---------------------acu.1 「再会」







マンションの一室。
殺風景だが、どこか生活感がある不思議な一室。

独りで暮らし出して、もう8年が経つか経たないか。
はじめに暮らし出した頃と
何も変わらない家具、それと配置。


変わったのはここ数年目覚ましい普及を遂げているパソコンがあることだろうか。






その日は雨が降っていた。
滅多に窓もカーテンも開けないこの部屋を
一層暗くしていた。








そこに住むのは霧原直人。
今年25になる普通の青年。
毎日会社へ行き、独りこの部屋へと帰って来る。
その往復だけだ。
たまに友人「反町」に誘われ、飲みにも出るが、
本来直人はあまり飲みに出るのが好きではない。
家で「反町」と酒を飲む方が好きなのだ。



彼は8年前、家族から離れた。
正確に言えば、家族が崩壊したようなものだった。
父親の会社が倒産し、母親は浮気、父と離婚した。
直人には7才離れた弟がいた。
母は直人と弟を引き取り、再婚した。

その後、風の噂で父親が自殺したと聞いた。
葬儀には、母親の顔色を伺い、参列することを避けた。
…避けたというより、父親がいた事実を、なかったことにしようとする空気が
家の中に充満しているように直人は感じていた。

自分は母が離婚した時15才だったが、
小学生の弟はどう感じていたのだろうか…。




母親の再婚相手、義父は資産家で、会社を幾つも経営していた。
義父の父親、つまり直人には義理の祖父にあたる人物が医者だったため、
直人は医学部を目指すことを義務付けられた。
しかし、医学の道は直人には向いておらず、
父親の会社へそのまま入ることになり、弟が医者を目指すことになったようだ。

「ようだ」というのは、
直人は高校を卒業すると同時に家を出て、
幼い弟と母親を残し、今のこのマンションに独り暮らしすることになったからだ。



直人は若くして、会社では結構いい地位についている。
しかし、会社の経営者が義父だとは口が裂けても言いたくないことだった。
直人は旧姓を名乗っているため、バレることはないようだ。






義父は厳格な人物で、
会社でも良く思われてはいない。
直人は何度も反発し、何度も殴られた。
義父がすんなり直人を手放したのも、厄介払いができるという理由もあったのだろう。

母親が義父のどこに惚れたのかは分からないが、
義父と母は仲がよかったとは言えないように見えた。
母は毎晩どこかへ出掛け、
父は家に帰らない日々が続いていた。

家のことは家政婦がやってくれていた。
小さな弟や、まだ学生だった直人の面倒を見てくれていたのは
「神谷」という中年の執事のような男だった。




何故義父が、そんな母親と自分達を捨てずに家族として養っているのか、
今なお分からなかった。
しかし、「自分」が家族を養わなくてもいい、そんな責任から逃れている無意識な気軽さが直人にはあった。
母親と弟には義父がいるから大丈夫だ。
食いっぱぐれることも、家がなくなることもまずない。
そして自分は自由に暮らしてゆける。

自由と引き換えに、家族がいなくても平気だと直人は思った。



















会社から出られる9時過ぎ。
本当はもう少し仕事が残っているが、自宅でやればいい。
直人はだいたい毎日そのくらいに切り上げ、家路を辿るのだ。

会社から出ると、外はすっかり雨に濡れていた。



家と会社は電車で6駅。
車で20分かからない。
遠くもないが、やはり朝のラッシュは嫌いだった。
直人は車を利用することが多かったが、
25歳でこんなにいい車を転がしている自分を野次る同僚も少なくはなかった。

マンションの駐車場に車を停め、隣のコンビニで買い物をする。
雨が強く降っていたが、コンビニまでは歩いて3分もない。
傘をさすまでもないな、と直人は走ってコンビニへ向かった。




朝も昼も夜も、直人はコンビニ弁当を利用する。
はっきり言って、飽きてはいるものの、
それは弁当を味わうからだと思っている。

胃に入ってエネルギーになればなんでも良い。

直人は極力弁当を味わわないように弁当を食べる癖がすっかり身についていた。
母親の手料理の味も、遠い記憶の彼方にも残っていないくらいだった。









コンビニから出る時も、相変わらず雨は降り続いていた。
近いとはいえ、すっかり濡れてしまった直人は
意固地にならず、傘をさせばよかった、と少し自分を失笑してしまった。



マンションはオートロック。
自分以外は、中から開けないと入れないようになっている。
直人は鍵をポケットから取り出し、いつものようにロックを開ける用意をした。


オートロックの前に誰かがしゃがんでいた。
大人ではない、子供か?中学生くらいか?


どこかの家の子供が鍵でもなくしたのだろうか…?


マンションの住人とは全くと言っていいほど顔を合わさない。
隣に誰が住んでいるのか、
どういう層の住人が住んでいるのか、
都会の典型的な住み方なのだろうが、
実の父親が商店街で時計店を経営していたためか、
近所付き合いのないこういう生活は、直人にとっては逆に不便に感じられたのだった。






しゃがみこむ子供は直人なんかよりずっと濡れていた。
学生服に鞄をひとつ。




色の白い子だな…。


直人は不思議と彼を凝視してしまった。
しゃがみこみ、顔を伏せている。



顔を見たい。
何故かそう思った瞬間、
ふと彼は顔を上げた。































「にい…さん…?」















思いがけない言葉だった。

顔を見た瞬間、直人にはそれが誰だか分かった。
分かったというより、何か血のようなものが呼び寄せたのか。






8年前に置いていった、
まだ幼い子供だった弟、「直也」だった。












「!…直也…か…?」











-----------------------act.2 「弟」








目を伏せがちに頷く直也。
昔から色が白かったように思うが、
こうして成長してみると、ますます色が白かったことに気付かされる。











「…どう……どうした…?」



8年振りの再会だった。
そして思いがけない再会。

もう自分には家族はいないものだと思っていた直人は
思いのほか自分が喜びの感情を持っていたことに、少し驚いた。






「…ごめ…ごめんなさい…」






直也が立ち上がった。
その姿は女の子のように細く、背も自分より頭1つ分低かった。
直也自身も、その背丈の差に戸惑ったのか、
懸命に視線を合わせようとした。
その上目遣いが、幼い頃から変わっていないことを思い出した。




…などと思い出に浸っている場合ではなかった。
直也はこの大雨で、かなり濡れている。
夏が過ぎたばかりとはいえ、この天気で雨に打たれていれば、相当寒いはずだ。
とにかく家に上げてやることが先決だ。
直人はオートロックのキーを回し、
直也をマンションの中へ招きいれた。


















「おまえ…先シャワー浴びろよ。寒いだろ」
「…でも…」
「風邪引くぞ。ほら、着替え、オレの使えばいいから」






直人は8年前まで直也と暮らしていたのだ。
その頃。面倒を見てきたように、
直也を風呂場へ案内し、自分が使っている部屋着を渡した。

突然直也が来たことには
きっと理由があるに違いない。
大方、あの義父とでも喧嘩になったといったとこだろう。
直也は自分と違い、従順で素直で、小さい頃は泣き虫で
いつも自分の後ろに隠れているような子供だった。

なにか義父に言われ、反論できる術を得ているとは思えなかった。
勢いで飛び出してきたか…
などと幼い頃の直也を思い出し、浸っていたが、
もう直也も18才になったはずだ。
俺が知っている直也ではないかも知れないな…
とも思いつつ、幼い頃直也が好きだったホットミルクを用意してやっている自分がいた。

この部屋に独りでいると気付かなかったが、
案外自分は世話好きなのだろうか…
それとも直也という「弟」だからだろうか…
なんだか不思議な気分になりつつ、
部屋に少し暖房を入れ、直也が出てくるのを待っていた。








「…俺も着替えるか…」








そういえば、自分も雨に濡れていたのだった。




















「お、暖まったか?」
「…うん…ごめんなさい…にいさん…」








遠慮がちに話す話し方は変わっていなかった。







「謝らなくていい。…大きかったか?服」


部屋着の裾を折り曲げ、
袖からは手が出ていない直也を見て、
直人は自分が笑顔になっていることに気付いた。
この部屋でかつてこんなに笑顔になったことはあっただろうか?





「…うん…」





少し顔を赤らめ、手持ち無沙汰にさせている。





とりあえず、直也をソファに座ら、ホットミルクを差し出してやる。

「ありがと…」




おいしそうに口をつける。

「…大きくなった…な、18才になったか」
「…うん…」
「学校は…?どこ通ってるんだ?」
「…兄さんと、同じ」
「そうか」
「…うん。義父さんも、そこに行けって言ったし、僕も兄さんと同じ学校行きたかったから…」
「…どうしてる?母さんと義父さん」
「…うん…変わりない」
「…そうか」
「…にいさん…」
「…ん?」
「いきなり来て…ごめんなさい」
「…いや、いいさ。俺も…ずっと会いにいかなくて悪かった…」



それは本音でもあった。
弟のことは、心の片隅で気にはしていた。
だけど、どこかで自分は自由になったと、自分と家族は関係ないと、
そう思うことで、弟・母親のことは忘れようとしていた。

放っておかれた弟は…一体どんな暮らしをしてきたのか。
直人には償う義務もあると自分で思っていたし、
それは義務感だけではなく、直也の顔を見た瞬間、やはり家族の絆なのか、
なにか直也とはやはり兄弟だからか、
兄として、今は亡き父親の変わりに、自分が直也を守ってやらなくてはならないと、
そんな気持ちがあることに気付いた。




「ううん…」
「…なんか…あったのか?」









核心に触れた。
直也の身体が、一瞬ビクっと震えた。








「………」
「…義父と…喧嘩でもしたか」







自分も義父とはよく食い違った。
直人は性格上、言い争っても何も気にはしなかった。
直也の性格から言えば、きっと義父に逆らえず、行き場がなくなってしまったのであろう。

「…喧嘩…っていうか…喧嘩じゃないんだけど…」
「…ああ」
「…僕……」



言葉に詰まる。
直也は口数は多くない方だ。
話す時も、じっくり言葉を選ぶ。
人を傷つけない言葉。
決して感情を剥き出しに話をする子供ではなかった。

それは性格もあるだろうが、
彼が育った環境がそうさせたのかも知れない。
兄の自分はしょっちゅう親とぶつかり、感情のまま生きてきた部分もある。
弟はそんな自分を見ていたからか、
直人とは真逆のベクトルを持つようになっていった。










「にいさんみたいに…なれない…」










「え…?」















「兄さんみたいになれない…。
 僕、勉強もできなくて…怒られて…。
 きっと医学部には行けないよ…」








やはり義父は、直也に医者の後継ぎをさせるつもりらしい。




「義父さんがね…
 兄さんはもっと勉強できたって…言ってて…。
 僕、またテストで悪い点数取っちゃったから…なんか…帰るの怖くて…」







18というば高校3年か。
そろそろ周りが勉強に敏感になってき出した頃か。
直人は自慢ではないが勉強はできた。
学年でもトップ。
特に勉強はしなかったし、努力はしなかったが、点数はいつもよかった。
そんな自分に義父が余計期待したのだろう。
しかし直人は医者にはなりたくなかった。






「…そうか。
 悪かったって…そんなに悪かったのか?」

「うん…学年で3位だったから…」


「…さ、3位?!…十分じゃないか」







直人は拍子抜けした。
3位で怒る義父。
直也の通う学校は自分と同じ学校で、
その学校は都内でも有名な進学校だ。
自分だったら、きっとまた義父と喧嘩になっていただろう。









「兄さん、勉強教えてくれる…?」





「…ああ、いいけど…直也、大丈夫か?」
「…うん?」
「いや…無理に義父の言うようにしなくてもいいんだぞ」
「…でも…」
「……まぁ勉強なら、俺見てやるし、なにかあったら俺に言えよ」
「…うん」

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厨房801小説 兄弟大好き 兄×弟 ありえない厨房設定 
なんと言われようと、ここ8年間のオレのネタ

---------------------acu.1 「再会」


マンションの一室。
殺風景だが、どこか生活感がある不思議な一室。

独りで暮らし出して、もう8年が経つか経たないか。
はじめに暮らし出した頃と
何も変わらない家具、それと配置。



変わったのはここ数年目覚ましい普及を遂げているパソコンがあることだろうか。




その日は雨が降っていた。
滅多に窓もカーテンも開けないこの部屋を
一層暗くしていた。









そこに住むのは霧原直人。
今年25になる普通の青年。
毎日会社へ行き、独りこの部屋へと帰って来る。
その往復だけだ。
たまに友人「反町」に誘われ、飲みにも出るが、
本来直人はあまり飲みに出るのが好きではない。
家で「反町」と酒を飲む方が好きなのだ。





彼は8年前、家族から離れた。
正確に言えば、家族が崩壊したようなものだった。
父親の会社が倒産し、母親は浮気、父と離婚した。
直人には7才離れた弟がいた。
母は直人と弟を引き取り、再婚した。

その後、風の噂で父親が自殺したと聞いた。
葬儀には、母親の顔色を伺い、参列することを避けた。
…避けたというより、父親がいた事実を、なかったことにしようとする空気が
家の中に充満しているように直人は感じていた。

自分は母が離婚した時15才だったが、
小学生の弟はどう感じていたのだろうか…。




母親の再婚相手、義父は資産家で、会社を幾つも経営していた。
義父の父親、つまり直人には義理の祖父にあたる人物が医者だったため、
直人は医学部を目指すことを義務付けられた。
大学で医学の勉強はしたものの、
医学の道を直人は目指す気にはなれなかった。
決して医学の勉強が嫌いだったわけではないが、
義父の敷いたレールの上を歩くのが嫌だったのだ。
結局直人は、一流企業へ自力で入ることになり、
弟が医者を目指すことになったようだ。

「ようだ」というのは、
直人は高校を卒業すると同時に家を出て、
幼い弟と母親を残し、今のこのマンションに独り暮らしすることになったからだ。






義父は厳格な人物で、
会社でも良く思われてはいない。
直人は何度も反発し、何度も殴られた。
義父がすんなり直人を手放したのも、厄介払いができるという理由もあったのだろう。

母親が義父のどこに惚れたのかは分からないが、
義父と母は仲がよかったとは言えないように見えた。
母は毎晩どこかへ出掛け、
父は家に帰らない日々が続いていた。

家のことは家政婦がやってくれていた。
小さな弟や、まだ学生だった直人の面倒を見てくれていたのは
「神谷」という中年の執事のような男だった。







何故義父が、そんな母親と自分達を捨てずに家族として養っているのか、
今なお分からなかった。
しかし、「自分」が家族を養わなくてもいい、そんな責任から逃れている無意識な気軽さが直人にはあった。
母親と弟には義父がいるから大丈夫だ。
食いっぱぐれることも、家がなくなることもまずない。
そして自分は自由に暮らしてゆける。

自由と引き換えに、家族がいなくても平気だと直人は思った。















会社から出られる9時過ぎ。<BR>
本当はもう少し仕事が残っているが、自宅でやればいい。
直人はだいたい毎日そのくらいに切り上げ、家路を辿るのだ。

会社から出ると、外はすっかり雨に濡れていた。




家と会社は電車で6駅。
車で20分かからない。
遠くもないが、やはり朝のラッシュは嫌いだった。
直人は車を利用することが多かったが、
マンションの駐車場に車を停め、隣のコンビニで買い物をする。
雨が強く降っていたが、コンビニまでは歩いて3分もない。
傘をさすまでもないな、と直人は走ってコンビニへ向かった。








朝も昼も夜も、直人はコンビニ弁当を利用する。
はっきり言って、飽きてはいるものの、
それは弁当を味わうからだと思っている。

胃に入ってエネルギーになればなんでも良い。

直人は極力弁当を味わわないように弁当を食べる癖がすっかり身についていた。
母親の手料理の味も、遠い記憶の彼方にも残っていないくらいだった。
コンビニから出る時も、相変わらず雨は降り続いていた。
近いとはいえ、すっかり濡れてしまった直人は
意固地にならず、傘をさせばよかった、と少し自分を失笑してしまった。




マンションはオートロック。
自分以外は、中から開けないと入れないようになっている。
直人は鍵をポケットから取り出し、いつものようにロックを開ける用意をした。



オートロックの前に誰かがしゃがんでいた。
大人ではない、子供か?中学生くらいか?



どこかの家の子供が鍵でもなくしたのだろうか…?
マンションの住人とは全くと言っていいほど顔を合わさない。
隣に誰が住んでいるのか、
どういう層の住人が住んでいるのか、
都会の典型的な住み方なのだろうが、
実の父親が商店街で時計店を経営していたためか、
近所付き合いのないこういう生活は、直人にとっては逆に不便に感じられたのだった。







しゃがみこむ子供は直人なんかよりずっと濡れていた。
学生服に鞄をひとつ。





色の白い子だな…。



直人は不思議と彼を凝視してしまった。
しゃがみこみ、顔を伏せている。






顔を見たい。
何故かそう思った瞬間、
ふと彼は顔を上げた。















「にい…さん…?」
















思いがけない言葉だった。

顔を見た瞬間、直人にはそれが誰だか分かった。
分かったというより、何か血のようなものが呼び寄せたのか。








8年前に置いていった、
まだ幼い子供だった弟、「直也」だった。









「!…直也…か…?」













-----------------------act.2 「弟」










目を伏せがちに頷く直也。
昔から色が白かったように思うが、
こうして成長してみると、ますます色が白かったことに気付かされる。










「…どう……どうした…?」







8年振りの再会だった。
そして思いがけない再会。

もう自分には家族はいないものだと思っていた直人は
思いのほか自分が喜びの感情を持っていたことに、少し驚いた。









「…ごめ…ごめんなさい…」








直也が立ち上がった。
その姿は女の子のように細く、背も自分より頭1つ分低かった。
直也自身も、その背丈の差に戸惑ったのか、
懸命に視線を合わせようとした。
その上目遣いが、幼い頃から変わっていないことを思い出した。







…などと思い出に浸っている場合ではなかった。
直也はこの大雨で、かなり濡れている。
実家からここまでは結構離れている。
まさか歩いてきたのだろうか…?

夏が過ぎたばかりとはいえ、この天気で雨に打たれていれば、相当寒いはずだ。
とにかく家に上げてやることが先決だ。
直人はオートロックのキーを回し、
直也をマンションの中へ招きいれた。












「おまえ…先シャワー浴びろよ。寒いだろ」
「…でも…」
「風邪引くぞ。ほら、着替え、オレの使えばいいから」







直人は8年前まで直也と暮らしていたのだ。
その頃。面倒を見てきたように、
直也を風呂場へ案内し、自分が使っている部屋着を渡した。

突然直也が来たことには
きっと理由があるに違いない。
大方、あの義父とでも喧嘩になったといったとこだろう。
直也は自分と違い、従順で素直で、小さい頃は泣き虫で
いつも自分の後ろに隠れているような子供だった。

なにか義父に言われ、反論できる術を得ているとは思えなかった。
勢いで飛び出してきたか…
などと幼い頃の直也を思い出し、浸っていたが、
もう直也も18才になったはずだ。
俺が知っている直也ではないかも知れないな…
とも思いつつ、幼い頃直也が好きだったホットミルクを用意してやっている自分がいた。

この部屋に独りでいると気付かなかったが、
案外自分は世話好きなのだろうか…
それとも直也という「弟」だからだろうか…
なんだか不思議な気分になりつつ、
部屋に少し暖房を入れ、直也が出てくるのを待っていた。









「…俺も着替えるか…」










そういえば、自分も雨に濡れていたのだった。









「お、暖まったか?」
「…うん…ごめんなさい…にいさん…」





遠慮がちに話す話し方は変わっていなかった。






「謝らなくていい。…大きかったか?服」



口元が緩む。
部屋着の裾を折り曲げ、
袖からは手が出ていない直也を見て、
直人は自分が笑顔になっていることに気付いた。
この部屋でかつてこんなに笑顔になったことはあっただろうか?





「…うん…」






少し顔を赤らめ、手持ち無沙汰にさせている。





とりあえず、直也をソファに座ら、ホットミルクを差し出してやる。


「ありがと…」






おいしそうに口をつける。



「…大きくなった…な、18才になったか」
「…うん…」
「学校は…?どこ通ってるんだ?」
「…兄さんと、同じ」
「そうか」
「…うん。義父さんも、そこに行けって言ったし、僕も兄さんと同じ学校行きたかったから…」
「…どうしてる?母さんと義父さん」
「…うん…変わりない」
「…そうか」
「…にいさん…」
「…ん?」
「いきなり来て…ごめんなさい」
「…いや、いいさ。俺も…ずっと会いにいかなくて悪かった…」








それは本音でもあった。
弟のことは、心の片隅で気にはしていた。
だけど、どこかで自分は自由になったと、自分と家族は関係ないと、
そう思うことで、弟・母親のことは忘れようとしていた。

放っておかれた弟は…一体どんな暮らしをしてきたのか。
直人には償う義務もあると自分で思っていたし、
それは義務感だけではなく、直也の顔を見た瞬間、やはり家族の絆なのか、
なにか直也とはやはり兄弟だからか、
兄として、今は亡き父親の変わりに、自分が直也を守ってやらなくてはならないと、
そんな気持ちがあることに気付いた。







「ううん…」
「…なんか…あったのか?」









核心に触れた。
直也の身体が、一瞬ビクっと震えた。








「………」
「…義父と…喧嘩でもしたか」









自分も義父とはよく食い違った。
直人は性格上、言い争っても何も気にはしなかった。
直也の性格から言えば、きっと義父に逆らえず、行き場がなくなってしまったのであろう。

「…喧嘩…っていうか…喧嘩じゃないんだけど…」
「…ああ」
「…僕……」






言葉に詰まる。
直也は口数は多くない方だ。
話す時も、じっくり言葉を選ぶ。
人を傷つけない言葉。
決して感情を剥き出しに話をする子供ではなかった。

それは性格もあるだろうが、
彼が育った環境がそうさせたのかも知れない。
兄の自分はしょっちゅう親とぶつかり、感情のまま生きてきた部分もある。
弟はそんな自分を見ていたからか、
直人とは真逆のベクトルを持つようになっていった。










「にいさんみたいに…なれない…」









「え…?」











意外な言葉だった。
自分とは逆の性格、それが直也の良いところだと思っていたし、
自分自身は、直也のそんな温和で頭の良い性格がうらやましくも思っていたからだ。



「兄さんみたいになれない…。
 僕、勉強もできなくて…怒られて…。
 きっと医学部には行けないよ…」









やはり義父は、直也に医者の後継ぎをさせるつもりらしい。








「義父さんがね…
 兄さんはもっと勉強できたって…言ってて…。
 僕、またテスト、悪かったから…なんか…帰るの怖くて…」







18というば高校3年か。
そろそろ周りが勉強に敏感になってき出した頃か。
直人は自慢ではないが勉強はできた。
学年でもいつもトップ。
特に勉強はしなかったし、努力はしなかったが、点数はいつもよかった。
そんな自分に義父が余計期待したのだろう。
そして、期待に決して沿うことのない反抗的な直人に、腹が立ったのだろう。







「…そうか。
 悪かったって…そんなに悪かったのか?」

「うん…」



























うつむく直也。
黙って鞄の中からテストの用紙を取り出す。
直人は拍子抜けした。
点数は全く悪くない。
文系などは満点だ。
理数も義父が怒るほど悪くはない。
むしろ直人は文系がダメで、理系は満点だったくらいだ。
対して変わりがあるとは思えない。
 



「…できてるじゃないか」

「…でも…学年で4位だったから…」



「…よ…4位…」



4位で怒る義父。
直也の通う学校は自分と同じ学校で、
その学校は都内でも有名な進学校だ。
自分だったら、きっとまた義父と喧嘩になっていただろう。
何が不満なんだ、と。
実際何度それで言い争いになったことか。
あの義父は、トップの直人の成績にもケチをつけていた。
トップ以上、どんな成績を取ればいいと言うんだ。





「兄さん、勉強見てくれる…?」






「…ん、ああ」





正直大学に入ってから、ロクな勉強をしたとは言えない。
果たして高度な高校生の勉強など教えられるのだろうか。
自分にも分からないことだったら兄として面目がないな…
今の直人より、直也の方が勉強はできそうだった。




「ごめんね…突然来て…勉強教えてなんて」

「あ、あぁ、気にするな」

心の中を読まれたような錯覚に陥った。
直也の瞳は、昔からなんでもお見通しのように見えた。
口数が少ないから尚更だ。

















寝室にはパソコンを置いてある机と、
書類の山積みになった机があった。
そこは滅多に片付けたりはせず、仕事を粗方片付けた後、そのままベットで眠ってしまうのであった。
ノートを広げる机はここしかない。
とにかくここを片付けてしまうしか仕方ない。



「ちょっと片付けるから、そこ座って待ってろ」



直也を寝室のベットに座らせ、
自分は書類の山を簡単に片付け出した。
とにかく机のスペースを空けることだけに集中した。



「…手伝うよ」




直也は容量良く書類を整理して隅に寄せてゆく。
直也の几帳面さが出た一面だった。
かつて母も、商売をしていた頃は、このように書類やお金を仕分けるのが丁寧だった。
直也は母親に似たのだな、とふと思う。
そして端整に整った顔立ちも、美人だった母親に似ているように思えた。











机が片付き、
直人と直也が腰かけた。
直也は数学の問題用紙を広げ、直人はその問題をひとつひとつ丁寧に教えた。


「よし、あってる」



直也も教えればすんなり分かるほど頭がいい。
間違い方も、根本的にわかっていなかったわけではないようだ。






いつの間にか数学α・数学Ⅱ・化学・など、直也の苦手教科を次々と克服していった。





直也が学習用のテキトを進めている間、
直人は自分の仕事を片付けた。











「直也…」





「直也?」








直也はよほど疲れていたのだろう、
座ったまま、眠ってしまっていた。
直人はそんなまだ幼い弟の寝顔を見て、起こさないよう抱き上げ、ベットまで運んだ。






--------------------act.3 「ぬくもり」





軽い…。
もちろん男を抱き上げたことも、
まして女をこうして抱き上げたこともなかったが、
軽いと感じた。



ベットに直也を横たえ、
毛布を掛けてやる。





幼い頃の直也の寝顔を思い出した。
昔と変わらない寝顔だな…
こんなことを思い出したことはなかったが、
直也の寝顔を見て、急に懐かしいという感情が
直人の中から湧き出した。
 
 
















それから2時間が経っただろうか。
直人は黙々と仕事を片付けた。
本当は直也を起こさないように別室で仕事をするべきだったのだろうが、
パソコンや資料、書類がこの部屋にはあり、
別室での仕事は要領を悪くしそうだったので、早く切り上げればいいかと、この部屋で仕事を続行した。

なにより、直也は熟睡していて、
多少の物音では起きそうになかったからだ。








「…ん…」










深夜2時を回った頃か、
直也が小さな声を上げ、寝返りを打った。





ふと直也を見ると、
毛布から細い腕が飛び出していた。




そういえばこいつ、小さい頃から寝相が悪くて…
よく二段ベットの一段目から落ちて、泣いてたな…












直也の腕をそっと掴み、毛布の中に入れてやろうとしたとき、
「…ん…」
直也が再び寝返りを打った。







「!!」

「…!悪い、起こしたか?」







「!!ご、ごめんなさいっ…僕…っ…ごめんなさい!」










慌てて謝る直也。
何に対して謝っているのだろうか?
直人は理解に戸惑った。


「…?いや、気持ちよさそうに寝てたぞ。疲れてるんじゃないのか?」


そう、直也は雨の中濡れてここまで辿り着いたのだ。
きっと疲れているに違いない。
もしかしたら熱でもあるのかも知れない。
なにげなく、直也の額に手を当てようと手を近づけた。




「っごめんなさいっ!!!!」






直也が顔を背け、手で自分を庇おうとした。





そして、我に返り、戸惑っていた。






「…ごめ…なさ…」






直人は一瞬何が起こったのか理解できなかったが、
その白い手にアザがあることを、直人は見逃さなかった。
直也はひどく怯え、涙ぐんでいた。
もしかしたら殴られるとでも思ったのだろうか?











直人はそっと直也に近づいた。
直也が怯えているのが分かった。






「…どうした?」





直也を驚かさないように、
優しく問う。








「…っ…」






必死に涙を堪えている。









「泣いてもいいよ。
 大丈夫だ」












理由は聞かない。
今はその時ではないはずだ。
とにかく直也を落ち着かせることが先決だ。







「…っにいさ…」








直也の白い頬に、涙が伝った。
直也を優しく引き寄せ、そっと抱きしめた。
直也の身体は強張っていたが、直人の肩に顔をうずめた。













直也の薄い肩が揺れている。

直也が静かに泣く音だけが、部屋に響いた。







-----------------act.4 「義父」




そのまま、どれくらいそうしていたのだろう?

抱き合う、という形ではなかったが、
確かに直也は 直人に身体を預けている。





8年振りに会った弟に…
何故自分がこんな風に接したのかはよく分からない。
しかし直人は、そうすることが必要で、直也には自分が必要なのではないか、と
そう思っていた。







「……ぃ…さん…」
「…ん?」





泣き腫らした顔…という表現とは程遠いような、
泣き顔なのに綺麗な顔をしていた。
そして、実の弟に「綺麗」という形容詞を使う兄は、
世界で自分だけではないかと、
少し可笑しく思った。






「…ぼく…帰らなきゃ…」
「え…」




時計を見るまでもなく、深夜だ。
時計を見ると、深夜3時を回っていた。





「…もう遅い。今日は…」
泊まっていけばいい。
そう言おうとした瞬間、直也は首を振った。



「義父さんに…お、怒られるから…」







怒られるといっても、こんな夜中に帰ったってどうせ怒られるであろう。




「…俺から義父には話すから…。な?」
「…でも…」
「…直也?…疲れてるだろ。ゆっくり休んでいけばいい…」
「……」





これ以上言っても無駄だと観念したのか…
それとも疲れからきた睡魔が直也を襲ったか…
直也は静かに目を閉じた。










直人は
さすがに弟と添い寝はできないと思い、
直也の目を覚まさないように、静かに部屋を出た。

リビングのソファに身体を沈めることにした。



























カタカタという聞き慣れない音で目を覚ました。
かすかに、久しぶりに嗅ぐ匂いがした。
味噌汁か…?









身体をぐっと反らせ、キッチンの方を見る。
制服に身を包んだ少年が、キッチンに立って料理をしていた。












「なお…や…?」

「…あ…ごめん…起こしちゃったよね…」

「いや…」

時計に目をやる。
7時前だった。








「…ごめんなさい。勝手に借りちゃった。」
「…朝メシか…?悪いな…」
「兄さんいつも何食べてるの?」





そういえば朝ご飯など、ここ数年作っていない。
むしろ料理などここ数年していない。
朝コーヒーを飲むときに沸かすお湯と、インスタント麺を作るときのお湯。
弁当を温めるときにレンジを使うくらいだ。


いつしか女が来て、手料理を作ったこともあったな。
あまり美味いという代物ではなかったが。





「ちゃんと食べなきゃだめだよ」





直也が笑顔で兄を諭す。
まるで母親が子供にそうするように。
そして実際、その微笑は母親の面影を背負っていた。

もっとも…母は直也のような穏やかな性格であったという記憶はないが。









リビングのテーブルに並んだ朝食は
高校生の男の子が作ったとは思えないくらい美味そうだった。
白メシ、味噌汁、出汁巻玉子…。

「…なにもなかったから…これしか作れなかったけど…」
「…いや…美味そうだ」
「ホント?」
「ああ」
「よかったぁ…」

「いつも…自分で作るのか」
「…うん」
「誰か作ってくれるんだろ、家政婦とか…」
「ううん、もう今は誰もいないよ」
「……神谷は…神谷ならいるだろ?」
「…神谷さんだけね…。でも神谷さんも料理は作ってくれないよ」





直人が家にいた頃は、家政婦が数人おり、
身の回りの世話をしていてくれた。
一時は厨房にはシェフと呼ばれるような人もいたが、
義父の「飽きた」の一言で解雇されたと聞いた。
あれだけたくさんいた家政婦が誰1人いないとは…
さすがに義父に愛想を尽かせたか、噂が噂を呼んで、誰も勤めたがらないのだろう。







「…そうか」
「でも、自分で作った方が…おいしいしね」
「…すごい自信だな」
「…あ…そういう意味じゃなくて…」




軽くからかう兄。
顔を赤らめて否定する弟。
世間一般では普通の兄弟なのだろうが、
直人と直也にはひどくくすぐったく感じるもので、
どこか照れくさく、そしてそんな感情すらも新鮮だった。








「…ん!うまい…」
「ホント?」



思わず食が進む。
ここ数年、朝は簡単な栄養食品とコーヒーで済ませていたのにも関わらず、
食が進んだ。

そういえば夕べは夕食を取るのも忘れていたな…。



「誰にも食べてもらったことなかったから…ちょっと心配だったんだ」







さらりと直也が言った。
誰にも…?
直也はずっと1人で食卓についていたのか。
直人が覚えている限り、広いリビングだった。
あのリビングで1人、いつも1人で飯を…。


























「…直也」
「…うん?なに?」

















「一緒に住まないか」


























弟を引き取る、そんな意味じゃなかった。
直也が愛しい。
直也を守りたい。
唯一の弟に…寂しい思いをさせたくない。