クラシックがあぶない!


●ますますコンサートの地位が低下する
●「ダイナミック・レンジ」が音楽をだめにした?
●「癒し」だけ?
●この日本にとって本当にクラシック音楽は必要なのか?


●ますますコンサートの地位が低下する
 クラシックは「エンターテインメント」だという人がいる。
 ある程度は正解だと思う。でも、もしクラシックがエンターテインメントだけだとすれば、すくなくとも日本においてはクラシックの地位は、このままではますます下がる一方だろう。安くて、もっと満足できる、よくできたエンターテインメントが巷にはあまりにも溢れかえっているからだ。
 一般の人が「何か楽しいことを」と考えたときに、よくわからないクラシックのコンサートにS席7000円のコンサートはかなり高いと感じるだろう。まして、相当強い動機がなければ15000円のオペラには足を運ぶはずもない。
 スポーツだって、映画だって、テレビゲームだって、ディナーだって、お買い物だって、テーマパークだって、ちょっとした日帰り旅行だって、エンターテインメントの競争相手はいろいろある。あまりにもたくさんある選択肢の中で、人々がクラシックのコンサートを選択する必然性はかなり低い。要するに、ますます物好きだけの世界にとどまっているのである。
 映画館もテレビもなかった昔の時代は、洋の東西を問わず、長い間劇場こそがエンターテインメントの中心だった。劇場に通うことは、生活の中でのひとつの習慣になっていた。同時にそれはある種の社会参加でもあった。でも、いまは違う。
 まして、しかめつらしい、抽象的で、怖いオタクがいっぱいいて、しかも値段の高いクラシックに、いったいどうやって新しいお客さんが足を運ぶというのか?
 多少愛想よくしたところでこの傾向に歯止めがかかるとは思えない。


●「ダイナミック・レンジ」が音楽をだめにした?
 LPからCDに代わって、本当に再生音楽がつまらなくなった。
 私は高級な再生装置をまったく持たず、立派なリスニングルームもないので、微細なピアニシモから巨大なフォルテッシモまでを表現するCDの最新録音のダイナミック・レンジの恩恵を感じることはできない。
かつて「ダイナミンク・レンジ」とは表現力の幅のことであり、「SN比」同様、音の良さの代名詞のように思われていた。しかし、私は家で再生音楽をかけるときは、ピアニシモの表情はもっとクリアで大きい音になって欲しいし、フォルテッシモの音響はうるさすぎないようほどほどに、といつも思う。その方が、家では音楽を良く聴くことができるのである(エクストンのディレクター江崎友淑さんの録音の支持が高いのは、このあたりの勘所を押さえているからではないか)。
 美しい映画女優の微妙な表情をアップで見たいとき、カメラが遠景に退いていては困るし、大群衆が揺れ動く場面では、ある程度引いたカメラでないと、活写できないのと、全く同じである。
 むしろヒストリカルの録音がどうしても好ましく思えてしまう。狭いダイナミックレンジ、ぼこぼこざらざらの音。蜃気楼の向こうに音楽があるから、かえって想像力が湧く。自分の頭の中で、かつて真実に鳴っていた音楽を想像し補充するという能動的な行為が、演奏者と一緒に音楽に参加しているような一体感につながる。


●「癒し」だけ?
 癒しという言葉には強烈な抵抗感を感じる。
 クラシックで果たして癒されるだろうか? 癒されるために私たちはクラシックを聴いているのか? クラシックを愛し、深く聴いてきた人なら、その答えは明白だろう。
 本当に癒されたいのなら、いい空気を吸いにどこか美しい自然のあるところへ出かけたり、温泉にでも浸かりに行った方が、変なクラシックを聞かされる100倍もいいはずだ。音楽は、そういうことの代用物にはなりきれない。
 いうまでもなく、現代人が抱えているストレスは相当高いし、病んだ心を癒す必要性は社会的に見ても強まっている。音楽がそこに重要な役割を期待されているのはむしろ歓迎すべきことだ。ただ、癒しという言葉だけではやはり音楽は片付けきれないのではないだろうか。


●この日本にとって本当に「クラシック」は必要なのか?
「クラシック音楽がなかったら、一日たりとも自分は生きていけない」。そう断言できる人が、果たしてこの日本にどれだけいるだろうか?
 クラシックをとりまく環境に、いま顕著に感じられるひとつの傾向がある。
 それは「飢餓感」の欠如である。
 戦後の混乱期、マンフレット・グルリットの指揮によって日本初演された『ドン・ジョヴァンニ』には、劇場の周りを幾重にも聴衆が取り囲み、ほぼ1ヶ月に渡って上演が続けられたのだという。あの時代、食べ物や住まいだけをもとめて人々は生活していたのではなかったのだ。むしろ食べ物を少し諦めてまで、劇場で音楽を聴き、感動したいというやむにやまれぬ「飢餓感」が、劇場の周りを幾重にも取り囲ませたのに違いない。
 レコードもそうだ。かつて私たちは、1枚の音盤にどれだけ熱狂的な愛情を注ぎ込み、買うかどうかを悩み、ひとつの演奏を針が擦り切れるまで苦労して苦労して、すみずみまで聴き抜いてきたことだろう。そこにはやはり一種の「飢餓感」があったと思うのだ。
 いま、人々は音楽に食傷し、音への感覚はますます麻痺している。いまのクラシック・ファン(特に評論家)に支配的なのは、いかに自分が「音楽の美食家」であるかということを競い合うことである。
「美食家」も大変結構なことだとは思うが、そればかりだと音楽が「生きていくためにどうしても必要」な感覚とか「やむにやまれない音楽への渇望感」は、だんだん欠如していくのではないか。
 クラシックが「贅沢」だけなら、それは「あってもなくてもいい」という認識にもつながりかねない。


●去勢された音楽
 音楽は、それを扱う人間の思った通りに響くものだと思う。命より大事だと思えばその通りに響く。乱暴に扱えば乱暴に響くし、神の手のごとく繊細に扱えば、そのように繊細に鳴る。 この程度の軽いもの、だと思えばその通りに適当に軽く響く。
 大真面目にいってしまえば、音楽とは、本来、ものすごく超越的な「霊性」とでも呼ぶべき何かを伝えることのできる、唯一のもっともダイレクトな方法ではないだろうか。それは、言葉でも、映像でも、味覚でも、決して伝え得ない、動くような流れるような何かだ。
 人間がより人間らしくあるための、存在の根本に関わるような、誰にでも開かれた大切な行為、そのひとつが音楽なのかもしれないのだ。
 特にクラシック音楽は、その特殊な能力を、人種や生まれ育った環境や貧富の差、教養の有無を超えて、かなり普遍的に発揮することができるはずだ。それはもちろん、無意味に偉そうにすることとは別だ。
 音楽のその過激な能力は、現代社会において、ひどく去勢されている。いま音楽は、生活を彩る、あってもなくてもいい添えものと化し、贅沢で、快感の程度を云々される、上品でまあまあよくできたエンターテインメントとして扱われている。おそらく、それこそが本当の危機なのだ。