prologue.



 僕等は何を見て美しいと感じるのだろう
 僕等は何を見て幸せと思うのだろう
 正しいものに目を向けないで
 どうして大人に姿を変える?
 あの時流した涙も
 あの時交わした笑顔さえも忘れて
 残ったほんの微かな思い出だけを頼りに
 未だ知ることの許されない道を
 宛もなくただ歩き続けていく
 僕等は何を見て悲しみを覚えるのだろう
 僕等は何を見て....







 声が聞こえる....
 十二月の真夜中。
 そんな気がして俺はベランダに踊り出た。
 すると途端に、外の冷たい風が容赦無く暴れす。
 それはまるで俺の想いを嘲笑うかの様だった。
 たまらず俺は身を震わせ、ただその場に立ち尽くす。
 風は勢いを増し一向に治まる気配などなかった。
 俺は一心に耐えた。
 凍てつく風の冷たさからも、暗闇に立たずむ絶望の影からも。
 俺は怯む気など一切なかった。
 一体何がそうさせるのか?
 答えは明白だった。

『もう一度アイツのウタが聞きたい....』

 そう、それだけの為に俺は温もりを捨て、凍える冷たさの中へ身を投げ出したんだ。
 悪戯な風が何度も鼻先をかすめては、遥か彼方へと消えていく。
 俺はそんな風の行方を目で追いながら、ふと夜空を見上げていた。
 月が視界に飛び込む。
 それも全く欠ける事なく真の姿をあらわにした大きな満月が。
 俺は束の間、その月の姿に見入ってしまっていた。
 冬の空気のせいだろう、月の輪郭ははっきりと見え、その内側から溢れる透明な光が漆黒の闇夜を違う世界へと変えていた。
 それはまるで、底知れぬ井戸の奥で蛍の光を目にする様に。
 俺は胸に込み上げる、懐かしさと淋しさを同時に感じていた。

「アイツのウタは、もう二度と聞けないのか?」

 それは自然に出てきた言葉だった。
 そして、疑い様のない事実なのだろうと感じた。
 連日の雨によって激流と化した川の様に、淋しさがあらゆる感情を飲み込み。
 土砂が流れ出て濁流と化した川の様に、飲み込んだ全てのものを一色に染めあげていく。
 俺は今にも崩れてしまいそうだった。

『負けないで、私達は強い。信じれば、どんな事だって叶うの。だから....』

 どこからか聞こえてきた声に、俺は顔を上げる。
 懐かしい声。
 絶対に忘れるはずのない声。
 俺は何も考えずに叫んだ。

「深月!深月なのか?」

 だが、返事はいくら待っても、聞こえてこなかった。
 幻聴...いや、そうじゃない。
 俺は自分にそう言いきかせると、深月の言葉を信じ続ける事にした。

「いくらだって、待ってやる。俺は深月と約束したんだ。それを叶えるその日までは....」

 さっきまでは身を強ばらせていた夜風も、今では何だか心地良い。
 俺は再び月を見上げ、自信に満ちた声でこう告げた。

「深月とは必ずまた会える。俺がそう信じ続ける限り、希望は絶対に絶えたりしない」

 月はそんな俺に微笑むかの様に、光を強めて答えてくれた。
 そして、風も穏やかさを取り戻し、月の傍らで俺を不思議そうに見ていた。
 そんな気がした....
 淋しさや悩みは人の記憶を後退させる。
 例えばあの時ああすれば良かったとか、あの時あれさえしなければ良かったとか、だけど俺達は過ぎた今だからこそ、こう思うはずだ。

『あの時の問題は、今だからこそ答えを知る事が出来るんだ。きっと、あの時にはああするしか他なかった....』

 そして、最後にこう思う。
『過去にどんな過ちを犯そうとも、俺達は嫌でも今を進み続けていく。だから、変えられない過去なんかほっといて、今変えられる何かを探し出せばいい。それは、誰にだって見つかる。なぜなら、俺達は過去の自分ほど弱くはないのだから....』


 俺は遠い日の様な、それでいて昨日の様にも思える、微々たる数々 の記憶を頭の片隅から引っ張り出そうとしていた。
 それは、美しい月との思い出でもあり、一人の悲しい詩人との思い出でもあり、少女の面影を残した大切な友達との思い出でもあった。
 冷たい空気に包まれた真夜中のベランダを舞台にした、短い物語。
 風が止み、月は輝きを増し、そして誰もがしばしの沈黙を約束する。
 そう、そんな夜だった。
 深月と初めて会ったのは....
 そして俺は、耳を澄ませ、ゆっくりと瞼を閉じた。
 再びあのウタを耳にする為に。
 ベランダという名の、特別な客席で....