☆★温泉の歴史★☆
ボリネシアン・スパは、1878年にカソリックの牧師マホニーによって発見されました。牧師は88キロ離れたタウランガに住んでいましたが、森(ブッシュ)をトレッキングしながら、この温泉の近くにキャンプを設営したと言われています。
 発見から3ヶ月の間にこの温泉は、定期的に入浴していたマホニー牧師の関節炎を癒したと評判になりました。
この温泉地に最初に建てられたのが、1882年にオープンしたパビリオンハウスです。この建物はその後1972年まで政府によって運営されていたワードバスを含む2つのバスハウスに建て替えられ、ポリネシアン・プール社にリースされていました。ボリネシアン・スパは現在私営業となっています。1972年政府運営から企業経営となって以来、この温泉はロトルアの温泉の電灯を引き継ぎながらも、改良を重ね、現在のような近代的で魅力的な温泉に生まれ代わりました。

修善寺温泉の歴史・・・
修善寺温泉の歴史は弘法大師が湯を発見したという伝説から始まる。修善寺に幽閉された源頼家は入浴中に暗殺されており、少なくとも鎌倉初期には温泉が利用されていたことがわかる。それ以後の北条早雲や豊臣秀吉の古文書にも温泉入浴のことが出ているが、どの程度の設備があったは不明である。しかし、徳川中期には石湯、箱湯、稚児の湯などの周囲の農家が湯治客を相手に部屋貸しを始め徐々に設備を充実していった。
いわゆる木貸宿で、湯治客は自炊を主とし、内湯はなく共同浴場に通っていった。それから、共同浴場を貸しきる留湯という制度が始められ、農家は福業から次第に専業の旅館に変わっていったが、この頃には既に湯治場としてそうとう知られていった。
明治初年になって、湯治客専用の温泉を設備した内湯が誕生し、交通機関が整備されて、多くの文人墨客が訪れるようになった。
そして、それらの作品には、湯治場から避暑地化した様子や温泉場と呼ばれる風物が表されている。共同浴場は稚児の湯、川原の湯、箱湯、新湯、滝の湯、石湯、寺の湯、杉の湯がある。
 温泉郷は、昭和21年までは自噴泉と子規模タービン揚げとが共存していたが、22年以降乱堀、増堀競争が始まり、25年には自噴泉は故渇してしまった。また、平均温泉は、昭和22年までは65℃であったが、56年には56℃まで低下した。この対策として、温泉事業協同組合では、利用可能な源泉73井の内優良な26井を集中管理することとし、昭和54年11月に着工、56年5月に完成した。その結果、水位は集中管理前は平均で海抜15mであったが、59年10月には80mに、温泉も62℃に上昇した。神経痛、リューマチ、胃腸病などに効果がある。