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双葉社、1600円。
『御老女滝山の語るものがたり』と、最初に記されている通り、タイトルは『天璋院敬子』ではあるが、滝山の視点から描かれたものである。
御老女とは、政治表舞台の老中にも匹敵するほどの、大奥での役職であり、13代将軍家定時代の御老女歌橋から、滝山へと手渡されて以来、徳川幕府終焉となる江戸城開城までの30数年間の大奥物語といえる。
天璋院敬子は、島津家の一族である島津忠剛の娘であったが、将軍入輿のため、藩主島津斉彬の養女となり、さらに近衛忠熙の養女となったのち、篤姫と名を改め、将軍家定と1856年(安政3)12月に婚礼が行われ、将軍の御台所となった。
これは将軍家定の継嗣に、一橋慶喜をたてようとする島津斉彬ら幕政改革派の布石として実現されたものであった。
斉彬の命を帯びた西郷隆盛は、このため薩摩出身の篤姫付女中頭幾島らを通じて篤姫にも呼びかけたが、大奥はもちろんのこと、紀州の徳川慶福を擁立する紀州派の反対によって実現せずに終わってしまう。
このあたりの政治的駆け引きの表と裏が、滝山と幾島との心の通い合い、或いは探り合いを通じて、丹念に描かれている。
1858年(安政5)7月に斉彬が、そしてわずか1年7ヶ月の結婚生活に終止符を打たれ、8月に夫家定が亡くなり、薙髪し、天璋院と称した。
その後の、和宮降嫁で起こるさまざまな確執への心遣いや、1868年(明治元)徳川家の危機打開に対し、一命を賭して徳川家の存続と将軍慶喜の救命嘆願など、家定・家茂と相次ぐ将軍死去の合間、見事に大奥を束ねる姿が淡々とした筆致で描かれている。
6百有余年続いた武家政治の、最後を見届けた御老女が語る、もう一つの歴史物語。(2001.10.19)