「 日本人はクリスマスを祝えるのか? 」 

1. 初めに

平成13年度の正月もそろそろ終わる頃である。21世紀は、昨年のニューミレニアムに比べひっそりと明けた。この「日本人はクリスマスを祝えるか?」という仰々しい表題は、クリスマスやお正月を何気なく過ごしている我々の行動を少し離れて見てみよう、という試みに発している。そもそも21世紀やニューミレニアムなどは日本暦(ちなみに平成13年は2661年)と異なるのだが、師走に掛けて世界中で使われている数々の暦において、お祭りが集中している。クリスマス、お正月などが代表的な例である。
日本では12月に入るとクリスマスを祝うイルミネーションが飾られる。また、1月元旦には、随神の道の伝統行事である初詣や初日の出がとり行われる。こうした暦に依らず時期的に集中した祭祀達は催される。これらの行動に対して「日本人はキリスト教徒でないのだから、祝うのはおかしい」という意見がある。一方で、キリスト教の中でも、聖書のみを重視する宗派は祝わない。「宗教とは行動様式である」という社会学的な格言に照らせば、日本人の行動は宗教的態度の1つの集約と見れるであろう。ただしそれは、宗教原理に深入りせずに社会学的観点からの集約である。
以上のようにクリスマスと初詣の関係や行動様式を参考にしながら、「日本人はクリスマスを祝えるのか?」という問題に1つの解答を与えていきたい。

2. クリスマスとは

クリスマスはご存知のように、「イエス・キリストの誕生日」を祝う日である。欧州では家族が集い晩餐を共にするのを習慣としている。対して日本では年末の大売り出しや、その他商業ベースに乗っかった行事が先行しているように見受けられる。このように形態が異なるのが伝統や風俗などの差異によるのだが、根元において「イエス・キリストの誕生日」であることには変わりがない。この点を重視すると、キリスト教徒でない日本人が祝うことへの反論が出てくるし、根拠のある論と言える。
さらに、クリスマスの内容を見てみたい。クリスマスのお飾りといえば、もみの木に装飾を貼り付である。また、クリスマスのプレゼントを持ってくるのはサンタクロースで、彼は北欧に住んでいる。もみの木、サンタクロースはどちらも北欧に存在している。イエス・キリストは砂漠地帯のイスラエルの生まれたのだが、その様式といえば、まったく関連のない北欧の祭儀形式を使用している。これはキリスト教が欧州に布教する際に、土着の祭祀を吸収しながら発展していったなごりであると言われている。
元来、イエス・キリストの誕生日は、旧約・新約聖書の中や、その他の古文書に一切、記述がない。だから、聖書を非常に重要視するキリスト教の宗派は、先の北欧の関連と共にクリスマスを祝わないのである。これが、クリスマスの大まかな特徴である。


3. クリスマスと初詣

では、何故、12月25日が「イエス・キリストの誕生日」に決定したのだろうか。「1.初めに」で挙げたように、社会学的な行動様式に留意して述べていく。
北欧では、白夜の現象からわかるように、非常に太陽に対して敏感である。同様に太陽が少ないロシアでも、短い夏の間に日光浴を盛んに心掛けるように太陽は大切なものである。そもそも、太陽の日照時間が最も短くなるのが冬至である。平成12年では12月23日前後であった。冬至を境に太陽が徐々に照ってくるのだから、北欧で冬至は非常に重要な祭りとなるのは理解できる所である。それゆえ、キリスト教がキリスト教に全く関係のない土着の祭儀を邪教として滅ぼそうとしても、撃滅できなかったのである。キリスト教、特にローマカトリックは現地の祭儀を内包することによって、現在のクリスマスの形態を作り上げた。
つまり、現在の「イエス・キリストの誕生日」=クリスマスという図式は、北欧の祭儀の導入とキリストの誕生日の記述がないことから、本来のキリスト教の宗教的原義とは無関係といえる。クリスマスを祝うようになったのは、あくまでもキリスト教的な宗教的原義ではなく、自然な生活サイクルから来る「習俗」なのである。
こうした生活サイクルの自然性から来るというのをもう少し見ていこう。クリスマスのように冬至を重要視する傾向は、北欧以外にもある。逆に地球上の殆どの地域で見られる方向性と言い直おしても良いくらいである。例えば異大陸に発展したマヤ文明では太陽暦を採用していて、1年間の運行は360日+5日であった。この「+5日」というのは、太陽のエネルギーが弱くなる時期を指しており、エネルギー充填のために人間の心臓が必要となるとの考えを表している。エネルギー補充のための生け贄として、人間を殺して心臓をえぐり出し、捧げたのである。マヤ文明のこうした太陽の捉え方から、生け贄の祭儀も冬至前後に行われたのは想像に難くない。また、キリスト教の原型であったユダヤ教でも、「ハヌカ」(火の意味)という最大のお祭りが冬至前後にある。7本の蝋燭を1つの燭台に燃やし続けるお祭りである。この時、家族などで集まって聖書を読むという。ただし、これは現代イスラエル人の風習で、古代から当の通りであるとは言い難い。しかし、冬至前後に光を重要視するお祭りが、長く行われてきたのは事実であろう。
自然宗教である随神の道の初詣もまた、原型が「地域の社(やしろ)に夜遅くから翌朝までこもったこと」である。随神の道の中心的な神が太陽神なのを振返ると、社で初日の出を拝むのと、初詣が一連の祭儀であったのは容易に推測される。マヤ文明のように人間の影響をどの程度まで見積もるかは別としても、太陽に対する、特に冬至に対する祭儀であったのは、初詣が初日の出を拝むことで完結するのを見て、明らかだろう。
つまり、日照時間の増大に対する祭儀は、地域や宗教によらず存在していたのだ。その1つのバージョンがクリスマスであり、初詣や初日の出である。現代日本では初日の出と初詣が現在では分化しているし、クリスマスも「キリスト教」と「北欧の土着の習俗」が融合しているなどの相違点はあるが、元来の自然的な生活サイクルの意味である「太陽の再生」は動いていない。ゆえに西欧暦やユダヤ暦や日本暦など、暦と暦との違いや後天的な理由によって形態は変化しているが、現在でも時期的にほぼ同時期に行なわれている。
このようにクリスマスはキリスト教の原義とは本質的に関わりのないお祭りである。生活サイクルと結びついた「習俗」と言えるだろう。そして、自然に対する恐れなどを基本として原典のない自然宗教の初詣や初日の出も、同様の「習俗」なのである。
以上のように、クリスマスと初詣や初日の出は「習俗」に位置づけられる。


4. 「日本人はクリスマスを祝えるのか?」

クリスマスと初詣、初日の出の原義は、「習俗」という点で同一であった。この点から考えると、日本人でも、クリスマスを祝えることになる。なぜなら、「習俗」は、そもそも儀式の面白さ、あるいは雰囲気などを味わうものだからである。例えばこれは、キリスト教であるか否かなど、最初に述べた宗教的な理由では反論しえない。それは、クリスマスの中にサンタやもみの木が入っているように、クリスマスという祭儀は、元来の宗教的原義ではなく人々の生活サイクルを吸収する形で起こったという理由からであり、後から「イエス・キリストの誕生日」と決めたように、元来、イエス・キリストの誕生日ではないからである。だから、逆に整然としたキリスト教徒は、クリスマスを祝わないのである。それゆえ、宗教的な態度、宗旨などに関わらずクリスマスは祝えるのである。
また、キリスト教内にあっても宗教的原義や「習俗」を厳密に区別しない人々が、クリスマスを祝う。クリスマスの現実的なその意味は、欧州においてクリスマスも元旦も家族がそろっての会食を重要視するように、「太陽の再生」と同時に「家族の再生」を見ているためである。そして家族と共に会食し、家族の絆を強める意味合いがあるから、欧州のクリスマスと日本のお正月は過ごし方が非常に似ているのであろう。自然宗教の元来の宗教的意義である「人々の願い」であり、「願い」を吸収したものがこの自然宗教的祭儀となると言えるだろう。冬至を祝うという自然宗教的祭儀が、地域を超えて広く見られるのは生活サイクルが地域に依らないことと、人間が集団の絆を必要としているというのが原因であろう。
つまり、キリスト教のクリスマスが、日本で祝われるようになった理由についての考察は行わなかったが、にクリスマスの祭儀を特定の宗教教団の祭儀としてこだわらずに祝える。「習俗」は、本来の宗教的儀式の面白さに着目して、その宗教性を抜いた生活様式である。ゆえに、クリスマスの「イエス・キリストの誕生日」という宗教性を日本人は意識しないのである。一方でまた、初詣自体にも宗教性を感じていない。「習俗化」という観点に立てば、逆に意識しなくて良いのである。さらに、こうした「習俗化」した行事は、日本で「バレンタインデー」や、まだまだメジャーではないが「ハローウィン」などに見れる。欧州では「猫祭り」や「牛追い祭り」や「トマト投げ祭り」などである。「習俗化」は、クリスマスのように生活サイクルに人為的に意義付けをしたものと、初詣のように生活サイクルが歴史的に発展してきたものがある。前者は、例えばディズニーランドのような人為的な意味付けをした新しい形態も含まれるのではないかと思われる。また、阪神淡路大震災鎮魂の意義を持つルミナリエも同様の「習俗」と言えるであろうが、論旨の逸脱を避けるために当の指摘に止めて置きたい。
以上から、「日本人はクリスマスを祝えるか?」という問題には、社会学的観点から、「当」と解答できる。