沈黙の詩人達・6



「謝らなくていいよ。名前、間違ってないし....」
「よかった。『アオイ』さん黙ったままだったから、私てっきり....」

 そんな彼女に、俺は頭上を見上げてありのまま話し始めた。

「あんたの事を思い出そうとしてたんだ。でも、正直思い出せなかった」

 冷たい言い方だったかも知れない。
 だけど、俺にはそれしか言えなかった。

「そうですか。でも、しかたないですよね。思い出そうとしても、思い出せない事ってたくさんありますよね。だから、しかたないです....」

 そう言う、彼女の声は言葉とは裏腹に、とても淋しそうだった。
 自分の存在を相手に忘れられてしまった時の心の痛みは、きっと想像を遥かに越えるに違いない。
 もし今、詩織やあの時の仲間達が、俺の存在を忘れてしまっているとしたら....
 そう考えただけで胸の奥が焼ける様に熱くなる。
 そして、そう思った俺の口から思わぬ言葉が出てきたんだ。

「前に聞いたかもしれないけど、もう一度あんたの名前を教えてくれないか?」
「えっ?」

 彼女はとても驚いた様子だった。
 俺はもう一度ゆっくり言った。

「だから、あんたの名前をもう一度聞きたいんだけど....いいか?」

 返事はすぐには返ってこなかった。
 俺はただじっと、黙って待ち続ける。
 やがて、恥ずかしそうに彼女がその口を開いてくれた。

「....私の名前は『ミヅキ』です。深い月と書いて『深月』と読みます。ところで、『アオイ』さんって、どう書くのですか?」
「えっ?俺?....俺は、向日葵の最後の文字を取って、『葵』だけど....」

 俺はそう答えながら、ぼんやりと考えていた。
 ー深月?前に聞いた事のある気がするけど....一体どこで?
 記憶というものは曖昧で、何かを思い出そうとする時、小さないくつものカケラが目の前にバラバラになって現れる事がある。
 その度、散らばったカケラを拾い集めながら、パズルの様に組み立てていかなければならない。
 うまく組み合わさるものもあれば、全く合わないものもあり、記憶はその深さ大きさに関係なく、どれもが穴だらけの未完成のパズルなんだ。
 そして今、俺の中で散乱しているパズルのピースの中に、深月に関するものは一つも見つからない。
 俺は深月を知っているはずなのに、その記憶だけがなぜか抜け落ちているんだ。
 それは、とても不思議な感覚だった....

「葵さんは、今いくつなんですか?」
「十七だよ」
「あっ、私も十七ですよ。来年の二月には十八になってしまいますけど....」

 その後も深月は俺にいろいろと聞いてきた。
 彼女は自分の部屋に戻る気なんて、全くないようだ。
 時間が経つにつれ、空気の冷たさもどんどん増していく。
 俺は微かに震えながら、楽しそうに話を続ける深月に聞いた。

「寒くないのか?それと、どうして深月は真冬のこんな夜更けに、一人でこんなところにいたんだ?」
「それは....それより、葵さんこそ何かあったんですか?」
「ん?」

 俺は予期せぬ質問返しに、軽く戸惑った。

「さきほど何かを叫んでいたみたいなので....」

 ーあっ!そう言えば....
 俺は、顔がどんどん熱を帯び、赤くなっていくのを感じた。
 穴があったら入りたいとは、まさにこのことだ。

「あっ、ごめんなさい。私、聞くつもりは全然なかったんですけど....」

 ーでも、聞いたんだろ!って俺は正直、叫びたかった。
 けど、そこはじっと我慢して、一言だけ告げる。

「別にいいけど....でも、一応聞かなかった事にしてくれるか?いろいろあってさ、不安にかられてつい口走っただけだしさ....」

 なんか言い訳くさく聞こえるけど、この際しょうがない。
 俺の頭は恥ずかしさとなにやらで、パンク寸前だったんだ。

「それに、誰だってそういう時はあるだろ....ん?」

 長々と言い訳を言い続けていた俺は、ふと何かに気付き声を潜め、耳を澄ましてみた。
 ーん?
 頭上から微かに笑い声が聞こえてくる。
 そう、笑い声の主はもちろん、深月だった。
 必死に声を押しころしているようだが、まるで意味がない。
 俺は一瞬ムカッとしたが、深月の優しい笑い声を聞いている内に怒る気をなくしてしまっていた。




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