海に奉げる人生
                        
ウェイン ディーン

ウオーターマン マクウェリーやウェブスターそれにCODとかいう辞書の中では彼の名前は載ってはいないが、地球上のちょっとしたサーフスポットならば、容易に彼の名を見つけられるだろう。       彼は、人間をなすがままにあやつる大波の中に入りこみ果敢にその危険に立ち向かっていく生き方をする。    彼の心はまた大きな波の如く、自然そのものである。  しかし、大きな怪獣の口元から発せられる様な波間から、何事も無きかの如く飛び出してくる。     "ウオーターマン"という名は肩幅の広いウェイン・ディーンのことである。    陸上にいても、ウェインは大海の奥義を極めたる落着きと自信に満ち溢れている。    人間にとって、波頭とか、波の谷間とか、潮の干満は人生そのものであり、また時間と潮は引き裂きがたい関係にある。海水が彼の血管の中を駆け巡ると、ウェインは、忽ち"ウオーターマン"に変身する。
彼の父ジョンはサーフクラブに所属していた。そして息子のウェインとロビーに海が好きになってくれると良いがと密かに願っていた。
クウィーンズランドとニューサウスウェールズの境界にあるマーウィルランバーという川のほとりの町で、ウェインは生まれた。しかし、育ったのはクーランガッタであった。そこはトウィ-ド海岸からほんの数分の島ではあるが、ゴールドコーストの北の端からはかなり離れている。ウェインはずっと今日までそこに住んできたのである。
彼の父は大工であった。1948年にリズモアからゴールドコーストへ引っ越して来ていた。その彼が家族を養う為に、カーラ方面へちょっと行った所の西クーランガッタの小さな谷間に土地を購入した。
「親父はいつも兄のロビーと私が幼少の頃から、よく行っていた海岸が好きでした。」とウェインは建築中の家の台所に座りながら、思い出しては語る。(彼はいつかこの家を完成させると固く誓っている)
私がお邪魔した時、彼は手書きでサーフボードの注文書を記入しているところであった。
私達はサーフィンに行く相談をしたが、ここ2週間ほどは、固いウネリで全く駄目な状態であるということで、代わりにコーヒーを飲んでお話をうかがうことにしました。
ウェインの妻のコーリ-ンは少し太めで、愛らしい顔をしており、目はブルーであった。彼女は蒸気の立ち昇るマグカップをテーブルに置いて、それから忙しく動き回る4歳の息子のノアを別室に追いやり、我々が落ち着いてお話が出来るように配慮してくれた。
ウェインは1952年の6月25日に生まれたと教えてくれた。彼の兄のロビーは18ヶ月早くこの世に出た事も。
「親父は若い頃からサーフクラブの発展にかかわってきた。そしてノースカーラ サーフクラブの設立者の一人でもあった。」
ウェインは彼の父がどのようにしてサーファーになったかを説明しながら、話を続ける。 「彼は救命の方法を教えながら、このクラブに参加していた。
1959年頃には数人のライダーしかいなかったが、彼らとお付き合いを始めた。レインボー湾でボードを貸していた友達がおり、ある日親父は一本借りて乗っていた。」

子供の頃、ウェインとロビーは1950年代から1960年代初期の頃、流行していた大きな黒いゴム製のサーフオプレーンで、いつもふざけたりして遊んでいた。
子供達と一緒に本当のサーフィンをして楽しみたいと思い、父は大工の技術を生かして子供達にサーフボードを作ってくれた。 「それはサーフスキーから変形した格好をしていた。木製の縁(ふち)と固い木製のレールがついていて、中は窪んでいた。それは長さ6フィートほどしかなく、巾10インチ程のスケアテールがついていた。そう、それは全く時代の先端をいってたようなものだったのだ。しかし、それはフィンがついていなかったし、我々は実際にボードの上に立つなんて考えてもみなかった。その頃、唯一ボードの上に立つ連中と言えば、ビッグロングボードに乗っている連中しかなかった。」
1960年の夏に、ウェインとロビーは初めて本当のサーフボードを手にした。
父は子供達に小遣いをためるようにと、いつも言ってきた。そして芝刈りや洗車をしたりして1年が過ぎた頃、彼らの小使いは、ちょっと援助すればボードが十分買える程、貯まっていた。 父は足りない分をクリスマスプレゼントとし、1960年12月25日朝、ウェインとロビーは目を覚ましてみたら、二本のまぶしいような新しいMPIsのボードがツリーの下に置かれているのを見つけた。 "それらはオールド ピッグ ボードの系統を受けていた物であり、ご存知かな、完全なピッグメント コートのやつさ"とウェインは言う。 "二つとも矢がついており、ロビーのものには赤い矢が、私のものには青い矢がついていました。すぐに、私達は父をせかしてレインボー湾に連れて行ってもらった。我々は小さかったから、きわめて簡単にボードの上に立つことができました。始めから、私達はボードの上に立てる様になっていたと思う。
そして12ヶ月も立たないうちに、私達なりの演技をしていたと思います。それからサーフィンの魅力にとりつかれ、我々はどんどん走り出していたというわけです。

ウ ェインとロビーはカーラの丘の上にある学校に通っていた。他にサーフィンの友達も一緒であって、数学や英語とか苦しみを余儀なくされていた。
「教室の窓からサーフィンなどばかリ見ていて、鞭で叩かれたり、頭に黒板の粉をつけられたりしていたから、本当はあまりよろしくない生徒であった。」
「しかし、それでも学校へ行く前にサーフィンをして、それから丘の上に走って行き、始業ベルの鳴る前には教室に入ることが出来ていましたから、自分でも言うのはへんだが、それほど悪い生徒でもなかったかな。」とウェインは笑う。
ディーンズ家における初期の頃のサーフィンは ベアリー とか マル サザーランドを含めて、有名な ボガンガー ボブ 、 ジェフ ベリー アーノルド  、 カーリー ピニガー 、ネイル ターナー 、ウェイン サブ ジョンソン そして ケイス ポール らの影響を受けている。 それからgrommets の精神を吹き込まれたドロウィンがやってきた。 ウェインとロビーにとって、もうひとりの大きな影響を受けたのは ゴードン フィリップソン であった。彼はほとんど毎週末になるとブリスベーンからやってきた。我々の一行はゴードンのフェアレーンにいつもボードを積んであり、ノーサ や コフス そして バイロンへ 、しょっちゅうサーフィンにでかけたものだ。」とウェインは言う。「ゴードンは熱心であって、我々は彼の冒険心からすごい恩恵をうけた。」
ウェインは1964年カーラで行なわれた第1回クイーンズランド選手権に出場した。ミジェットがジャッジとして招待されていた。しかし、ウェインは初戦で脱落した。
翌年、初心者部門が新設されて、ベルトより下の経験者の条件で彼は第三位になった。
この頃、スナッパー ロックス サーフライダーズが結成され、ウェインも正会員になっていた。 クイーンズランドのオーストラリアサーフィン協会もまた設立され、父のジョン ディーンズがその事務局を勤めていた。
「私が13歳になった時、私はサーフィンが大分上手くなっていたから、サーフィンが面白くて仕方がなかった。」とウェインが語る。彼は1966年と1967年のクイーンズランド ジュニアー選手権で決勝に進出していた。特に、1967年、彼が15歳の時、3回目のスナッパー ロックス オープン クラブ選手権で第一位を獲得した。 ウェインはマイアミ ハイに参加した。大会にはゴールドコーストのトップクラスのサーファーが沢山おり、中でも非常に有名な学生で、1978年の世界プロチャンピオンのラビット バーソロミュー も含まれていた。彼はウェインよりも2〜3歳若かった。サーフィンを理由に学校をサボることで有名であったラビットと違って、ウェインは学校をおろそかにしなかったと言う。 「とにかく、私はサーフィンをする為の時間は十分あった」と彼は言う。 「父は我々が学校へ行くこと、サーフィンに行く前に家に帰り、家の手伝いをすること、我々はこの二つのことをきつく躾(しつけ)られていた。それは我々に生涯ただサーフィンをしていれば良いということではないことを教えており、最近の多くの子供達にもその様な考えを持たせないことからも大事なことだ。生涯にわたって、サーフィンをする事は悪い事ではないが、生活をする上では人間関係を切り離しては考えられない。と私は言いたい。」それはウェインが今日まで守って来た強い職業倫理観でもある。
ジョンとロビー ディーンの二人とウェインのほとんどの友達は、皆んな大工になっていた。そして彼も15歳で学校をやめて、父の弟子になることにし、大工道具を扱う職人として、彼らと一緒にやって行く決心をしたのである。 ウェインにとってはそれは大変なことであった。というのも、10代で、両親と同居しながら、両親と一緒に仕事をするということは言うまでもなく、大変な事であるとウェインは認める。 父は熟練した小売商人であり、彼は上手に教えてくれた。しかし、摩擦は非常に大きくなって、もうひとりのbuilder(弟子?)と一緒に、徒弟を修了する事は至難のことでだった。
そのbuilder とはクリッフ ペリーと言って、彼らの販売用倉庫はカランバンとカーラとの間のビリンガの浜にあって、歩いて上り下りするビルの3階にあった。
「1972年頃から私はクリッフの所で働いていた。その頃、我々は沢山のよいサーフを持っていたので、仕事は忙しかった。」とウェインは思い出しながら言う。
「屋根に上がり、フレームを投げたりもした。そして友達皆が連れ立ってサーフィンに行くのを見たり、あのカーラは6フィートらしいなどとね、それを見るのもつらかった。私はそんな事が二日も続いた時、とうとう我慢できなくなって、そのフォアマン(工場長)に"もうおしまいだ!もうこれ以上やってられない!私はここを出て行く"と言ってしまった。」
「しかし、私は一つの仕事を続けてきたわけですが、この事がずっと頭から離れないで生きてきた。
私はどのような気分の状態にあれ、責任逃れはしない。少し年をとった今となっては、少し工具を落とす回数も多くなったりして、サーフィンに行っている時の方が多いかもしれないが。しかし、私が責任逃れをしないということを作業場では守ってきた。サーフィンの出来る環境のもとで、仕事をしてきたからでもある。」
大工は正直な仕事である、それはウェインにとってはよかったことであると思う。その経験と技術の修得は彼の家族を養う手段となり、屋根だってとりつけられるようになったし、更に実践的な技術を習得したお陰で他の興味のあるもの、例えばシェイプのような事までもが出来るようになったことである。
「私はいつもスナッパー ロックス サーフライダーの基本設計者のグラハム マリンがシェイプしたボードに乗っていた。」とウェインは言う。
「ある日、彼はサウス トウィード ヘッドの工場で火災に遭って、工場を閉めてしまった。私は本当に誰も近づくものがいなかったので、それらのボードに触ってみた。そう、その時から私は私自身の手で作り始めていたのである。」
ウェインとロビーは大工仕事を数年早く切り上げて、試作を始めた。
「始めの頃は好きなボードを見たり、借りたり、一本の物を同じようにシェイプしてみたりする。私はボトムカーブ、或いはその様な何かとかは全然考えなかった。ただ目で見てやるだけでした。」とウェインは言う。
「私は借りたボードを白い紙の上に置いて、その周りを絵取り、それからそれに刻みをいれたりしました。私はいつも作業場に、対になった大工鋸用の腰掛けの上でシェイプしました。半時もすると、物体が薄すぎて、端がよくそり上がってしまう。しかし、私はそれらを磨きつづけて、サーフの形に仕上げようとしました。なぜなら、私にはたとえ一本たりとも無駄にするだけの資金の余裕がなかったからです。
それらの幾本かは天然のままで美しいものでしたね、また固いレールで、かつ大変乗るのが難しいものでした。しかし、それは全てが経験でした。」 最初にうまく行ったボードは6フィート6インチだったとウェインは記憶している。それはラビット ディック ヴァン ストラーレンの モデルの1本を参考にしたものであった。「私は上出来とまでは行きませんでしたが、その頃私が作ったものの中では、最高のものでした。そして、それはあまり苦労しないで仕上げられたね。」
「シェイピングを始めたばかりの頃は、未だ趣味の段階で、自分用のもの或いは彼の友人用に作っていたにすぎなかった。それも気分転換のような時にしかやらなかった。
1980年に彼はホット バッターズ テリー フィッツジェラルドと関係ができ、今日までその契約が続いております。 「1980年代初めにはホット バッタードと一緒に沢山のボードを作りました。これが実によい経験となり。私は沢山の事を学びました」 とウェインは言う。
「私はよく他人の工場、例えばニール パーチェスとかパイプドラムズ ムレー バートンの工場などへ行ってシャイプしたものです。私は他人のシェイプを研究したことがあまりありませんが、私はただそういった所へ行って、仕事を一緒にさせてもらったことはあります。私は独学だったと思います。恐らく、私が少し注目した友達はテリー フィッツジェラルドだったかな。なぜなら、私は彼のボードを見るのが好きだったし、くぼみ面の作業をどのようにするのかを見るのも好きだったからです。テリーは私のシェイプ造りに関して、少なからず影響を与えたと思います。」
穏やかな60年代に戻ってみると、ゴールドコーストのサーフィン業界は激しい過当競争でした。才能があったにしても、絶えず進歩努力しないと生きて行けなかったものだとウェインは語る。
「ゴールドコーストにはいつでも沢山の競争者がおり、バーレー や カランバン とか カーラとかグリーンマウントそしてスナッパーのようなWAVEがあって、沢山のサーファー達がやってきた。サーフィンのレベルは自ずと高まって行った。」と彼は言う。
「その当時スナッパー、カーラ、カランバン、バーレーとかそして初期の頃にはウィンドンシーなどと言うクラブも存在しました。だから毎年6チームのクラブの大会に加えてクイーンズランドの選手権がありました。どの大会も出場者で溢れるほどでしたが、まだ発展途上の頃でもあり、大会はどこへ行っても激しい競争でした。
ウェインはサーフィンの大会に出場するのが、面白くて夢中になっていた。「その様な沢山の大会がありながら、いつもトップから2、3番以内には入っていたが、私は勝った事が無かった。しかし、クイーンズランドのオープン選手権の決勝にはいつも勝ち残っていた。
ゲーリー エリクソン等が出場するクイーンズランド選手権には、いつも私は出場していたね。」
ウェインが27才になって初めて、ショートボードの大会で1位となった。更に、国内のシニア男子大会やマスターの選手権でも優勝するようになった。しかし、彼が力を入れていたのは、実はロングボードの大会であった。
ウェインは1984年にコリーンと出会ってから、彼のサーフボードの原点を再発見する事になる。彼女はサリー パクストンと友達であった。そのサリーはオーストラリアでのロングボード復活の口火をきった男だ。
「コリ—ンと私はサーフィンで結ばれた。」とディーンは言う。「私達はいつも一緒にいて、誰よりもサーフィンをした。そして、自然に我々は親密な関係になっていった。
彼女はロングボードをもう一度やってみたらどうかと勧めてくれた。」
これと同じ頃に、兄のロビー ディーンもロングボードに戻りつつあった。彼は一時期の間、全くサーフィンを止めていた。だから、ロングボードに乗る彼の兄やいずれなる妻そして彼女の親友達と一緒に思い切って乗って見ることにした。ある程度の不安や迷いがあったことは否めなかった、とウェインは告白している。

かくして、ウェインはロングボードを再開する事になった。その頃、ショートボードが飛躍的にヒットして、ロングボードの時代はもう終わりの感がしていた。ほとんど大きなボードで乗る人はいなくなり、とにかく、それで食って行けるサーファーはいなくなった。
「ロングボードの連中は、大体は週末にやってきて、出来るだけ多くの波に乗れれば良いと考える連中ばかりであった。だから、彼らはそこで何をしようとしたのかも考えようともしない連中でもあった。」と彼は言う。「そう、少しがっかりしないでもなかったが、私は努めて楽しんでロングボードに乗るようにした。
そして、1987年、第一回クイーンズランドロングボード選手権に出場した。私は自分のヒートを取れなくて失敗した。その原因はショートボードと同じように乗ろうとしたからであった。
翌年、ウェインはフィリップ島でのオーストラリア選手権に出場して、8フィートディビジョンで優勝し、9フィートでは第5位になった。
1989年にゴールドコーストのアンドリュウ マッキンノンの勝利に刺激されて、プエルトリコアマチュア選手権の前年に、ウェインはオーシー選手権に出場することになった。パイロットのストライキが丁度ピークに達していた為に、車を飛ばして南オーストラリアまで出かけねばならなかった。結果は、9フィートディビジョンで彼は圧勝した。そして8フィートは2位であったが、1990年に日本で行なわれる世界選手権のオーストラリアチームとしての出場権を獲得したのであった。


ウェインは日本政府によって行なわれたセレモニーが忘れられない。出場者の背後から、打ち上げられる45分間の花火のディスプレイが今でも瞼に浮かんでくる。 大会は、宮崎でのごく小さな波の中で、第2ラウンド終了した時点ではアメリカのマクミランがリードしていた、とはいえヘリコプターやスピナーの入った彼のトリックで幻惑していたに過ぎない。
しかし、突然大会運営は全シューティング マッチを伊豆の新島に移して行なう事となった。競技者及び大会関係者等の一大移動が始まり、みんな一斉に東京に飛んで、そこから新島行きの夜行フェリーに乗船した。
さて大会が再開されたが、小さな波が数日続いた後、突如一つの変化があった。とうとう、大きなうねりが浜辺に向かってやってきた。それはウェインやオーストラリアの他の選手が待ちに待ったものであった。たちまちアメリカとブラジルチームをとらえた。感動が次から次へおきる中で、ウェインはチームにあって勝利に大きく貢献し、第一回世界選手権をオーストラリアチームが勝ち得たものでした。
「私は今までショートボードでは世界レベルに全く達していなかった。私はいつも8番目か10番目位でフィニッシュしていた。だからオーストラリアチームの為に貢献したことがありませんでした。」「だから、1990年ロングボードのオーシーチームの代表となったことで、周囲が注目するようになって大変うるさくなった。それからは出場したら勝つのが当たり前のようになってしまった。以来、沢山の勝利があった。例えば、数々のクイーンズランドやオーストラリアオープン選手権を含む、4つのASPオーストラリア選手権、3つのマルファンクションの選手権のチャンピオン、そしてほとんどのメジャーのオーストラリアプロの大会、1998年のノーサ ブレーカプロAMの9フィートオープンディビジョンにおける特別勝利を含めて相当数の大会で優勝している。
ウェインは毎回ノーサコンテストに第一回大会以来、ずっと参加してきた。彼はボンガとかラスティ ケウラーナなどの招待選手等と決勝で競り合った。優勝するためにかなり無気になっていた。 その大会での勝利に関しては特別な感慨があった。なぜなら、彼は親友のベアリー ロビンソンが貸してくれたボードに乗って勝利を得たからであった。
ベアリーはサーフィンの事故で背中を骨折してしまった。ウェインがベアリーを病院にお見舞いに行った時、ベアリーが彼の大事にしていた中の一本をウェインにくれた。それはウェインがシェイプしたもので、9フィート6インチのボードであった。ベアリーはそいつに乗ればきっと勝てるよ、って語ったと言う。だから、表彰式では実際に涙を流すほど嬉しかった。「ベラリーは私に勝利のインスピレーションをくれた。」と静かにウェインはうなずく。
「私は装備は万全、また心構えもしっかり持つことにしている。ノーサの大会で決勝に残って戦うのは本当に気分の良いものである。
次の波は必ず同じようなピッチでやってくる。やらないかんことは先ず、レールとピッグ ドッグをつかむことだ。私はそれが今までに得た最高のバックハンド チュウブであった事を決して忘れはしない。
気象状況とか自分の気分に応じて、ウェインはロングボードとショートボードに乗る間隔を交互に変える。「本当は二つのボードを分け隔てなく乗っているのですが。」と彼は言う。
「私はロングボードとショートボードの両方をいつも車に積んで置いて、当日の条件に最高に合った方を使うようにしている。大会に備える時には明かにロングボードの方を少し多く使いますね。実際には一方がもう一方を助ける。ショートボードはパドリングするのにより厳しいからフィットネスを助けるし、ロングボードはタイミングとかスタイルを調整するのに良い。
初期の時代にはスタイルの方の評点が全てであった。従って、コントロールよりもボードをスムースにかつ老練に見せようとする傾向があった。それだから、ゴールドコーストの多くの連中はその様な滑らかスタイルが主流をなしている理由でもある。我々が得た波でもって、きちんと波を整理するには相当の時間がかかるね。」
ロングボードでもショートボードでもウェインは二つのこと、すなわちチューブライディングとビッグウェイブで有名である。 彼の情熱はその両方に向けられており、もし二つを組み合わせる事ができるなら、万事はもっと良いものになろう。

うねりがだんだん小さくなって、誰もがカーラやバーレー或いはスナッパーなどで、そんな波と格闘している時に、ウェインはトウィ—ドバーからひとり抜け出て行く。そこはトウィ—ド川の河口のデュランバーを超えて、突如大波がはねる所でもある。 彼はその河口で乗る時は、9フィート超のサーフボードを取り出すのが常でした。
数年前に彼が人生のバレルを記録したのは将にその様なボードに乗っている時でした。「私がちょうどこれらの大きなサーフボードを開発し始めて、9フィート2インチのボードに乗っていました。」と彼は振り返る。「私は川を抜けて、真っ直ぐにパドリングして行きました。なぜなら、潮が引いていて、それから波がいっせいに堰を乗り越えて横切って行く凪を待っていたからです。私は最初の波を下りて、真っ直ぐに底の方へ進んで行った。私はこの波に乗って、川の方向に真っ直ぐに戻って行った。次の波が確実に同じようなピッチでやってきた。その時、私がやったのはただ一つ、レールとピッグドッグをつかむことであった。私は決して忘れないーーそれは今までの中で最高のバックハンドチューブでした!それはおよそ8フィート程で、内側に20フィートほど戻った様だった。私はその波が浜の方に向かって、50メートル程カーブを描きながら落ちて行くのを見る事が出来た。それは始めから終わりまで、およそ150メートルに及ぶバレルでした。そして私は思わず、金切り声を上げて出てきていました。それは午前5時15分頃のことで、あたりには誰もいません。みんなはサーフポイントの方におりました。私は非常に興奮していたので、その波を、真っ直ぐに追っかけていた。私はその中に深く進行し、なおもコントロールしていた。回転するコースターのようなバレルの中に乗りながら、私はボードを操っていた。それは説明できない程の過激な事であった!! それはディーンがこれまでに経験した数え切れないほどのバレルの中の一つではあるが、永遠に彼の記憶に残るものであった。

ウ ェインとコリーンは非常に仲の良いカップルである。それはお互いにサーフィンを愛し、彼らの可愛い子供のノアとジミー(7歳)を絆に結ばれている。
二人は1984年に出会って、その8年後に結婚をしました。
(彼は2度目の結婚式でした。最初は1975年に結婚しました。親権により18歳の息子のシャノンを引き取っております)
数年前に一人の子供の悲しい死がウェインとコリーンをより一層親密な関係をもたらしました。いつも彼らの心の中に一つの穴が空いていた。しかし、彼らはひとつの喜びの到来で立ち直った。それは元気な全く明るい子のノアでした。 「ノアは将にサーフィンのきちがいである。」とウェインはおどけたようなふりをして、頭をふりふり笑う。
「ノアはスケボーの車輪を私に外させて、浜辺でそれに乗ったり、ベットの上で乗ったりしている。彼は手にするものは何でもサーフィンにしてしまう。我々は泡を省略して小さなサーフボードを作る。そして、スプレーしてからリシンをかける。そしてフィンをつけるのだが、彼もまたそれらをサーフィンにしようとする。彼は将に狐にとりつかれているみたいだ。ジミーはちょっと違っていて、サーフィンは好きだけれど、大きい兄ちゃんがブーギーボーディングしているので、その後ばかり追っかけている。彼は水をかぶった猫みたいだね。それに反してノアはラブラドールの犬みたいだな。ジミーは美しい選手ですよ。私がトロフィーなんか取ると、私のそばに来て、一緒にポーズなんか取ったりするのが大好きなんだ。彼は栄冠にあこがれて居るけど、本人はちっとも努力していないな。「笑い」
子供が出来る前には、ウェインとコリーンはいつも一緒に空いた時間にサーフィンをした。今では興奮させる遊びが沢山あるが、彼らは今なお、時間が許す限り、一緒にサーフィンに出かけようと努力している。 サーフィンが出来る妻を持つことは素晴らしい。それは本音で話し合える人であるからだ。」とウェインは語る。
「実際に、我々はサーフィンのことで喧嘩をする。それは「君が行ったら」とか「いや、あなたが行ったら」とかの様に。我々はそんな事で時間を潰したりしてしまいます。
我々は少し暇ができると、子供たちとスナッパーにでかけて、人形を手にしたりして遊んだりします。コリーンと私はかわるがわるサーフィンをしたり、子供達の世話をしたりします。そして、料理を作ったり、家に寝に帰ったりします。 仕事が頭にくっついて離れない時でも、サーフィンする時は仕事の事は忘れてください。しかし、仕事をする時は仕事と言うものがどんなに有り難いかを忘れないで下さい。」

ゴールドコーストに生まれ育ったので、ウェインはこれまで離れていた彼の家族に会うことができない、それがもっと静かで、あまり開発がされてないところでないとしても。
「住む場所が信じがたいほど過剰に開発されたり、商業化されてくると、引っ越したくなるね。」と彼は言う。
「ゴールドコーストの高層建築は将にへきへきしている。ゴールドコーストの北の端(サーファーズ パラダイス)の開発で、苦い教訓があっただろうに。私は海外の方々を見ている。開発者はどこが間違っていたのか海外を見てくれば分かると思う。だが、現実に当地でも間違った事をやろうとしているね。金集めに旅行者を刈り集めようとしている。じっくりと腰を落ち着けて、考えるならば、魅力的な田舎風の開発をしているノーサの方に道を譲ってしまえばいいだろう。クーランガッタでは、それを修正するチャンスはありますね。その様なたくさんの高層なものは必要無いね、それよりももっと低層にして、計画を練り直してもそんなにコストはかからないと思うよ。」
世間ばなしに話が及ぶと、ウェインはまた最近のロングボードの政策については、彼の信念を容赦無く語り始める。サーフィンオーストラリアがロングボードを育てるのに最高の事をしているにもかかわらず、スポーツとしては最善の事をしているとは思えないと彼は言う。「私達はNSW Longboarders Inc.が離脱して行ったグループの成立を見てきた。そして、それは恐らく良い事であったと私は思う。」と彼は言う。「サーフィンオーストラリアはジュニアショートボードの発展に力を注ぐにつれて、ロングボードをちょっとばかりないがしろにしてきたかな。誤解しないで下さいよ、彼らはたくさんのすばらしいことをやってきましたよ。しかし、これからも、彼らはしなくちゃならんことがたくさんあるんですよ。」
ウェインはまたロングボードコンテストのジャッジについての質問に応える。 スコアシートに記入するウェイト項目などが進歩的か伝統的かの間で、ジャッジの考え方に食い違いが生じ始めているのは事実である。「審判の中には進歩的と伝統的のロングボードの間に事実、一線(へだたり)が存在している。そして、伝統的特にノーズライディングを極度に強調するジャッジも何人かいると私は思います。」と彼は語る。
「ジャッジをする者は、我々多くのものがロングボードでしている練習を実際にする事ができない。彼らはテールを外してサーフィンをすることに言及できないのだ。しかし、もし誰かがノーズに乗るとしたら、彼らはバナナに行く。実際には、彼らはひとの乗る波について言及しないのが普通である。個々の演技がその個性でジャッジされるべきであり、伝統的とか進歩的とかというはっきりした基準でジャッジされるべきではない。」 ウェイン自身のスタイルと言えば、テールを外した力強いサーフィンが好きで、どちらかと言えば、進歩的に傾いている。とは言うものの、伝統的なものと合体したものが彼のレパートリーにはある。「私は両方とも混じった方法でやるように努力していますが、本当は好きで、時々興奮してテールの上に乗ったままする事も有ります。」と彼は言う。「競技においては、それについて実際に考慮してきていますね。私は極度にテールを外して数回失敗した事がありますよ。」
他の優秀なロングボーダーでは特にボンガ パーキンスのスタイルを賞賛する。ボンガはスムースかつ急進的であり、偉大なスポーツの申し子だと言う。
ジョエル チューダーもお気に入りの一人である。
若いオーシー軍団までもデーブ シモンズとかジョッシュ フェリスとグラント トーマス、ブレット ホワイト、ジェイ ビーンズそれに若くて水星の如く現れたジャロッド モレルなどにも感銘をうけている。(あの子らがどんなに立派になっていくのかな?と彼は問う)
ウェインはショートボーダーとロングボーダーの両方の数少ないシェイパーのひとりである事に内心誇りを感じており、自分のシェイプしたものの一つで世界選手権を勝利したこと、そして彼が運営に関わっている大会の成功を楽しむことも彼の誇りとするところである。
彼のシェイピングビジネスはどんどん増えてきており、大工仕事の方は全く休業状態となっている。
(いつか自分の家を仕上げることビラボング プロのようなコンテストの為の美しいトロフィーを作ることから、やりたくてもやれない状態にある)
ロングボードが専門ではあるが、彼はまた、彼の大砲とか大サーフボードあるいはショートボードを研究している。彼はシェーン ビーバンとジェイ フィリップスの連中の為に、ボードをシェイプしてきた。ゴールドコースト最高のショートボーダーの二人である。
サーファーとして人間としてウェイン ディーンの尊敬する人を見つけるのは難しい。彼はナットとかミジェットとかテリー フィッツジェラルドそしてラビット バーソロミューの連中にもっとも高い評価を得ている。
バーソロミューといえばディーン兄弟から初めてボードを貰った男である。「ウェイン ディーンはたくさんの事を私にしてくれました。」とラビットは言う。
「彼は初めて6フィート8インチのサーフボードをシェイプしてくれた。それはその当時としては将来を予言するようなものに感じられた。彼はクーランガッタ地域でかつスナッパー ロックスクラブの為に非常に尽くした人である。70年代の始め頃、MPとかPTとかまた自分自身がカーラのチューブライディングの為に、たくさんのkudos(?)を得たがその一方では、あまり深くないものもあったにせよ、ウェインは容易に深さみたいな物を手に入れてきた。彼は素晴らしいチューブライダーであったし、今もなおそうである。そして、ウェインはその能力を自分自身の中に再発見し続けることに使ってきた。
ロングボードは彼のサーフィン人生において新たなる生きがいとなり、事実、彼は競技を楽しんでいます。」

ラビットが要約して説明してくれるには、「ウェインは守るべきものは守り続ける。彼の家族に対する愛とか彼のサーフィンに対する愛、彼の職業の倫理観そして彼にふさわしいやり方、すなわち彼は自分自身に本当に忠実に生きている。そして、決して人生の中で後向きの姿勢をとらない。」とラビットはウェイン ディーンをハワイのダーリック ドーナーとかレアード ハミルトンなどと同クラスのビッグウェイブ エキスパートであると高く評価する。
「大会での礼儀、技術そしてサーフィンへの取り組み方或いはそれら全体の装備を語る時にはウェイン ディーンはそういう連中とそこに並び立つ人である。」 さらに「彼は真のウオーターマンである」と付け加える。

(翻訳文の責任者:タキスポーツプロジェクト 松井好延 1999年10月5日版)