映画「プライド」に観る日本人の戦争観

 私は戦争を実際に経験していないので(あたりまえ)戦争について主観的に語る資格はないと思いますが、書物や映像などを通して客観的、時には当時の人々の主観に近づいて考える重要な事だと思います。ここでは今年公開された「プライド」という映画を観て、それをきっかけに手にしたロベール・ギラン著の「日本人と戦争」と小林よしのり著の「新ゴーマニズム宣言戦争論」2冊の本を比較しながら(主に太平洋戦争または大東亜戦争を軸にして)日本人論について考えていきたいと思います。

 映画「プライド」では第2時世界大戦にスポットを当て、戦後日本の起点とも言うべき極東軍事裁判(東京裁判)を題材にしてイギリス支配下にあるインドの独立運動を視野に入れながら被告東條英機の視点から東京裁判の全容をリアルに描いていて、とても一言では語れるないようではないと思いますが敗戦によってアメリカの民主主義に飲み込まれていく日本の悲しい姿が痛烈に伝わってくる作品だと思います。

 この映画にはかなりの賛否両論が飛び交っています。例を挙げるとデーブ・スペクター氏は「勝手に歴史を捏造し、東條英機を正義のヒーローにしたプライドを作るなんて、東映こそプライドを捨てた会社だ。」(デーブお得意の悪意のこもったアメリカンジョーク)と言っておられますが歴史を捏造というのは言い過ぎだと思います。

 映画というのは一つのエンターテイメントであり芸術ですので芸術作品として創り上げるには物語の創作が必要でしょうし、すべてが事実に忠実である必要はないと思いますがあきらかに歴史をひっくり返すような捏造でないかぎりその基準は難しいでしょうがよいと思います。(戦争を題材に史実を描いたスピルバーグ監督作品の「シンドラーのリスト」がありますが、この作品の方がかなり創作が含まれていて事実を単純化しすぎているように思う。)

 それに正義のヒーローというのも言い過ぎだと思います。劇中の台詞で東條英機が弁護を引き受けた清瀬一郎に「君は私のどこに弁護に値するものを観たのか?君自身、心底、私の無罪を信じて弁護できるのか?日本国を敗戦のどん底に追いやり多くの将兵を無駄に死なせその責任をとって潔く自決することなく、生きて虜囚の辰めを受けている、死に損ないのこの私のどこを指して無罪といえるのか!」それに対し清瀬弁護士は「おっしゃる通り、日本国及び日本国民に対して閣下は有罪です。しかし、米英敵国に対しては有罪ではない。少なくとも閣下にだけは有罪と認めて頂きたくありません!」と言う。そして別の場面のやりとりでは東條が「この裁判によって日本は歴史上、最低最悪の国家、民族にされてしまう」と言うと清瀬が「負けたからやられてるんですよ。負けなきゃやられませんよ」と答える。

 これらのやりとりからこの映画だは東條が正義のヒーローとして描かれているのではなく、日本を敗戦に導いた多大な責任を背負った上でたった一人で連合国相手に最初から負けると分かっている戦いを最後まで挑んでいくことによって日本人という誇りと尊厳を守りぬこうとした姿が描かれているのでデーブ氏の発言は言い過ぎだと思います。しかし、こういった批判が起こるほどあらゆる人の日本人の国家観を揺さぶるような作品がでてきたということはとてもよいことだと思います。この作品は現代の大量消費社会の中でただ単に消費されるだけの「シンドラーのリスト」のような作品にだけはならないでほしいと思います。

 まず、「日本人と戦争」では日本がなぜ戦争に踏み切らざるを得なかったかという視点からフランス人ジャーナリストが日本の学者が顔負けの日本人論を展開していてその中で大東亜共栄圏の樹立の思想を述べている章では「軍国日本の論理は理性の論理ではなく、本能の論理だからである。それは唯一の大衆から生じた群れの本能である。これら大衆は内部の混乱には無関心だあり、一体となって確実に前進しており集団を操作していると称刷る者の指導力に勝る強い集団衝動と不合理な観念によって導かれている。だがいまや行動するよりも思想を広めるときがきた。新秩序は本能よりも知性をこそ要求していた。ひとつの文明が仮に地球の四分の一の地域に君臨しようとした場合、武力によるのではなく、まず人々の心と精神をとらえなければならない」とあるようにこれをドイツと同じだという論調で共栄圏の構想はこれまでの決まり文句を思想と取り違えた民族主義的膨張だと言っています。この論調には一部の支配者が立場の弱い国民を無理やり戦争に導いたというありきたりの単純な勧善懲悪論に陥ることのない冷静な分析のうえで日本論を述べていますがドイツと同じだはちょっと言い過ぎかなと思います。

 一方、「戦争論」では民族解放の正義の戦争だと言っています。これもはっきり言ってしまうのはかなり勇気のいることだと思いますがこれもちょっと違うと思います。(この本では事実は事実として見つめて自虐的にならずに時には国粋主義的に前向きなスタンスがみられるので多少、誇張も入っていると思います。)私も一部の指導者だけが悪という論調には反対です。ここで近未来、全体主義が現れる危険を持つ現代の群衆社会の性質を論じている今村仁司著の「群衆−モンスターの誕生」という本の中で著者は「群衆国家の出現が等質群衆が指導者を要求するだけでなく、それを生産し、同時に指導者にこぞって全員が同一化することで互いの等質性を確認しあって共同体を作る」と言っています。よって「ナショナリズムは国民国家と連動しているにちがいないが、それは結果であって、両者の結合をもたらすのは群衆の心理と論理である」とファシズムの危険性というのは古いものではなく、いつの時代にもあるものだと警告しています。だからいつまでたっても“国家に虐げられるか弱い市民”というハリウッドの商業映画によくみられる勧善二元論で戦争を語るのはバカバカしいと思いますし、そこからは何も見えてこないと思います。

 「日本人と戦争」と「戦争論」では共通する意見もあります。アメリカの日本に対する原爆投下についての記述で前者は「白人は違う人類の人々に対して原爆を投下した。白人は、有色人種ではない人々に対してあえて原爆を投じただろうか?人種差別的な下心があって、それがあの呪いに充ちた爆弾の使用を容易にしたのだ」と言っており後者も「ポツダム宣言で天皇制条項をあいまいにしたのは原爆投下以前には降伏してはまずかったからだ。つまり20億ドルを投入した新兵器はソ連への威嚇のためにもそして何よりその効果を確かめるため良心が痛まないサル同然の黄色人種で実験せねばならなっかたのである」とあります。ミサイル一発であらゆるものを大量に破壊し虐殺してしまう核兵器はとても恐ろしい武器だと思います。(現在では湾岸戦争でも米軍が使ったといわれる気化爆弾という建物などを破壊せずに生物を窒息死させ大量殺戮が可能な兵器があるそうですが)核の恐怖を描いたスタンリー・キューブリックの名作「博士の異常な愛情」ではアメリカの戦略空軍基地司令官が突然発狂しソ連へ水爆攻撃を命令してしまうというブラックコメディ映画がありました。この映画はおすすめです。

 ここで映画「プライド」に戻って清瀬一郎弁護士による裁判管轄権に対する動機で日本はポツダム宣言を受諾し降伏した以上、東京裁判もポツダム宣言に従うべきで、宣言後に考えだされた「平和に対する罪」「人道に対する罪」へ適用できないはずであると国際法にもとづいて東條英機を弁護する。そして、その補足として米人弁護士ブレークニーは検事側の主張を「戦勝国の殺人は合法だが、敗戦国の殺人は非合法だ」というに等しいとし、さらに、「真珠湾空襲による被害が殺人行為ならば我々はヒロシマに原爆を投下した人物、投下を計画した人物の名前を知っている。彼らも殺人者ではないのか」と訴えています。アメリカの日本全土に行った大空襲で60万人、そして原爆投下では30万人もの民間人を大量虐殺したという明白な国際法違反の戦争犯罪は問われずに戦勝国によって敗戦国が裁かれるという構図は歴史が証明しているように幾度も繰り返されてきて事実です。こういう事実を多くの日本人が知るべきだし、情けない戦後処理でアメリカの意のままに民主主義にどっぷり浸かりきった日本の資本主義社会で生かされていることをもっと実感せねばならないと思います。

 

引用文献

「日本人と戦争」 ローベル・ギラン 朝日文庫

「新ゴーマニズム宣言 戦争論」 小林よしのり 幻冬社

「群衆−モンスターの誕生」 今村仁司 ちくま新書

 

 「新ゴーマニズム宣言 戦争論」を読んだ感想

 

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