“アサコ”
「アサコ」
等間隔に並んだ信号機の群れが、等間隔で色を変えた。この都会の空と何ら変わらないその一列に並んだ信号機の色が、その日の麻子には新鮮に思えた。今まで無くして来たものを順に整理すると、素直に笑えるって言うことは単純に人として素晴らしかったなどと思い出として言える。そして麻子の軽く踏むそのステップが人工的に作られたその道の踵から伝わる熱のない歩幅に似合っていた。約束されたその場所に食前酒を飲み干すと麻子は新しい紅を引く為に化粧室へと向かった。
「浅古」と書かれた表札の文字が古くぼやけて見えるのは、そこに誰も住んではいない証拠で、いつからそこが廃墟になったのかすら、誰の記憶にも留めなかった。時々それに触れようとする人達のビジョンがぼやけてしまうのは、もうそれはかなり時が経っていたのだからだろう。古い新聞の片隅にはこう書かれていた………………。
クリスマスツリーの飾り付けが済むと、二人は幼く笑っていた。朝子の黒い髪に雪に見立てた白い綿の欠片が舞い落ちると、一馬は何の抵抗もなくそれを掬い上げた。惣菜屋で買ったローストチキンがテーブルに並ぶと灯りを落とした。甘い物が特別好きではない二人が夢を自宅の洗面所の前に置き忘れてきたサンタクロースの代わりに祝った。言葉なんて人間が動物の生態系を否定するために授かった一番の愚の骨頂であると言葉で云わないばかりに。
亜沙子は自分が与えた毒によって虫かごに入ったモルモットがゆっくり死んでいくのをその目でしっかりと見ていた。獣医になりたくて生物学の道を選んだはずだったのに、動物達を自らの手にかけることに慣れた彼女は、その夢は殆ど捨てていた。遺伝子工学に興味がないか?と言ってくれた教授が胎児を握りつぶすのに何の痛みもなくなったと言う。自然に逆らうのではなく、神に逆らう。人の恐怖心は探求心だ。亜沙子は子宮を提供すると、代わりに愛を要求した。
「アサコ」はそれに満足すると惜しみなく笑った。
「ブレイン」
一昔前、僕達はそう簡単に人間の脳みそを食すことは困難だった。それはとても貴重な物で、今でこそ普通に手にはいるが、それは悲しみを悲しみとしなくなった結末だろう。
新世紀になると僕達はアンダーグランドと言う存在を知らずと認可してきた。それは、大人になる事を拒みつづけた少年達の悲しき戦いの末の勝利だった。音楽は廃れることを知らず、心地よい物は覚せい剤との併用で何かしらの恐怖心から逃れたために、僕達は重低音に酔いしれていた。新しい世界での常識は、心を売ってはいけない。それを犯した者は、それ相当の罪が着せられ、処罰は命を育てる事だった。僕も中学校に上がる少し前に、母親の存在を否定して捕まった。未成年と言う常識は余り意味を持たなかったが、処罰は簡単な物ではなかった。僕の判決が下ると、僕はある物に任命された。僕は、「BrainKeeper」として、この先罪を償っていかなくてはならない。人は、僕達を「BK」と呼んだ。人はそれを過酷の物と知っていたから、その任期を終えて、それに成功を収めると、その街では一切の名誉を与えられる。
判決が下ってから、半年間訓練を受ける。それは礼儀作法から、武術、音楽に勉学。誰からの依頼にも答えられるように、全てをマスターしておかなければならない。まず、依頼主から注文があるとその人のクローンを作る。そのクローンの記憶や知識をまずブランクにする。そして、擬似世界での暮らしを一からするものとする。彼女を依頼主からの理想のブレインにするために、ある程度の記憶を植え付ける。そこからは、記憶だけではどうしようもない、恋愛や胸の高鳴りなどを徐々に入れていくのである。「BK」の殆どは、未成年だ。何故なら僕達は思春期の人間を育てなくてはいけない。それでもたまに親としての「BK」も存在しており、温かい家庭を希望する人もいる。ひどい時は、自分の娘をクローンにして、擬似世界で育てる。もちろんそれは、依頼主の理想に育ち、きっと表の世界とは異なるのだろう。依頼主はいつでも自分の依頼した人間を見ることが出きる。施設まで足を運んでいただければ、バーチャル体験も可能だ。そうして、心無い親達はそこで理想の家族を見るのであろう。
最近は保管料金が高いからと言って、肉体を必要としない依頼主が多くなってきた。脳みそだけを育ててくれればいいなんて、まぁ、場所を取らなくていいとは思うけども。余った肉体は、そのままレストランに運ばれる。依頼主が食すこともあれば、それを高価格で取引することもあるし、その行く末は、僕達には関係のないことだ。それは仕事外のことだからね。簡単に言えば、仕事の内容は脳にいい思い出をたくさん作ってあげることだ。
僕がブレインキーパーの資格を取ると、僕はもう中学に入学する歳になっていた。ここでの全くの仕事は自由恋愛になるだろう。ファーストフードで朝から期末テストの勉強を女の子とすることになっても、それは当たり前の仕事だった。そして、仕事が終わると僕は普通の世界に戻り、普通に学校へ行き普通に大人になっていくのだろう。僕達はノイローゼになってはいけない。その時点でブレインキーパーとしての使命を終え、僕達はレストランへ運ばれるのだから。
「依頼主」
僕は早速仕事をもらった。依頼主は、四十歳くらいの中年夫婦だった。商品は、12歳の女の子で、商品に望むものは「思い出」だった。表世界での彼女は、もう三年前から病院で寝たきりで、まだ一度も目を覚まさないと言う。この先にそれは見込みがなく目を覚まさずにこの世を去ってしまうかもしれない。こう言う依頼での彼女の肉体は、レストランに行くことが少ない。資料として病院へ行くことが殆どで、それは依頼主のためを思ってのことだ。
僕はマジックミラー越しに依頼主の表情や会話を聞いていた。ボイスチェンジャーで落ち着いた大人の声帯を表現することができる。僕は同年代の商品を希望するこの依頼主との会話中、母親の顔すら思い出せなかった。そしてそれは禁止されている。ブレインキーパーとしての最初の仕事中は僕のブレインの中も覗かれていた。変な感情や干渉を持たないように。擬似世界に行けば、僕の存在を表に出せるため、僕は感情を直向に見せたって構わない。僕は彼女が九歳で植物人間になるまでの経過を聞いた。
「まずお聞きしますが、何故、寝たきりに?」
「交通事故です。家族四人で旅行に行った帰りにハイウェイで………弟は即死、そして娘はその状態で………」
「では、弟さんの記憶はどうしますか?組み込んでおきましょうかねー」
「はい、そうしていただければ、思い出も増えると思いますので」
「悲しい思い出でも良いのですね」
「構いません」
それから色々と生まれてからの話を順に聞いていった。彼女はとても寂しい時を過ごしていた。そして、依頼主との交渉が成立すると、DNAの特別採取班によって、商品の元へ行ってDNAを採取してくる。そして、培養期間に丸一日、記憶の除去・植え付けに丸一日掛かる。表世界での商品にコンタクトを取ることは禁止されていた。まぁ、今回、コンタクトはどうせ取れないんだけれど。そして、商品の脳の準備が済むと、僕はそちらの世界で目を覚ます。
「娘さんの名前は?」
「朝子といいます」
僕は三日後、仕事のために早速表の世界の学校から帰ると、自分の部屋においてあるその奇妙な形のしたベッドに寝そべった。椅子と言った方が伝わりやすいかもしれない。右手のすぐそこにあるスイッチを押すと、ベッドのあらゆる所から、コードが出てきて僕の体を取り巻いた。そして、自動睡眠装置のお陰ですぐに裏の世界へ急降下することができた。それは、古びたゆりかごと大して変わりなかった。
僕の任期が決まった。僕の刑罰に対しての判決だった。僕はこの商品で最初で最後の仕事になるという。そう、僕はこの仕事が終われば自由になるのだ。
「朝子」
「駿くーん、おはよー。今日は早いね」
「何だ、朝子かー」
「何だって事ないでしょ。せっかく同じクラスになれたんだから」
「それより、宿題やったか?」
「当たり前でしょ、駿君はやってないの?あー、わかった、それで今日は早いんだー」
「で、早く見せろよな」
「あー、そんな言い方するんだったら見せてあげない」
「じゃー、朝子様、どうか宿題を見せてください。って、こんな感じ?」
「しょうがないなー、じゃー、見せてあげる」
僕は、商品の中学校時代へやってきた。とは言っても、年齢通りに事が運んでいるだけだ。九歳から三年間の具体的な記憶がなかったから、僕は、そこに自分を商品にとっての理想になるよう記憶を埋めてもらったのだ。ここでの時間は、表の世界と昼夜が逆なだけだ。だから僕の睡眠時間を利用して仕事をこなす。体はしっかり休めるのだが、精神的苦痛と脳が休まらないので、これで罪を償うことになるのだ。昼夜は逆だけど、時間の経過は少しなら変える事ができる。そうでもしなくちゃ、商品と同じように体の歳まで取ってしまってはブレインキーパーとしての仕事を数でこなすことができない。しかし僕の希望は、彼女の成長と同じく歳を取る事だった。僕がそう許されたのは、彼女が特別な経緯の商品だったからだ。そして、僕の任期もこれっきりだったから。ただの人の欲だけでのプロセスはハイスピードの植え付けで十分だったが、今回は国も認めた。理由と任期はこうだ。彼女の本当の肉体が滅びるか、彼女が擬似世界で死んでしまうか。もしくは、彼女が目を覚ますか。どちらにしろ長くないことは分かっていた。
僕は刈谷駿と名乗り、彼女の入学するはずだった学校に今年入学した。もちろん同じクラスになったのは僕の意思で、彼女はそれを偶然と思っている。僕も表世界では今年中学へ入学だったから、授業の時間はなるべく下らなくて意味のない物だけは省いてもらった。授業中は大体オートモードで行われて、生徒同士が触れる理科の実験とか、体育の時間など以外は省いた。僕の精神が休まるのがこの数時間だったからだ。小学校での僕達のクラスは5、6年生以外は同じクラスで、実に二年ぶりの同じクラスになった。もちろん裏の世界では実体的なものは余りないので、別に小学生からでも始められる。僕はいきなり六十歳くらいの年寄りにもなれたし、赤ちゃんになって子供の産めない人のブレインも変えていくことも可能だった。
「ねぇ、駿君は何部に入るの?ひょっとして小学校から続けているバスケット?」
「朝子は?」
「うーん、私はねー、これと言って決まっていないんだけど、もし駿君がバスケに入るなら、私も中学からやってみようかなーって思うんだけど」
「俺は、バスケ部入るよ。だってせっかく小学校の時やってたんだから、それにここの中学校結構強いでしょ、だからやりがいあると思って」
「強いって事は、それなりに練習キツイって事だよねー、私なんて入ったらやっていけないかも」
「それは多分大丈夫だよ。女子はあんまり強くないみたいだから、もし嫌だったら、男バスのマネージャーやってみたら?」
「それもいいかもねー」
「じゃー、今日バスケ部見に行くから、おまえも一緒にこいよ。今日三年のキャプテンのところに挨拶しに行くから」
「キャプテンって、私達が四年生の時に小学校でキャプテンしていた人でしょ?確か、ひとみちゃんのお兄ちゃん」
「そう、だから頼んだら入れてもらえると思うよ」
僕はそれからバスケット部員になって朝子はマネージャーになった。
「出会いと再会」
僕は試着の時から二度目にこの学生服に袖を通した。自分の中で大人になることを拒みたいわけじゃなくって、それでも背伸びがしたくて。七時半になると、突然僕の家の玄関が開いて大きな声が聞こえた。
「おはようございまーす。一馬いますー?」
僕は階段を下りていくと、慌てて目を細めた。
「おー、今日はちゃんと起きてたかー」
「まだ早いだろ。入学式何時からだと思ってるんだよ。それにご飯もまだ食べてないし」
「私も食べてないよ。一馬の家で食べさせてもらおうと思って」
「おばさんは?」
「朝一番で、美容院に行っちゃった」
「仕方ないなー、あがれよ、ちょうど飯だったんだ」
「わーい、ありがと」
そう言って、麻子はローファーを脱いで、初めて見せた制服姿で、あがってきた。
「同じクラスになれるといいね」
「えー、だってずっと麻子と一緒じゃんかよー、僕が人生に置ける出会いの確率を少しでも上げさせてくれよ」
「いいじゃん、そんな一人や二人で会う確立が減ったって、たいした事ないでしょ」
「麻子、よく聞けよ。人って言うのはな、誰かに出会って、そしてたった一人の人に出会っただけで、自分の人生がガラっと180度変わることもあるんだぞ」
「別に私は一馬が誰と出会おうが関係ないけど、その出会った人がかわいそうになるでしょ?その確立を少しでも減らしてるの」
「まぁ、いいや。僕は今日、とてつもなく自分の人生を変えてくれる人と歴史的に出会うんだよ。宿命とか必然って言う奴だな」
「そんなに簡単にある分けないじゃん、あんまり期待しない方がいいよ」
僕達が朝食を終えて適当にテレビなんかを見て過ごしていると、麻子のおばさんがやって来た。
「一馬君、どう?おばさんきれいになったでしょ?」
「きれいにはなりましたけど、お宅のオテンバ娘を残していかないで下さいよー」
「お母さんは?まだ仕事してるの?」
「あー、多分もうすぐ戻ってくると思いますけどね、忙しくて戻って来られなかったら仕方ないから僕一人でも行っちゃいますよ」
僕の母親は、朝の三時までクラブで働いて、その後朝一番でお弁当工場に出かける。もう小さい頃からの生活習慣だったから、僕はたいして気にしちゃいない。小学校にあがるくらいに父親を亡くした僕は、そうやって一人で暮らしてきた。それでも小さい頃は隣の麻子の家にお邪魔していた。だから今朝だって、ただ入学式の日だからと言って、特別いつもと同じ朝だったのだ。
「じゃー、おばちゃん着替えてくるから、もう少し麻子お願いね」
「はい、入学式九時からですからね。二十分前には」
そして麻子のおばさんが行った後、すれ違いでお母さんが帰ってきた。
「遅いじゃん、早く着替えてよ、間に合わないよ」
「あー、ごめん、早く上がってきたんだけどね、道が混んじゃってて」
最近また小さくなってしまった母親の姿を見ると僕は少し痛くなる。中学に上がろうとすると、僕の体は著しく大きくなって、そしてその体だけが大きくなってしまい、精神は少しも成長していないかのように思われた。僕達四人は入学式に向かった。新しい門出と、思い出作りのためにその扉を開くのだ。
「一馬、ね、言った通りでしょ?」
「あーあー、また確立減らしやがって」
「別にクラスのこの半分くらいは小学校から一緒なんだから、別に確立もあったもんじゃないでしょ?」
「確かにそうだけどー。担任の先生だって、嫌らしい中年かもしているし、余りいいスタートじゃないじゃんかー」
僕達は自分の教室に入ると、早速出席番号順に座らされた。そこでの救いは隣に座った子がかわいかったことだ。
「はじめまして。あのー、一馬って言います。籠原一馬って言います。よろしくね」
「私、美佳です。浅古美佳です」
この浅古美佳と名乗った女性は、とてもやさしそうな顔で、きれいな顔立ちをしていて、そしてすらっと長い足をしていた。僕が必然と感じたのは、出席番号で振り分けられた席順で、ア行の彼女がカ行の僕の横に座ったことだ。
「第二小学校から来たの?」
「うぅん、私この春から越してきたのだー」
「そうなの?で、今はどこに住んでいるの?」
「三原町の市営住宅」
「じゃー、僕の家と同じ方向だね」
彼女は思春期から来る照れなのか、僕が馴れ馴れしいのか、ずっとグランドの方を向いて余りこっちと目を合わそうとしなかった。6人のグループに分かれて自己紹介をしている時、彼女は余り口を開かなかった。一人だけ違う小学校から来たのだ、無理もない。僕は率先して彼女との会話をしたが、余り話題もなく、僕は彼女に触れることができなかった。そして教室に来て三十分くらいたった程で、下校になった。
「ねー、浅古さん、一緒に帰らない?」
そう言った僕の問いに彼女が返事する間も無く、後ろから声がした。
「一馬、一緒に帰ろうよー」
浅古さんは行ってしまった。彼女の目の中がまた覗けずに、彼女はその鉄筋製の廊下の端に消えてしまった。
「なんで、声掛けるのだよー」
「何でって、何で?駄目なの?」
「駄目じゃないけど、麻子だって見ていただろ?彼女違う小学校からこの街に来て友達いないのだよ。麻子が声掛けたから、浅古さん帰っちゃったじゃないか」
「でも、それって私が悪いわけ?じゃー、一馬が今から追いかけてでも一緒に帰ってあげればいいじゃん」
「そう言う言い方はないだろ?一緒に帰ってあげるとか、僕は誰の上でもなく下でもないのだよ。恩着せがましい奴にもなりたくないし」
「そう?じゃー、一生優しい人でいれば?」
麻子はそう言うと勝手に怒って、教室から出て行ってしまった。僕は、そんな麻子を追い抜くと、振り返りもしないで、急いで土間で靴を履き替えて走った。三原住宅だったら帰り道は一本だった。そして、まだあれから時間の経ってないことを見ると、すぐに追いつくだろう。
「浅古さーん」
僕は全速力で走ったのか、一瞬彼女のビジョンがずれて見えたけど、そんな事は気にしないで走った。そして、追いつくと、
「浅古さん、ごめん。さっきの子、僕の幼馴染なんだけど、周りの空気読めない人間なんだよー。多分彼女は何も感じないで僕の名前を呼んだんだと思うけど…………」
「あ、別にいいですよ。でも、幼馴染の人のことをそんな風に言うのもどうかと思いますけど」
「うーん、俺も言いすぎたかなー。さっき教室で話してたら、麻子怒っちゃったからねー」
「一馬君って優しいんだね」
「あー、さっきもそんな事を言われたような…………」
「誰に?ひょっとしてその幼馴染に?」
「あー、そうだったなー、一生優しい人でいれば?って」
「それって、理想だけどね、普通はそうはいられないもん。そうでいられるなら、そうでいいんじゃない?」
僕達は、普通に話していた。何故かこうなるのが当たり前かの様に僕達は普通に話していた。家に帰ると、お母さんは仕事のために寝ていた。僕は昼食を取ると、学生服を脱いで、仕事をこなすべくベッドに入った。
「動物愛護団体からの逮捕状」
百貨店で買い物を終えると、亜沙子は母親にせがんでペットショップに連れていくように言った。ガラスケースの中で商品として置かれている動物達を見るのが好きだった。まだその頃はお金の価値なんて余り良くわかっていなくて、100円のお菓子を買ってもらうことが喜びの一つだった。少し大人になると、ガラスケースの存在が妙に胸の中まで入りこんできて、そのガラスの温もりもわかった。思ったほど冷たくなかった。
小学校にあがると、飼育係になりたくて、教室に先生の許可を貰って金魚を飼った。だけど、水槽や魚に何の情も温もりも感じることの出来なかった亜沙子は、それに飽きていた。ただ勉強のように嫌な習慣の一つになって、与えても余り自分には見返りのない動作を繰り返ししているだけだった。男子生徒がタイコウチをその中に放すと間も無く金魚は干からびないミイラとなった。
やがて胸が膨らみ始めると、その年の夏にたくさんの死に直面した。夏休みに飼育小屋の世話係になった亜沙子は、友達の由美ちゃんと毎日飼育小屋の掃除に出かけた。そして、とても暑かったあの日、いつもより少し遅れて学校の飼育小屋に行くと、飼育小屋の中でうつ伏せになって倒れている由美ちゃんを見つけた。急いで中に入って由美ちゃんの体を抱きかかえると、錆びついたブリキのおもちゃみたいで、だけどその感覚は水槽の上に浮かんできたあの時の金魚と何ら変わりはなかった。髪の毛一本一本の中身を覗くような感覚でその日から鶏肉が食べられなくなった。鶏の興味本位だった由美ちゃんという固体も大きく変形していたからね。
「狭間」
「古川、刈谷にタオル渡してやれ」
朝子はキャプテンに言われるままに駿にタオルを渡した。コートから戻ってきた駿は息を切らしたまま目を獣の様にしていた。
「……、はぁ…………、サンキュ」
「どうだ、小学校とは違うだろ」
「……はい…………はぁ、はぁ……」
大人から見れば、小学生と中学生の体格なんて本当にそうは大きく違っては見えない。誰もが経験をしてきたはずなのに、その時のことを忘れてしまっている。体の事にしろ、心の事にしろ一番変化を来たす時なのだ。
キャプテンが駿と入れ替わりにコートの中でプレイすると、キャプテンは駿に見せつけるかのように良い汗を流した。
「駿君、頑張ってね」
「分かってるよ、キャプテンなんかすぐ抜いてやる」
部活が終わって、一年生はモップを掛けた後、ボール磨きをしていた。隣の小学校から上がってきた奴に幸喜って奴がいた。誰がそうすることなく僕達は進入部員の中でライバルと呼ばれた。
「なぁー、駿、昨日NBA見たか?どっちがファイナル行くと思う?」
「さぁな、俺の好きなチームはプレーオフすら出てないから、別にどこが勝とうが関係ないよ」
「そう言えば、そうだったな。それにしても、今日のキャプテンは、妙に見せるプレイが多かったよなー、俺達をあおってるのかなぁー?」
「関係ないよ。確かにあの人は凄いけどな」
「まぁ、おまえはあんまり個人技に走るなよ。まず俺達はこのチームに慣れなくちゃ」
幸喜と言う奴は悪い奴じゃない。俺がそっぽを向いていても、何かを大事にしようとしている奴だ。どちらかと言えば、あいつはネズミで、俺は猫なんだろう。だけど、相手は思いっきりのいい迅速なネズミだ。俺という猫は、鳴きもしないが一人でいる事に慣れている野良猫だった。
五月になると、10人以上いた進入部員が、半分になっていた。一年生を任されていたのは幸喜で、彼のポジションがガードでもあるが故、統率力もあるのだろう。
「駿、じゃー、俺職員室に部室のカギ返してくるから」
「あぁー」
カギを返しにいった幸喜が、職員室から朝子と一緒に出てきた。
「なんだ朝子、まだいたのか」
「担任の先生と少し話していたの」
「なんで?」
「何でって?時間が余ったからよ」
「おい、駿、そんな言い方ないだろ。朝子ちゃんオマエ待ってたんだからー」
僕達は正門をくぐると、幸喜は一人帰っていき、朝子と二人になった。
「なんで、駿君って、私と話す時怒って話すのよー」
「別に怒ってないよ」
「宿題見せてとか、そんな時だけ調子いいんだからー」
「ごめん、なんか、人がいると大人ぶっちゃうんだよなー」
「あ、でも私はわかってるよ。そう言う時期なんだよねー」
「何でこんなに思い通りにならないことが多いのかなー」
「思い通りにならないって?」
「バスケとか学校のことだよ」
「それって、幸喜君のこと?」
「あいつバスケうめぇーし、凄く人がいいんだよね」
「でも、シュートしたり、私はあんまりバスケットのことわからないけど、駿君の方がたくさん点取ってるし、目立ってるよ」
「あー、それなぁ、幸喜のお陰だよ。俺がシュート打ちたい時に、俺の元にボールが来て、俺がフリーの時にスリーラインに出れば、そこにボールが飛んでくる。全部、あいつのセンスだ」
「そうなんだー、私のわからない所で、またもう一つゲームをやっているんだね」
その時駿の頭に光が走って、商品はそのままストップした。ここでの世界が全て時を止める。
「一馬、麻子ちゃん来たわよー」
「あー、あがってもらって」
僕の脳に付いていた最後のコードが一瞬にして外れると、ベッドの裾へ消えていった。表の世界の時間を止めることはできない。そう、僕にそんなたいした能力なんかないんだ。僕はどちらかと言えばそこまで何かに長けている人間ではなかった。最近の持ち前は、優しさだって聞いた。
僕の部屋のドアが開くと麻子がコーヒーカップを二つ持って入ってきた。
「おばさんがコーヒー入れてくれたよ」
麻子は妙に笑顔で少し湯気の立つカップを持ってそう言った。
「何でそんなに笑ってるんだよー」
「笑っちゃ駄目なの?」
「別にー」
僕はタイマーが零時零零分のままチカチカ点灯しているビデオデッキの時計を見ていると、不思議と部屋の掛け時計の針の音がそれにぴったり重なっているのが、次第に大きく聞こえ始めた。沈黙もあった。
「今日のこと気にしてるのか?」
「いつもだったら気にしてないことなんだけどねー」
「じゃー、今日も別に気にするなよ」
「そうもいかないのよ、乙女心って物があるんだから」
「中学生になったとたん、それかー、まだ早いよ」
「あんたが遅いのよ」
それからたいした話もなかった。「七時四十五分に迎えに来てね」そう言って麻子は帰っていった。僕はお腹が空いて、下に行くと、もう母は仕事に出かけていって、テーブルの上に、まだラップが白く水気を保ったままの食事が置いてあった。僕は、いつも通り味気なくそれを食すと再び自分の部屋に上がりベッドの横たわった。
僕はつまらない日めくりカレンダーのように、その帰り道の会話を飛ばして、次の日の登校時間まで早送りした。
「まだ夏服着てるの?」
「だって忘れてたんだよ」
「衣替えは今週中だからね。もう暑いんだから、明日から夏服にしなさいよ」
僕は二日後のバスケットの練習中に自動的に表の世界に戻された。朝になって目が覚めると、ここでは一日しかたってないことに気付いて、明日からは余り早送りにするのはやめようって誓った。
「細胞の会話」
「絶滅した動物って、何で絶滅したと思う?」
「急激な生活環境の変化か何か?」
「違うね」
「超過な捕獲?」
「意思だよ、意思」
「故意的に絶滅したって事?」
「ニュアンスが違うね、それとも言い種が違うのかなぁ」
「どう言うこと、死を選んだって事でしょ?」
「だから違うってば」
「どう違うのよ」
「絶滅した奴等って言うのは、だるかったんだよ」
「だるい?気だるいって事?」
「そう、面倒くさかったんだよ。どうするオマエ?うーん、別にー、何かだるくなーい、とか言っちゃって」
「は?」
「だから、超やる気ねー、とか言っちゃてるの毎日。それで、頑張っちゃってる他の動物見て、あいつら、まじでウザくねー?とか言ってるの」
「それで?」
「それで?って、決まってるじゃん。そのまま絶滅しちゃったんだよ」
「主張」
クラス委員長に選ばれた僕は劣等性のラベルを貼って堂々とみんなにそれを見せた。それでも何故かみんなは僕を勧めた。担任の先生が、「籠原君、委員長になった豊富を皆さんに一言」
「はい、豊富と言うよりは疑問なんですが、男子の僕が委員長で、女子の浅古さんが副委員長というのは納得いきません」
みんなは僕の言っている意味が余り理解できなかったのか、「浅古さんじゃ、不満か?」などと文句を言う生徒もいた。
「みんな、違うってー、なんで男子が委員長で、女子が副委員長なんだろうって、疑問に思っただけ、これって差別じゃないのかなーって思っただけど、まー、いいや」
「よくなーい。それってどうでもよくなーい。ねぇ、先生、何でですか?」
そう聞いたのは、麻子だった。
「何でって、そんな事先生に聞くなよー。この学校がそう決めたんだから、今日の会議で先生同士で話し合ってみるよ」
「先生、超テキトー」
休み時間になると、麻子が僕の席のところにやってきた。もちろん浅古さんも隣の席だったから、ここで初めて三人で顔を合わすことになった。
「浅古さん、こんにちは」
「あ、さっきは凄かったですね、先生にあんなにもストレートに言って。私だったらそんな勇気なかったなぁ、疑問に思ってたのは一馬君と同じだったんだけど」
「小学校の時ってそんな区別なかったよなぁ、学級委員は学級委員で」
「あ、昨日ね、一馬に怒られたんだ。浅古さんのことで。そうだよね、ごめんね。私だって知らない人達の所にいきなり溶け込めって言っても無理だし、私が軽率だった」
「あれ?やけに素直だなー」
「あんたはいいの」
「あ、私は気にしてないですよ。それにあの後一馬君追いかけてきてくれたし、凄く嬉しかったから」
「浅古さんきれいだから、男子に持てても、女子に虐められたりしちゃうよ。だからもっとみんなで楽しくしようよ」
「露骨に言うなぁ」
「何か二人の会話楽しいですね。羨ましいですよ」
次の時間はクラスの係りを決めたりしてそして知らないうちに昼食の時間になって、そして五限目が始まった。入学して二日目でいきなり春の遠足の話になった。二週間後に控えた遠足の班決めやら何やら。
「それでは、男子、女子、それぞれ三人の組に分かれてください。それから男子と女子の組を抽選で決めたいと思います。それでは、好きなようにわかれてください」
先生がそう言うと、みんないっせいにグループを作り始めた。僕は動かなかった。それは隣に動けない人がもう一人いたからだ。そして同じクラスの中にもう一人動いていない人がいた。麻子だった。
「どうした、籠原、浅古、羽鳥」
「先生が余りにも無能なので動けません」
そう言ったのは、僕だった。
「それはどう言うことだ。それにその口の聞き方はなんだ」
「無能だから無能だと言っているんです」
「理由を言えと言ってるんだ」
「この状況を見てまだわからないんですか?」
もうクラス内は誰一人動けないような張り詰めた空気になっていた。妙に静かなその天気の良い午後にこの静けさは似合わなかった。
「先生、理由と言うよりは、答えを教えますよ。それでは先生、このクラスの中で遠足に行きたい仲良し三人組を作ってください。どうですか?早く」
「そんなの出来る訳ないだろ、先生は先生だ。それにまだ会って二日目だぞ、一人の人間すら把握できていないのに………」
「では、浅古さんはどうです?彼女はこの春からこの街に来たんですよ。ひょっとしたら友達がたくさんすでに出来ているかもしれない。でも出来ていなかったらどうします?」
僕は続けた。
「遠足の班決めは僕が執り行います。不平不満のないように。みんな、それに賛成だったら席に戻ってください」
みんなはゆっくり着席した。僕は立ち上がると教壇に立ってこう言った。
「先生、先ほどは失礼しました。これから一年間も一緒に過ごすんですもんね。先生と生徒がぶつかり合うのは当たり前なんですよ。もちろん生徒同士でも。それからねー、執り行うって言ったけど、方法まだ決まってないんだ。だからみんなで意見出し合って多数決で決めようよ」
僕は一昔前の熱血青春学園ドラマのように目頭を熱くして、その日を過ごした。どちらかと言えば、小学校の時は麻子にしたってそうだけど、女子の尻に敷かれている事の方が多かった。だのに何故だろう。僕の胸の高鳴りは濃い音を叩き出すばかりだ。
「フラッシュ」
時々僕の体の中を光が走り抜ける。変な頭痛のようのものと、妙に落ち着いた物が同時に来る感覚だった。友達は薬のやり過ぎと言うけれど、僕にはそんな症状が出るほど薬を口に含んだ覚えはない。高校二年生になってすぐに、友達とバイクに乗って事故を起こした。それからだった。時折孵化したばかりのヒナがあげる弱々しくて小さな鳴き声がどこかから聞こえてくる。それで頭を抱えるとなにやら嫌な感触があって、それを目の前まで持ってきて手の平を広げると、そこには人の胎児らしい物が目を開けて僕の事を見ているんだ。僕はそれを看護婦さんに話したけれど、誰もそれを信用しなかった。主治医の先生はそれでも優しかった。中学を卒業してすぐに母親を亡くした僕には、その人がお母さんのように思えた。
「一馬君、体の具合は?」
「えぇ、だいぶ良く、あ、でも、時折怖い夢を見ます」
「疲れているのね、今日はもう寝なさい。おやすみ」
「寝つけないんです、またあの夢を見るかと思うと」
「睡眠薬を後で看護婦に持ってくるように頼んでおくわ」
「睡眠薬は僕には効きません」
「何を望むの?」
「温もりです」
「そう、看護婦に伝えておくわね」
先生がそう言って出ていくと、間も無く看護婦がやってきた。看護婦は「仕方ないのよ、男の子なんだから」と言って、僕の手を握ってくれた。僕は屋上に看護婦を連れ出すと、彼女をファックした。煙草を吸うと大人になったような気になって、病院は僕をこのまま飼育してくれるだろうか考えた。
ある雨の降る日だった。退屈に慣れたくない僕は、新棟の喫茶店でお茶を飲んでいた。僕は夢中になってマンガの本を読んでいると隣に人の気配がしてそちらを見た。頭に包帯を巻いたパジャマ姿の僕と同年代くらいの少女が無表情で座っていた。僕は少し意識しながらマンガの本を見ていると彼女がこっちを向いた。そして一瞬光が走ると彼女はこう言った。
「しゅ…ん…く、ん…………」
僕には何の事だか分からなかったけど、僕は彼女に話してみた。
「あのー、「しゅんくん」って?」
彼女は依然無表情のままだ。それに僕の問いに答えようとしない。
「僕は、一馬って言います」
それでも彼女は無表情で…………、それでも彼女の瞳は何かを見ようとしていた。
「あのー、名前は?」
「あ……、朝子…………、」
「擬似恋愛」
「あ、古川、今日さぁ、練習終わった後空いてる?」
「うん、別に用事はないけど、何で?」
「テスト勉強一緒にやらないかと思って」
「いいよ。あ、でも駿君はどうなのかなぁ、勉強してるのかなぁ」
「あいつのことはもう放っておけよ。それにあいつ桐島先輩と付き合ってるんだろ?」
駿は擬似世界の中で桐島先輩と付き合っている。もう中学二年生も後二ヶ月で終わってしまう。
「おーい、幸喜、朝子、練習終わったらどこかに行かないかー?」
「駿、明後日テストだぞ、大丈夫なのか?」
「あー、テストかー、それで部活も早く終わったんだっけなー」
「そうだよ駿君、勉強しないと駄目だからね」
「仕方ねぇーなー。じゃー、今日は帰ろうかな」
僕のプログラミングに何の誤動作もない事はわかっていた。
表の世界に戻ると僕は少しやつれていた。ここ二年間の目まぐるしい日常に少し疲れていた。
僕は一体どれくらい成長したのだろうか。籠原一馬と言う人物は他の人の目から見てどのように映っているのだろう。僕の周りでは大して日常的な事ばかりで、恋愛をしただとか、誰かを亡くしただとかそう言ったことはなかった。ただ一つ事が動いたのは、やっぱり一年生の時に担任だったあいつはわいせつ罪で捕まった。
三年生になって修学旅行に行った。僕は浅古美佳を好きになっていた。新幹線の中でトイレに呼び出すと、そのままカギをかけて二人きりになった。彼女は何も怯えてなんかいなかった。僕は思いっきり彼女の胸をわしづかみにするとそのままキスをした。その彼女の心臓の音が余りにも僕を襲ったのか、僕はそれ以上何もすることが出来なかった。
修学旅行から帰った僕は横たわるとそのまま擬似世界へと行っていた。放課後朝子を呼び出すと、僕は朝子にキスをした。刈谷駿でいられる僕は、なんとも軽率で大胆だった。僕は桐島先輩と言う存在をその世界から消した。そして朝子は僕に勝利した。
中学を卒業して間も無く、母親が死んだ。死因は原因不明。籠原一馬は、そこで一人となった。
「覚醒」
肉体がジュウナナサイの誕生日を迎えると、筋肉としては衰退していたはずの重い瞼が開いた。
「ここはどこだろう?」
朝子は見なれない天井のくすんだ色を見て、まず脳がその感想を欲しがった。朝子は少しずつ記憶を辿っていった。確か先週、家族四人で旅行に行って………………はっ!しかし思うように朝子の体は動かなかった。看護婦さんが朝子の存在に気付く三十分間、朝子は天井を見上げっぱなしだった。
「お母さんやお父さんや弟は一体どうなったのだろう」
やがて私の周りがざわめき始めるとたくさんの人が私を見ているのに気がついた。それから二日は口が聞けなかった。弟の話を聞くとそれから二日間耳を閉じて、そして知らない人達が来るたびに目を閉じた。
二週間が過ぎる頃、ゆったりとした中でお母さんがリンゴを剥いてくれているのが分かった。普通病棟に移されると、次第にわたしは大勢の視線が緩和になっていくのを理解した。
「孝介は死んじゃったの?」
果物ナイフを拾い上げるお母さんは少し記憶のものとは違うが、お母さんが頷いたんだよね。そして次の日私の通っていた学校のクラスを代表して一人の生徒が私にお見舞いに来てくれた。
「朝子、お体の具合どう?」
「あ、ごめんなさい…………、えぇ………」
代わりにお母さんが答えた。
「ごめんなさいね、せっかく来て頂いたと言うのに、朝子ね、少しまだ記憶がしっかりしていないのよ、でも先生が言ってたわ、一時的な物だから来月から学校に行けるそうよ。そうみんなに伝えてくださる?」
「あの………」
「はい?」
「あの……お名前は?」
「美佳。浅古美佳です」
「美佳………私達は友達だったんだよね……、ごめん、変なこと聞いちゃって」
「みんな待っているからね」
次の日私はいつもより遅い時間に目が覚めた。ブラインドを開けると、その余りの眩しさに朝子は一瞬トリップした。私の足元にバスケットボールが転がってきて、それを見ようと下を向くとそこには何もなかった。さっきまで眩しかったはずのブラインドの外の世界は嘘だったかのように、普通の窓から見た外は雨が降っていた。さっきの光は何だったのだろうか。そして、私は誰かが読んでいるような気になって、エレベーターのボタンを押した。そして、下の喫茶店に入るとテーブルに座っていた。
「……しゅ…ん…く…ん……」
私は何故こんな事を呟いたのかわからなかった。隣のテーブルに座っている男の子の目が私の中を覗いたような気がした。「一馬」?「違うわ……え?私?朝子よ、朝子」
この人、懐かしい目をしてる。
「堕落」
僕は朝子のためにプレゼントを買った。同じ高校に進学した駿と朝子は互いに互いを好きになれていた。擬似世界はもうすでに一馬の拠り所や仕事ではなく、有り触れた日常だった。刈谷駿として逃避していた一馬は羽根を失っていることにすら気付かないでいた。
今日でジュウナナサイの誕生日を迎える朝子は覚悟を決めていた。少女から一躍でも二躍でも違う世界へ行けそうな気がしていた。駿からのプレゼントを受け取ると朝子はもう恥ずかしく濡れていた。大人になることはそんなに難しくないんだと思った瞬間、ビジョンが揺れた。
一馬は強制的に擬似世界から引き戻されると夢精していた。
一馬は協会から呼び出されると、自分の仕事が終了したことを告げられた。今回に限りブレインキーパーとしての記憶を消されることになった。一馬は拒んだが、絶対的な決定に逆らえず、一馬は局部的記憶の除去を余儀なくされた。
目が覚めると麻子が僕の顔をじっと見ていた。
「おはよう」
「あー、何してるんだ?」
「何してるんだじゃないでしょ?あんた家の前で倒れてたから、運んであげたんじゃない?」
「一人で?」
「そう、一人で…………あんた重いねー。さすがに高校生にもなると重いよー」
久し振りに見る麻子は少し大人になっていた。体つきの変化が服の上でもわかる。
「変わったな、おまえ。」
「どんなふうに?」
「きれいになった……………なった?」
それでも見慣れたこの部屋は当時の麻子の部屋と余り変わらない。
「何で、本人に聞くのよー。もうー、サイテー」
麻子は、飲み物でも持ってくると部屋から出ていった。それにしても僕は何故麻子の家の前に倒れていたのだろうか。それだけが謎だったが、日常的に大してネガティブだったわけでもないからそれ以上は考えなかった。
「はい、冷たいお茶ね」
「そう言えば、葬式以来だもんなー」
「私は引っ越し手伝うって言ったでしょ?」
「でも大して荷物なかったし、おまえも学校始まったばかりだったし」
「気にする仲じゃないでしょ、もう、それはいいや、で、彼女とか出来たの?」
「美佳に振られてから全然そんな話しないなー」
「だから言ったでしょ?私にしとけば良かったって」
「そんな簡単なものじゃないんだよ」
「わかってるわよー」
次の日、夢の中で僕は朝子の存在を思い出してしまった。そして僕が刈谷駿だったことも。その日僕はバイクで事故にあった。二人乗りしていると、運転していた友達がスピードを上げてあげて、加速して止まらなかった。変に恐怖心のなかった僕は、あれは仕業だ何て思いながら、僕は救急車で運ばれた。そしてたっぷりの恐怖心を擦り付けられて、そして朝子の記憶が全てなくなった頃、僕は朝子と再会したんだ。
「潔癖」
菜食主義となった私だったが、生き物に付いて考えることが多くなった。素敵な趣味ねとは誉めてもらえないけれど、かなりの数の人がそれを趣味としているだろう。そう、私の趣味は人間観察。
いつしか人の心まで読めたら何て素晴らしいことだろうと考えていたが、ある日それもなくなった。私は人の感情だけで簡単に殺されてしまうことを知ったからだ。私はそんなに強くないはずだった。
由美ちゃんが死んじゃって一年くらい経った頃、私は男子生徒と遊んでいる時に男子と言う物に興味を持ってしまった。視聴覚室の奥にある普段誰も使わないその男子トイレで、私は個室でその男子生徒と二人になった。ズボンを脱がせると私はそれを手にとって見た。私より陰毛が少ないその男の子を見て、私の方が大人だと思った。だけど、次の瞬間その男の子の性器が大きくなり出して、私は思わず手を離してしまった。そうしたら急にその男の子が声なく泣き出したので、私は「どうしたの?」と聞くと、男の子は「わからない」と言った。まだ剥けきらない先っぽを触ると、男の子は痛いとまた少し泣き出した。仕方なく私はそれを完全に剥ききると少しそれを眺めていた。そしてそれを触ろうとした瞬間、何かが飛び出してきて、私の顔一面に、それが掛かった。それは精液だった。
「亜沙子ちゃん大丈夫?、僕、ご、ごめんなさい」
その生徒はそう言って、出て行ってしまった。小さな鏡で私は自分の顔を見ると、顔中に精子が掛かっており、マニアには堪らない無表情の顔をしていただろう。私は非常階段を足早に駆け下りると、家まで誰も会わないように帰った。そして急いでシャワーを浴びると、次は洋服を洗った。
中学生になると、ある程度知識が付いてきて、私は色々な人と交わった。担任を辞職に追い込み、二人の男子生徒が自殺すると、私はそれも自粛するようにした。たまに誰かに入れられていると、由美ちゃんのあの形を思い出す。私の癖は、潔い死への干渉だった。
「必然」
天気が良かったのでその日は病院の庭を二人で歩いた。二人が出会ってから一ヶ月が経った。僕は明日退院する。そして日常へまた足を踏み入れると、どうでも良い欠片たちを繋ぎ合わせて何かを創り出さなくちゃいけない。だけど、まるでジグソーパズルのように完成する物はすでに決まっており、後は時間と頭を抱えながらそれを完成させていくだけだった。
「明日退院だね?会えなくなっちゃうのかなぁ?」
「そんな事ないよ、俺は毎日朝子に会いに来るよ」
「私も早く退院したいなぁ、もう少し、もう少しって何だか長引いているもん」
「何でだろうね?もう平気なんでしょ?」
「私は大丈夫なんだけど、まだ色々調べられてるみたい」
「あー、僕もそうなんだよ、それに退院しても一週間に一度は検査を受けに来なさいって」
「優しいんだけどなー、刈谷先生」
「え?朝子も刈谷先生なの?僕もだよ」
「すごく気を使ってくれているのかなぁ」
「僕なんて、両親いないから、親みたいなもんだよ」
浅古美佳は全く上品に水曜日のグランドを教室から眺めていた。今日で花束を贈るのも当分ないんだなって思って、一馬を病院まで迎えに行った。浅古は携帯電話の電源を切ると、あの余り好きになれない病院の匂いを鼻腔に感じながら一馬のところへ向かった。
羽鳥麻子は地下鉄に少し揺られてお気に入りの曲を斬新なポルノグラフティーと重ねてそこから巻き上がる風邪に少しスカートを煽られた。いつまでも一馬のお姉さんでいられるわけないんだし、それに私は何を期待して何を意識したいのかわからなくなっていた。一馬を大人にしたくない自分がいたから、麻子はまだ裸をさらけ出せないのだろう。一馬を欲しいと思えば思うほど一馬を抱く勇気がないんだと泣きたくなる。イヤホンをとってMDの停止ボタンを押すと、麻子は病院の自動扉をくぐって、老人ばかりの待合室を横にした。
古川朝子は歯を磨くと、その血色の悪い自分の顔が一瞬嫌いになった。今日で懐かしい目をしたあの人と憩う事が出来ないことに少し悼んでいた。好きだという感情は忘れてしまったと思っていたが、私はハートを真っ赤に染めている。口の中に広がる酸っぱい想像と時々恥部に何かが触れてしまう動物的発想。朝子はそれでもお気に入りのワンピースを選んでその白さは無垢を表したいと言うほどに、一馬のもとに階段をゆっくり下りていった。
刈谷亜沙子はずいぶんと古いレポートを懐かしそうに読んでいた。看護婦が彼女のもとに呼びに行くとすぐに立ち上がって、一階の受付まで歩いた。私は正常に作動しているのだろうか。人として、女として。私は何故かもう人達のざわめきが耳に障ることなくその階段を生真面目に下りていった。私が代償を得る代わりに捨てた物は、余りにも大いなるもの。そう、あの時みたいに。
「麻子?あれ?何で?」
「あんたが身寄りなくなってすっかり私がお姉さんよ。一年経ったけど、新しい家族は慣れた?」
「うん、優しくしてくれるよ、とても、また今度、秋とも遊んであげて」
「今日は、迎えに来ないのね」
「来るって言ってたけど、断ったんだ、何だか、恥ずかしくて」
「もう、帰れるの?」
「あ、そうだ、主治医の人にお礼を言わなくちゃ」
そう言って、僕は麻子を制して、階段を上り始めた。そこに期待していた朝子の姿があって、僕はそれに少し時間を共有した。
「朝子、あ………あれ?何でだろう。楽しくもないはずのこの場所に………」
「あれ?寂しいんでしょー。今日で、私とも当分会えなくなるからでしょ?」
僕はただ純白に見とれていた。どうやったら綺麗なものを否定する権利が僕にあるんだろう。
「あ、いつもと違うね」
僕はそう言って、階段を駆け上がった。
「あ、一馬君…………、私ね…………、」
ちょっと、刈谷先生に挨拶に言ってくる。そう言った脇を掠めたいがばかりに、刈谷先生は、その上の階から下りてきた。
「あ、一馬君。丁度よかった、先生ね、君に言いたいことがあって」
「あ、僕もです」
「じゃぁー、一馬君から、どうぞ」
「あ、僕なんて有り触れた物です、ただ先生にありがとうって。それと、身寄りのない僕に本当に接してくれて、それが僕の言いたかったお礼です」
「じゃー、私と一緒ね。本当にありがとうって言いたかっただけなの。だから、ありがとうね」
「あ、でも、まだ少し検査が必要なんですよね?」
「そうね、じゃー、まぁ、これでお別れじゃぁないわけだ」
「そう言うことです。じゃー、友達が待ってるんで行きます」
僕はそう言って刈谷先生と別れると、朝子と一緒に下に下りていった。
麻子は自分に一人の人間を抑圧する力がなくて自信を少し失った。何故だろう、私はもっと悪女になってよかったはずなのに。今更になって幼い日々からの積み重ねを悔やんだ。麻子を制した一馬の後ろ姿を見て、そこに立ちすくんだまま一馬が少しでもこちらを振り返るのに少し期待していた。一馬の姿が視界から消えると私は少し震えて、妙に病院と言う施設が気になった。溜め息交じりだったが、少しいつもより深く呼吸をすると眩暈がした。そこに化粧室から出てきた一人の知っている女性を見つけた。浅古美佳だった。
「あ、美佳!」
麻子は少し戸惑った小動物のように跳ね上がったが、向こうには届いていなかった。浅古が受付に辿り着いたところで、麻子は彼女に声をかけた。
「美佳」
「あ、麻子」
もう、お互いは三年間中学校で培った有り触れた友情を使えるようになっていた。そしてお互い分かり切って同じ目的にこの場所に対抗意識を燃やすのがバカらしくなって、笑った。
「一馬ならね、さっき私を差し押さえて先生に会いに行ったよ、元気だったみたい」
「あら、そうなの、じゃーここに居れば会えるのね」
「うん、多分…………」
「あれ?麻子何だか元気ない?せっかく一馬君が退院するって言うのに」
「何だかね、私少しわからなくなっちゃって、一馬って一体何を見てるのか」
「どう言うこと?」
「素直じゃないってね。自分の中でそう言うの確立しちゃって」
「そうか、やっぱり麻子はね、うん」
「あのね、ずっと美佳に聞きたい事が……………」
「あ、一馬く…ん……」
そこに見えない廊下の小さな階段からなる死角から姿を表した一馬を見て、浅古はそう言った。それと同時に麻子も振り返ると一馬はそれに気がついた。一馬が二人の射程内に入るまでの数秒の間、麻子は一人心拍数を上げていた。
「誰?誰なんだろう、あの白いワンピースの女の人」
麻子はそれが気になって仕方なかった。もしこれが寝静まる前のほんの少し前のベッドの中だったら、それが頭の中で回って止まらない。
「あ、麻子、待たせたね、ごめん。それに、美佳も、あぁ、何て言うんだろう、久し振りかな?」
一馬はそう言って、麻子の視線が気になったのか、朝子を見ているのに気がついて、それに触れた。
「あ、こちら朝子さん。入院している間に知り合ったんだ。彼女もここの患者で、仲良くなっちゃって」
朝子は二人に会釈した。だけどその瞬間、朝子は一瞬記憶を少し辿った。あの私を以前友達とした浅古美佳がそこにいたからだった。
「あら、朝子。そっか、一馬君と同じ病院だったものね」
「え?美佳、友達なの?」と、麻子が言った。
「私のクラスメートよ」
「そうなの?すごい偶然だね」と一馬が言った。その一馬が、ふと脳みそに何かを感じると、次いでそこにいた三人の少女達も何かを感じたみたいだった。そこには刈谷亜沙子がいて、その横に一人の少年がいて二人で話をしていた。次の瞬間その少年が振りかえると、四人の若者は自分達の目を疑ってみた。
刈谷先生が今度はこちらに気付くと、その少年と一緒になって近づいてきた。誰もがその数秒に幻覚を抱くのだが、そこで二人の少年が対峙する。
「あら、おそろいね、一馬君、それに朝子ちゃんも」
そう言った刈谷先生が少しもこの状況の中で動じていないのが不思議なくらいだった。
「その………あの………」僕がそれを言葉に出したのかは分からなかったけれど、刈谷先生は僕に言う。
「私の息子よ」
そこでやっとその少年が口を開く。
「こんにちは」
僕達は、それに唖然とするとまた刈谷先生が話し出す。
「ごめんね、ぶっきらぼうな子で、ほら駿、少しはあんたも笑いなさいよ」
朝子のビジョンが揺れた。
「しゅ……、ん…」
言葉と言う物が本当に愚かだと言うのは、今の朝子にとってどうでも良い事ばかりで、絶対能力と言う物があれば、それを言葉に替えて欲しくなかった。
それでも余りにも小声だったためにかき消されたが、朝子は自分に驚いた。
「あれ?」その状況の中、一馬が思ったことはこうだった。美佳と朝子はクラスメート。僕と美佳は…………、
「俺と朝子が同じ学校?」
その事実を声に出して言ってみると、美佳が頷いた。
それを聞いた朝子が無表情から一変して笑った。笑うまでの顔は何かに打ち震えているとしか思えなかった。
「またいらっしゃい」
僕達はその病院から帰ろうとした。一緒に方向を定めた二人を少し止めて、僕は朝子にこう言った。
「明日また来るから」
朝子はまた精神的に脆くなったのだろう、僕を本当に必要としてくれた。
そして病院の自動ドアが開くと僕はまた振りかえった。そこに朝子はいたが、朝子を直接見ることなく、刈谷駿をじっと見ていた。刈谷駿もこちらを見ていた。
それはそう、水鏡に映ったほどに。
「ゼンマイと電池」
「なぁ、ゼンマイさんよー」
「何だい?電池君」
「巻くの面倒くさいんだよねー」
「だって僕は巻かれる側だもん」
「そうじゃねーって、人がよ」
「じゃー、電池君の力で、電池式ゼンマイ巻き機でも作ってもらえば?」
「それって、意味あるのかー?」
「ないかもしれないね、ごめん、あ、ゼンマイ切れてきた、ごめん、ちょっと巻いて」
「しょうがねー野郎だなー(ジコジコジコジコ)」
「ありがとう、やっぱ駄目なのかな—、僕は、こんなに豊になってもまだゼンマイだもん」
「そう自分を追い込むなよ、貧しい国では、おまえがラジオに付いたことによって、より多くの情報が得られるようになったんだぞ、しかも低コスト。この野郎、電気まで起こしやがって、俺達なんか、使い捨てやら、充電式やら、なんやろうなー。まぁ、がんばろや」
「そうだよね、前向きにいかないと」
「俺だって、太陽電池だ半永久だ何だって、新しいやつが出てきた時は、さすがにビビったけどな、けどこうして生きている。なんでかわかるか?」
「何で?」
「そりゃー、先進国と発展途上国に大きな差があるからじゃねーか。まぁ、もしエジソン先生がまだ生きていたら唖然とするだろうけどな」
「何で?」
「何でって、君達まだ電気なの?って、きっとエジソン先生が生きていたら、新しい物がもうあるはずさ」
「なるほどね」
「そうしたら、俺なんてこの世からおさらばだけどな。それまでは、何が何でも俺は生き残るさ」
「じゃぁ、僕は?」
「ゼンマイさんはいいんだよ。色々なところで技術面が評価される。まだ埋もれちゃいねー。からくりって言われているうちは花だね」
「ありがとう」
「お互い腐らずに生きていこうな」
「そうだね、がんばろう」
「人間、当分進歩しねーだろうなー」
「そうかもねー、あ、ごめん、電池君、また巻いてくれる?ぜ…ん…ま、い……が………」
「俺が巻いてたら、この会話のつじつまあわねーだろ。全くしょうがねーなー、ほら」
「㈹性的興奮」
あれだけ痛い思い出が、はっきりと薄くなってきた頃、それは意外な欲求として欲することになった。亜沙子が何気なく自転車でいつもの道を走っていると、その固体はそこに落ちていた。全く光が反転したフィルムの由美ちゃんの記憶が瞬く間に蘇って、亜沙子はそのまま堤防沿いから下に自転車ごと転げ落ちた。気が付くと存在価値が大きい生物の中で亜沙子が、一番その固体の近くにいた。
「あぁ、やっぱり由美ちゃんと同じだ」そう亜沙子は思って、それを何かの性的なものと勘違いをして、慄く事もなくそれに触れた。異臭だけはしっかりと鼻に感じたが、それは興奮に変わるだけだった。一体、死後どれくらい経っているのだろうか。人目は普通につくところなので、そう長い間ここにこうしているわけではないようだった。まだ皮膚や毛髪はきれいなものだった。一体どんな経緯でこの人はここで亡骸となって伏せているのだろう。
「人殺しーー!」
亜沙子が振りかえると、四十代くらいの主婦が亜沙子を見てそう大声で叫んだ。私は、妙にそれに動じなかったのか、その主婦は冷めた顔で走ってどこかに行ってしまった。亜沙子はその死体の目を閉じさせてやろうと頑張ったが、どうやっても片目が閉じなかった。そうしているうちにパトカーがやって来て、一気に堤防を駆け下りてきた。
「あぁ、私一体何をしているのだろう」
警察は乱暴に私をつかまなかったが、身柄は拘束された。私は、自転車で転げ落ちた時に色々な所から出血しており、そう軽く血塗れだった。警察署へ連れて行かれると、私は軽く瞳孔を開いて、無表情でそこにいた。学校の先生と親が来るまで、一言も言葉を発しなかった。
「怪しい人を見ました」と、私が言うと、大勢の人が驚いた。私の容疑は普通に晴れて、私は人殺し呼ばわりをしたあの四十代くらいの主婦を容疑者にしてしまった。成す術なかったか、事実だったか知らなかったけれど、そのおばさんは逮捕された。
怪我をしていた私を確保した警察官は、病院に連れていかなかったことでお咎めを食らっただろう。私は知らない。その後病院へ連れていかれると、何故か精神鑑定までさせられた。白衣を来たおじさんは、紙に描かれた形なき黒い形を「これは何に見えますか?」とだけ聞いて、私はその白衣のおじさんの意思だけによって、一週間もそこに閉じ込められた。
亜沙子は色々なものを思い出してオナニーをした。体を自慰するのではなく、脳みそと心を自慰していた。
退院すると雑食に変わっていた。別に好んだわけでもないが、お肉も食べられるようになった。単身赴任するはずだった父親は転勤を望み、そこから新しい環境がスタートした。私はどこにでもいるような女学生として、そこで一時落ち着いた。
高校生になると、亜沙子は近くのペットショップでアルバイトをするようになった。それは何かを見下ろしたかったのかもしれない。それでもそこでまた一度「生き物」に興味が湧いて、そして感情も正常になった。ただ少し屈折した感情もあった。由美ちゃんは「生き物」ではなかった。
「放課後」
麻子は放課後になって、教室で掃除をしていた。何故か下手な正義感の強い麻子にはサボると言うことを知らなかった。
「幸喜は偉いねー」
「何で?」
「みんな、掃除当番だって言うのに帰っちゃうけど、幸喜はいつもちゃんと掃除してくれるもん」
「当たり前の事をしているだけだよ。まぁ、普通に考えたらだるい事だからね」
それから少し黙って掃除をした。
「彼氏もう退院したんだろ?」
「だからー、彼氏じゃないって、ただの幼馴染」
「ふーん」と、少し鼻を鳴らした感じだった。
「幸喜は最近どうなの?」
「何が?」
「何がって、バスケよ」
幸喜は少し期待していた会話とは違って焦った。「彼女は?」って聞かれるのかと思ったからだ。幸喜が掃除をしているのは、掃除当番と言う理由ともう一つ、羽鳥麻子が好きだった。
「バスケかー、あぁ、頑張ってるよ。明日試合なんだ。そうだ見に来る?」
「試合かー、そうだねー、応援に行こうかなー。でも一人で行くの?」
「試合って言っても練習試合だし、それにうちの学校の体育館でやるから、それなら来れるだろ?」
幸喜はこれまで三度ほど誘ったが一度も麻子が見に来てくれたことはなかった。幸喜は一年生の時から麻子を知っていたが、麻子は幸喜と同じクラスになるまで存在を知らなかった。
「じゃぁー、行こうかな。神楽でも誘って一緒に行くよ。あ、でも、わたしルールとか良く分からないよ」
神楽は麻子が高校に入ってから仲良くなった友達だった。よく二人で恋愛の話なんかをしたりする。
「大丈夫だよ。ルール分からなくても、見てるだけで面白いからさ。野球とかと違って点数の取り合いだからね。暇することはないと思う」
「じゃー、幸喜ゴミ捨ててきて、私そのまま職員室にカギ返して帰るから」
「わかった。じゃー、明日試合でな」
「何言ってるのよ、あんた授業は?」
「あ、そうか」そう言って、幸喜は素でボケてしまったことに少し恥ずかしさを受けて、すたすたと行ってしまった。
翌日、いつもの様に授業を終えると掃除をしていた。
「あーさこ」
そう言って、神楽が教室に顔を出した。
「ちょっと待っててね、掃除当番なのよ。あ、彼がバスケ部の幸喜ね」
そう言われて、幸喜は照れながら神楽に挨拶した。神楽はたまに帰り際に麻子を誘うので、幸喜も神楽の顔は知っていた。
「幸喜、練習試合って、何時からなの?」
「多分、5時半からかなー?相手チームがこっちについてから、少し練習するし」
「えー、まじー。時間まだ大分あるじゃん」
「練習から見てけば?」
「まぁ、いいや、神楽、私たちも時間まで部活に顔だそうか?」
麻子と神楽は名ばかりの写真部に週に二回くらい顔を出していた。それでも出席率のよいほうだった。週五日間丸々顔を出さない人もいれば、毎日いる人もいるのだが、写真はたまにしかやっておらず、殆どは遊びだった。
5時半近くになると神楽と麻子は体育館に向かって歩き出した。体育館の横に折り畳み式の観戦用のベンチがあるのだが、それが下りているのを二人は入学して以来初めて見た。
「わー、すっごーい。ねぇ、神楽すごくない?私初めて見たよ、このベンチが活用されているの」
「って言うか、私も初めてだってー。来てよかったじゃん」
「おまえら何はしゃいでるんだよ」と、言ったのは幸喜だった。幸喜は、教室で見る幸喜ではないような気がした。
「だって、いつもこのベンチ使ってないじゃん」
「え?俺らはよく使ってるよ、練習試合があるときはいつもね。それにバレー部とかも試合になればこれ使うし」
「だって、私初めてだもん。試合とか見に来るの」
冷たい軽い衝動。
控え室の扉が開くと麻子はそれに胸が鳴った。「え?」一馬に似たその少年は、確かにこの間の人。
「刈谷、駿」
やっぱり人がいつも思うほど言葉にはならなかったけれど、幸喜はそれを逃さなかった。
「え?羽鳥は、駿の事知ってるの?」
やっぱり刈谷駿だった。幸喜の問いはどうでもよかったが、それは確信だった。
「うん、ちょっとね。この間病院であったもん」
「そう言えば、駿のおふくろさん医者だったなー」
「かっこいいじゃん」と言って神楽が間を差すと、「駿!」と、幸喜がその人をこっちに呼んだ。
全くもって、この間と同じ目をしていた。
「駿、この間病院で会ったんだって?あ、同じクラスなんだよ。で、こっちが神楽さん」
「何で、さん付けなの、神楽でいいよ」と、神楽が言った。
「あ、神楽です。はじめまして」そう、駿に言ったのだけど、別に駿は「あぁ……」と軽く言っただけだった。
「こんにちは」麻子は少し見慣れたその顔にそう言った。
「こんにちは」
その反応に神楽は少しムスッとしたが、それだけで駿は他に何も話さずに、そのまま軽く体を動かしにコートの中に行ってしまった。
「あ、あいつ初対面弱いんだよ。まぁ、羽鳥は二回目だけどね。悪い奴じゃないよ」
ゲームが始まると私はそれまで何も興味のなかったバスケットボールに見とれていた。実際は刈谷駿が気になっただけかもしれなかったが、それに心を動かされたことには変わりない。
「麻子、また駿くん点決めたよ。二年生なのにすごいね、幸喜君も駿君も、レギュラーなんて」
神楽の言葉は、別に反応を示さなくてもよかった、神楽は興奮していた。
「あ、今俊君こっち見なかった?」
実際に目が合ったのは、麻子の方だったが、そんな事は言わなかった。
ゲームが終わると、以外にも負けてしまったが。貧差だった。聞くところによれば、相手チームは前回ベスト8まで行っている強豪だった。
麻子と神楽は試合が終わっても表で待っていた。
「負けちゃった」そう言って、少し照れて笑っていたのは幸喜だった。
「そんな事ないよ、頑張ってたよ。私知らなかったからねー、幸喜がこんなにもカッコよかったなんて」
「お、惚れたか?」
「そうかもね」
「え!まじ?」
「うん、俊君に」
間はあったものの、麻子は少し触れていた。幸喜も神楽も言葉がなくなった。
「でもね、俊君は一馬じゃないしねー」
麻子が笑うと、一瞬の沈黙も別に苦じゃなかった。
「一馬?」と、幸喜も神楽もほぼ同時にそう言った。
「幼馴染よ」
麻子が言った。
「家族」
一馬の母親がなくなって、葬儀中に一馬の行き先は決まった。弁護士の人がやって来て、僕に言う。「こんな席で悪いのだけれども」
高校に入って間も無くだったので、学校を変えるわけにもいかずに、一馬はこの地に留まりたいとも願っていた。血の繋がっている人達は殆ど会った事がなくって、この街からかなり遠いところに住んでいると言う。弁護士と言う人間が、本当に弁護士だったかどうかはわからない。おどけていた顔の中に、どこか冷たい目をしていたからだ。それでも一馬には余り選択権がなく、それに甘んじて一馬は温もりを求めた。麻子のおばさんも誘ってくれたのだけれど、一馬は「ありがとう」と、だけ言ってそれを断った。
「ただいま」一馬がそう言うと、玄関に一人の女性が現れた。
「お帰り、一馬君、もうすっかり元気そうね。久し振りの学校はどうだった?」
「一馬、ゲームしよー」そう言ったのは、まだ小学生くらいの女の子で、女性の後ろからひょっこり現れた。
「こら、秋、帰って来たらまずお帰りなさいでしょ」
秋と呼ばれた女の子はまだ小学生で、この家族の一人だった。女性は僕のお母さんと呼べる人で、でも実際にお母さんと呼んだことは一度もなかった。僕は本当は、生まれ育ったあの家を出るつもりなんてなかったけれど、だけど、まだ独りで生きていくには早すぎた。こう言う環境がまだまだ必要だった。身寄りのない事を武器とする悲しい衝動もあった。
僕は与えられた部屋に行くと、制服を脱いだ。六畳のごく普通の大きさの部屋にベッドがあって、机があって、多分それくらいだと思う。来た時に部屋にテレビがあったのだけれども、僕はそれを拒んだ。電波に犯されるのを嫌ったし、僕には会話が必要だったからだ。僕の友達と呼べる人間は少なくともまだ若さ故に社会に適合している人間が少なかった。それでも僕はどんな冷血なマスクをしてででもこの関係を崩したくなかったのだ。僕が退院して二日経った。毎日会いに行くと約束した朝子にも昨日は会いに行かなかった。僕のふやけてしまった体が普通の暮らしに急には合わなかった。僕は着替えると早速家を出た。秋に夕食後にゲームをすると約束して、それでも今日は朝子に会いたかった。
もうすっかり体がよくなったのか、個人部屋ではなくて、共同病棟の一室に朝子のベッドがあった。僕は今更会うのに手ぶらでもよいと考えたけれど、下の売店で一冊の本を手にすると、それを手土産にエレベーターに乗った。
朝子は寝ていた。
思春期の心を考えてか、朝子のベッドは窓際にあった。そこはよく世界が一望できる。どんな世界かは一様には言えないけれど街は色褪せてとても新しいものを必要としない有り触れたものだった。僕は朝子を起こすのが悪いと思って、その場所で一時外を眺めていた。生けてある花はまだかなり新しいもので、きっと誰かがここを訪れたのだろう。寝顔を見たり窓の外を眺めたりすることに飽きは来なかったが、それでも時間があって、僕は朝子に贈る本を読みはじめた。
「鮮緑の手の平」と言うその本は余り活字もなくページをめくる度に挿絵が入ってた。それは未成年に必要な絵本だったかもしれない。主人公は緑色の手をしていて、七本の指を持っていた。彼はたくさんの人を癒してきた。そして彼も恋をしてそれに酔う。だけど彼の彼女は余りにも癒されたために中毒患者になって死んじゃうんだ。彼はその自分の手が嫌いになって手を切り落とす。彼は少し神経過敏になっていたけれど、彼自身の神経は彼自身によって麻痺していた。彼は自分の手を土に埋めた。終に彼の心は麻痺してきて、彼自身もね、死んじゃうんだ。その土に埋めた彼の手から芽が出てやがてそれはすくすく育って、とても清い緑色をした「クサ」になったんだ。
僕は簡単にそれを読み終えると、あのとても僕を癒してくれるその煙を吸いたくなった。だけど、もうそれに頼らなくったって生きていける。吸いたい人は吸えばよい。誰かが勝手に規制しただけで、そこに心の隙間を埋めてもらうのに、クソもヘッタクレもない。僕が勝手にやめただけだから。
だいぶ陽が長くなってきたと言っても、もうそれを読み終えると薄暗くなってきた。朝子が目を覚ました。
「ん、あれ?あ、一馬…………ごめん、寝てた」
「あ、おはよう。昨日ごめんな、来れなかった。体だるくて俺も昨日は寝てた」そう言って僕が少し笑って言うと「いいよ」って朝子も少し笑って言った。
「あ、この本さ、手ぶらじゃ悪いと思って、もってきた。けど、今読んじゃったけど、癒されるどころか、虚しさが来たね」
「じゃー、それ読んで虚しくなったら、一馬が癒してよ」また笑った。僕は退院してから、一馬君ではなく一馬に変わった。何に怯えて、誰に強がっているのかわからなかったけれど、そう、きっとあの時から、あの人達からだろう。彼女は僕を必要としている。そして、僕は……………
「今日は帰るよ。じゃ、また来るからね」
僕は、「癒してよ」の返事をすることなく病室から出ていった。下まで送ると言われたが、ちょうどその時夕食が運ばれてきて、僕は断った。夕食を運んできた看護婦と目があったが、それに動じない様に普通に僕は出た。僕は、その看護婦と交わったことがあった。
家に帰ると、ちょうど夕食の時間で、秋が、「一馬遅いー」って、僕を少し急かした。僕が一度部屋に入って再び下に下りていくと、ちょうど玄関が開いて、「ただいま」ってその男性は言った。続けて僕を見て、「お帰り」とも言った。
「お帰りなさい。あ、昨日ずっと寝ていて会えなかったもので、まだただいまも何も言ってなかったですね」
男性はこの家の主で、そう、幼くして父親をなくした僕にとっては、とても大きな存在だった。最初は、どうやって触れていいものか分からなかったけれど、男と男だったから、別に大して気にしているよりもずっと普通に話せた。
「最近学校では何が流行ってるの?」
僕はテレビゲームの画面から目をそらすことなくそう秋に聞いた。
「うんとねー、動物占いとか、値段ゲームとか」
「なに?その値段ゲームとかって」
「うんとね、自分はどんなお仕事をしていくらお金を貰うとか、後お肉のお値段とかもあるんだよ」
「お肉って、自分のお肉?」
「そう、自分はお肉として、いくらで売れるか調べられるの」
僕は今の小学生が少し怖かった。だけれど、自分のお肉の値段というものに興味はある。僕は一体いくらなんだろう。きっと美味しいはずはなかった。その会話を聞いていた、お父さんやお母さんの反応は余りなかったけれども、果たしてそれでよかったのかも分からなかった。秋がお風呂に入ると僕は自室に戻った。溜まっていた宿題や課題に目を通そうと思ってカバンから出したのだけれど、余りの多さにやる気も失せてしまった。
「今日は美佳に会えなかったなぁ」僕はそんな事をいつしか考えてしまって、結局自分が会いに行こうとしなかったことが原因だと気付いて、仕方ないなぁって思った。明日は美佳のクラスを訪ねようと思う。お風呂から上がると、また色々な事を考えた。この冷蔵庫に冷やしてあるトマトジュースでさえ、僕にはとても貴重なものだった。僕一人では、今このトマトジュースを買う事すら出来ないのではないか。お母さんが残してくれた僅かなお金は僕が二十歳になるまでは手をつけてはいけない約束だった。国からの補助金と、この家族の温かさで僕は後少し育っていくのだ。
僕は次の日起きると学校に向かった。土曜日だと言うのに学校に行かなくてはいけないこの事実を誰かに分かって欲しかったのだけれども、事実僕の学校の生徒は全員登校する。仕方ない。僕はバスに乗ると、三原住宅の前を期待した。
「おはよう」僕が期待すると、美佳が乗ってきた。
「どうしたの?珍しいね」僕の普段乗るバスは経由が違うからここでこうして会うことすらないのに、それに余りに動じず、普通に喋る美佳は今朝も美佳だった。
「だって、別に一駅分歩けば、こっちのバスに乗れるんだから、珍しくもないだろ?」
「学校入ったばっかりの時は一緒だったけど途中から向こうのバスに変えちゃったでしょ。だから久し振りでなんとなくね」
「今日から、またこっちのバスに乗っていくよ。だから月曜日からもこの時間な」
「うん、わかったよ。ねぇ、そう言えば学校休んでた分の勉強大丈夫なの?」
「あぁ、昨日たくさんプリントとか貰ったけれど、あんまりわかんねーなー」
「今日昼で終わりでしょ?その後なんかある?」
「別に特にないけど」
「じゃー、一緒に帰ろう。お昼でも食べながら勉強しようよ。テスト近いしね」
僕は放課後、美佳とファミリーレストランに入ると、僅かながら一緒の時間を過ごしてそれから次の日の約束までした。時間で言うと三時くらいに僕は家に帰ってそれから病院に出かけた。朝子と少し話すと夕方過ぎには家に帰った。それから四人で夕食を食べに行った。僕は秋の手を繋いで秋のお父さんとお母さんの後ろ姿を見ながら歩いていた。
「日曜日」
「ねぇ、一馬君と朝子って付き合ってるの?」
僕はそんな質問に少し驚いた。人の恋愛に美佳が興味を示すとは思っていなかったからだ。
「別に付き合っているわけじゃないよ」
「でも昨日も会いに行ったんでしょ?」
「うん、行ったけど、何で知ってるの?」
「同じクラスの友達が昨日朝子に会いに行ったんだって、それでその話ししてたみたい」
「だって、入院って楽しくないからさ、同年代の友達出来たら楽しいじゃん。それで友達になって、普通に話したりするくらいだよ」
「そうなんだー」
「あのね、修学旅行の時の事覚えてる?」
一瞬の沈黙があったからかもしれないが、その言葉は僕の心臓を強く圧迫した。そしてそれを忘れるはずなんてなかった。
「うん、覚えてるよ」
「あれからちょうど二年くらい経つよね」
「そうだね、もうそんなになるのかー」
「ねぇ、何であの時逃げたの」
「あの時…………、あの時はさぁ………まだ……俺………」
その時またいつか見たあの光が頭の中に走って、僕は新幹線のトイレの中に美佳と二人でいる時の感覚を体験した。そして美佳の唇が僕の唇から離れると、またそこはいつもの世界だったけれど、だけど、また次の瞬間美佳は二度目の唇を僕の唇を押し当ててきた。僕はとても甘ったるいジェラードをスプーンも使わないでそれを一気に嘗め回すような不埒な感触で、美佳の舌を引き千切らないばかりにキスを深く深く、それでも海のそこは深いほどにそれを下へ下へ潜っていった。
また同じような光が襲ってきて、今度は知らないところへ飛んでいた。確かに目を開けると、僕とキスをしていたはずの美佳の顔が一瞬朝子に見えて、それでも懐かしさの余り今では体験できないほどの恐ろしい感覚に襲われるのであった。
唇をお互いにそらすと、僕は美佳の顔も目すら見ることも出来なくて、少し遠くを見ていた。どうしてだろう。
「美佳……」
「何?」
「何ってその………」
「もうこの二年って埋められないのかなぁ」
「どう言うこと?」
「私はね、一馬が好きだよ」
僕の事を一馬と呼んで、少し近くなった人間が、また一人増えた。
「俺も美佳のことが好きだよ」
「本当に?アサコは?」
僕は今一度押さえられなくなって、美佳の肩を抱くとそのまま美佳の言葉を制して押し倒した。僕は手首を少し噛むと、そのまま肩まで一気に嘗め上げて、どうしてこうなったか分からなくてもいいまま、僕は美佳の服を剥がした。
浅古美佳がその時初めて震えた。
僕はそれでもそれに構わず、男と言うことだけを利用して、そのまま美佳のスカートを捲り上げて、僕は手を入れた。少し湿った美佳のそこに手を触れると美佳が言った。
「ダメ」
僕はそのまま力を抜いて仰向けになって、大の時になって天井を見上げて無気力で目を開くと、そのまま少しボーッとした。そして、目を閉じると、ポケットの中から煙草を取り出して、おもむろにそれに火をつけた。煙草に火をつけて、その煙をはいて、はじめてこう聞いた。
「この部屋煙草吸っていいの?」
何の間も無く美佳が答えた。
「私にも一本ちょうだい」
僕はクシャクシャになったパックごとそれを渡して、「ライター中に入ってるから」って言って、美佳の手の平の上にそれを置いた。僕は手を伸ばすと窓を開けて部屋の空気を少し綺麗にした。そこに転がっていた、中身が半分以上入っている緑茶のペットボトルの中に灰を落とすと、横から一筋の煙が天井に向かって伸びるのが見えて、手馴れた女がいるもんだと思った。それでも彼女はまだバージンで、その表現の仕方が若者らしくないと思って、鼻で笑ってみた。
ぼくは最後の二センチくらいになった煙草を最後まで一気に吸い上げると、ペットボトルの中にそれを放り投げて、彼女の恥部に少し触れた右手の人差し指を自分の鼻の近くまで持って来て、匂いを嗅いだ。動物的な異臭と女性らしい異臭が僕の脳みその一番深いところまで届いて、そして僕は奮することなく萎えた。
「ごめんね、私…………、」
小声が聞こえてきたのは、美佳が煙草を吸い終えたのとほぼ同時で、僕はそれに対して、「俺が悪かった」などと本心でないにしろそう言った。
「一馬の気持ちとか何もわからなくって、それに私こう言ったの初めてだったし、それに…………、」
「もう、いいよ」
そんな、ひどい言葉かもしれない言葉を吐いたのに、美佳は僕の近くによって来てとても弱い少女の仕種を見せた。僕の胸の一部に溶け込んだ美佳は、もう犬や猫やそんな類の家庭用小動物で、それが一番人間味を見せたのは、髪の毛から漂った、人工的な匂いからだった。
「俺はさ、きっと今出会った身近な女の子も、少しでも運命的なものを感じると、それを恋だと勘違いしてしまう、未熟な動物なんだよ」
「どう言うこと?」
「俺はずっと、初めて美佳と出会って、それから初めは運命的なものだと勘違いして、美佳のことが好きだったんだよね。だけど、今は違う」
「何か、難しい事言ってるね」笑った震動が僕の皮膚に伝わった。
「俺は出会ってから、普通に美佳のことが好きなんだよ。だけど俺は美佳の気持ちなんて知らなかったじゃん。勝手に絶望覚えちゃったりして、それで、今回も入院中に朝子と出会ったり、僕の周りには、いつももう一人の麻子がいたりして、なんか勝手に気持ちの整理していた。僕は病院で出会った朝子の境遇を安く買ってしまっていたし、羽鳥の方だってあいつの気持ちわかっていながら、大人になれなかったり、だから、あいつの家にお世話になるもの避けたしね………」
「ねぇ、何一人で喋ってるの。で、本音は?」
「俺、美佳が好きだよ」僕はやっと、辿り着いたのかもしれなかった。さっきも同じ言葉達を吐いたけれど、それとは違った素直な気持ちだった。
「うん、ありがとう」
僕はその日、美佳を結局抱かなかった。無理強いもしなかったし、流れに任せてみようとも思う。それから同じバスに乗って学校へ向かう日々が始まった。
「セロリ」
駿は起きると顔を洗って歯を磨いた。亜沙子が朝食を用意して駿がテーブルに腰掛けると、駿が言った。
「母さん、納豆は僕のいないところで食べてよね」
「あらそう?もう慣れたと思ったんだけどねー」
亜沙子はメガネをかけると朝刊をじっくり眺めていった。駿はごく有り触れた日本の朝食を口にすると余り淡白にがっつかずにそれを静かに食した。食べ終わると「ごちそうさま」って静かに言って席を立った。駿は大きなスポーツバッグに下着とバスタオル、それに小さなタオル二枚を入れると、適当に勉強用具もその中に押し込んだ。制服に着替えると隣の部屋にいる亜沙子に声をかけた。
「母さん、ユニフォームは?」
「洗ってあるわよ。今日は何?試合があるの?」そう言って、タンスからユニフォームを取り出した。
「母さんこっちの色じゃなくて、白い方」
「白い方?あぁ、あるわよ。ちょっと待っててね」
白い方のユニフォームを受け取ると駿は「言ってきます」と言ってドアを開けた。
「試合頑張ってね」
亜沙子はそう言うと、「お洗濯日和ねー」なんて言いながら洗濯機から洗濯物を取り出して、ベランダに出た。
駿は玄関のドアを閉めると、五階から階段を一気に下まで走った。
幸喜はいつもの様にゴミを出しにいくと、そう言えば何時の間にかゴミ焼却所がなくなっているのに気が付いた。そうだよな、ゴミなんて勝手に燃やしたら空気を汚すだけだよな、何て思いながら体育館に向かって歩いた。体育館につくともうミーティングが始まっていた。相手の学校はまだ到着していなかったので軽く話し合いが終わると、基本的なことをして汗を流した。駿は綺麗になったユニフォームに着替えると控え室の扉を開いた。
不思議な軽い衝動。
駿はそこで少し前の記憶を辿る。たしか病院であの目を見た。
麻子が「こんにちは」と言うと、駿も「こんにちは」と言って、そのままコートの中に入っていった。
試合中、駿は麻子の方をたまに振りかえった。麻子の目を見ると空中を歩けそうな気がして、それでもその試合は負けてしまった。
家に帰ると駿は一人だった。亜沙子が朝ゆったりと時間を費やしていたことを考えると、今日の帰りは遅いと言う事だった。駿はシャワーを浴び終えて冷蔵庫のドアを開けた。缶ビールを取り出すと、それをごくごくと喉を活からせて飲んだ。テレビをつけると下らない番組が流れていたが、何も考えずにそれを見た。冷蔵庫からセロリを取り出すと、それに塩もマヨネーズも付けずに齧った。二本目の缶ビールを開けると、もう今度は喉なんて少しも鳴らなかった。
アルコールから来る喉の渇きにセロリが答えると、久し振りに駿はセロリが苦いって思った。
「ジュウナナサイ」
それから一馬は病院に向かった。あれから一週間が経って、僕の経過を見せに病院に顔を見せる。診察室に入って、僕はこの一週間にあった事などや、学校のことを話すと、刈谷先生はこう言った。
「あら、一馬君。明後日、誕生日ね」
「はい、そうなんですよ」
「おめでとう、一馬君も、もう十七歳ね」
「あ、ありがとうございます」
僕は少しずつ子供の殻を脱いでいくことになる一番微妙な歳に差しかかるのだ。そう、何もかもが不安定で、それでいて下手に知的で残虐的、誰かに何かを主張したくて、自分を犠牲にしてまで、それを遂げようとする。そう、人を殺してまで自分の興味を追及したり、少女を犯してまで得たい栄光。僕はジュウナナサイになる。
「特に何も問題はないわね。この分なら、後一回くらい顔を出してくれたら、もう病院に来なくてもいいわよ」
「じゃ、来週の今日ですか?」
「そうね、そうしましょう。では、また来週」
僕は診察室の扉をゆっくり静かにしめると、湿っぽい薬品の匂いの染み付いた廊下を、ゆっくりと歩いた。
朝子は遠くを見ていた。その、風そよがないカーテンのわきから、遠くを見ていた。
「朝子。どう?」
「うん、静かだねー、こうしていると。ねぇ、少し歩かない?」
僕が久し振りに顔を出したことに朝子は心を変えたりしなかった。病室を出るとお互いに余り大きな声では話さずにスリッパが床をシクシクとする音が大きなくらいで、それが耳につく頃には、屋上への階段を上りきり、空気を感じるところまで来た。
「聞いたよ。」
「何を?」
「美佳と付き合ってるんだって?友達が一昨日来て言ってた」
「あ、うん。付き合ってるよ」
一昨日と言えば、まだ美佳を抱きそこねた次の日だった。怖いくらいに女の情報網は素早く時に性格だった。
「私の気持ちは………」
「え?」
その時屋上の風がそこ一点に集中して、吹きさすものが吹き荒み朝子の白いワンピースが煽られて、体の曲線と言う人工的には作り出せない丸みを一枚の布の上からそれを現した。そして、だいぶ生き返った緑がかった艶の髪がその風と一緒に後ろへと走った。
「今の私にはね、一馬が必要だったのよ。だけどね、それに甘えちゃっていた自分もいたりして、それが好きだという感情だったりしたんだけれど、でもね、もう遅いみたい」
「あ…………、俺さー、ずっと美佳の事が好きだったんだよ。中学校の時初めて出会ってから、それからずっと」
「そっか……、」
一瞬だけ荒れた風だったけれど、それからと言うものは、全く穏やかなものだった。
「私もね、もうすぐ退院するんだ。そしたらね、同じ学校だし、また会うだろうね」
「退院か、おめでとう」
「ねぇ、勉強教えてよ。それだったら美佳も許してくれるでしょ?私、退院したらすぐにテストだから、全く授業に出てないからね。教えて欲しいことが山ほどあるし」
「うん、わかった。三人で勉強しようよ」
朝子の頭の中には、ある程度の知識が埋めこまれていた。そう、それは「思い出」として彼女の脳みそに息衝いている。
「ねぇ、そう言えば、一馬君誕生日もうすぐでしょ?」
「あ、うん………」
「おめでとう。十七歳だね。私なんて、十七歳の誕生日に気が付いたら病院のベッドの上だったから、ショックだったなー」
「そうだったね。朝子の方がお姉さんだ」
桐島加代子は車椅子のハンドルを握ると、そこに座っている老人のことなんて、どうせ長くないんだからとか、もうそんな事なんて眼中にないくらいに思って、屋上に立っていた。加代子はあの一馬の若さを思い出すたびに、またシタイって思っていた。一馬が入院中に何度となくこの屋上で、夜暗くなれば、欲望を確かめ合っていた。加代子の視線の先には、一馬と朝子が寄り添って話をしている。その光景に余り嫉妬はしなかったが、あんな朝子みたいなガキに優しさを使っている一馬にムカツいていた。
麻子はフライドチキンとワインを買うと大人になった気分がして、軽く笑った。待ち合わせた場所に行くと、もうそこには幸喜と神楽が待っていた。
「ごめん、待った?」
「全然待ってないよ」そう言ったのは幸喜だったが、神楽はこう言った。
「麻子、おそーい」
「神楽、ケーキは?」
「じゃーん、ほら」
「ビールもあるよ」そう言って幸喜はビールを見せてくれた。
夕陽も沈みかけると、三人はエレベーターに乗って一気に五階まで駆け上った。インターホンを押すと、十秒位して、ドアが開いた。
「誕生日おめでとう」
三人は、笑うことを絶やさずにそう言った。駿も一瞬笑ったように見えたが、それを余り見せないように、
「入れよ」そうやっていつもの様にクールを気取ってそう言った。
アルコールが感覚を麻痺させてくると、次第に駿の顔も緩んできた。
「飲みが足りないぞ、もっと飲め」
「飲むけどさー、つまみないの?」
「ん?ちょっと待ってろよ」
そう言って、駿は冷蔵庫のドアを開けて、水が張った冷えたグラスを取り出した。そこにはセロリが切ってあって、差してある。
「はいよ、つまみ」
「ってオマエ、これセロリじゃん。もっとなんかお菓子とかないのか?」
「美味いぞ、セロリ、ほら」そう言って、駿はそれをつまんで齧った。
「私セロリ好きー」そう言って神楽もそれを齧った。
「羽鳥は?セロリ好き?」そう聞いたのは、幸喜だった。
「私は………食べたことないの。それって匂いキツイでしょ?美味しいの?」
「ほら、食べてみなよ」
麻子はそれを恐る恐る手に取ると、匂いを嗅いでみて、齧った。
「どう?美味しいだろ?」
「うん、思ってたよりも、匂いきつくないし、それに水っぽくて美味しい」
「本当はもっと匂いきついけど、ちゃんと切って水に付けておけば、水分いっぱい含むし、シャキッとするから美味しくなるんだよ」
ワインを持って部屋を飛び出すと、公園まで歩いた。
「今年初めての花火だね」
四人は各々に花火を持って、それに彩られるように、囲んでしゃがんでいた。
ブランコが窮屈な音を立てると、もう大人になってしまった体には似合わないと言っているみたいで、風を拒みたかったが、それでも簡単に座って、隣同士で麻子と幸喜はブランコに座って、それをこいでいた。
「ねぇ、麻子、俺この間もう振られちゃったかもしれないけれどさー、俺麻子の事が好きだから」
それでも窮屈な音を立てるブランコは急に止まらずに、麻子もそれに答える。
「うん、幸喜の気持ちわかったよ。でもやっぱり、私には好きな人がいるからさ」
「それって、この間言った一馬ってやつだろ?」
「うん、よく名前覚えてたね」
「あのさ、こんなこと俺が言うのもどうかと思うんだけどさ、もうそいつには好きって言ったのか?」
「言った。うーん、言ってないのかな?いつも私が勝手に茶化しちゃって、うん、多分あいつには届いてないと思うよ」
「そうかー、うーん、一回ちゃんと言ってみれば?俺だってさ、こうやって麻子にちゃんと気持ち言ってさ、なんか、よかったって思うよ」
「今日ね、誕生日………」
「あ……うん……駿も十七かー、俺ももうすぐだなー」
「違うの、あいつも誕生日なの」
「あいつって、あいつ?そうなのかー、どうする?会いに行くか?」
バスに揺られるともう間も無く美佳の家の前まで来ていた。一馬は「後で」って言って、バスから降りていく美佳の後ろ姿を見ていた。ときめこう、もっともっと。帰るとそこには豪華な夕食の準備が整っていて、今更ながらこうやって祝ってもらうのを照れたりしたが、何かを満たすのには十分過ぎるほどのものだった。家族四人で食事を済ますと一馬はプレゼントを受け取った。お父さんとお母さんからはパソコンを貰った。そして秋からはスケッチブックにたくさん描かれた絵を貰った。その扉を開くとそこには一馬の絵が描いてあった。
「ありがとう」と、ありったけのお礼を言うと、一馬は別に普通に、「今から彼女に会いに行くから」と、言って玄関を出た。彼女がいるということを隠していることが今更恥ずかしいことで、それは本当にこの人が好きだからって素直に言えるのと一緒だった。
三原住宅の中にある公園のその横にある公衆電話から一馬は美佳の携帯電話に電話した。
間も無く美佳が下りて来て一馬は友達から借りたバイクに美佳を乗せて走り出した。何もいらないって感じられることが今の二人にとって一番良いとするならば、それが今の二人で、その気になれば、世界中の誰よりの二人は綺麗に死ねた。
一時間位下道でゆっくり走ると海に出た。そこは綺麗な海なんて呼べるようなところではなくて、大型の船が何艘も停泊していて、海はどす黒い色に見事にオイルとブレンドされていた。潮の匂いはするが、潮風は余り感じたくなかった。
二人はコンクリートを波打ち際に歩くと人を寄せ付けそうもない暗がりを見つけた。
「今年初めての花火だね」
何色にも変化するその色彩に二人の影も様々に変化をつけて、そして二人はしばしそれを眺めていた。
海洋公園のベンチに二人が腰掛けると、そこには同じような間隔に置かれたベンチにたくさんの同じ目的を持ったツガイの動物達がたくさんいた。
「これ、プレゼント」
「え?まじ?開けていい?」
「いいよ」
一馬は日本人らしからぬスピードでそのリボンをちぎった。中には何の変哲もないどこでも売っているようなインスタントの使い捨てカメラが入っていた。
「カメラ?」
「言いたい事わかる?」
「なんとなくは……」
「ちょっとそれはやり過ぎだね、恥ずかしいや、やっぱり」そう言って、美佳は微笑んだ。
「はい、本当はこっち」そう言って、美佳は別に普通にチューイングガムをポケットから出すようにそれを出してそれを渡した。
「ピアス?」
「オソロイなんだよ。私も付けてるよ、ほら」そう言って、美佳は髪をかきあげてその小さくて白い耳を見せてくれた。そこに同じものがついていた。
「でも、俺穴開いてないよ」
「開ければいいじゃん」美佳はそう簡単に言った。
「それもそうだな」一馬も簡単に言った。
そこで一枚写真を撮ってみた。その暗闇には余りにも強烈だったフラッシュに周りにいた人達も一瞬気を持って行かれただろう。
そのフラッシュで一馬の中に見えたものは、自分が余りにも朽ち果てた姿だった。
麻子は一馬の家に電話をすると、「彼女に会いに行った」と言う言葉が頭の中でぐるぐる回って止まらなかった。何故か自然と朝子が気になって病院までとぼとぼと一人歩いていた。
朝子は久し振りの自宅でシャワーを浴びていた。誰にも言わないで静かに退院していた。学校に行く事の恐怖が少しずつ朝子の頭の中にあった。
亜沙子は白衣を脱ぐとバスケットシューズの入った紙袋を持って病院を出た。駿のジュウナナサイを祝おうと足取りを上げる。病院の門をくぐると、そこにダンボール箱には入っていなかったが、路頭に迷った子猫がいた。それは麻子だった。
「あれ?一馬君と一緒にいた子でしょ?どうしたの、こんな所で」
「わからないんですけど、何故ここにいるか、あのー、朝子さんは?」
「彼女なら今日退院したけど、どうかしたの?」
「あの、一馬を探しているんです。今日誕生日なんですけどね、彼の。それで、一馬の家に電話したら彼女に会いに行くって、それで……、」
「で、朝子さんを探しに」
亜沙子はそれを把握するとそれの対処に少し困った。
「私帰ります。あ、今日駿君と一緒でしたよ。私彼と同じ学校なんですよ。それで仲良くなって今日誕生日だったから……」
「あら、それはありがとうね。あの、お名前伺ってよろしかった?」
「羽鳥麻子です」
「あら、あなたもアサコって言うの?偶然かしらねー。私もアサコって言うのよ」
「あ、それじゃー、私帰りますので。駿君によろしくと、あと途中で帰ってごめんなさいって伝えておいてもらえますか」
「あなたお酒飲んでるでしょ?私も一緒に帰るわ。途中まで乗っていきなさいよ」
そう言って、亜沙子はタクシーを止めた。
浅古美佳はシャワーを浴び終えると、そっと一馬の待つベッドの横に立った。恥らうことよりも芸術的に曲線を生かして、そこでいきなりバスタオルを払いのけた。美佳の裸体は薄暗いその部屋で自然に美しかった。
美佳は一馬を受け入れた。一馬は美佳と果てた。体温が妙に落ち着いた。
どれ程そうしていただろうか、まだ美香の陰部は刺激的に熱くて少し痛みを覚えていた。二人は錆びれたモーテルを出ると来た道をバイクで走った。どれだけスピードを出せば頭の中が白くなって、理由なんて要らなくなるんだろうか。生きてるって思えることが心地よかった、そんな気もする。
すでに部屋で独りぼっちになっていた駿は突然頭痛を覚えた。トイレに駆け込むと体内に取り込んだ異物を全て吐いた。すごく体が冷たくなって、胸騒ぎが止まらなかった。駿は飲み過ぎたのかとも考えたが、そうではなかった。そして、次の瞬間駿は完全に意識を失ってその場に倒れた。
一馬の耳に聞こえたのは何だか懐かしい声だった。大破したバイクの車輪がカラカラと音を立ててまだ回っていると、一馬の血はアスファルトに吸われるばかりだった。
「一馬、一馬、か……ず……ま……か…ず……、」そこで一馬の心臓は完全に停止して、脳みそは酸素呼吸を止めた。
一馬はそこで朽ち果てた。
美佳は一馬の全てが停止すると、一馬の名前を呼ぶのをやめた。後はただその場で泣き叫ぶだけだった。そしてすぐに赤い回転灯が近づいてきて、一馬と美佳を乗せると走り出した。美佳は軽症だった。体は宙を舞ったけれど、ガードレールは一馬の体を止めただけで美佳の体は無視した。そして道沿いの丁寧に植えてある木がクッションとなって助かった。血は出ていたけれど、かすり傷だった。心というものが、勝手に美佳の涙腺を緩めた。
ジュウナナサイと言う時を誰かクダサイ。
「つぼみ」
秋の才能は次第に開花されていた。白い紙に全く黒いだけの鉛筆で色々なものを描く。秋は学校の帰り道に、そこに落ちていたカエルの死体を頭の中に記憶した。そんな若いハートの中にそれは少し黒ずんでいたけれど、それでも想像力を羽ばたかせるには、それが必要だった。
秋はカンペンケースを開けるとその内側が黒鉛によってかなり汚れているのを見た。だけどそれは、くすんでいなくちゃいけないものだった。
スケッチブックを取り出すと、秋はおもむろに人の輪郭を適当に描いた。どうしてだろうか、髪の毛のように綺麗な糸のような線を幾本も引いていくと、それに命が吹きこまれたかのように呼吸をはじめる。単純に秋は一馬のことが好きだった。それは恋心なんかじゃなくて、身近な温かいものとして、秋は一馬のことが好きだった。
「一馬、誕生日オメデトー、これね、秋が描いたの、一馬にあげる」
「あ、俺じゃん」一馬は扉を開くと、そこに自分が描かれていることがすぐにわかった。次のページを捲ると、一馬は不思議に思った。
「秋、これは何?」
「それね、カエルさん。ペチャンコだったよ、口から変なもの出てたもん」
死と言うものを芸術の一環と気付くのには、秋にはまだ早過ぎた。それでも秋の描くものは斬新だったけれど、とても神秘的だった。
「スパイ」
亜沙子が大きな紙袋を抱えて部屋を出ていくと、気配が完全に消えたのを確かめて、桐島加代子はその部屋に忍び込んだ。
「何これ?」
加代子は作っておいた亜沙子の全てのカギを順番に確かめてその金庫に差しこんでいくと、それは簡単に開いた。そしてそこにあるものを確かめた。古いレポート用紙の束。
「ほんと、何これ?」
人工創造物。神への冒涜。感情の売買。悲劇の双生児。子宮の攪乱。老人の戯言。真っ二つに割られた果実。繋いだ幸せ。
右の子には科学的作用によって電流を生じさせた。
左の子には渦巻き状に曲がった弾力のある鋼鉄をとりつけた。
「どう言うこと?」
愚かなる事は賢い事だった。
細胞が目を覚ますと脳みそとは別の所で会話をはじめた。
「リセット」
勝手に時間が流れていくと、一馬の死は確実になっていた。
美佳は病院の天井を見上げてもう使い物にならなかった。
朝子は悲報を聞くとただ悲しむだけだった。
麻子は一馬の面影を探そうとすでに空き家になってしまっていたその家をボーっと眺めていた。
亜沙子は一人安置所の片隅に立つと、遠くからその亡骸を見ていた。
私のプログラムには何の誤作動もなかった…………、はず。
アサコはおもむろにリセットボタンを押すと、そのビジョンは一瞬にして崩れて一度無になった。そして再び動き出す。
「今年初めての花火だね」
と、一馬は笑って言った。
「ニュース」
最初の一突きは躊躇ったが、一度刺してしまえば後は同じだった。そして唖然とすると、あの感触がまた手に蘇ってきた。
死肉を食らうと舌がうねる。
ムスメがジュウナナサイの誕生日の時、余りにもそれがかわいくて、胸を一刺しした。人形と化したムスメは白目を剥いたまま体を揺さぶられていた。死姦は初めてじゃなかったがこれ以上に心地よいものはない。そして再高級のお肉を食す。その味ときたら舌がうねる。
ムスメのお肉に値段なんてつけられない。
判決が下った、死刑。そして無期懲役。
あぁ、一体何人、人を殺して、何人食らっただろうか。やっぱり私の罪は重かっただろうか。肉体をこの世から消されても、こうしてまだ生かされている。あぁ、私の脳は一体いつその機能を止めるのだろうか。
もうだいぶ時が経ってしまった。何が残っただろう。たくさんの汚れた「思い出」?
「オモテ」
「母さん、調子はどう?」そう、駿が訪ねた。
「うん、最高よ」そう、亜沙子が答えた。
「そりゃ、そうだよ。人気商品だからね。一馬と朝子は」
「あなたは最高傑作よ。母さんお腹をいためてよかったと思ってるもの」
「でも、すごいよ母さん。僕のクローンを培養する時点で性転換までしちゃって。朝子が生まれて来る度に思うよ、かわいい子だって」
「何言ってるのよ。あなたそのもののクローンも最高よ。一馬と駿には感謝してるわ」
「今回の一馬もいい仕上がりなんでしょ?」
「そうね。でも一度だけ問題が生じたわ」
「どうかしたの?」
「ウラでね、一馬死んじゃったのよ。でも大丈夫、やり直したわ」
「やりなおす必要はあったの?」
「劇的に終われたらしいんだけれどね、それでもあいつは納得してなかったみたい。絶対に有り得なかったはずなんだけれどね、彼のプログラミングにミスなんて」
「ミスって?」
「今回の要望は一馬の死じゃなくって、依頼主の死ですって。変わってるわ、自殺したいだなんて。願望は願望で、自分一人では死ねない。結局怖いのよ、無に返るって事は、だから弱った金持ちどもはそこに自分を置き換える」
「今回の以来は?どんな鬼畜だった?」
「麻子って言う人なんだけれどね、商品への希望は「儚き恋」ですって、あれは相当変態ね」
「ふーん、まるで維新後の文豪だね、それは」
「もうすぐ完成らしいわよ。そう、浅古が言っていたもの」
「すごかったんでしょ?あの人の過去」
「あれほど悪趣味な奴もいないね。だって、今回は殺したムスメまで商品の脳に刷り込んでるらしいわよ。でも、頭は切れるわ」
「自分のムスメまで?母さんは僕を殺したりしないよね?」
「当たり前でしょ。ねぇ、駿、愛しているわ」
「僕もだよ、お母さん」
駿は亜沙子のアナルの中で果てると、また一から嘗め直した。
麻子は化粧室から出るとまたその椅子に着席した。
「シェフに全てお任せするわ」
そう言って、貸しきりの店内を見渡した。「少々お時間が掛かります」と言われたので、もう一度化粧室へと向かった。
ガーターベルトの少し上の自前の肌にその注射針を打ちこむと麻子は一瞬ビジョンを揺らした。そしてピンクローターを膣の中に入れるとスイッチを入れた。そしてそのまま素知らぬ顔でまた椅子に戻ると、その時間を堪能した。
前菜が出てくると、もう麻子の涎は止まらなかった。
美佳は父親と二人でジュウナナサイの誕生日を祝っていた。早くに母親をなくして父親と二人で暮らしていた。
美佳は父親の虐待を許していた。それが娘の勤めだと思って。でもそれは間違っていた。
「ダメ」
美佳がそう言ったのはパンティーに手が入ってきたからだった。それに逆上したのか興奮したのか、父親は止まることを知らなかった。実のムスメを殺すつもりなんてなかった。それは大事にしたかった。だけど美佳がケーキを切るためにそこに置いてあった包丁を手にしたとたん、父親の糸は切れた。
「懐かしい」
脳みそだけになってしまった美佳の父親は思い出が唯一の楽しみだった。他にすることと言ったら、考えることと、商品を飼育することくらい。だから「思い出」に浸るのだ。考えたって未来は空しいのだから。
「成虫」
「もしもし、うん、今帰ってきた。で、何だった?」
「あー、別に。あんた今日誕生日でしょ?だから、おめでとうって言おうと思って」
「ありがとう」
「ねぇ、さっき聞いたんだけどさ、彼女に会いに行くって、ねぇ、あんたあの朝子って言うこと付き合ってるの?」
「は?違うよ。俺、今、美佳と付き合ってるんだ」
「うそ!そっか……よかったじゃん」
麻子は、それが自分でも本心じゃないって事がわかっていた。
「がんばってね。じゃー、また、うん、じゃー」
麻子はいとも簡単にプログラム通りになった。儚くその恋は終わった。
麻子はその足で踏み切りの中で泣いていると、大きな塊に襲われた。そして麻子も大きな塊になった。
「それね、カエルさん。ペチャンコだったよ、口から変なもの出てたもん」
そして一馬はレストランに運ばれた。
「登校」
朝子は学校に着くとまだ自分の机が残っているのが不思議な感覚で、その席に恐る恐る座ってみた。
「大丈夫だ、何も変わらない」
こうして見ると、人が溢れてその中で生活をすると言うことはそんなに難しいことじゃないってわかった。
「おはよう」そう、声をかけてきたのは美佳だった。
「おはよう、やっと学校にも戻れたし、がんばらなくっちゃ」
「ねぇ、朝子、そう言えば一馬君とどうなったの?」
「どうなったって、よくわかんないかな」
「付き合ってるんでしょ?」
「多分………でもね、まだ私が退院してから、一回も会ってないから、どうしようかなって」
「大丈夫よ、彼はあぁ見えても優しさを間違えたりしない」
二時間目、実験室への移動のために朝子と美佳は一馬の教室の前を通った。そして、一馬は視線に気が付くと席を立ってこちらに出向いてきた。
「朝子、それに美佳も、あ、うん、今日の昼になって訪ねようと思って」
一馬はこの状況がクラスのみんなに見られていることに気が付くと、
「お昼一緒に食べないか?うん、屋上で待っているから」
そう言うと、朝子は頷いて、美佳と一緒に廊下の端に消えた。一馬が話し終わると、どう見ても一瞬静かだった教室が、またいつものザワメキに変わった。
「ごめん、待たせちゃったね」そう言ったの朝子だった。僕は屋上のドアが開くのと同時に後ろを見て、それを確認した。
「あ、俺も今来たところだよ。って言うか、もし来てくれなかったらどうしようかと思って」
一変して遠くを見た。
「退院してからさ、何回も会おうと思ったんだけれど、やっぱりさ、電話とかも掛けづらかったし、ごめんね、本当に」
「うん、もういいよ。今こうして話をしているじゃん」
「何か、とても曖昧な自分がいてさ、それってすごく朝子に迷惑を掛けていると思って、ちゃんと話してなかったよね、お互いに」
「私の気持ちは…………、」
その時、少し強かった風達のザワメキが一瞬ワルツを忘れてしまった踊り子のように、悲しく止まった。
「好きだよ、朝子の事」
「え?」
また風は同じように単調なワルツで、その軽快なステップを踏んでいた。軽く朝子の軽い髪の毛を後ろにそらしていた。
「え?って、やっぱりこう言うのは、俺から言わないとね」
「私ね……、」
「え?ひょっとして俺のフライング?勘違いしてたの?」
「違うよ、何だか勝手に嬉しがりやになっていただけ」
「何?嬉しがりやって」一馬はそう言っておどけて見せた。朝子も同じように下唇を少し噛んで口の中にある全ての空気を吸いこんで、そんな目で一馬を見た。そして、二人普通に笑った。
「保管された自律神経」
「彼は生前とても頭の切れる男だったよ」
「理想じゃないですか?」
「それでもね、頭の切れる奴ほど、常識の中では満足できないことが多いんだ」
「例えばどんな?」
「人肉を食らう」
「それは………それは動物的でよろしいんじゃないですか?生存競争には最も適していると思いますが」
「まだまだ彼には未知な所がたくさんあってね、私が何故彼の精神鑑定にまわされたのかが納得したよ」
「適役ではないですか」
「君も気付いたね。そう、彼は遺伝子学上必要な人間だ。もっとも、御国の考えている事の方がエゲツナイけれどね。だけれど、彼自身ではダメなんだよ。彼の遺伝子にもっと必要な事を入れていかなくては。だから君にお願いしたいんだ」
「はい、喜んで」
「君は体を提供してくれればいい、全て卵子から私が組み上げるから」
「全てお任せします。私はただ成功をお祈りするだけです」
「これが成功すれば、この国の経済もあがるだろうよ。腐った小金を持ち余った変態野郎共がきっとこれに群がる。人の興味は、人なんだよ」
「で、彼に必要なものって…………、」
「下らない言葉で君を笑わせてみようか。それはね、「愛」だよ」
「教授、それって本気ですか?」
「笑わないんだね」
「笑って見せましょうか?」
「君は適任だ。君も……、君にもきっと、それが必要だったかもしれないね」
「じゃぁ、私にも頂けますか?その愛ってやつを」
「それは欲だよ、アサコ」
「こんにちは、はじめまして、あのー、会話できます?」
「誰だ」
「あら、話せるんですね。私、教授の助手をさせていただいている、アサコと申します」
「そう、その助手さんが、何の用だ?」
「この度ですね、あなたの子供を産むことになりました」
「子供?」
「はい、もっともあなたの子供と言っても、あなたの遺伝子の一部を頂くだけですけどね」
「人間と言うやつらは、恐ろしいやつらだな。何でも思い通りにしてしまう、それに多少代償がつき物でも」
「あなたも自我に勝てなかった人でしょ?じゃぁ、お相子ね」
「ふん、勝手にすればいいじゃないか、もう私には、何の選択権もないのだから。私はじっと罪を償うだけ。ここにこうして日々思考を強いられるのだ。苦痛?どうだろう、もうそんな事考えている時は過ぎてしまったかな」
「あら、以外と喋るのね。もっと精神の弱った人かと思っていたのに」
「そんな弱いやからなら、とっくにここにこうして脳みそとして残っていないだろうな。私は切れるやつで食えないやつだよ。もっとも人は食ったがな。でもそれは、趣味の一環だ。普通に人間が誰かとセックスを欲のためにしているのと何ら変わりない」
「教授が納得した理由がわかりましたよ」
「なぁ、頼まれてくれないか?」
「何を?」
「事故を起こして欲しい」
「事故?」
「そうだ、私を眠らせてくれないか、そう二度と目を覚まさないように、綺麗な子守唄で」
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「どうだね、出産後の気分は?」
「抱きたくなるのが、心境の変化でしょうか?母親として目覚めたのかもしれません」
「もうすぐ会えるよ」
「はい、何だか…………」
「男の子には一馬と、女の子には朝子と」
「一馬と、朝子」
「女の子は、君と同じ名前だ。そして男の子は僕と同じ名前だ」
「何だか不思議な感じです」
「不思議、よい言葉だよ。人はそうやって探求心を強めていく。それと、もうすぐ会えるが、抱かない方がいい。人の感情は移入しやすい」
「そうですね、そう言えば、そうですよ」
「追憶」
私はいつも一人でブランコをこいでいた。みんなが帰った後も私は一人で待っていた。楽しそうにあの小さな笑顔達はとても透明だった。
お父さんが来た。
「おーい、美佳、ごめん遅くなったよ」
「パパ、遅いー」
「じゃー、お詫びに、美佳の好きなものを食べに行こうかー」
「んとね、私ケーキが食べたい。たくさんイチゴが乗っていて、まるでお誕生ケーキみたいなの」
「じゃー、それはお誕生日までとっておこうね。今日は小さいケーキでも買っていこうか」
「うん、ありがとう、パパ」
「パパ、おめでとう、よかったね、すごいじゃない、賞を取れるなんて」
「ありがとう、美佳」
「パパの作品は難しくて私にはまだわからないけれど、パパの書く物語はいろんな人達に誉めてもらったんだよね」
「そうだよ、パパ、がんばったんだから」
「ねぇ、今度遊園地に行きたい」
「そうだな、パパも少し時間が取れそうだ」
「お仕事のほうは、忙しいの?」
「もうね、時間に追われなくていいんだよ、パパは認められたんだから」
授賞式の二ヶ月後、全ての本が回収された。余りにも自殺志願者が増えすぎたために。
私は恋をしている。そんな窓際の独り言だった。もう体つきも女性として成る頃、心も次第に女性に成って行く。
彼は私のことをキレイなものと誤解している。私はそんなにキレイじゃない。
イチゴのショートケーキ食べたいな。
やがて夜になるともっと冷めた黒いものが押し寄せてくる。私が寝静まると、いろいろな所に手が伸びてくる。
一度堕落した人間は、その先も堕落したままだ。
彼に悩みを言うと、彼はそのまま消えていった。
私はその後一人呟いた。
「生まれ変わったら……………」
遺書を書き終えると、私はそれを茶封筒に入れた。
死ぬ前にまたあのイチゴのケーキが食べられる。
今日で私もジュウナナサイ。
短かったな、私の生きてきた路。
それを投函すると、空虚感が胸を襲った。
ロウソクの火を消すと小さな明かりばかりになって、そこはとても暗いところに思えた。
アルコールがパパの心を鈍らせると、私はパパを逆上させた。
予定は狂ったが、予定は未定。
それでも私は死んだ。
キレイに死ねたかしら。
一度堕落した人間は、その先も堕落したままだ。
「生まれ変わったら………………」
遺書が届くと、パパは泣いていた。
遺書を破り捨てると、その足で自首した。
「パパ、この記憶を私に刷り込むのは卑怯よ」
一馬が死んでリセットをする直前、飼育係は自分のムスメにいたずらをした。美佳はその時も哀願した。
「生まれ変わったら…………、」
「果実」
その木に実が成ると、それは人の手によって故意的に真っ二つに割られた。
一馬と朝子は通りに逆らって繁殖された。
教授は、一馬と朝子を基に駿と言う商品を造った。
亜沙子の一部的な記憶を削ると、亜沙子は駿を息子と認めた。
何の感情もなく、一馬と朝子を商品として売るようになった。
悲しいサガか、亜沙子は次第に狂っていった。
ブレインキーパーとして、たくさんのアサコをラインに並べた。
遺伝子、臓器、愛玩具、行き先は知らなくてもよかった。
果実はその時を待って熟せばよい。
あの時の由美ちゃんの記憶は、実は君なんだよ。
そう言えば、亜沙子と言う商品も、あったかな………………
「道徳分解」
「ねぇ、そう言えばさ、この間病院で会った時に、美佳に聞きたい事あったんだよねー」と、麻子が言った。
「なに?」
「これって、私の勝手な解釈だけど、美佳ってさ、本当は一馬の事好きなんじゃないかって」
「え?今更?」
「そう、今更」
「だって、一馬君ね、今朝子と付き合ってるのよ、あの一緒の病院だった」
「え?そうなの?」
飼育係は同時進行で、商品の創作に念を押していた。麻子が自殺すれば、麻子はまた何もなかったように話し出す。そこの記憶を少し触ってやれば、そう、また違うストーリーが出来あがるのだ。次の依頼商品は朝子だった。商品に希望するものは…………
犇めき合う時間の中で確立した時間が現れる。僕達は二十歳を迎えた。
「お、駿、かっこいいじゃん」そう声をかけたのは一馬だった。続いて、麻子が顔を現した。
「一馬、変わってないじゃん、それに比べ、朝子はやっぱり、きれいじゃん」そう、相変わらず、麻子が毒舌した。
この二組の恋人達は、実に久し振りに出会う。あれから一年と半年を最後の制服姿と決めて、はしゃいでいた。
「そう言えば、美佳は?」そう、麻子が訪ねた。
「うーん、なかなか連絡取れなくってさ、でもこっちには帰って来てるって聞いたんだけど」
「そっか、じゃー、家にかけてみようかな、いるかもしれないね」そう言って、麻子は携帯電話を取り出して、表に出ていった。
成人式の二次会を地元の旧友達と時間を取らなかったのは、そこに大して思い出がなかったからだった。あの一年半には、とても数え切れないほどのドラマが生まれた。でも、高校を卒業すると、時間や場所的になかなか時間を取ることが出来なくなっていた。
麻子が戻ってきた。
「家にいたよ、来るって、やっぱり家にはいづらいみたい」
「そっか、じゃー先に乾杯しようぜ」
「なぁ、一馬は最近どうだ?」そう聞いたのは、駿だった。
「どう?って、あの頃と何ら変わっていないよ。ただどうだろう、周りの人達は少なからず遠のいていったかな、それでもそこに持ち合わせたものは、昔では想像もつかないほど大きなものだと思うよ」
「俺さー、大学入って、バスケをもっとやりたかったけどね、残念だよ」
「は?バスケ辞めたの、オマエ。だってバスケ推薦じゃなかったのか?」
「NBAの選手とかって、すごくきれいに打つだろ?ゴールを心地よい音を立てて一気にネットを触るんだよ。それはどこから生まれてくると思う?」
「どこって、俺はよくバスケのことは分からないけどさ」
「手首と、ひざだよ」
「オマエ、まさか」
「だけど、後悔よりは、むしろ笑いが止まらなくて、何て言うんだろ、愛する人と愛される人を同時に失ったみたいだ」
「幸喜は?」
「あいつは続けてるよ、バスケ。実業団で、もうあいつはルーキーでエースだよ」
「そうか、もう一度見たかったんだけれどなー、オマエ達二人でバスケしている姿…………、」
その横で二人のアサコがまた、お互いの時間を埋めていた。
「朝子、専門どう?楽しい?」
「楽しい?って言われたらわからないな、ただ、自分が好きなことをやっているから、それも楽しいと思えるんだと思うよ。麻は?」
「私はねー、とりわけこんな男っぽい正確だから、どうも本当の女の子とか表現するのが苦手で、でも今回の役は最前線に出られるし、チャンスだと思ってやらなくちゃね、この間、招待状届いたでしょ?ほんと、見に来てよね」
朝子は人を世話する仕事のために、麻子は自分をもっとも表現できる舞台の上に。
「ごめん、お待たせー」
そう、器用に明るく入ってきたのは美佳だった。
「お、久し振りー、帰って来たなら連絡しろよー」そう、一馬が言った。
「ごめん、ごめん、昨日帰ってきたばっかりだからさー」そう、美佳が言った。
「でも、何で帰ってきたなら、成人式でなかったんだ?」そう、駿が問う。
「出ようと思ったんだけどね、あんまり友達いないし、まぁ、いいかな?って思って、でも別にいいじゃん、こうして今会いたい人達には会えるんだし」
「それもそうかー、まぁ、いっか」そう、麻子が言った。
「あれ?神楽は?」
「あの子ねー、今留学してるよ、その内ふらーっと帰ってくるわよ。あの子はそう言う子なの」そう麻子が言ったのは、少し強がりたかったからだった。
「ちなみに、幸喜はバスケの遠征で、結局間に合わなかったって」そう、駿が言った。
そう、みんなが話しているのに、朝子だけ一人口を紡いでいた。別に、美佳と仲が悪いわけじゃなくて、単に静かな性格だった。
馴れ合い?違う。慰め合いだ。
「手紙」
僕は弁護士に連れていかれると、銀行の奥の方へ案内された。そう、何枚も鉄の扉をくぐって。
「さぁ、これが君のカギだよ」
僕はそう言うと、弁護士からカギを貰った。指定されたその錠を開けると、中から一通の手紙が出てきた。
「手紙?母さんから?」
「多分、そうだろうね、君には…………とくにかく読んでみなさい」
「母さんからの手紙、しかし今になって………」
僕はとにかく手紙を読んだ。
「一馬、これを見ているということは、あなたももう大人になったということですね?
お母さんの突然の死、悲しかったでしょうね。でもね、私、本当は生きているの。そう、見えないところでね、あら、難しい話だったかしら。
私、罪を償っているの、きっと今の私をあなたが見れば、言葉もないでしょう。
私、取り返しの付かないことをしてしまった。一度の過ちだと思ったら、それが二度三度。
皆、あなたに死なれては困る人達ばかり。だって、あなたが目を覚ましたら…………、
どこかできっと、また会えるわね。その時まで。 朝来由美」
「朝来、由美?」
「君のお母さんの旧姓だ」
静かに弁護士が言った。
「全然意味わからないよ、なんだよ、一体この手紙は」
「君のお母さんは、この世の創造主だ。もちろん、私も君のお母さんによって生まれた。肉体なんかない、脳みそだよ、脳みそ」
「何を言っているんですか?どうすれば、一体」
「君はこの世界が好きか?」
「好きも何も、この世界のほかに何があるって言うんです」
「本当の世界だよ」
「何を馬鹿げたことを。この手紙もあなたが仕組んだのではないのですか、そうだよ、絶対におかしいさ」
「君のあの部屋に行ってみなさい。そこに行けばわかるから」
「何が?」
「何かが…………」
「忘れ物」
懐かしいままにその部屋は昔のままだった。だけど、一つ違ったことと言えば、何やら変な椅子が置いてある。記憶にはないものだ。
その当時と何ら変わらない。柱の傷だって、壁の汚れだって、これだって全て嘘だと言うのだろうか。
僕はその不慣れな椅子に腰を掛けてみた。と、突然そこから幾本もの奇妙なコードがたくさん伸びてきて、僕の心地よさをさらに出してくれた。
僕はそのまま眠った。
あれ?朝子じゃないか、何をしているんだ。僕だよ、気が付かないのか。どこだ、病院。僕?あれ?赤ん坊?朝子、隣のベッドに朝子がいる?籠原、うん。僕じゃないか、でも、朝子まで…………籠原?誰?お父さん?母さんのことをアサコと呼んだ………………教授?僕の父さん?
美佳?誕生日?あれ?今確かに血が溢れてきて…………誰だ、この男の人は、ん?見ちゃいられない。ヤメロ、ヤメロ、美佳はもう絶命しているじゃないか。美佳は汚れてなんかいない。汚させない。あ、汚れた?汚れたね、今、確かに。あ、豪華なディナーだ。そんな姿になってまで、あれ?キレイ?今、僕はキレイだって思った。もう、動かないのにね。
誰だろう?この人は。麻子か?それにしても、いつ麻子はこんなにも大人になったのだろう。もう、子供じゃない。紅を引く麻子。それは、クスリ?ダメだよ、チューシャしちゃー。それは、そんなに慰めたいのか、麻子。あれ?この料理?僕?本当に、僕?麻子、そんな目で、僕を食べないでくれ。これ、夢?なんだ?僕はどこに?
駿、君は、僕とどこか似ている。先生?刈谷亜沙子先生?あれ?親子じゃないのか?どこを嘗め合っているんだ?君達は親子だろ?変だよ、みんな変だよ。どうにかして……、あ、誰だ?この少女は?あ、まるで動かないじゃないか。それを遠くから笑ってみているのは?誰?この女の子。あ、確か見たことある、古いアルバム、あ、母さんの若い頃?じゃ、この亡骸は、誰?
あれ?屋上?あ、僕は善がっている。君も、善がっている。君?君って誰だ?君、あ、君が溶け出したよ、君?あ、君、こんな姿に。
こんなものが残った?脳みそ?これって、本当に脳みそ?なんだよ、脳みそって、こんなものは、僕には………ねぇ、これ、夢でしょ?
誰か、夢なら起こして…………、誰か……、
「開眼」
ここは?あれ?とても冷たい。
何だか音が聞こえる。僕、目が覚めたのか?
あれ?よく見えないよ。ここは?ここには…………
あ、少しずつ目が慣れてきた。
何かが、たくさん見える。ここは、本当にどこだろう。
あ、足音………誰か来る?誰?ねぇ、僕の声が聞こえる?
「一馬、おはよう」
あ、母さんだ。なんだ、やっぱり夢か、そうだよね。学校に行かなくちゃ。
あ、ここは………
でも、母さんだ……………
「母さん、おはよう、ここはどこ?」
「ここはね、工場よ」
「何の?」
「そうね、それは、あなたのよ」
「僕?何を言っているの?」
そこにはたくさんの僕が並んでいた。そこは、やっぱり僕を作る工場だった。
「ここにいるあなた達は、全部人工的に作らせたものよ、でもあなたは違うわ」
「僕は違うって、どう言うこと?」
「あなたは、あなたのオリジナルよ。他は全てコピー」
「じゃー、僕は………でも、でも、何故僕は眠っていたの?」
「何故って、母さんも今まで眠っていたからよ、故意的にね」
「誰かの仕業って事?」
「そう、籠原一馬、これを作った人よ」
「籠原、一馬?それは僕じゃないね、あの、教授と呼ばれていた人?」
「そうね、そうよ。そして、彼は死んでしまった。」
「そして、目覚めたと……、」
「もうすぐ朝子も目覚めるわ、一馬、あなたの妹よ」
「段々わかってきたよ。ここに来る間や、色々なところで見たから。多分、あの光がそうだと思う。そして、ここの一番上のブレインと言うものも」
「彼は犯罪者。まだ腐らずに生きているかしら。彼を解放するはずだったのにね、もうこんな馬鹿げたことはお終いだわ。でも、あれからだいぶ時が経ってしまったわ」
「朝子は?朝子に会えるんでしょ?」
「そうね、朝子に会いに行きましょうか…」
「裸足」
朝子はキレイなものだった。まるで透き通ったカプセルの中の微粒子。それの集合体だった。朝子の体が少し濡れているのはその時だけで、瞬く間に髪の毛の先から先まで乾いていった。肌が少し橙色に変わっていって、そこに新しい息吹でも吹きこまれたかのようだった。
「おはよう、朝子、母さんよ」そう、母さんはまるで人口物かのように、感情も薄くそう言った。
「おはよう、母さん、ここは、どこ?」そう、朝子が言った。まるで何も知らない赤ん坊のようだった。
「朝子?朝子、僕だよ」そう、一馬が言った。
「誰?あ……、誰だった?」そう言って、朝子は何故か足が覚束なくてその場でよろけた。彼女は全裸だった。
「朝子、彼はあなたのお兄ちゃんよ」
「お兄ちゃん?あれ?でも、一馬…………一馬は私の大切な…………」
「まだ不安定だわ、この子。記憶が定まっていない」
僕は朝子にその場にあったシーツを掛けると、朝子は少しそれを怖がった。びくついた体がなお弱そうで、それは僕に怯えているばかりでなく、今まで僕と朝子が作り上げてきたものを壊すかのようだった。まるで、この朝子は僕との思い出がない。そうだよ、僕達の思い出は擬似体験が全てだ。あの脳みそ野郎が作り上げてきたものと、悪戯のように入れてきたどこか不思議な本当の記憶。そして、それを僕達に完全に把握させないのが、彼の狙いだったのかもしれない。
僕達三人は、奥の方へ進んだ。
「久し振りね」
「本当に、あれからまた長い年月を強いられたよ」
「お変わりないようね」
「そちらこそ、あれから少しも変わっていない。君だけ老体化を防いでいたんだね」
「あの人が哀れだったわ。彼は生命を全うしたもの、そして欲も使い果たした」
「彼はきっとひしひしと自分の罪を感じていたんだよ。そして償ってもいた」
「私にはそうも思えないわ、彼は本当に子供のように遊んでいただけよ」
「そして、君に委ねられたと言うことかな?彼自身の手では、やはり私を終わらせることは出来なかった」
「似た者同士、そう言ったところかしら」
「ははっ、全く彼とは違うよ。僕のほうが正常だったよ。彼は全くの異常者だ、そう世界を変えてしまうほどのね」
「あなたはまだ望んでいるの?それとも………」
「そうだな、そろそろ頃合だ。あれからもう二十年だよ」
「そうね、終わらせましょう。もうこんなことは……、」
「母さん?一体回りの世界はどうなっているの?」
「興味ある?」
「うん、知りたい」
「何もないわ」
「何も?どう言うこと?」
「生命として息衝いているのは、私達だけって言うこと。後は感情を持たないもの達ちばかりよ。後はここに並んでいる、脳みそばかり」
「どうして?」
「もう、この星は終わりなの。この星の半分はもう何も機能していないわ。それで、感情を持って生まれたものは何を考える?」
「さぁ……」
「この先に、何もないことを知ると、希望を失ったわ。そして……」
「簡単に思い出を手に入れようと?」
「さぁ、そうだったかもね」
「人って脆いんだね」
「絶滅した動物は何で、絶滅したと思う?」
「さぁ、何でだろう」
「ただ著しく弱い……」
「じゃー、これを終わらせたら、僕達はどうなるの?」
「そうね、死んでしまうか、新しい時を待つだけね」
「新しい時?」
「もう、この星は使い物にならないわ。だからリセットするのよ。また愚かなる時が来るまで、ひたすらこの大地は耐えるのよ。でもそれは本の一瞬よ。そこには時間なんて無意味だからね」
「私は、帰りたい。あの頃が夢だって言うなら、それもいいわ。私は、そう、あそこに帰るのよ」
そう言ったのは朝子だった。もう何もかもが可笑しいかの様に、その周りの風景を見ていた。
「そうだな、朝子の言う通りだ。僕も帰るよ。続きは二人でやってくれればいい。そして勝手に夢の中で殺してくれれば構わない」
「そうね、何かにつけて馬鹿げているわよ、もう何もかも還そう」
「だけど君には役目がある、その二人は帰っても構わない、私ももう疲れた」
「そうね、そう、早く終わらせましょうか」
「食事」
屈託もなく消して色褪せたりなんかしない、そんな写真なんてあるだろうか。老廃物が織り成す悲痛な感情だって、僕の血液には少なからず必要だ。そして、それはやがて脳みその中を駆けずり回って、そして僕の一部となって、何かに伝わる。君にも届く?僕のこの感情が…………
「雪降らないねー」
「そう簡単にクリスマスだからって降ったりしないよ、ドラマじゃないんだから、あ、でも、朝子はまだ子供だからな、そう、お願いしたりして、うん、きっと降るよ」
「ちょっとー、一馬、今、子供扱いしたでしょ?ただ、降ったらいいなーって、乙女の感情って言うの?わかんないのー?」
「乙女ねー、何を言ってるんだか」
僕達は、クリスマスイヴを祝おうとそのモミの木に洋服を着せていた。
「やっぱり、一馬、このケーキは大きすぎたんじゃないの?二人だよ、どうやって食べるの?一馬、だって、甘いもの嫌いじゃない」
「まぁ、いいじゃん、一年に何個も食べるわけじゃないだろ、せいぜい、誕生日かクリスマスだけだよ」
「ねぇ、ライターある?」
一馬はライターでそのケーキのローソクを灯すと部屋を暗くして、そう言えば、何の歌を歌えばいいのか忘れていた。それでも、気の利いた音楽がかけたくて、よく歌詞のわからないクリスマスソングを鼻歌で歌った。そして、ローストチキンを、オーブンの余熱で時間をかけて、温め直すと、それを二人で齧りながら、シャンパンを飲んだ。
そして、今夜はね、やっぱり二人でベッドの中で愛し合うと思っていたんだよ。だって、そりゃー、クリスマスイヴだからね、恋人達の日なんて、勝手に決めちゃったからね、誰かが。
朝子は僕にまたがると、ただ激しく腰を動かしていた。その音は部屋中に響いて、そして、その音しか聞こえない。僕は、そのうち顔を緩まして、そして果てたいと願った。朝子がわずかに声を出している。そして下から朝子の顔を見上げていると、朝子はなんて動物的な顔をするんだろうと思う。そして………僕が、「出る」って言った瞬間、全てがとまった。
勝手に殺してくれて構わないって言ったのは、僕だったよ。確かにね。だけど、もう少し待ってくれてもよかったんじゃなかったのかなー。おい、脳みそ、聞こえるか?もう、心臓止まっちゃったよ。
あ、こんなドロドロした死に方、あ、騙されちゃったかな?欲を見せたものが負け?そうだった、こうやって、僕みたいな商品が完成していくんだ。僕に希望するのは何だったのかなー。それとも、これは朝子が希望商品だったのかな?あれ?何で、こんなこと考えているんだろう。さっきまでこんなこと思い出せなかったのに。
僕はそこから自分の亡骸を見てこう思った。なんだ、結構キレイじゃん。あ、隣で朝子も死んでらぁ。
「崩れ去るもの」
朝来は最後に祈った。そう、確かに商品は希望通りに終わった。
「何だか、№2052も№1547もあっけなかったな」
「そうね、こんなものよ、所詮人は楽な方へ行ってしまう。まぁ、それはいいわ。で、どうする?」
「そうだなー、やっぱりもう眠たい」
「そうね、じゃー、またどこかで会いましょう、おやすみ」
そして、その長年の罪を償うと、その脳みそは消化された。簡単なものは、簡単でよい。
「さて、そろそろ目を覚ましたら、ねぇ、教授」
「何故君は、私を休ませない」
「あら、あなたが言えた義理かしら」
「私に何を償えと」
「そうね、私達の時間をまた、やりなおそうかと思って」
「それは、商品への希望と言うやつだね」
「そうよ、私の希望する商品は、そうねー、これがいいわ」
「ふんっ、アサコか、それもそうだな、君には一番似合っている、だって、それは君自身なんだろ?」
「そう、いつかやりなおそうと思ってね、あの日から、あなたが愛をくれないって言ったあの日から…………、」
「同窓会」
「あら、アサコ、久し振りね」
「アサコこそ、相変わらず」
「遅れてごめん、あら、アサコ達、どうしたのニコニコしちゃって」
「アサコこそ、何だか嬉しそうじゃない」
「アサコは?」
「もうすぐ来るんじゃない?」
「そっか、アサコも本当に久し振りね」
そのテーブルに思い思いの懐かしさが吹き溜まると、そこに食材が運び込まれてきた。
あら、お久し振り、一馬、あら、美味しそうね、一馬君。
「アサコ」はそれに満足すると惜しみなく笑った。
「暮らし」
母はずっとこうして目を閉じたまま、もう後は死ぬのを待つだけだろう。
僕は病院の片隅で、老けていくだけでは、ここまで青白く変色することはないだろうと考えていた。母は本当にやさしい人だった。
僕は、何も聞こえないはずの母に、「また明日も来るから」と、そう言って病室を出た。
病室を出たところで、担当の看護婦さんと出会い軽く頭を下げてそのまま俯いて、二十メートルほどの廊下をスリッパの音を軽く立てて歩いた。
そこから靴に履き替えて、病院を出ていくと、何とも言えないような空のオレンジ色が、段々濃くなってきて、そして闇が迫ってくる。
今日は、ムスメの誕生日だ。イチゴのケーキが好きだったって言ってたよな。僕は、駅前のケーキ屋さんに立ち寄ると、お誕生日用の白いイチゴのケーキを買った。そして、大事そうにそれを抱えると、家まで歩いて帰った。
家に帰ると、妻と娘が出迎えてくれた。僕はただ、味気もなく「ただいま」と、言った。そこには、美味しそうなローストチキンが並んでいた。
息子が帰ってくると、僕は「手を洗ってきなさい」と、言ってそのまま新聞をただ見ていた。ムスメに食事の支度ができたと言われると、そのまま台所に行って、テーブルに腰掛けた。そして、ロウソクに火が灯ると、ムスメはこの上ない笑顔を見せた。それがたまらなく嬉しかった。ビンビールが妻の手によって傾けられると、僕は手にグラスを持って、それに答えた。微笑ましいどこにでもある家庭だった。
息子はもう僕の背を追い越してしまって、何時の間にか見上げるような形になった。度々彼女を家まで連れてくるが、それはいつも僕が家に居ない時だった。息子との会話は余りなかったけれど、男の子なんだから、それも仕方ないと思って、それでも分かり合えるのだからそれでいいと思う。一度家族で、息子のバスケットボールの試合を見に行ったことがあるが、それがあのいつもの息子とは思えないほど、輝いていた。何かに夢中ならそれで親は嬉しいのだ。
ムスメも、今日でジュウナナサイだ。知らず知らずのうちに大人になっていくのを僕は気が付かないでいた。いや、それは気がつかない振りをしていただけかもしれない。門限などで限り或る時を制御してしまうのは下らないことだ。ムスメを信じている。僕もそう、思春期の頃、いくらでも過ちを犯したものだ。ただ、深く傷つかなければ、それでいい。娘の絵画コンクールに出向いた時は、嫌がるどころかとても喜んでいた。年頃にしては、父親と言うものを疎外しない、テレビの中で深く傷ついているあんな家庭ではないのだ。
妻とは恋愛結婚だった。普通に恋をして、普通に恋を覚えた。雪が降れば、それだけで二人ではしゃいだ夜もあった。僕達の世代と言うものを、余り越えないで、それに従いながら、時を過ごしてきただろう。口に出して言うことはないが、素直に言える言葉もたくさんあって、それでもなかなか顔を見て言うことがない。「愛しています」だとか、「ありがとう」とか、そう言った言葉だ。うん、感謝しているよ。
僕は自室に戻るとコンピューターを開いて、執筆にまた夢中になった。さて、次はどんな物語を書こうか。この古びたゆりかごのような椅子に座ると、僕は落ち着く。自殺願望のない物書きなんて、この世の中に存在するのだろうか。
「なぁ、アサコ、君を自虐的に愛してもいいだろうか?」
そう、僕は呟いた。