Tadashi Setsu

2014年8月21日(木)深夜零時

明日明後日はタウン紙配達などで10時間くらい自転車で走り廻らねばならず、だからさっさと床に就かなければならないのだが、しかしなかなか寝付けないので少々書きたいことを書いておく。ぼくは政治主義者や政治狂が嫌いである。自分自身大した人間ではなく、また一流の表現者でないどころか表現者ですらないだろうが、自分がやりたいようにやることに誰かから制約を設けられることは大嫌いだ。それが誰であれ関係ないし、どういうひとでもいいし、立場や所属、イデオロギーもどうでもいい。自分自身の立場や何やらをはっきりさせたいとも思っていない。そういうことは何も思わない。

現代日本の表現者の99%はクズであるという意見を見掛けた。自分自身の私的な趣味関心に拘泥し、パレスチナ問題など社会的政治的関心が薄く、民衆に貢献しようとしていないからだそうだが、民衆に貢献などという文字を読んだ途端に大いにずっこけて椅子から転げ落ちたことは申し上げるまでもない。民衆に貢献だって? そりゃまた一体どういう民衆なのか?

というふうに受け身で流れてきた御意見や情報にあれこれ反応したり反撥したりするだけなので、反動的(reactive)であるとか、そんな自説を全面展開する暇があったらスタンダードの1曲でも2曲でも練習して覚えればいいのではないかというのも、それはそれでその通りだが、ぼくは常に言いたいので言わないわけには参らない。先程紹介したような意見は根本的に嫌いだ。大嫌いだ。全く受け入れるわけにはいかない。ポストモダンだか日本型ポストモダンだか価値相対主義だか知らないが、人の数だけ正義や美などの規範はあるとか、人それぞれ、みんなちがってみんないいということであるかどうかは存じ上げませんが、とにかくそういう意見や基準は何があろうと絶対に受け入れるわけには参りますまい。

しばらく題名さえも失念して、部屋に積み上げた本の山から探し出そうとして面倒臭いからやめたのだが、いま思い出したが、ジュネの遺作に『恋する虜』という長い小説がある。ぼくはフランス語原文で読んだわけではなく翻訳を読んだだけだが、小説そのものは素晴らしいものだとは思うが、小説のところどころで明示的に、または暗示的に述べられている美的・倫理的・政治的見解や価値観、基準にはそのいずれにも賛同するわけには参らない。それは《趣味》の問題だというべきなのか? よい趣味と悪い趣味がある、というような。それはわからないが、とにかく賛同するわけには参らない。

そうしてそれだけではなく、一流の表現者は他者からの承認を求める自己顕示はしないなどの御意見にも言いたいことは沢山ある。なるほどそうかもしれないが、一流ではない二流、三流以下の、表現者とかアーティストであるかどうかもわからないクズのようなものもこの世には沢山生きているのだ。「政治的に正しい」かどうかはぼくは知りませんが、それでもそれを誰かから上から裁断されたり、何かを押し付けられるいわれは全くないのだということを断言しておきたい。要するにくだらない思い込みやこうであれという規範などを取り払って誰でも好きなように自由にすればいいのだ。それだけ。本当にそれだけだと確信する。

というところで3時間しか睡眠時間がなくなってしまうのでもう寝る。おやすみなさい!