

「お仕事の方は何してるんですか?」

「一応ね、コンピューター関係」

「すごいですね、私もコンピューターやりたいと思うんですけど、なかなか出来なくって」

 その後、僕達はどうでもよい話ばかりをしていた。そして、明日会うことになってしまった。一度、ダイアモンドと言う物を見てみたかった。

 

 僕は会社に行くと疑問が生じた。そう言えば、どうして、結婚もしないといったのに、さっきの電話の子は僕を誘ったのだろう。

 その夜僕は樹理と食事に出掛けた。もちろん、今日の電話の事は触れていない。

「ねぇ、やっぱり、女の子って宝石とか好きなの?」

「何で?そうだねー、好きなんじゃないの?私は別にこれと言って欲しいわけじゃないけど、どっちかと言えば、石のついてないシンプルなやつの方が好きかなぁ」

「ふーん、婚約指輪も?」

「婚約指輪は普通のでいいな。でも結婚指輪はやっぱりダイアかもしれないねー」

「え?一個じゃないの?婚約指輪と、結婚指輪って別なの?」

 僕は、衝撃的事実を知ってしまった。

 

 次の日、仕事が休みで、約束通り僕は有名デパートの前で待っていた。一体どんな人が来るんだろう。すると、教えておいた僕の携帯電話が鳴った。

「あ、もしもし」

「どこにいます?ひょっとして、黒い服来てます?」

「うん」

「あ、多分そうですよ、見えました」

 そう言うと、昨日電話で聞いたそれなりの特徴をした人が、手を振りながらこちらに走って来た。

「あ、こんにちは」

「こんにちは、すぐに分かりましたよ。何だか、かっこいいじゃないですかぁ、電話で騙しましたねー?」

 僕は、すぐそのこの店に行くのかと思いきや、その子がお腹空いたって言ったから、カフェレストランに入っていった。

 彼女は、全然仕事の話をしようとはしなかった。彼女はまだ二十二歳で、この会社に入ってまだ三ヶ月くらいだと言う。河合っちって呼んで。と言われたが、その「っち」って何でしょうか。

 コーヒーを僕は飲み終えると、そろそろと思って、行こうと言って会社に向かった。結構そこは大きなビルだった。全部がそこの会社ではないが、宝石がディスプレーしてあるその一階は、ジュエリー屋さんとしては、かなり豪華だった。

「結構大きいんだね?あ、この人って、結構有名な人じゃん」

 僕は、そこで流れていた、この会社のCMを見てそう言った。CMソングもかなり有名な人が歌っているし、まぁひとまず安心だろう。

「これも見てくださいよ」

 そう言って、その子は僕をソファーに座らせてから、何やら雑誌を持ってきて、ここにほら、私達の会社が乗っているでしょ?みたいなことを話していた。そう言えば、何度かこの広告は見たことがあった。向こう側からすれば、まずお客様に安心感と信用を得ることが最初の仕事なんだろう。やっぱり、安い買い物じゃないからね。それに、宝石屋さんは結構捕まったりしてるし、金融会社とかが経営しているところが多いから、そう言うものかもね。

 何だか授業を受けているような気分になった。河合っちは、ダイアモンドとは何かから説明し始めていた。僕の事を既に「赫那っち」って呼んでるし。そして説明は淡々と進んで行き、僕は結構いい感じで興味をそそられていた。向こうの言い分では、結婚資金その他もろもろ、新居の購入などは、親にやってもらえるならそうすればよいと言う事だ。だが、指輪は違う。一生懸命働いて、買ってくれって。もちろんターゲットは、後、何年後かに結婚をすると言う若者ばかり。

「えーっと、赫那っちはまだ結婚の予定無いって言ってたけど、いずれはしますよねー。そうすると、ダイアモンドの指輪と言うものは、その時になってすぐに買えると言う簡単な物ではないと思うんですよ。そこでですね、私どもは今からご購入されて、そして来るべき日が来たら、そのダイアモンドを彼女に贈ると言うシステムをご理解してもらっています。もちろん、その日が来るまでは、赫那っち自身が身につけて………」

 僕は、やっと理解した。何故僕の様の物がここに呼ばれたのか。ようは、早めに買っておいて、自分が大事に身につけていたものを彼女に贈れ。と言うことだ。そして、そのローンを少しずつ返していけばいいと。どうせ結婚が決まっても一括で買えるわけでもないのだから、じゃぁ、どうせなら身につけといたほうが彼女も喜ぶんじゃないかと言う、そんなシステム。ピアスなり、他の形の指輪なり、チョーカーだったりにして身につけた物を、彼女が身につけるときには、それなりにデザインし直して贈ればよいんだと言われた。それは、よい方法だ、納得。

 僕がある程度そのシステムなりを理解すると、今度はいよいよ目玉が出てきた。

「それじゃぁ、ここに本物のダイアがあります。0.3カラットのカラーがD、そしてエクセレントカットのハート&アローのクラリティーがVS1。さて、いくらだと思います?」

「多分そんなに高くは無いとおもうよ、だって俺に勧めるくらいでしょ?うーん、それって石だけの値段でしょ?」

「そうですよ」

「ざっと、三十万くらいだな」

 彼女が提示したお金はもっと高かった。まぁ、それでも納得がいくと言えばいく値段だったが、事前にダイアモンドのことを調べておいた僕は、多分よい値を言ったと思う。それでも少し高く言ったのだ。向こうは、石の値段だけで、それをアクセサリーに加工する値段、その他それに掛かるお金などは一切無料だと言った。ようは、ダイアモンドに既にそのお金が含まれていたのだ。

「彼女喜びますよー」

「確かに喜ぶだろうね」

 僕は、結構な時間そこで、河合っちと買うだの買わないだの話していたが、とうとう僕が下りてしまい。買うことにした。そこの契約書では、まだ別に絶対に買うまでは言ってなかったので、とりあえず契約書にサインしてきただけだけどね。やめたければやめれるという保証の末、帰るに帰れなくなった僕は、サインした。

 

 僕は、その足で「ラット」に向かった。相変わらず、お客さんはいなくて、小出さんが小説を読んでいるだけだった。

「こんにちは、たっぷり苦いコーヒーを一つ下さい」

「どうした、苦いコーヒーって、赫那がそう言う時は、何かある時だよなぁ、どうした?」

「いや、別に大した事無いんですけど、今ジュエリー屋さんに行って来ましてね、ダイアモンドを買おうかどうか迷ってて」

「ん?なんだ、結婚するのか?」

 そう言って、小出さんは、エスプレッソの香ばしい音を立て始めた。

「いや、結婚は全然考えてないんですけどね。そこの人達が言うには……」

 僕は、小出さんがいれてくれたエスプレッソを飲みながら、先程の事を説明した。

「そりゃー、おまえ、俺だったら買うね、勢いで」

「これ見てくださいよ」

 僕はそう言って、見積書を渡した。

「うーん、ちょっとこの金利は高いかもしれないなぁ。俺もよく分からないけれど、まぁー、迷うって事は、今じゃなくてもいいって事だよ、やめときな」

 僕は、そうして、その話は忘れることにした。

 「ラット」を出て、暇な足で僕は、本屋へ向かった。その途中の露天商を見つけると、僕はどうしようもなく気に入ったリングがあって、二つそれを購入した。

 

 樹理を学校まで迎えに行くと暇だった僕等はプールバーへ向かった。どうも慣れない手つきで玉を突いているとそこには樹理の真剣な表情があって、僕はそのまま指輪をあげた。

「何これ?」

「一個500円の指輪。ほら、俺も持ってるよ」

「500円?」

「そう、500円。本当は一個1000円だったけど、二個買うって言ったら、半額にしてくれた」

「やっすー」

「指輪だって思うから安いんだよ。それお守り。まぁ、ヒマワリの種くらいだと思ってよ」

「ところでさぁ、この指輪どこにはめても大きいんだけど」

 そう、その指輪は彼女には大きすぎる。もちろん、僕が買ったのも、僕には大きすぎる。別に二人が同じ物を固執して、指にはめることも無い。お互いを勝手に縛り付けるだけで、空間を狭くする。だからそれは、お財布に入れたって、カバンの中に放り込んだって、もし家に水槽があったらそこの中に入れておいてもいい。

「チョーカーにしようか?」

「それでもいいよ」

 僕達は、最後のエイトボールを入れると、皮紐を買いに雑貨屋さんに向かった。お店の人にチョーカーのかっこいい作り方を教えてもらうと、僕達はそれぞれ作り、大事にそれをポケットにしまった。

 

 永遠の輝きは、僕達とはまた別の道の上で輝いていてくれればいい。いつかその石の輝きを僕は女性と分かち合う日が来るかもしれない。

 それでも僕は永遠なんて欲張らず、今でいいから一瞬だって今日だけだって、そう言えば昨日輝いていたようなくらいの輝きだっていいから、少しだけ、永遠から漏れてしまったその光を浴びればいい。

 だって、もし本当にダイアモンドを渡す時が最高の喜びになるならその後つまんないもんね。だったら、地道に笑いたい。

 

「私にはまだダイアモンドは似合わないよー」

 

 そう言った樹理は、本当に普通に笑った。