イチゴ狩り

 

   「日々のカタマリ」

 

 最近、ひどく泣いたことがあるのか自分に少し尋ねてみた。

 

「誰の悲しい場面を考えようかぁ………」

 

 口には出してみたものの、自分の弱さと比較してみると、とてもじゃないけれど、それはあまりにも残酷過ぎると思う。だけど、それは自分では、日々の中で悲しいものだとは考えずに、また絶えず、朝が来る。難しい言葉なんて、余り使いたいとは思わない。何でだろう。

 

 やっぱり表現というものは、人に伝えるときには、簡単がいいと思うからだと僕は云う。もう、僕の部屋から見える景色も大分、変わってしまった。それに、音も僕の生活をかなり左右して、リズムを少しずつ狂わされている。

 

 あの、環境問題を取り上げながら大声で走る選挙カー。何時までたっても終わらない、永遠と続く工事現場。時折、空間をバリバリと引き裂いて、飛んで行く撃ち落したくなるような、ヘリコプター。

 

 何時からこうなってしまったのだろう。昔はカエルの鳴き声だけが、唯一の雑音。

 

 だけどそれは、騒音ではないから、僕の耳から脳に行って、神経を逆なでするくらいの勢いはなかった。むしろ風情があって、心地よい夜を提供してくれた事もあった。

 

 あれは、確か中学生の時だった。やっぱりこんな田舎町だったから、夜祭は大きなイベント事だった。一年で、何度くらいしか賑わわない神社の一夜だった。一度、社への通り道の、夜店の賑わいを外れると、そこは少し暗がりのひんやりとした、夏の夜が待っている。みんなが、提灯の周りを盆踊りで回っている頃、僕達は、そんな空間にいた。それは、まるで忘れることの出来ない夜で、歴史的には、僕が有名な人物になったって、誰も知らないような、密かな出来事だった。

 

 初めて、口付けを交わした。

 

 僕達は、とても健康的に汗ばんで、明るい場所にたどり着くまで、怖くて、どうしようもなくて、ただ真っ白だった。でも、若さって言うものは、自分達にはどうしようも出来なくて、間も無くそんな恋も忘れてしまう。そして、次の夏に差し掛かろうとする修学旅行中、僕はまた新しい恋の中にいた。

 

 そうやって、少しずつだったけど、今の僕を形成していくために、僕は幾度となくドキドキ感を覚え、泣いたりして、簡単に笑ったりすることを手に入れて来た。それが今では、生活観だけに押されて、僕の家の周りに、また家が建つことを嬉しく思えなくなって、もう、昔はどんな畦道を通ってきたとか、初めて自転車に乗れたことや、犬と走り回った、干からびた田んぼも、そう簡単には思い出せない。

 

 一年に一度するかどうかの自分の周りの大きな掃除。一人だけの掃除当番で、別に何をきれいにしたって構わない。そうして、そんな空間の中で、絶対に僕の時を止めて、たまには昔に連れて行ってくれるのが、古いアルバムと、文集。両親の服一つを見るにしても、それは僕には楽しみで、今では風化してしまったのか、それともそれを文化と呼んで、一つのものとして残すのか、とにかくそんな時代を見るのが好きだ。

 

 僕の顔は、産まれた時から今に至るまで、きっとこうなるに違いないと言い切れる顔をしているし、無邪気と呼ぶには、当たり前の顔をしているから、でもその頃の記憶は全くなくて、別に母親の乳房を普通にしゃぶっている自分に違和感なんてない。

 

 何で、あんなに汚い字を書くことが出来たのだろうか、不思議で仕方のない若い文字だとか、表現力が余りにも無いために、その頃の気持ちが余りにも分かってしまう言葉だとか、そう、僕は成長している。

 

 僕は飲みすぎたワインに疲れて、四葉の絵が描いてある大きな紙袋を抱えて家に帰ると、もう頭の中は寝静まっていて、僕は、後は体を横にするだけだと思って、そのまま布団の中に入った。

 

 朝、目が覚めると喉が痛くって、冷たい水の助けと、自分を奮い立たせるための苦い珈琲。そして体内から抜けきらないニコチンを再び摂取する。どうでもよい迷信を信じて、昨日買った靴を履いて日々の中へと歩いていった。

 

 僕が想像力を膨らますたびに、心が狭くなっていく。僕は日々の中に、創作性の終わりを探していた。

 

 

   「待ち合わせ」

 

 僕は、こんな性格だから、ハンバーガーショップだったり、ファミリーレストランだったり、そう言うところで待ち合わせることが恥ずかしい。人を観察することが好きだから、出来れば公園とか、噴水なんかがあったりして、時には、ハトの動きを観察しながら、缶コーヒーを飲んだりする方が似合っている。

 

 昨日買った靴は、まだ足には馴染んでなかったけど、もう少しで、体の一部に成れそうな、そんな気がしていた。さっきまで気付かなかったけど、今日は、サン・ジョルディの日らしい。スペインの行事で、男の子が花束を、女の子が本をそれぞれ、異性にあげる日らしい。そんな日があってもいいなって思って、僕はそれに流されるかどうかを迷っていた。

 

 本当は、僕は本が買いたかった。でも、せっかく流されるんだったら、花を買ったほうがいいな。そう思って時計を見ると、少し時間があったので、迷わずハンバーガーショップから、飛び出した。

 

 最近、花屋に来たのは何時だったろうか、あまり僕が花束を贈らないのは、枯れてしまう事が怖かったからだ。どうせなら綺麗な花を贈りたい。でも、綺麗な花ほどすぐ枯れてしまいそうで、一時だけの感動を与えるだけで、そう考えると、赤い花は怖くて買えなかった。

 

 もう樹理は、日のあたる一番窓際の席でドリンクを飲んでいた。僕は、花束を渡した。

 

「何これ?」

 

 樹理はやっぱり驚いた。

 

「別に。意味は無いけどね、ちょっと花屋に寄りたくなって買ってきただけ」

 

 僕は、今日が何の日かなんて言わなかった。それは、機会を与えてくれただけの暦上のものであって、もう買ってしまって、それを渡そうとした気持ちの方が優先だと思ったからだ。

 

「ふーん、なんか怪しいな。でも、ありがとう。でもこれ、どうしようか?持って歩くのは恥ずかしいな」

「じゃぁさぁ、近くに知り合いのお店があるから、そこに行かない?」

「で、行ってどうするの?何のお店?」

「普通のコーヒー屋だよ。そこに飾ってもらおうかと思って。花束は、表現するだけの形って事で、気持ちだけ貰っといてよ」

「わかった。じゃぁ、今度はかさばらない、指輪とか買ってよねー」

 樹理は笑いながら、少し試すような感じで、僕にそう言った。

「ん?今度な、今度。スロットでも勝ったらな」

「それって、いつ勝つの?もう辞めたって言ったじゃん」

 僕は、少しドキッとしたけれど、

「あれは、あれ、パチンコ辞めるって言ったんだよ。スロットは辞めてないもん」

「はぁっ、はぁー、超テキトー」

 樹理は、笑ってくれた。

 

 僕達は、そう言いながらトレイを戻して、その店に向かった。

 

 

 

   「窓のないお店」

 

 そのコーヒー屋は地下にある。だからいつも薄暗くて、なかなか客を寄せ付けない。

 

「なんか、雰囲気いいって言うか、ちょっと怖いよねー」

 

 樹理が階段を降りて、店に辿り着くそんな数秒の間にそう言った。

 

「もっとびっくりするよ」

 そう言って、僕はドアを開けた。

「いらっしゃい」

 樹理は少し退きながら、もう少しで花束を落とすところだった。

「あ、こんにちは。どうも、久し振りです」

 

そこには、カウンターが九つと、四人掛けのテーブルが二つ、あまり広くはない店だ。それよりも、樹理が驚いたのは、そのトラの剥製にだった。とりあえず、カウンターに座って煙草に火をつけると僕は、

「あ、レギュラー二つ下さい」

 そう言って、樹理の顔を覗きこんだ。

 

「あ、うん。コーヒーでいいんだけど、びっくりしたー。本物がいるかと思ったよ」

「そんなわけねーだろー。でも、最初は俺もびっくりしたけどなぁ」

 そのもう動かないトラは、堂々と店の真中で来るものを威嚇している。

 コーヒーを出してくれたマスターに、

「髪形変えたんですねぇ、カッコいいっすよ。結構太いですよね、そのドレット」

「あぁ、でも髪洗えねーからなぁ、結構くさいし、面倒くせーよ。それより、赫那、彼女かわいいじゃんかぁ」

「あ、樹理です」

 そう言って、彼女の方を見た。

「あ、はじめまして、樹理です」

 僕は、彼女に花束を渡すように言った。

「あの、これ店に飾ってもらっていいですか?」

「いいけど、いいのか?俺が貰っちゃって。それに、今日は、花じゃなくて、本を持って来てくれなきゃ」

「え?何でですか?」

「だって、今日は何とかって言う日で、女の子が男の子に本をあげる日だろ?」

「え?そうなの?」

 そう言って、樹理は僕の顔を見た。

「あぁー、まぁ、サン・ジョルディの日とかで、そう言うことだなぁ」

「何で、教えてくれないのー。知らなかったじゃん」

「別に、そんなの関係ないよ、花が買いたかったから、買っただけ、俺がそんなのに流されると思うかぁ?」

 思いっきり流されてみたけど、そんなことカッコ悪くて言えなかった。

「まぁ、とにかく飾ってもらいなよ。いいですよね?小出さん」

「ちょっと待ってなよ、今ベース持ってくるから」

 そう言って、マスターは奥の方に行ってしまった。

 

「ねぇ、あれ触ってもいいかなぁ?」

「いいんじゃない?でも、壊すなよ」

「うん」

 そう言って、樹理はトラに少し触れてみた。

「これ、昔は生きてたんだよねぇ、でもこう言うのって、日本は禁止されてるんじゃないの?」

「今は禁止されてるけど、昔からあるらしいからいいんじゃないの?」

「ふーん」

 そうして、マスターが戻ってきて見事に花を飾ってくれた。

「どう?いい感じじゃない?」

 そうマスターが言って、お店の入り口に飾ってくれた。

「ここは、日が当たらないからなぁ、早く枯れちゃったらごめんね」

「あ、別にいいですよ。生きているものですからねぇ、植物も。一時的に何かを和ませれば、花もそれで嬉しいと思いますよ」

「何、詩人みたいな事言ってるんだよ」

「え?詩人ですよ、僕は。生まれながらの詩人かな?」

 僕はそう言って笑った。

 

 少しをそこで過ごし、次に何処に行くか考えた。

「なぁ、今日どうする?」

「うーん、別に特にないけど、給料前で、お金ないからねー」

「俺もだよ、あんまりお金ない」

「どうしよっか?」

「そうだ、前に言ってたあの映画観に行かない?」

「映画かぁ……天気いいのに?」

「じゃ、どうする?」

「こう言う時って、いつも困るよねー?普通、みんなは何してるんだろう」

「あ、俺もそれ思うよ。みんな何してるのかなぁーって。でも、案外みんなも何もしてないと思うよ」

「だよねー、でも今日は人ごみ避けたいよねー、目的ない人達がいっぱいいるところって、疲れるしー」

「よかったら、ここに行けば?」

 そう言って、マスターが、二枚券をくれた。僕は、どんなパーティーがあるのかと思ったら、意外にそれは、イルカの絵が書いてある、水族館の優待チケットだった。

「それならお金掛からないだろう?」

「はい。でも、どうしたんですかこれ、貰ってもいいんですか?」

「いいよ、持ってって、たまにはそう言うところでデートもいいだろ」

「あ、ありがとうございます」

「じゃ、ここ行こうか?」

「いいよ、イルカね、イルカ」

 

 そう言って、勢いに任せて僕と樹理は、マスターに頭を下げて店を出た。帰り際に見た花達は、もう店の一部になっていた。

 

 外は眩しすぎて、僕達は思わず握ってない方の手で、ひさしを作って目を細めた。

 

 

 

 

   「地下鉄を乗り継いで」

 

 地下鉄の匂いは好きだけれども、最近はめっきり乗る機会が減った。車社会の中で、空気を汚すことに胸を痛めることを余りそれとしないから、僕はハンドルを握ることが多くなった。それに好きな音楽を聴きながら、歌いながら、誰もがそう思うと思うんだけど、大声を張り上げて歌を歌えるのは、車の中に限る。たまに交差点を曲がる時に二車線に入って停車して、信号の色が変わるのを待っているときは、少し恥ずかしくなって、小声になるが、別に横の車に聞こえているわけでもないんだけど、唄うのを辞めてしまう。

 

 そう言うのって、人間の小ささを表していて、そう言うのもひっくるめて、僕は車中が好きだ。その点、電車の中では大声で歌うことも、よい環境で音楽を聴くことも出来ない。普段通りに恥ずかしくて、一時的な恥ずかしさもないし、周りが思っているほど、乗客なんて、誰も気にしていない。

 

 最近は、便利か不便か知らないけれど、駅と駅が繋がりすぎていて、乗り継いだりするのに一苦労掛かる。乗車券を買うのにも時間が掛かるし、駅員の態度は、昔より冷たく感じる。小さい頃は駅員というのは、立派な仕事の一つで、それは駅員さんというもので、でも今では、おんなじ大人、人間、そう思えて仕方がない。逆に言ったら、自分では絶対にやりたくない仕事だな、と思う。鉄道マンのかっこいいドラマや映画があるけれど、それはごく一部で、本当にそんな話があるのかさえわからない。自分は、嫌な大人になっていってるんだな、そう思う。

 

 樹理は車も持ってないし、よく街中に遊びに行くから、電車はきっと当たり前なのだろう。僕の切符まですでに買っていて、早く行こうと僕を引っ張った。地下鉄が轟々と音を立てて、ホームに入ってきた。僕はそれに乗ろうとしたけれど、樹理に止められた。

 

「それは、快速」

「え?ダメなの?」

「それに乗ったら、止まらないよ。でも、乗り継ぐんだったら、大きな駅で止まるんじゃないの?」

「止まるけど、JRに乗りかえるから、快速では止まらないよ」

「不便だなー。JRも地下鉄も一緒でいいじゃん」

 そうこうしているうちに電車が来た。

「今は、電車の間隔が早いから、別に不便じゃないでしょ?」

「うん、こんなに早く来るとは思わなかった」

 とにかく僕達はその箱に乗りこんだ。

 

 どうも、電車の中で座ることに慣れない僕は、立っていた。少し体を持って行かれるあの慣性の心地よさ。久し振りに味わった。様々な人達がいるもんだ。不釣合いなこの時間に乗っている女子高生だったりだとか、新聞紙を丸めて肩身狭そうに読んでいるおじさんとか、孫を連れたおばあちゃん、色々いる。みんなどんな生活を持っているんだろう。人は様々な時間に様々な場所にいる。今日は平日だというのに。

 

「さぁ、降りるよ」

 そう言って、樹理は先に降りていった。

 

 はっきり言って、僕はキョロキョロしていた。みんな、ものすごいスピードで歩いている。時間というものは確かに大切だけど、ゆっくり歩いてみるのもいいもんだ。速く歩きすぎだぞ、日本人。もう少し周りの変わったものだとかを捕らえようだとか、そう言う心のゆとりはないものかねー。

 

「早く」

 樹理は、少しムッとして僕に言った。

「別に焦ることないだろ」

「ここで乗り継ぎなの。早くしないと電車行っちゃう」

「いいじゃん、すぐ次の電車来るんだし」

「JRは本数少ないし、快速乗らないと時間掛かるよ」

 まじで?今度は違うんだ、世の中世知辛いねー。そう思って、僕達は少し速く歩いた。

 

「はぁー、危ない。もう少しで乗り遅れてたよ」

 そう言って、樹理は、安心したのか少し笑った。

 その電車は、いまどき座席が四人掛けの向かい合う席で、銀河鉄道の夜みたいにたくさんの出会いがありそうな、少しオンボロい電車だった。僕達は並んで座って、外を見ていた。こう言う電車は、座った方がいい。なんだか、遠くへ行くみたいで景色が果てしなく動いて。

 

「で、後どれくらい掛かるの?」

「うーん、40分くらいかなぁ?」

「え?そんなに掛かるの?結構長旅だなぁ」

 結局遠くへ行くみたいだった。

 

 段々平行して見える河が、広くなっていく。海に近づいているのだ。時折、河が見えなくなってそして、鉄橋の音がしだして。

「よかった」

「何が?」

「別に」

 僕は、思わずもらしてしまった安堵感から来るもしくは溜め息でもよかった言葉に、ただそう言った。本当は、樹理と一緒でよかったとか、こう言う空間とか、そう言うことが現れている事を悟られたくなかった。でも、ただ単純によかった。

 

「その靴かわいいね」

「ん?ありがとう。昨日思わず見つけて、色々なことが頭に過ったけれども、思わず買っちゃった」

「何?思わず、思わずって」

「余り考えてないってこと」

「お金ないって言ってたのに」

「お金は確かにないけど、もうこの靴には一生会えてなかったかもしれないでしょ?それが人か物かの違い」

「私は、別にお金で買われてないでしょ?まぁ、靴と張り合うつもりはないけどね」

 僕達は、いつもながらにどうでもよい会話が楽しくて、そんな言葉達を繰り返した。

 

 海が見えた。

 

 遠くからだったから、船は止まって見えたけれど、確かに潮の匂いがする勝手な錯覚を起こして、少し子供に戻れた自分がいた。

 

 

 

   「水族館」

 

 その水族館は、海の上にあって、そこまでは長い長い橋を10分くらい掛けて歩かなければならなかった。大抵、変な迷信があって、この橋を渡ると恋人達は別れるとか、そう言うの。そりゃぁ、たくさんの恋人達が憩うためにこの水族館に来るのだから、それにこの橋は渡らなければならないし、別れてしまう人達がたくさんいても頷ける。気にしていたら、楽しい人生送れない。

 

 もう、錯覚じゃなくて、確かに潮の匂いがする。船も少しスピードを増して、港に停まっている小さな船も、波は高くもないのに、チャプチャプと微かに揺れている。

 

「日が高いね、もう春だね」

 そう言われて、僕も上の方を見上げた。

「そう言えば、もう昼だもんな。朝飯も食べてないし、お腹空いたなぁ。早く中に入って、レストランにでも行こうぜ」

「そうだね、コーヒーだけじゃ、お腹空くよ。きっと、お魚がおいしいと思うよ、雰囲気だけでね」

「そう言うこと言うなよー。新鮮な魚が食えるんだぞ、でもそれも気分だけかもな……」

「こう言うところのレストランって、大しておいしくないけど、雰囲気勝ちするじゃん。しかもちょっと高いし」

「俺達、別に感じの悪いカップルじゃないんだから、こんな会話もうやめようぜー」

「そう、そう、嫌味言っても仕方ないもんね、早く入ろうよ」

 僕達は、マスターから貰った優待チケットを提示して、気分よくスムーズに中に入っていった。

 

 早速レストランに向かった。お昼時とあって、さすがに込んでいた。でも平日だから、まだ少ない方だと思う。これが、土日祝日だったら、大変だ。少し奥の方が騒がしかった。忘れていた。小学生には、春の遠足というものがあった。

「よかったな、小学生はお弁当で、ここの広場は混んでるけど、レストランの中はそんなに人がいないよ」

 この水族館は、二つのレストランが在って、一番上の展望台の海がよく見える方のレストランは、僕達には、手も足も出なかった。別に昼食なんだから、安く済ませればいいのだ。そう言って、海がよく見えない方のレストランに入っていった。

 

「結構遠くの方まで見えるね。別に上じゃなくても景色いいじゃん」

「上のレストランだったら、もしかすると、もっと景色よくて驚くかもしれないよ」

「いいじゃん、展望台は別に、食事じゃなくても行けるんだから」

「そうだよな、後で行って、それから驚けばいいだけか」

 それでも昼食だったから、あんまり重いものは食べずに普通のランチを食べた。

「おいしかったじゃん。誰だよ、雰囲気とか、そんな世界を壊すようなこと言う奴は」

「さぁ?誰だっけ?」

 

 僕達の目的は、あくまでイルカだった。レストランで、イルカショーのことを聞くと、もう間も無くと言っていた。僕達は、都会から離れた足取りで、イルカショーの場所まで歩いた。

 

「わ!イルカ!」

「当たり前だろ」

「もっと驚いてよ、だって、イルカだよ、イルカ」

 

 結構、女の子ってこう言う所がわからない。街中で、人込みに紛れたら、今時の女の子のそんな一人なのに、こう言うのとか、結構冷めてそうだと思ったのに、反応は、普通の女の子だった。

 

「わーい、イルカだー」

 

 そう言って、僕は両手を広げて、かなり喜んで見せた。

 

「やり過ぎ」

 

 樹理はそう言って、やっぱり冷めた顔で、こっちを見た。でも人はそんなギャップが好きで生きている。ふとした瞬間と言うものがあって、人は惹かれ合うのだ。

 

 アシカやイルカを見ていると、とても賢いと思う。下手したら、最近の感情だけで人を刺してしまうようなガキよりかは何倍も頭がいい。そう言うニュースばかりの中で僕達は暮らしているから、また誰かが、人を刺し殺してしまう。そう言う族には、ぜひ一度イルカショーを見てもらいたいものだ。もしくはイルカに乗った少年として、デビューしてもらいたいものだ。

 

 すごい水飛沫が僕達の前に襲った。

 

 僕達はびしょ濡れになった。ちゃんと注意書きがしてあるのにもかかわらず、一番前で一番近くで見ようとした罰だ。でも、僕達はその罰を難なく受け入れた。

 

 笑った、なぜか二人とも笑ってびしょ濡れが心地よかった。こんなに笑ったのは、久し振りだった。もう新しい靴も何もかもが関係ない。樹理は崩れた化粧が顔中に広がっていた。僕はそれを見てまた笑った。

 

「おい、化粧崩れてるぞ」

 

 一瞬笑いが止まって、僕はやばいって思ったけど、樹理は手鏡見て、それが自分でもおかしかったのか、また大声で笑っていた。

 

 イルカショーが終わると、係りの人が、黄色いバスタオルを二枚貸してくれた。髪の毛を乾かしながら、すぐ隣の売店へ行った。そこで、僕達は、イルカのプリントの普通じゃ着れないような、Tシャツを買った。それを着たお互いを見て、また笑った。一応、最前列には、ビニールシートがあったので、腰から下は助かっていた。それでも、靴は濡れていた。

 

 僕は煙草を吹かしながら、化粧が済むのを待っていた。女の子は大変だなぁ、化粧って一回しだしたら、一生しなくちゃいけないからなぁ。男でよかったと、そこで思う。

 

「お待たせ」

 

 そう言って、髪こそは濡れていたけれど、もうすっかりいつになく慣れた化粧顔で樹理は現れた。スタート地点まで戻った僕達は、普通の順路でこよなく魚達を見て回った。マグロやカツオとか、もしご飯を食べてなかったら、「おいしそー」って思わず漏らしていたかもしれない。

 

 僕は深海魚が好きだった。もちろん水族館に本物は極僅かしかいないけれど、模型が置いてあって、なんて神秘的な色や形をしているのだろうって、いつも絶賛していた。

 

「深海魚って綺麗だよねー」

 僕はそう言った。

「綺麗だけど、もし深海であったら気持ち悪いのもいるけどね」

 どうやら、女の子には、魚ってより爬虫類とかの方が深海魚は近く見えるのかもしれない。

 

 大抵サメや鯨の大きな模型が何処の水族館にもあると思うけれど、本当に大きいと思う。もし、海に潜っていてあんなに大きなサメが泳いでいたら俺は泣き出すだろうな。絶対にケンカでは勝てそうな気がしない。勝負するなら、陸だな。

 一通り見て回った。ラッコやペンギンも見たし、深海魚の映画も見たし。

 

「お茶でも飲みに、展望台に登ろうか?」

 

「うん、行こう。少し疲れたね」

 

 展望台の上に着くと、そこはやはりさっきとは比べ物にならない程の景色だった。何処でどう時間を費やしたのか、もう夕方近くの時間になっていた。でも、まだお日様はオレンジ色に染まってくれそうもなく、よい雰囲気をそこまで僕達に与えてはくれなかった。

 

 

 

 

  「群れが成す柵の中」

 

 よっぽど疲れたのか、僕達は帰りの電車の中で寝ていた。恥ずかしかったのはTシャツだけで、周りの目を気にすることなく寝ていた。行きとは違って、電車は樹理の家の近くまで行くために終点の大きな駅まで一本だった。気が付くと、もうそこだった。

 

 目的はシャワーを浴びて着替える事だった。若くないと言ってもやっぱりまだ、体力的に若くて、僕達はそのままエッチをした。またシャワーを浴び直しに行っている間、僕はテレビを付けた。ちょうどニュースがやっていた。また女の子が一人、ナイフでめった刺しにされて死んじゃったらしい。不幸せじゃない自分が少し嫌だった。とても、痛い。痛過ぎる。

 

 携帯電話が鳴った。

 

「もしもし」

「あ、赫那?何してるの?」

「あ、今ね、彼女ん家」

「今からは?」

「別に予定ないけど、何で?」

「久し振りに明日休みだから、飲みに行こうと思ったけど、彼女の家にいるならいいや」

「まじで?別にいいよ、久し振りの休みなんだろ?」

「いいって、じゃ、樹理ちゃんによろしくって言ってー」

「あ、うん、わかった。じゃぁ、明日な」

「明日?夜?」

「うーん、明日かぁ………」

「予定あるの?」

「実はさ、彼女できた」

「はぁー?まじ?」

「その話がしたくて、今日飲みに行こうって思ったんだよ」

「彼女と会わなくていいのか?」

「なんか、今日は予定があるらしい」

「そうか、じゃぁ、また今度と言うことで、頑張れよ」

「あ、ちょっとー……」

 僕はそこで、電話を無理やり切った。そうか、あいつにもとうとう彼女が出来たかぁ。そこで、樹理がお風呂から上がってきた。

 

「ちょっと、聞いて」

「何?やましいこと?」

「そんなんじゃないって………あのさ、あいつ、佑って居るだろ?」

「あ、うん、同小、同中、同高のね?」

「そう、そう、何度か一緒に飲んだ奴」

「で?」

「あいつ彼女できたって」 

 僕は何で、こんなに嬉しそうに言ってるのか、自分でもわからなかった。

「本当に?で、夕飯どうする?」

 それもそうだな、興奮しているのは俺だけだった。ずっと小さい頃から一緒だったから、あいつに彼女が出来て驚くのは、俺だけだった。

「お金ないから、作るか?冷蔵庫開けるぞー」

「何にもないよ。セロリくらいかな?」

「は?セロリだけ?なんで?」

「だって、この間みんなで鍋した時に、要らないもの全部入れて食べちゃったもん」

「じゃ、どうする?買ってくる?」

「コンビニでいいんじゃない?」

「そうだな、お金ないしな、コンビニでいいか」

「私お風呂入っちゃったから、なんか適当に買ってきて」

「ジャージでいいじゃん、すっぴんでも」

「嫌だー」

「わかった。なんか買ってくるよ」

 

 僕はとぼとぼと煙草を吸いながら、樹理の家を出て、歩いて5分ほどのコンビニまで何も考えないように行った。ふと、今日みたいな日から、ここへ戻ってきて、そしてパチンコ屋のネオンの下を歩いたり、女子高生や、目つきの悪い若者達の横を通ると、香水とかピアスをつけないと、この街はもう二度と歩けないんじゃないかって思った。

 

 早く樹理の元に帰って、テレビでも見ながら特に狭い空間で、ぬくもりだけで満足する空間へと、自分だけの欲を満たすために、このビニール袋は、リサイクルです。と書かれた、お弁当の入った袋を下げて、そこへ帰りたいと願った。

 

 

 

 

   「メディアと言う集合体」

 

 彼女の家に帰ると、樹理は入り口から背を向けて、コンピューターに向かっていた。

 

「お帰り。何買ってきた?」

「あ、おろしタツタ弁当と、えーっと、なんか、新発売とか言う奴」

「じゃ、その新発売の奴ちょうだい」

 

 別にこういう態度はいまさら怒ることもないんだけど、マンネリって怖いよね。せっかく、今日は気分が違ったのに家に帰れば、こんなものか。そうだよな、自由って言う空間は、お互いを求め合いすぎない方がいいのかもしれない。それでも、僕はテレビを付けて、コンビニ弁当を食べながら、それを見ている。別に大して変わらない。

 

 どちらが非生産的かを競い合うわけじゃないけど、二人とも文化人だ。こんなにハイテク化した時代で、便利になるのはいいけれど、もし、電動耳かき機なんて物が発売されでもしたら、膝枕というものも時期に減るだろうな。

 

 僕は仕事でコンピューターを使っているから、特に普段それを使いたいとは思わない。それはあくまでも仕事だけれど、彼女が今やっているのは、動物占いをやったりだとか、チャットをやったりしているだけだ。娯楽と割り切って楽しむのはいいけれど、それで視力を下げていたら意味がない。

 

 僕は自分の見ている番組と比較してみた。ニュースでもない、クイズ番組でもない、ただのコメディー。アメリカ人が見ているようなコメディーよりは、知的だけど、品位は余りない。それは、日本の様々なレベルを下げるのにかなり最適な影響だ。だけど、突発的な事件を起こす確立は、痛みとかを知っている日本人の方が少ない。アメリカ人は、規制され続けているから、何処かでたまに大きな事件を起こす。それに国土が広いために、地方で起きた小さな事件は、余りニュースでは紹介されない。

 

 日本はその点すごい、どんなに小さくても大きくても、どんどんメディアを通って僕達の元に知れ渡る。基本的に群集心理の強い日本人は、口コミにしろネットコミにしろ、浸透力が強く、そして冷めやすいから、すぐ忘れる。一番細かく時代の流れを追うと思うと、歴史同様、日本は本当にサイクルが早い。昨日買った服だって、もう明日着ていたら時代遅れになるかもしれない。

 

 お金がないと出来ない娯楽が日本には多い。むしろ、こんなに娯楽が発達しているからこそ、遊び方を知らないのかもしれない。例えば、絵を書いたりだとか、音楽をするだとか、本を読むだとか、そう言うことが、余りにも早く教育の一環として、押さえつけられ、植え付けられ、嫌な思いをして育っているから、自ずと知らないうちに拒否しているのかもしれない。

 

 テレビゲームとかでも、高等教育の授業の一環として、来週までにこのRPGをクリアーしてメモリーを持ってきなさい、とかだったら、得意不得意が出て、やりたくなくなるのかもしれない。今でこそコンピューターが流行りだしたから良いものを、そのうち当たり前になってきてコンピューターだってやりたくない人が出てきて、誰かと差がついてしまう。

 

 まぁ、そんなことは多分ないとは思うけど、もしそれが当たり前になったら、もっと緑を見たりするのかもね。

 

 ふと我に帰ると、僕は品位の薄いコメディーを見て、テレビの前で笑っていた。

 

「ねぇ、今何やってるの?」

「ん?買い物」

「通販みたいな奴?」

「違うよ、オークションで入札してって、一番いい値段で落札すれば、後で連絡来て、欲しいものが安く買える奴」

「ふーん、騙されるなよ」

「大丈夫、ちゃんと代金引換で貰える奴だから、でも中には騙された友達とかも居るよ。超むかついたって言ってた」

「それって、今警察が追いつけないから、結構問題になってるんだろ?」

「警察って、結構今色々やってんじゃん。出て来る出て来る不祥事の山。ってよくテレビとかでやってるもんね」

「あんまり日本の警察って当てにならないよね」

「まぁ、そうだな、俺の友達の超悪だった奴とかでも、今では警察やってるからなぁ」

「ふーん、便利じゃん」

「何が?」

「さぁ」

 

 

 

 

   「涎掛けを汚せない人達」

 

 僕は通勤のために歩く。雨が降れば、バスに乗る。出勤時間は結構普通の人よりは遅い。しかも普通の人達とは逆の方に向かって歩いていく。そして、静かな住宅街に立つ白いマンションの中に入っていく。そこの二階が僕の仕事場だ。社長と従業員が合わせて四人しか居ない小さな個人会社だ。お客さんから貰った原案原稿をコンピューターで打っていく。ただ打っていくのではなく、それに基づいてクリエイトしていかなければならない。まぁ、簡単なホームページから、広告のようなものまで、様々。

 

 僕は昨日水族館に行って来た事を、みんなに話した。仕事のスタートがまるで遅い。まず、みんなは、おはようと言った後でコーヒーを入れて休みだった人の出来事なんかを話したりして、少し盛り上がってから仕事を始める。

 

 仕事場からはすぐそこに公園があって、ジャングルジムが見える窓側のデスクが僕の持ち場だ。そこで、肩が痛くなるまで、コンピューターと向かい合う。

 僕はそこで色々な人を見かける。

 どう見ても疲れ切った顔をして、その中年男性はそのジャングルジムに座っていた。ごそごそと、カバンの中から取り出したのは、紙パックに入ったミルクと、サンドイッチだった。それをか細い表情で黙々と食べていた。僕は、彼の人生に何があったのだろうと考えながら、読心術を試みる。だが何も見えない。僕にそんな力がないのか、彼の心は、もう真っ暗なのか、それもわからない。でもきっと、悩むとしたら、女か仕事か、はたまたガンを宣告されたのか。ジャングルジムじゃ、自殺できないもんね。目の前でされても僕は困るだろうけど。

 

 ジャングルジムを通り越して、その向こうの木陰の下にあるベンチで、僕は目撃した。最近の若いお母さんは怖いものだ。泣き止まない自分の子供を、思いっきりひっぱたいていた。僕は、思わず目を伏せた。一人の女性がそこで何やら探していた。おもむろにその人は立ち上がると、こちらを見て笑って行ってしまった。記憶にも残らないような出来事だった。

 

 僕はコンピュータに向かい合ってるときは、お腹が空かない。だから、いつもコーヒーだけで済ましてしまう。そして、夜になって、ビールでも飲もう物なら、すぐに回ってしまって、そして顔を赤らめる。だからそこで、ネクタイを外してしまったサラリーマンの声は、ひどく苦痛に歪み、僕の人生もそこで思い知らされてしまうのである。一つだけ違うのは、僕はネクタイをしていなことだ。僕には、涎掛けが似合わない。社会という大家族の中で、僕はいつまで経ってもヨチヨチ歩きをしている暇はなかった。

 

 新聞を読んでいることが偉いって勘違いしている人達が多過ぎる。議員バッチを付けていたって、背中に綺麗な刺青があったって、小学生だって、幼稚園で学んだことを、頑なにやり通せるかが、偉いとは言わないけれどそれが素晴らしいことに繋がる。だから、あなた、履物をそろえなさい。

 

「今日は、樹理は、夜バイトかぁ………」

 

 樹理は短大を卒業して、アナウンサーになるための専門学校に今年の春から入った。僕は、彼女がいずれ悲しいニュースの原稿を、テレビの前で読む時が来ると思うと、少し不快感がある。でも、そう簡単に成れるわけはないから、応援はしていても、大して気にしてない。気持ちを押し殺して、悲しいニュースを読む練習をしている樹理は、いったいどんな顔をしているのだろう。それは、無表情って呼べるのだろうか。

 

 そこに、隣に座って仕事をしていた光一郎さんが、話しかけてきた。

「今日赫那君は、夜予定ある?」

「え?ないですけれども」

 僕は、光一郎さんから誘うのが珍しくて、思わず、え?って言ってしまった。

「彼女には悪いと思うんだけれど、今日合コンの人数足りなくってさぁ、付き合って欲しいんだけれど。いい?」

「はー。別に彼女は何も言わないとは思いますけど……人数足りないのならいいですよ」

「本当?助かるよ。じゃぁ、僕はちょっと雑誌の打ち合わせで今から出るから、七時に駅前の居酒屋「マンボウ亭」で待ち合わせね」

「あ、はい。わかりました。じゃぁ、七時にそこで」

「たのむよー」

 そう言って光一郎さんは、いそいそとカバンに荷物をまとめて、出ていった。

「そうかー。コンパかー。あ!」

 僕はそこで、給料前でお金がないことに気付いた。それで光一郎さんは、人数が足りなかったんだ。しまった、どうしよう。まぁ、何とかなるだろう。僕は、そう思いながら、コーヒーを入れ直して、ジャングルジムを一回見て、誰も遊んでいないことを確認すると、またコンピューターに向かって目を細め始めた。

 

 

 

 

   「駅前留学」

 

 僕は六時半に仕事場を出るとバス停まで歩き出した。僕は、もうすっかり夕方なのに明るいなと思いながら、バスが来るのを待っていた。バスを待つ時間というのは、とても穏やかな時間だ。特に夕方、なんだか家庭に戻る人達や、夜の街に出掛ける人、様々な人は、大抵ゆっくりとしている。

 少しお腹が空いたなぁと思いながら、僕は今日もまた酒を食らったら、すぐに酔うような気がしていた。最近、揚げ物を食べるのがつらい。昔は大好きだった、鶏の唐揚や、とんかつ、そう言ったものが今では余り受けつけない。それに、昨日は唐揚食べたし……トマトが好きになってきた僕は、ベジタリアンこそなれないが、日本料理が体にあってきた。もう、ビールも余り飲めない。焼酎なんて、親父くさいものが飲みやすい。

 バスに乗り込むと、竹刀を持った剣道少年達がたくさん乗っていた。そう言えば、最近はそう言う少年達が減ったなぁ。僕が小学生の頃は、近くに剣道場があったおかげで、クラスの大半が一度は剣道をやっていた。中学の授業でも剣道があったし、今の授業にそれがあるのかはわからないけれど、確かに剣道の人口が減ってきたと思う。

 段々竹刀を持った少年がバスから降りていくと、15分位して、間も無く終点の駅前までついた。そこはもう、街の明かりの方が眩しかった。

 

 マンボウ亭は、何処から見ても、マンボウの大きな看板が入り口の上に煌煌とライトアップされて、誰から見てもマンボウ亭とすぐわかる。もう間も無く七時だなと思って、店の前に立っていると、光一郎さんと、そのお連れさん達がやって来た。

 

「お待たせ。また、いい仕事貰ってきたよ。赫那君にぴったりの仕事、担当の磯崎さんがこの間の誉めてくれて、またああいうのをやって欲しいんだって」

「本当ですか?よかった。でも、あのアイディアは、悲しいニュースから貰いましたからねぇ、また思い出さなくちゃ」

「とにかく、中に入ろうよ。予約してあるから、そうしたら、みんな紹介するよ」

 そう言って、僕達総勢八名は中に入っていった。

 

 僕は自己紹介した。

 

「あ、始めまして、光一郎さんと同じ職場の、「カクナ」って言います。歳は……」

 そう喋っているうちに、一人の女の人が話しかけてきた。

「へーっ、変わった名前だねー」

 そして、光一郎さんが、

「女の子達は、みんな赫那君と同い年だよ。後は、おじさんだけだけどもね」

「あ、そうなの?もっと上だと思ってたー」

 一番かわいくない子がそう言った。まぁ、それは僕の基準だけど、あんまり大して他の子も変わらなかった。つまり、余りみんなかわいくなかった。でも、そんなこともちろん言えるわけない。

「とにかく、いっぱい食べて、いっぱい飲んで、楽しくやろうよー」

 そう言って、幹事の光一郎さんは一人で突っ走って、場を盛り上げていった。やっぱり、少し飲んだだけで、僕は顔が熱くなってきた。少しずつ時間が経ってきて、場も和んできた。僕はずっと向かいに座っていた、女の子と何時の間にか話していた。

「ふーん、そうなんだぁ、彼女いるんだぁー」

 何時の間にかそんな話しになってきて、彼女いくつ?とか、かわいい?とか、彼女の話になってきた。僕は、その話題が嫌になってきて、

「ちょっと、お手洗い」

 そう言って、僕は表に電話を掛けに行った。樹理に電話をしてみたけど、やっぱりバイト中で、電話には出なかった。

 

 戻ると、何時の間にか、男女間の差について熱く話が進んでいた。男のここが嫌だとか、男が女に何を求めているだとか、そんな人間がこの世に誕生してからこの先もずっと永遠に答えが見つからない、そんな話しで盛り上がっていた。そう言うのを聞いていると、やっぱり、樹理に会いたくなってきた。

 

 またさっきの女の子が、今度は会社の話をしてきた。出会いないし、つまらないし、辞めたいだとか、誰々がむかつくだとか、そんなの僕に言われても、って思ったけど、とりあえず聞いていた。だから、今は習い事が楽しいんだって。最近、まじでやってるのが、英語の勉強。よくテレビでCMしている奴だ。なんか、テレビの中で一生懸命習得した英語で話しているけれど、あれ見ると悲惨だね。アメリカ人だって、日本に来て、英語で話しているんだから、日本人も海外で無理して英語なんかで話さなくて、身振り手振りで、日本語で話せばいいんだよ。それに今は、海外の主要都市では、ほとんど日本語が通じる。だから、無理して、話さなくていいんだよ。まず、日本語を覚えなさい。綺麗な言葉だよ、日本語って。

 

 気が付くと、結構いい時間になってきていた。女の子達は、電車の時間がなくなるから帰るって、そして男の陣は、もっと夜の街の方へ遊びに出掛けた。気が付くと、携帯に樹理からの着信が入っていたが、掛け直してももうでなかった。もう寝ているに違いない。

 

 夜の街は、それこそここが何処かを錯覚させるところで、ここが日本だろうが、もうそんなことは関係ない。金さえあれば無国籍のそんなどろどろした世界だった。お金を払って、お酒を飲んで、お姉さん達と話す。何故そんな商売が儲かるかはわからないけれど、成り立っていることを考えれば、男も女もさっきのように違いを話していても、結局大して変わりないんだ。そこに理由なんてなくて、お互い恋をし合うんだから、いいじゃない。

 

 タクシーを捕まえると、気が付いたらもう朝で、自分のベットで、パジャマまで着ていた。そうやって、また一日が始まる。

 

 

 

 

   「ピアノ」

 

 昨日あれだけ飲み過ぎたのにもかかわらず、朝はさわやかだった。起きると、お父さんが新聞を読みながら緑茶を啜り、お母さんが、洗濯物を干しに外に行くところだった。

 

「おはよう」

 

 本当に、何処にでもある家族の姿だった。

 

 コーヒーを飲みながら、朝のニュースを見ていると地方の名物やらお花やら、全国津々浦々、テレビの中から知らないビジュアルが飛び出していた。そして30分もしないうちに、家に残ったのは僕だけになった。煙草を吸いながら新聞を見ていると、変な記事に出会った。二十歳の女の子が昨日の夜ストーカーに乱暴をされたという事だった。しかもそれは、樹理の家のすぐ近くで、自分でも知っている危ない場所だった。気になって電話を掛けてみると、

「あ、おはよう、今から学校だから、あ、もう行かなくちゃ、後でまた電話してー」

 そう言って、切られた。別に何もなかった。

 落ち着いて、ふと顔をあげると、そこに一台のピアノがあった。

「はぁー、もうずいぶんとこのピアノに触ってないなぁ……」

 そう言って、おもむろにピアノを開いた。そして座って、そして鍵盤の感触を確かめてみた。音が鳴る。当たり前の事だった。何を弾いていいか分からなかったけど、とにかく気持ちというものを音に表してみた。

「ふーっ」

 息を落ち着かせて、一気にその中に入っていく。そしてその音は、30分くらいやむことはなかった。僕はその時、自分だけの音楽家だった。

 

 もう顔を洗う時間だ。そして、やっぱりゆっくりとしたその暮らしの流れに合わせて、僕は家を出た。仕事場に付くと、光一郎さんの姿がなかった。経理の安浦さんが、コーヒーを入れてくれたと同時に社長がきた。

 

「おはようございます。あれ、社長、今日光一郎さんはまだですか?」

「あぁ、なんか、昼から来るらしいぞ、大きな物を抱えてくるそうだから、楽しみにしててください、って朝電話があった」

「ふーん、そうなんですか、てっきり二日酔いで来れないのかと思ってましたよ」

「なんだ、昨日飲みに行ったのか?誘ってくれればよかったじゃないか」

「コンパだったんですよ、社長は奥さんいるじゃないですか」

 そう言って、笑って言うと、それもそうだなって顔した社長が、それでも、羨ましそうな顔も見せた。

 

 大きな物って何だろう。昨日の話しかなぁ……もしそうだったら、昼から忙しくなりそうだ。社長にはもうかなり長い間お世話になっている。始めて出会ったのが、高校二年生だったから、もう今年で8年目だ。最初は、お互いコンピューターなんて触ったことなんてなかった。僕達は、時代に流されちゃいけないって、ペンを持っていたけれど、何時の間にか、コンピューターが会社のカギを握っている。始めて出会ったのが社長はまだバーテンダーで、僕はお客さんだった。

 

 社長がお店を休みのときに二人で、パチンコに行った。そして、そこでしこたま負けた後、あの小出さんのコーヒー屋に足を運んだ。小出さんと社長は同級生で、昔は仲間達とバンドを組んでいた。でも売れないって分かったとたんに、間も無く解散した。小出さんは、親父さんのコーヒーショップでマスターとして働いて、社長は、そのビルの上にあるバーでバーテンダーとして働いていた。そして、そのビルの二階にある出版社に社長の書いた絵本をもっていったところ、なぜか売れた。

 

 最初は僕と社長でこぢんまりと絵本を書いていたんだけど、光一郎さんと出会い、コンピューターで絵本の絵を書いてみたらという勧めで、僕はグラフィックを描くようになった。そうしたら、ハイテクな絵本は売れなかったけど、インディーズのジャケットとかを描いている内に少しずつ名前が売れて、そこから今の会社の方向に落ち着いた。そして僕は、コンピューターグラフィックなんかの勉強をしに専門学校へ行って、そうしてそのままそこでアルバイトをしていて、そのままそこへ就職した。一番良かった所は、社長が学費を前面負担してくれたことだ。

 

 光一郎さんが帰ってきた。何だか笑っている。

「もっどりましたー!うししっ……」

 そして、僕の前に置かれた雑誌は、見覚えのある僕の手がけた絵が、表紙を飾っていた。それだけじゃなかった。

「発表します」

 そう少しためらって、光一郎さんが、

「赫那君おめでとう。ここにある全ての詩を心で感じて、そして、絵を描いてください。一つ一つの詩に、それにあった幻想的な絵が欲しい、との事だ。」

「まじですか?で、これ誰の詩です?有名な人?」

「それは、今は言わないでくれとの事です、変な雑念だとか与えたくないんで、作者の顔を見て、詩が見えなかったら意味ないでしょ?」

 何だか、すごい試みだけど僕の絵を買ってくれる人が、やっと個人的に出てきたのだ。こんなに嬉しいことはない。

「それじゃ、この182個の詩を全部を読んで、仕上げは1ヶ月後」

「え?1ヶ月ですか?が、頑張ってみます」

「じゃ、赫那はもう今日は上がっていいぞ、好きな所で、その詩でも読んでこい。たまには「ラット」にでも顔を出せ」

「あ、この間行って来ましたよ、彼女連れて。なんか、小出さん髪型また変わってましたよ。次ぎ変わるなら間違いなくボーズだと思いますけど」

「そうか、行って来たんか、次ぎはボーズって、どんな髪型だ?」

「ドレットです。しかもかなり太い奴」

「あいつも歳考えないとなぁ、もう三十過ぎたって言うのに」

「ははっ、じゃぁ、今日はこれで上がります。光一郎さん、頑張りますんで、今日はありがとうございました」

「頑張れよ。1ヶ月だぞ」

 

 そう言って、僕はラットには行かず、樹理の学校の近くの図書館で、こういうのはやっぱり図書館だろうって、勝手に思ってそこで全ての詩に目を通した。

 

 

 

 

   「陽の当たる場所」

 

 詩人と言う者はすごい者だ。よくもこんな想像力を持って、今のこの現実社会で生きて行けると思うと、とても感心する。普通だったら、気が触れているよ。本当は、もうおかしくなってしまって、あっちの世界から戻ってきてないのかもしれない。多分前世は鳥かなんかで、あたかも自分が空から地上を見渡したかのように、言葉を並べていく。こう言う人って、絶対に小さい頃から遺書なんかを用意して、いかに劇的に最後を遂げるかとか、計算していそうな気がする。だから多くの芸術家は死を選ぶんだろう。きっと生前に売れなかった絵描きや物書きは、自分の死で作品が完成すると思って、この悲しみによって、誰かが自分の作品を世に送り出してくれるだろうとか考えちゃって、死ぬんだろうな。

 

 僕はそして、そんなことを考えているうちに、自分も仲間入りかもしれないと考えたが、それは間も無く脳の片隅に滑り落ちていって、何時の間にか居眠りを始めた。

 

 目が覚めると、おもむろにシェイクスピアの本を探し始めた。そう言えば、この間、彼の命日だって言ってたっけ。そして、本を見つけて手を伸ばそうとすると、ポケットからの震動で、僕はさらに我に帰る。樹理からの電話だ。僕はダッシュで外に出ると、受話器に耳を近づけた。

「あ、もしもし、そう言えば、電話するって言っててしてなかったね、ごめん」

「あ、別にそれはいいんだけど、昨日と今日と電話なんだったかなぁーって思って」

「今何処?」

「学校出たところだよ」

「俺、今図書館にいるんだけど、今からそこに行くよ」

「あ、じゃぁ、学校の前にいるね、じゃぁね」

 僕はもう、シェイクスピアの事なんか忘れて、樹理の元に歩き出した。

「仕事は?」

「今日は、社長の許しで早引き。ちょっといい事あったからねー」

「何?いい事って」

 作品はたまに見せるけど、普段は仕事の話しはしないから、簡単に説明した。

「仕事でちょっと、いい話が持ち上がって、俺の絵を買ってくれる人がようやく現れたの」

「ふーん、おめでとう。で、何で図書館に?」

「樹理今日バイトないと思ったから、夜会えるかなって思って、たまには図書館もいいもんだよ」

「今日、これから里美と会うんだけど、里美も一緒でいい?」

「誰?里美って」

「覚えてないのー。同短の子で、前に花見で会ったじゃん」

「そうだったけ?何してる子?」

「今は、テレアポやってるとか言ってたけど、色々やってるからねぇ、あの子」

「あぁー、はいはい、ちょっとギャル入ってる子ね」

 そう言って、僕達は駅前の大きなレコード屋に入っていった。

 

 相変わらず里美は、化粧いっぱいの顔だった。僕は、余りギャルが好きじゃないけど、喋っていると結構勉強になることはたくさんある。でも、里美もとうとう、ギャル卒業なんだって。

「おっはー」

 いかにも風化しそうな挨拶だなぁ、って思って僕も、

「おっはー」

 

 ギャルの歴史も、もうかなり経つ。終わる、終わるって思ってても、少しずつ形を変えながら、やっぱり日本の流れを少しずつ変えていっている。よく言うと、ダメだダメだといわれても、仕方なくその席に座っている総理大臣で、悪く言うと、消える消えるって言われながらやられつづけてる、やられタレントみたいなものかなぁ。

 

 それぞれ、人には場所があって、そこに陽が当たっているかどうかは、自分で決めればいい事だ。

 

 そして、里美は僕達と少し話した後、美容院の予約があるからといって、去っていった。次ぎに里見に会ったときには、すっかりきれいなお姉さんになっていた。

 

 

 

 

 

   「過剰広告」

 

 僕達は里美と別れた後、あの映画を見に行った。テレビでは、試写会の後の様子を、芸能人のファッションチェックといっしょにやっていた。誰もが目に涙を浮かべて、その映画の余韻に浸っていた。

 映画館に行くのは久し振りだった。僕が余り行かない理由は、家で煙草を吸いながらじっくりと映画を見ているほうが、安いし、それとなく自分だけの世界に入れるからだ。それに僕は涙もろい。余り人様に泣き顔を見せたくない。人様もきっと見たくないと思う。

 

「この映画、まじで泣けるらしいよ。テレビで芸能人ぼろ泣きだったからね」

 僕は、あたかももう見たかのように、樹理に話した。

「友達は、小説見ても泣かなかったって言ってたよ」

「小説と映画は結構違うよ。ドラマだって、元本とはかなり違うでしょ?」

 僕達は、その暗い映画館のかなりいい場所に座れた。映画が始まって間も無く、携帯電話が鳴り始めた。

「誰だよ、うるさいなぁ……」

 そう、小声で文句を言うと、また違うところから、いかにもふざけた着信音が鳴り始めた。

「マナーの欠片もないのかぁー」

 今度は、何処かで赤ちゃんの泣く声が聞こえてきた。いったいどう言う神経で、赤ちゃんを映画館に連れて来るんだ。

 何だか大して泣けるシーンもなく、きっと最後にすごく泣けるシーンがあるんだろうと思って、期待して見ていた。それにしても、この映画は長い。もうかれこれ二時間半は経っているなぁ……そう思って、映画館が無性に熱くて、僕は汗ばみながら映画を見ていた。そして、クライマックス。

 

「は?もう終わり?」

 

 全然、泣けるところなんてない。しかも、みんな余韻どころか、「暑い、暑い」って言いながら、即即出て行ってしまった。

 出て速攻、

「全然、大した事ないじゃん。って言うか、超暑くなかった?」

 樹理は、涙を拭くように用意していたハンカチで、額の髪をかきあげて、パタパタと仰ぎ始めた。

「うん、超暑い。それに長いし、お尻痛いし、泣けないじゃん。テレビやりすぎ。俺、絶対に家帰ったら、テレビ局に苦情の電話入れるね、絶対!」

 何だか、映画なんてどうでもよくなって、やっと吸えると思った煙草に火をつけて、喉の渇きを癒すために、自販機で、缶コーヒーを買った。それを一気に飲み干した。

 

 「泣ける!」って言うのを大々的に宣伝して欲しくなかった。「考えさせられる!」とかだったら、あぁ、このご時世には、ああ言ったものがあってもいいなぁとは思うけれど。大物俳優使っているだけで、本当に大した事ない。

 

 樹理の家に着いた。今日は、最近二人が楽しみにしている番組がやる。やらせかも知れないけれど、こっちの方が、いくらだって泣ける。僕は先週気が付くと、ティッシュをそこら中に散乱させて、泣いていた。上擦って泣いている自分は、テレビ側にやられた。って思うけど、一時的に誘われてみるのもたまにはよい。その番組が始まる少し前に、CMで今日見た映画が宣伝されていた。やっぱり、キャッチコピーは「泣けます!」みたいなことを言っている。誰だ、このコピーライター。よくそれで飯が食えるなぁ。

 

「こんなの嘘だよ」

 

 樹理はそれ見てそう言った。

 

 僕達は、番組が始まって10分後、もう泣いていた。辺りには、ティッシュが散乱していた。

 

 

 

 

 

   「電子メール」

 

 結局、テレビ局に抗議の電話は掛けなかったけど、また新しい朝が来た。生まれてから何度かそうしようと思ったことはあるけれど、一回も掛けた事がない。昔、お父さんが一度だけ抗議していたのを覚えているけれど、巨人軍びいきは仕方ないと思う。この国は、巨人軍で成り立っているから。とあるミスターだって、監督としての才はないけれど、話題性があれば良いんだよ。そしてお父さんは仕方なく、その後ラジオをつけてそれに耳を傾けていた。

 

 僕は、いつもより2時間も早く仕事場に来ていた。まだ安浦さんも仕事場には来てなくて、何だか独り占めしたような気分だった。そう言えば、初めてだった。安浦さんより早く来ることなんて今までなかった。コーヒーを入れて早速コンピューターを立ち上げた。大体一つの作品を作るのに、早くて10分、長いものは、8時間くらい掛かる。油絵とかは乾くまでにすごい時間を要するけれど、コンピューターにそんな余分な時間はない。でも、乾くまでの間に出る、あの色合いは出せない。そのうち発達して、気温とか、湿度とかで、時間を設定すれば、油絵だって、コンピューターで描けるかもしれない。

 

 最初の作品は、40分くらいで仕上がった、色を使わずに、黒と白、それにそれを引き立つために、赤い色を斬新に入れてみた。プリントアウトをしてみて、その感触を確かめて、納得すると、突然メールのお知らせサインが鳴った。

 

「誰からだ?」

 

 そう思ってそれを開いてみると、ある番組の企画メールだった。これでメルトモ一万人作ろう。そんな企画だった。たまに何処からか、そう言ういたずらメールが送られてくる。送付ファイルをクリックすると、芸能人の写真が見れます。とか言って、開けると、変なウイルスに汚染されてしまう。

 

「くだらないなぁ」

 

 そう思って、ついでにたまっていたメールもチェックした。仕事用のメールは安浦さんのコンピューターに送られてくるので、僕は気が向かないと、自分のメールは見ない。でもたまに、昔コンピューターを始めた頃にメルトモになった人とかから送られてくる。アルバイト気分で昔ホームページを作って、バナー、壁紙作ります。ってやっていた頃のお客さんだったりとかして、今でも気が向けば作る。でも、それが本業となってしまった今では、それも少なくなってきた。

 

 不幸のメールを見つけた。それが手紙から電子メールになっただけで、やっていることは同じだ。実に、本当に信じたくなるような巧みな文章で、そして、手紙より容易に色々な人にメールを送れるので、それがどんどん回線を飛び交う。それを見ると、はじめに書いた奴って、友達とか居ないんだろうなぁ、とかかわいそうになってくる。僕は、目は通すものの一度も誰にも回したことがない。大体、締めの言葉は、このメールを五日以内に10人に回さないと、死ぬ。そんな内容だ。じゃぁ、僕はもう、20回は死んでなくちゃおかしいよ。

 

「お!久し振りだなぁ」

 

 本当に懐かしい人からメールが届いていた。それは、僕が初めてコンピューターを始めてメール友達になった人からだった。良くその頃は、ブラインドタッチがしたくて、チャットとかで話をしてた。今ではどうって事ないんだけれど、昔はあの早く打つのに憧れていたものだ。そして、ホームページとかを、ネット上だけど一緒に作ったり、ICQとかで相談していた。そんなネット友達第一号からだった。

 

 内容は、とうとう彼も独立して、今では居酒屋を開いたという内容だ。昔から焼き鳥を焼いていて、僕も夜中にコンピューターをやっていたから、彼が終わった時間くらいによくネット上で会っていた。彼の恋人は、ネット上で知り合った。最初は、擬似恋愛に悩んでいた彼もいつしかそんな心配はなくなり、かなり遠距離だったけれど彼女に会いに行く。とか言って、そのまま上京して、そこに住んじゃった。そして、店まで構えれたなんて何だか、昔から考えると、夢のような話しだった。

 

 大体電子メールというものは淡白なもので、手紙のようにだらだらと書かない。僕は、本当に久しぶりだと告げる内容と、元気だということと、がんばれという内容を簡単に仕上げ、それを彼の元に返信した。

 

 そこに、携帯電話の方にもメールが入った。相手は樹理からで、内容は本当に斬新で、超眠たい、授業つまんない、それくらいだった。一番困るのは、こういったもので、なんて返したらよいかわからない。だから僕は、メールが入ってきたらそのまま直接電話をしてしまう。だけど、授業中だったから、樹理に返事を返すことはなかった。

 

「あぁーあ、簡単に誰かと文字で話ができるのはいいけれど、手紙を書く習慣がなくなったなぁ」

 

 僕はそう思って、たまにはメールでも打ち返してみるかぁ、って思って樹理に、やっぱりどうでもよい言葉を並べてそのまま転送した。

 

 

 

 

 

   「アスピリン」

 

 それからみんなが出社する時間までに、僕は5枚もの絵を仕上げていた。調子が良いとは言い切れなかったけれど、今は勢いでもよかった。安浦さんは、僕がこんなに早く出社しているとは思わずに、入ってくるなり、

 

「そこにいるのは、誰?」

 って、まだ夢から覚め切っていないかのように、僕に言った。

「大事な仕事が入ったからね、ちょっと今月は頑張っちゃおうと思って一番乗りしたんですよ」

 そう言って僕は、ちょうど自分のコーヒーもなくなったので、

「飲みますよねぇ?」

 って言いながら、もうすでに安浦さんのコーヒーも注ぎ始めていた。

 

 初めて安浦さんに出会ったのは、仕事場をここに移してからだから、もう五年になる。僕が当時二十歳になったばかりだったから、そのときは安浦さんは23歳だった。初めて会った時は、お姉さんだなぁ、って感じたけれども今となってはそう歳が気にならないくらいの年齢になってしまった。あのころの三つの差は大きかったけれど、ただ今は、結婚はしないのかなぁ?とかしか思わない。たまに冗談で、そういう話題になったりするけれど、「セクハラ!」ってな事になっては大変だから、めったに誰も口を開かない。

 

 安浦さんは昔、踊りをやっていたそうで、何度か舞台でその踊りを披露していたんだけれども、事故を起こしてからはそれも辞めてしまった。あまりそのことは知らないんだけれども、昔聞いたことがある。

 

 当時21歳だった彼女は5つ年上の男の人と交際していた。最初は誰もが認めるような恋人達だったんだけれども、彼は有名なラガーマンで、その選手生命が剥奪されたとたんに、仕事もしなくなり、二人の仲はおかしくなっていった。そして、その恋も終わってしまい、彼の精神は崩れ、心と頭の中で、それぞれ一本ずつ線が切れてしまった。当時はまだそんな言葉が流行ってはいなかったけれど、今で言うなれば、神経を失調した、ストーカー。必要以上の悪漢を彼女に少しずつ施していった。そして、あの事件が起こった。

 

 彼は彼女を拉致して、そのまま車で遠くの方まで逃げたんだって。そして、そこら辺の彼女の記憶も曖昧だから、少し謎なんだけれど、彼の車はとにかく二人を乗せたまま、深い深い湖に沈んでいってしまった。そして、自力で脱出したのか、彼女は気がついたら病院のベッドの上にいたそうだ。そのまま彼女の記憶は今でも曖昧で、二年間も、精神科に通っていた。初めの内一ヶ月は、病院で口も聞かずに外を眺めていた。特に水恐怖症にはなっていなかったけれど、色々大変だったらしい。

 

 そして、社長は昔から仲が良かったらしくて、リハビリの相手役も買って、そのままこの仕事場に案内して、今では普通に仕事をこなしてくれる。昔から踊りをやっていたこともあって、安浦さんはとてもスタイルがよく、そして、顔もきれいだった。それでも、取り戻せないものがたくさんあって、手の平から零れていったものはもう掬うことができずに、今に至っている。それをかわいそうだと思ってはいけないって思ったから、僕は別に普通に今まで安浦さんといっしょにやってこれた。

 

 その事故は、当時ニュースでもやっていた。でも、はじめは、それが安浦さんだとは知らなかった。

 

 事件の夜、男の水死体が、車とともに引き上げられた。

 

 安浦さんに、

「天気よいですね」って言ったら、

「そうだね」って、笑って言った。

 

 それからまもなく、みんなが仕事場に集まって、また他愛もない話をしながら、そしてそれぞれの仕事をこなしていく。

 

 彼女はいつもたくさんの薬を持っていて、それを飲み続けていることに効果があるかは知らないけれど、気休めにでもなればそれでいいじゃない。今ではよく笑ってくれて、彼女とファッション雑誌なんかを見ながら、これがかわいい、だとか、そんな話をよくする。彼女は何を着たって似合うと思う。もし僕が今触れている彼女が、彼女の全てならば。

 

 春はもうすぐそこまで来ていた。だから言葉なんて選ばずに、自然とそう言えた。

 

 

 

 

 

   「月明かり」

 

 僕は土曜日にも関わらず、半日だけ休みを返上して、仕事をしていた。こうやってたくさんの詩に触れてみると、景色というものがまず頭の中に浮かんでくるものだから、最近はそういう景色を見てみたいものだという気持ちに駆り立てられる。たとえば、波の音とか言う言葉が出てきたならば、単純に波の音が聞きたかったり、木立の揺れる音とか言う言葉が出てきたならば、清閑な森の匂いに溶け込んでみたりだとか、そんな気持ち。

 

 だからそれを絵に直していったりするときは、まず色を思い浮かべる。そうしたら、その色から音が聞こえてきて、そして鼻孔を揺するもの、そして空気の冷たさだったり、奥行きだったり。だから完成した絵を全てにおいてネガティブな色合いに反転して、それをまったく対照的な詩に同じ絵をぶつけることもあった。

 

 今年のゴールデンウィークはうかうか寝てるわけにもいかなかった。こんなチャンスに寝ていられるほど、暢気者でもなかった。他の国の人たちみたいに、年柄中淡々と仕事をしていくよりも、日本人みたいにぎりぎりまで仕事をして、そして一気に疲れを取る。どちらが良いかわからないけれど、結局休みもそれ以上に遊ぼうとするから、国の象徴が亡くなろうが何しようが、休めない日本人はかわいそうかもしれない。だけど学生を彼女に持つ僕は、ゴールデンウィークも仕事だという言葉には、かなり反感を買っていた。

 

「じゃぁ、友達と旅行に行く」と言った彼女に、何故か謝っていた自分が居た。

 

 別に大企業みたいに10日も休みを取るわけじゃない。別に今もらっている特別な仕事が僕の仕事の全てじゃないから、もちろん他の事もこなさなくちゃいけなかったからだ。だから休み明けにその仕事をこなすために、自分だけの仕事はやれるうちにやっておかないといけないって思ったからだ。

 

 半日分の仕事を終えて、僕は家に戻った。そして、日本人であるが為に、ガソリンスタンドへ向かった。

 

 海外なんかに行っても、日本くらいきれいな車ばかりが走っている国はない。新しい車に乗り換えるサイクルも早いからだと思うけど、なんだかひたすらキレイにして、磨きまくってるよね。それに、砂埃を巻き上げて車が右往左往するから、工事ばっかり続けている僕の家の前に車を停めておくと、すぐ誇りだらけになってしまう。だからたまに車を走らせてあげるときは、少しはきれいにしてあげたいと思う。そして、車のおなかも満たしてあげる。

 

 樹理の家に向かうには、ちょうど一番人達が賑わう街中を通らなくちゃいけなかったので、樹理には地下鉄で来れる範囲まで来てもらっていた。

 

「あ、もしもし、どこにいる?もう駅に着いたけど………」

「あのね、今向かい側のCD屋にいるから、ちょっとそこで待ってて、すぐに行く」

 樹理はそう言って、すぐに慌ててお店から出てきた。ちょうど信号が赤に変わったから、樹理は渡れずに、こっちを見て、手を振りながら、早く信号が変わるのを待っていた。なんか、こう言う時に信号が変わると、少し気まずい。お互いが見えているのに、とてもじれったい信号機。どうやら、樹理の機嫌は直っているようだ。信号が青になった。

「おはよう、ごめーん。ちょっと欲しいCDがあったから」

 樹理は駆け寄りながら、そう言って、僕の車に乗り込んだ。

「何買ったの?」

「あのねぇ、R&Bの有名な曲がたくさん入っているやつ。だって、今日は結構遠い所行くんでしょ?」

「ん、まぁ、別に大して決まっていないけれど、海にでも行こうかな、って思って」

「海?どこの?」

「わからないけれど、とにかくきれいな所がいいな。それ、聞くんだろ?」

 そう言って、僕はCDを交換した。僕も知っている曲が流れてきた。

「あ、これこれ、これがとりあえず聞きたくって」

 そんな風に話しながら、僕は洗車したの?って聞かれなかったなぁ、って思ってウインカーも出さずに車を走らせた。

 

高速を走って一時間もしない内に、樹理は眠ってしまった。僕はコーヒーが飲みたくなって、すぐのサービスエリアでとまった。コーヒーを持って帰ってくると、樹理は起きていて、「ごめーん、寝ちゃった」って、申し訳なさそうに言った。

「別にいいよ、疲れてるんだろ?」

 そう言って、再び車を走らせていると、眠たげな眼をして、樹理が睡魔と戦っていた。それを見た僕は、おかしくなって、笑いながら、

「海が見えたら、起こしてあげるから」

 そう言って、もうすでに替えてしまっていた、その音楽に合わせて、低く小さな声で唄った。

 

 本当に眠ってしまった樹理を横にして、僕はひたすら高速道路を日本海の方へ走らせていった。

 

「桜だ」

 

 まだ、山々を抜けていると、所々に桜が咲いていた。そして、ガラス細工が有名な町に下りると、そこからは下道を走った。

 

「この風鈴かわいいね」

 

 風情があってもなくても、見た目だけでそれをかわいいと呼べる、僕達はそんな小さな風鈴を買って、車にそれをつけた。そうして、ある程度そこでは有名なものを観て回って、そしてまた上のほうへ。

 本屋で買った地方雑誌を見て、僕達は食事をしにいった。大体郷土料理屋に入るより、こういう所では、有名な居酒屋さんに入った方が、安い値段で、その土地のおいしいものだったりが食べれたりする。僕達は、その月にその雑誌で一番大きく取り上げられていた、居酒屋さんに足を運んだ。

 

 お腹が満たされた僕等はほろ酔いのまま、海辺を歩いた。

 

 少し先では、まだ寒いというのに、花火があがっていた。それはとても小さな花火だったけれど、僕達が知らない土地で、知らない空気を吸っているには、十分な色彩だった。

 

「きれいだね」

 

 僕は思い出した。車の中にそう言えば、去年の花火が少しだけ残っている。

 

「あれ?」

 

 それはどうしようもない花火達だった。まるで使い物にならないのから、中途半端なもの。それでも、僕達が笑うには丁度良かった。

 

「あ!」

 

 最後の一本の線香花火のオレンジが、地面に吸い込まれるかのように落ちていった。

 

「あーあー、終わっちゃったね」

 

 樹理はそう言って、冷たい海の一番黒い帯をまた見つめ直した。僕もそれに誘われて、同じ所を見た。せめて、めいっぱいの青白い月明かりでも出てくれればよいものを僕達を照らしたのは、形すらはっきりとしない冷たく細い一筋の下弦だった。

 

 僕達は呼吸を合わせた後、疲れ果てて、またお互いの好きな呼吸で、知らない土地で眠りについた。

 

 

 

 

 

 

 

   「忘れてしまうもの」

 

「あれ?」

 

 僕は気分を変えるために、ノートパソコンを持ち出して、たまには環境を変えて仕事でもしようかと思って、そして、それ用のカバンをあさっていた。カバンの中に違和感を覚えた僕は、その中から古いパソコン雑誌とインスタントカメラを見つけた。

 

「何だ、このカメラは?まだフィルム残ってるじゃん」

 

 一枚だけ残っていたから、僕はとりあえず自分の顔をアップで撮った。僕は車に乗り込むと、どこに行こうか迷いながら、とにかく走った。とりあえず、近くのカメラ屋で、カメラを出した後、少し町から離れた、大きな池までやってきた。

 

「さてと」

 

 そう言って、池の周りにあるテーブルで仕事をしようと思ったんだけれど、後部座席を見ると、乗せっぱなしだった釣り道具があった。

 

「このところ天気がいいのが続いているし、仕掛けだけでも作っておくかぁ」

 

 僕は、竿を池に放してコンピューターを立ち上げようと戻ろうとすると、もう竿が僕のことを呼んでいた。

 

「ん?かかったのか?」

 

 そう言って、上げてみるとかかっていた。そして、次から次の入れ食いで、僕は結局お昼まで釣りを楽しんでいた。仕事をする気になれなかった僕は、池から離れようと、仕事場へ向かった。途中時間帯指定の道路規制があったから、渋滞を避けるために、僕はレストランに入った。コーヒーを注文してから、コンピューターを持って来ようかと思ったけれど、急に雨が振り出したから、

 

「まぁ、いっか」

 

 そう思って、店員さんに紙とペンだけ借りて、僕は短編の物語でも書こうかと思って、その白い世界に入っていった。そして、知らない内に、僕はますます勝手に想像の世界を創ってしまって、そこから抜け出せなくなり、気が付けば雨なんて降ってなくて、車なんて混んでなくて、とっくに作業の時間なんて終わっていた。何としてでも、夕方のラッシュまでには、仕事場に着かなくちゃいけないと思った僕は、すぐにそこを出てまた走った。

 

 車の中に置きっぱなしだった携帯電話を見ると、樹理から何回も電話が掛かっていたことを知った。

 

「そういえば………」

 

 そう言えば、彼女が忘れていったカバンの中に今日授業で使うものがあるから持っていくと約束したような気がしたけど、今日だったかな?

 

「もしもし、ごめん、今日だったっけ?カバン要るの?」

「ちょっとー、休講だったから良かったけれど、何回電話したと思ってるのよー、大体、何で電話に出ないのー?」

「ごめん、ちょっと仕事の急用でさぁー。後で仕事終わったら行くから、じゃぁー」

 僕は、そう軽く嘘をついて、休講でよかったなー、って思いながら、仕事場に向かった。

 

「あのぅ、これ先月のなんですけれど、これじゃぁ、ちょっと下りないですよ」

 仕事場についた僕に、いきなり安浦さんが申し訳なさそうに言った。

「はい?」

 そう言って、僕は渡された領収書を見て、確かにこれじゃ下りないな、と思って、

「あ、もうこれいいですよ。別にたいした金額じゃないし」

 そう言って、片付けるものだけ片付けて、僕は樹理の元に向かった。樹理と食事を済ませて、久し振りに二人でゲームセンターに向かった。メダルゲームで順調に勝っていた僕達は、時というものを見ていなかった。

 

「そういえば、この間借りたビデオ返した?」

 

 そう言われた僕は、時計を見るとすぐさま家に飛んで帰った。そう言えば、樹理の家の近くでレンタルしたビデオの返却期日は今日までだったなぁ、何で家に持って帰ったんだろう、しかもまだ見てないし………僕は何とか間に合って、ビデオを返した。樹理に電話をして、もう今日は家に帰るといって、家路につくと、

「あ!カバン」

 結局、かばんを樹理に渡すのを忘れて、もういいやと思って、ポケットに手を入れると、写真の引渡しの伝票が出てきた。

 

 次の日、最初にカメラ屋に向かうと、もう写真は出来上がっていた。当たり前だ、もうすでに昨日には仕上がっていたのだから。僕は、近くの公園のベンチに座ると、どんな写真だったのかドキドキして、煙草に火をつけると、それに目を通した。

 

「あ!」

 

 それは、去年死んでしまった友達と最後に地元のみんなで、川原でバーベキューをした時のものだった。フィルムが古かったのか、あまりきれいではない。まだ、この頃の僕の隣には今とは違う彼女が写っている。今ではママになってしまった女の子のそれと気づかない母体の膨らみだとか。

 

 何で僕は、忘れていたんだろう。

 

 その時そっと、僕の体がひんやりして、じっくりと脳みそを冷やしていった。

 

 耐え切れなくなった煙草の灰が写真の上に落ちた。僕は我に返ると、また一枚一枚次の写真へと手を動かしていった。最後に昨日撮った、他の写真より老けてしまった自分の顔を見て、何でそれに気付かなかったんだろうって、少し後悔した。

 

 

 

 

 

   「誕生」

 

 突然誰かが僕の部屋に入ってきて、僕の寝ている布団の上にその人はいきなりダイブした。まだこんなに早いのに、誰が僕の眠りを妨げようというのか。それにしても耳を劈く高い声。

「おじちゃーん」

 誰だ、まだまだ若いこの僕を「おじちゃん」呼ばわりするやつは。

「おーい、未来、もうちょっとおじちゃんを寝かせてくれー」

 ん?未来?そこで我に返ると、やっぱりそこには、未来がいた。

「おはよう、おじちゃん」

 未来を抱きかかえて一階に下りて行くと義兄さんとお姉ちゃんがいた。

「あ、お久し振りです」

「いつまで寝てるのよ」

 懐かしい口調で、お姉ちゃんがそう言った。よく見ると、まだ本当に小さな子供を抱きかかえて、義兄さんが恐縮そうに座っていた。お姉ちゃんの二人目の子供が産まれたのが三月だったから、まだ小さくて当たり前かぁ、確か僕は見るのは初めてだなぁ。帰郷できなかったお姉ちゃんの代わりに、両親は向こうの在所まで行ったけれど、僕は確か仕事で行けなかったんだ。そう言えば、世間では、ゴールデンウィーク初日だもんなぁ。

「何。新幹線でしょ?混んでなかった?」

「朝一番だったからねぇ、別に大して混んでなかったよ」

 こうやって、久し振りにお姉ちゃんと話しても、やっぱりお姉ちゃんは、お姉ちゃんだった。正月も確か会ってないし、もう去年のお盆以来だなぁ。

「新しい子って、名前何だった?」

「そこの神棚に、命名した紙があるでしょ?読める?」

 よく見ると、神棚に命名と大きな字で書いてあるのがあった。それにしても未来も大きくなったものだ。そう言えば、この間正月にお姉ちゃんと電話で話した時に、

「未来が、赫那おじちゃんに、ランドセル買って欲しいって」

 確か、そうお姉ちゃんにねだられたと言うことは、未来は今年で小学生かぁ。僕が小学校に入ったときには、お姉ちゃんはもう中学生になっていたからなぁ。じゃぁ、未来とこの赤ちゃんは、もっと年の差があるっていうことか。

「あんたも起きたことだし、今から夕美香ちゃんの所に朝ご飯食べに行くから、早く用意しなさい」

「あ、先に行ってていいよ。すぐ行くからハムトースト頼んどいて」

 そう言って、僕は再び二回へ駆け上がり、服を着替えた。顔を洗おうと思って、洗面台の鏡を見ると、この眠たそうな顔を見て、よくお姉ちゃんはずけずけと、あんな風に言えたなぁって、感心した。ちょうどハムトーストが出来るのを見計らって、子供の前で煙草を吸うのは良くないな、って思って、一服してから、そこへ出かけた。

 

「おっはようー」

「あ、おはよう。いらっしゃい」

「コーヒーね」

 

 夕美香は幼馴染だった。中学生の頃は、何故かお互い意識して喋らなかった時期があったけど、何故そうだったのか、思春期を通り過ぎてしまった僕には、もうわからない。高校に入ってから、僕の友達と付き合い出して、それからいろいろ相談されたりして、そして別れた後も、思春期の頃を埋めるかのように、普通に話すようになった。むしろ、昔みたいに仲良くなっていた。僕は、ハムトーストを食べ終わると、即即とそのテーブルを立ち上がり、カウンターに一人で腰掛けた。

「モーニングサービスの時間なのに、今日は暇そうだなぁ」

「みんな、どこかに出かけてるんじゃない?」

「最近どうよ?」

「実はねー。すごいニュースがあるの」

「何だ?彼氏にでも振られたか?」

「ぶー。はずれ」

「は!まさか!」

 そのまさかだった。おめでとうより先に、まるで信じる事が出来なかった。夕美香のお父さんが煙草を吸いながら、奥の方から出てきた。そんな話をしていると、

「俺は、絶対に赫那君に夕美香をあげようと思ってたんだけどな」

 そうやって、茶化された。

 この前まで、もう彼氏と別れるだの、どうのって言っていたのに、何だこの幸せそうな顔は。そうだよな、もう知らない内に、いい年頃だもんな。もう、結構同級生の女の子は結婚してるし、逆に、行きそびれるかどうか心配だったからなぁ、良かったのかもしれない。

 

「おめでとう」って言って、

「じゃぁ、仕事あるから。お金は母さん達から貰っといて」

 そういって、行こうとすると、

「仕事なの?頑張ってね」

 そういった彼女が、もう遠くに行っていた気がした。

「日取りが決まったら教えろよー。チャイルドシートでも買っとくよ」

 そう言って、軽く手を上げて僕はそこから見慣れた道を歩き出した。たった一分の距離が、妙に遠かった。

 

 一度家に帰って、今度は逆方向の仕事場に向かって歩き出した。そこで、携帯電話が鳴る。

「もしもし、来ない」

「何が?」

「アレが」

「あ、アレー!ってどれ?」

「だから………」

「月の物か?」

「………うん」

「とにかく、今から行くよ」

 

 そう言って僕は、警察に捕まった時のあの気持ちとか、初めて恋をした気持ちだとか、誰かが死んでしまった気持ちとかと、今まででは味わったことのない心の閉鎖感を抱き、仕事なんかどうでもよくなって、急いで家に帰り、車を走らせた。サイドシートからバックシートを片手ながらに見た時に、広いはずの僕の車が、妙に狭く感じたのは、気のせいだっただろうか。

 

 僕が素直に喜んだりそれを受け止めたりする器は、いったいどんな形をしているのだろう。それが知りたくて、日々を生きているはずだったのに、今ではそのすべてを成型している筈の自分自身が、それを拒否している。

 

 僕の中で一つのものが生まれた。種をまいて、芽が出て、花が咲いて、それが散って、枯れて行くと言うスピードを知りながら生きていくということは、悲しいことだ。きっと悲しいことだ。自然という流れを人間はいとも簡単に変えてしまう。人間が、これから何年、何千年と時が経ったって、泣いたり笑ったりすることは絶対に捨てはしない。

 

 僕は人間です。この度は泣いてみることにしました。