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REMEMBER THE FOUNTAIN
—想い出の泉—
慶野 響

 エメリアは店の扉が開いたのに気付いた。付けていた帳簿から顔を上げて言う。
「いらっしゃいませ! 何をお探しですか?」
 店内に明朗な声が響き渡った。
 ここは『レンシス』という名の店だ。もっぱら『冒険者』と呼ばれる人種を相手に商売している。『冒険者』とは、一攫千金を夢見て危険な遺跡にもぐり、多種多様な怪物と戦い、また人々の依頼を受けて厄介ごとを解決することで生計を立てる人々のことだ。社会からははみ出し者と見られており、また農民などの一般人は関わり合いになることを望まないが、しかしいなければそれはそれで困る存在ではある。兵士たちは、国のすみずみまでを警備するわけにはいかないのだ。
 店で扱う商品は、剣、槍、弓などの武器を始めとし、保存食、背負い袋、水袋など、およそ冒険に必要と思われるもののほとんどをそろえている。品ぞろえと品質の良さには定評があり、エルド地方で随一の老舗という看板に恥じない実力を誇る。
「エメリアさん?」
「あ、アーゼルさん。こんにちは」
 店に入ってきたのは、近くの工房で働く青年、アーゼルだった。年齢はエメリアと同じく、二十歳を越えて数年といったところだ。冒険者ではないが、日用雑貨を買いによくやってくる常連の一人でもある。まあ、彼の場合、目的は必ずしも買い物ではないのだが。
「ジョッキあります? それも、できればドワーフ職人の手になるやつを」
 アーゼルはエメリアに近づきながら言った。
「ええ、色々ありますよ。……ダグスさんですか?」
 ダグスとは、アーゼルが働いている工房の親方だ。卓越したドワーフの鍛冶師である彼は、酒を水代わりに——時には食事代わりに——かっ食らう。
「はい、親方の誕生日が近いもんで」
 アーゼルははにかみながら言う。
「そうですね、それじゃあ……このへんなんていかがです? 見た目もよいですし、値もお手頃ですよ」
「ええと、もう少し大きいのを——」
 十分ほどあれこれ選んだあげく、ようやくプレゼントが決定した。エメリアはお金を受け取って、
「お買い上げありがとうございます♪ ダグスさんによろしくお願いしますね」
 とにっこり微笑んで言った。
 アーゼルの顔が真っ赤になる。彼は慌てたように、
「え、ええと、それじゃあ、また!」
 と言い残してそそくさと退散した。
(アーゼルさんて、いっつも最後になると慌てるけど、何でだろう?)
 とちらりと思うが、十秒後にはもうアーゼルのことは頭から消え去り、再び帳簿とのにらめっこが始まった。
 ——やがて日が暮れ、街に終課の鐘が鳴り響く。
 エメリアは店じまいをし、今日の売上の集計にかかった。それもじきに終わり、羽根ペンを置いて伸びを一つする。
 しばらくぼーっとしていたが、エメリアはなんとなく外に出たい気分になり、ランタンを持ち、コートを羽織ってふらりと店を出た。わずかに肌寒いのが本格的な秋の到来を感じさせる。
 当てもなく歩くうち、彼女の足は自然とあるところへ向かっていた。——街の中央にある広場だ。民の憩いの場として設けられたここは、中央に人工的な泉を配し、周辺にいくつかのベンチが置かれている。泉の中央にある、水の出てくる壷を持った慈愛の天使サーファをかたどった像が、ランタンのほのかな光に照らされて神秘的な雰囲気を醸し出していた。
 エメリアは、しばらく無言で立ちつくしていた。
(あの時も、こんな夜だったなぁ……)
 脳裏に浮かぶ、あの時の光景。それは、今でもくっきりと記憶に刻みつけられていた。

「エメリア! ここ、間違ってるぞ!」
「え? うそ……あれ、ほんとだ」
 閉店後の『レンシス』店内。中肉中背の中年の男性が、目の前にいる自分の娘に、間違いを発見した帳簿を見せていた。
 精悍な顔立ちの男に似て、娘の方も顔のパーツだけを見ていくとどちらかというと『りりしい』のだが、全体として見ると、ただよわせている雰囲気のせいかいつも浮かべている優しげな微笑のせいか、一緒にいると安心できるようなイメージを想起させる。もっとも、その点においては父であるザッツも同じだが。
「エメリア、お前も将来はこの店を継ぐことになるかも知れないんだからな。卑屈になるのはくそくらえだが、お客様のために最大限努力するのは、商人たるものの基本だぞ」
「分かってるよぉ」
 ザッツにはエメリア以外子どもがいない。エメリアは後を継ぐ気がないわけではないが、はっきりそう決めているわけではない。むしろ、あまり乗り気でない。
 ザッツは困った顔をし、嘆息した。まあ、娘が継がないのなら親戚に店を譲るという手もある。
「とにかく、お前は俺の娘だからな。商売の魂を叩きこむのに容赦はしないぞ。お前ももう十七歳だしな。——この帳簿、もう一回チェックし直せ。それができるまで夕飯はおあずけだ」
「えぇ〜っ」
 エメリアはぷっと頬をふくらませた。

「……というわけなの。ひどいと思わない?」
 昼下がりの中央広場。エメリアは隣に座る青年——幼なじみで、彼女と同じく十七歳のライスに愚痴をこぼした。彼は苦笑して、
「まぁ、ザッツさんもエメリアのためを思ってやってることだからね。愛のムチってやつだよ」
「ライスぅ、お父さんの肩を持つ気? ううう、あなただけは私の味方だと思ってたのにぃ〜」
 エメリアは泣き真似をしつつ言った。再び苦笑するライス。
「はいはい、悪かったよ。ごめんって」
「……それに」
 エメリアはぽつりと言った。ライスを見上げつつ、
「私は、店の後を継ぐより……」
 無言でライスの顔を見詰めるエメリア。ライスの顔が赤くなり、やがて堪えかねたようにそっぽを向く。エメリアは微笑し、
「そうだ、ライス。衛兵になれたんだって?」
「うん、それ、それを言おうと思ってたんだった」
 ライスは一転、うれしそうな笑みを浮かべる。
「今は城の見張りだけどね。いずれは近衛兵になるんだ。僕は騎士にはなれないけど、近衛隊なら身分を問わないからね」
 身分を問わないと言っても、領主の身辺を警護する大事な隊なので、しかるべき人物の推薦状が必要ではある。もっとも、その点についてはライスは心配いらなかった。
「ライスのお父さんみたいに?」
「うん。僕は父上を尊敬してる。大したコネもなかったのに、地道な努力で人脈を築いて、今では近衛隊長にまでなった。それもこれも、父上が人々に信頼されているからだよ」
 彼らの目の前、泉とベンチとの間の道を、子どもたちが笑いながら駆け抜けて行く。
 二人はそのまましばらくそうしていたが、やがてエメリアがぽつりと言った。
「……なんか、いいな」
「え?」
 エメリアの方に顔を向けようとしたライスは、直後、顔を真っ赤にして固まった。エメリアがライスの肩にこつんと頭を乗っけたのだ。
「ど、どうしたの、エメリア?」
 しどろもどろになりながら言う。
「私、今、幸せだなぁって」
「え?」
「すごく幸せだなぁって、そう思って」
 エメリアは目を閉じて、ささやくように続けた。ライスはしばらく無言だったが、ふっと笑って、いとおしむようにエメリアの肩を抱き寄せた。
 心地よい時間が過ぎて行った。

 それから一年後——
 エメリアは、『レンシス』店内で一人帳簿を付けていた。どこかぼーっとしており、心ここにあらずといった様子だ。
「……エメリア?」
「あ、ライス……」
 店に姿を現したライスは、ふつうに振舞ってはいたが、何か心配事を抱えているような様子がうかがえた。——もっとも、エメリアにはそんなことに気付く余裕はなかったが。
「買い物?」
「いや、ちょっと近くまで寄ったからさ」
 ライスはエメリアに近づきながら言った。
「……あのさ、それ、いいの?」
「え……」
 ライスに指摘され、エメリアは手元を見てはっとした。そこには『ブロードソード/価格…三○○○』と書かれていた。本来の価格と一桁違う。実売価格の十倍の数字である。
 エメリアは慌てながら、
「あ、あれ? やだ、私ったら——」
「エメリア」
 すっとライスがエメリアに顔を近づける。
「……あまり無理しないで」
 エメリアはうつむいたまましばらく無言でいたが、やがてぽつりと言った。
「……べつに、無理なんか——」
「してるよ」
 エメリアの言葉をさえぎって、ライス。
「エメリア、僕は君を守りたいんだ。勝手な思いかもしれないけど、君にいつまでも悲しい顔をしていて欲しくない。そりゃあ、ザッツさんのことは——」
「……言わないで」
 ライスは鼻白んだように口をつぐんだが、すぐに気を取り直して言葉を続ける。
「とにかく、君は今無理してる。見ていると痛々しくてならないんだ——」
「言わないでよ!」
 エメリアは拳を握り締めた。顔をきっと上げ、噴き出す感情に流されるままに怒鳴る。
「あなたには関係ないでしょ! だいたい、人のことばっかり気にしてられるの!? あなたのお父さんなんて、あんなことをして——」
 エメリアははっとして、口をつぐんだ。ライスの瞳に悲しげな光がただよっているのを見たからだ。
「ごめんなさい……私、何てことを……」
「いいんだ」
 しゅんとなっていうエメリアに、ライスは悲しい微笑を浮かべながら言った。
「そのことはいいんだ。でも君に、僕には関係ない——なんて言われたのは、——悲しいけど」
 エメリアは堪えきれなくなって、一すじの涙を流した。一度堰を切ってしまうと、もう止まらなかった。後から後から涌き出てくる涙に駆られるように、彼女は嗚咽を漏らした。

 ザッツが死んだのは、一ヶ月前のことだった。野盗に襲われて殺されたのだ。凶報を知らされたエメリアが聞いた話では、一人で馬車を操り、街道を走っていた時のできごとだろうということだった。
 ふだんなら、仕入れに出向く時、ザッツは一人で行くなどと危険なことはせず、に加わって安全を期す。だが、ザッツはその時多額の借金を抱えていて、それを返済するためになりふり構わず走りまわっていたのだ。それゆえの悲劇だった。
 しかも、その借金というのはまだ残っていて、返済は終わっていない。その責務は、ザッツの死後店を継いだエメリアに課された。父を失ったショックから立ち直れないまま、エメリアは借金を返すために身を削る生活を強いられた。
 ライスの方はというと、彼もまた苦しみの渦のまっただなかにいた。それも、ザッツの死より半年近く前からだ。
 近衛隊長であったライスの父親が、突如乱心し、領主を襲ったのだ。幸い、居合わせた近衛副隊長の働きで領主は事なきを得たが、その戦闘でライスの父親は命を落とした。近衛副隊長は領主に功績を認められ新しい近衛隊長として昇格した。
 ライスの父親が領主を襲った動機などは不明瞭な点が多かったが、彼を信頼していた者たちも領主自身から「あの者は狂っていた」などと聞かされ、納得せざるを得なかった。
 息子であったライスへの風当たりは強かった。裏切り者の息子と影でささやかれ、ライスも反逆するのではないかと疑われた。彼は複雑な心境ながらも、領主への忠誠心を見せ、功績を上げることで汚名を返上しようと、死に物狂いで衛兵を務めた。おかげで、ザッツが死に、エメリアが苦境に陥るまで、彼女とはほとんど会っていなかった。だが、未だ大した功績を上げられていない。
 ライスは焦っていた。
 自分のためにも、そしてエメリアのためにも、早く功績を上げて、そして苦しんでいるエメリアを助けてやりたいと思う。だが、つのる思いとは裏腹に、現実は彼に微笑みを向けてはくれない。
 その夜も、ライスは衛兵の任務についていた。同僚の兵士と二人一組で城の周りを巡回し、不審人物がいないか目を光らせる。退屈で単純な任務ではあったが、それゆえに重要で、ライスは張り詰めた緊張の糸を崩さないまま任務に臨んでいた。
 エメリアにはああいったが、実のところ、無理をしているのは自分も同様だ。特に最近はエメリアのこともあって心労はつのるばかりで、心休まる暇もない。理解はしていたが、それでも彼は気を緩める気にはなれなかった。
(父上……)
 知らず知らず、奥歯を噛み締めてしまう。
 父が領主を襲ったなど、信じられない。彼の尊敬していた父は、そのようなことをする人物では決してなかったはずだ。優しく、責任感があり、人を思いやるがゆえの厳しさも持ち合わせていた。そして、領主に絶対の忠誠を誓っていた。
 それでも、彼は父が逆賊でないことを証明する手段を何一つ持たない。真実は闇に閉ざされている。くちびるを噛み、歯を食いしばって、ただ盲目に進むしか道はないのだ。
「……あ〜あ、ねみぃ〜。俺よぉ、今日当直だってことすっかり忘れててよ、睡眠取ってねぇんだよ。おかげで眠くて眠くて……おい、聞いてる?」
「ん? ああ」
 同僚に小突かれ、ライスは答えた。さっきから周りに警戒の視線を走らせていたため、反応が遅れた。
「おいおい、お前最近ずいぶん張り詰めてるなぁ? まぁ、しょうがねぇか? あんなことがあったからな……」
 軽い口調で言った同僚の兵士は、そこで怯んだように口を閉じた。それを見てから、ライスは自分がものすごい形相で彼を睨みつけていたことに気付いた。
「……悪かった、もう言わねぇよ。そう怒るなって」
 ライスは答えず、もう視線も彼から外して、再び警戒を始めた。同僚はやれやれというように肩をすくめ、あくびをしながらライスの後ろに付いて来た。
 それからしばらく経って、同僚の兵士が用を足したいと言い出した。ライスに断って、彼は近くの草むらに入っていく。
 ライスはエメリアのことを考えた。
 今ごろどうしているだろうか。この時間なら、ふつうはとっくに寝ているはずだが——。今日会いに行った時の彼女のやつれた顔を思い出し、ライスは心配になった。最近ろくに眠れていないようだ。仕事が忙しすぎるためか、それとも父を失ったこと、借金が返済できていないこと、そうした諸々の心労が積み重なって十分な睡眠が取れていないのか——
 その『諸々の心労』の中に、恐らく自分のことも入っているのだろうと思って、彼は気が沈んだ。だいぶ精神が不安定になっているようだったが、彼女はもともと優しい女性だ。半年前からの自分のことを思って溜まっていた心労もあるに違いない。それが勝手な思い込みではないと断言できるくらいには、彼はエメリアのことを分かっているつもりだった。
 彼は頭を振って、考えるのを止めた。まだ夜は長い。精神的に参ってしまうと肉体にも影響が出る。
 静かな夜だった。ランタンを持っていなければ完全な暗闇の世界になっているだろう。暗闇を満たすのが静寂なのか、静寂を満たすのが暗闇なのか——。いや、どちらでも同じことだ。ライスは思い、とにかく任務だ、と気を引き締めた。
 彼は同僚の方をちらっと見——
 ——ゴトッ
 鈍い音。暗くてよく見えないが、同僚が行った方向からだ。ライスははっとした。逡巡は数瞬だった。全速力で草むらに駆け込む。
 さっきの鈍い音が聞こえた辺りを探す。嫌な音だった。そう、何かで人間の後頭部を殴りつけた時のような。
「——!」
 ライスは目を見張った。半ば予想していたことではあったが、すぐそこに同僚が倒れていた。
 そばに近寄り、状態を見る。意識はないようだが、血は出ていないし、大事には至っていないようだ。即座にそう判断すると、ライスは周囲に意識を集中した。
 やや遠くで、草むらの中を誰かが走るような音。
 駆け出す。軽めとはいえ、どうせこの鎧を着てこっそり行動するのは無理だ。彼は気にせず全力で走った。
 前の方の音が遠ざかる速度を上げる。気付かれたと悟って逃げるつもりらしい。
(——逃がすものか!)
 やっと手柄を立てられそうなのだ。このチャンスを逃すわけにはいかない。
 ずっと待ち望んでいた、耐え忍んで到来を待っていた、千載一遇のチャンス。これを逃せば、次があるかどうか分からない。それくらい彼はせっぱ詰まっていた。
 全力疾走する。邪魔なランタンは投げ捨ててしまう。息が切れかかるが、絶対に逃がすわけにはいかないという思いが身体を支え、つらさは気力でカバーした。彼は走った。
 そのかいあって、前方の逃げる音がだんだん近づいてくる。追いついてきたのだ!
 あと十歩。あと五歩。あと三歩。あと二歩。あと一歩——!
(捉えたっ!)
「うおおおおおおおおっ!」
 ライスは突進の勢いを利用して肩から相手にぶつかった。相手が「ぐっ」とうめき声を漏らすのが聞こえる。
 二人は取っ組み合いながら転がり、互いに主導権を握ろうと必死になる。
 短い死闘に決着が付いたとき、上にいたのはライスだった。
「……おとなしく、降参、しろ」
 息も絶え絶えになりながら、相手を押さえてナイフを取り出し、首元に突き付ける。
「何をやっている?」
 その時、突然辺りが明るく照らし出された。見ると、後ろの角から、二人の衛兵がこちらを見ていた。ライスたち以外の衛兵の組だ。
 ライスは安堵を覚えながら、
「逆賊を捕らえた。すぐに捕縛を——」
「何を言っている。ふざけるんじゃない」
 衛兵は言い、もう一人に合図して剣を抜き、じりじりと囲むように移動し始めた。ライスは困惑し、逆賊の方を見、そして驚きのあまり硬直した。
 彼が捕らえた逆賊、いや、そう思っていたものは、近衛副隊長——現近衛隊長その人だった。
「——どけっ!」
 力任せに突き飛ばされ、ライスは尻餅をついた。驚きの表情で上を見上げる。
「捕らえろっ!」
 近衛隊長が立ち上がりつつ命令する。呆然としている間に、ライスは簡単に捕縛されてしまった。

「——お前には失望した。やはり逆賊の子は逆賊ということか……」
 不快げな口調でいう領主。本来なら就寝しているはずの時間だが、片付けなければいけない仕事があって起きていたところに、騒ぎを聞きつけ、事情を聞いて裁判を行うことにしたらしい。夜中なので数は少なめだったが、周りに立つ兵士たちも、敵意のこもった視線、あるいは哀れみと軽蔑の視線でライスを眺めていた。
「待ってくださいっ、誤解なんです! たしかに近衛隊長を傷つけてしまったことは幾重にも謝罪します。それに関しては処罰を受けるのも当然のことと思います。ですが——ですがっ!」
 ライスは必死に言うが、領主の表情は変わらない。
「私には、近衛隊長に危害を加える意図など、ましてや殺そうとする意図など少しもありません! あくまで事故なんです!」
 彼の必死の嘆願に、近衛隊長が顔を歪める。
「ふざけるな、逆賊の息子が。父を殺された恨みを晴らそうとしたのだろう!」
 低い声で怒りを見せつけるように声を荒げる。
「そのような見当違いの私怨で、領主様を警護するという大事な任務を預かる近衛隊の、その要たる隊長を殺そうとは言語道断! その罪、万死に値する!」
「そ、そんな——」
 ライスの弁解は聞き入れられない。
 領主のそばに控えていた男が、領主に何事か耳打ちする。領主は目を閉じてしばらく考え込んでいたが、やがて決断したように目を開いた。
「……私を殺そうとした逆賊の息子が、父を殺した近衛隊長を殺そうとした。動機は十分だな」
「領主様、この者はあの悪逆非道なる逆賊の息子です。逆恨みで領主様も狙っていたのでは?」
「違う!」
 ライスを横目で見ながら言う近衛隊長の言葉に、彼は悲鳴のような否定の声を上げた。しかし、やはり無視される。
 領主が口を開く。
「——処罰を言い渡す。即刻、打ち首にせよ」
 それを聞いた瞬間、ライスは弾けるように動いていた。自分を捕らえている兵士の一人を頭突きで昏倒させ、縛り方が甘かった縄からするりと抜け出る。
「くそっ、何をやっている、馬鹿者! すぐ捕らえろ!」
 怒り狂ったように近衛隊長が命令し、ライスは背中を流れる汗を意識した。
「貴様、堕ちたとはいえ兵士だろう! そんなに死ぬのが恐いのか!」
 怒鳴る隊長に、ライスはきっと顔を向けた。この男は前から気に入らなかった。この男が自分の父を罠にはめて殺したに違いないという思いは前からあった。今、それが噴出して怒りとなって口をついた。
「恐くなどない! 私は、——私は誇り高き近衛隊長シアリス・クアフェルドの息子だ!」
 尊敬していた父の名を、彼は誇りとともに言った。
「殺せ!」
 近衛隊長が叫ぶ。ことの成り行きに戸惑っていた兵士たちが、ようやく事態を飲み込んで剣を構える。
 ライスは死を覚悟した。少なめとはいえ、複数の兵士に囲まれている。彼らは自分を殺そうとしている。この包囲を抜け出すなど、果てしなく難しい。生きて帰ることは、できない——
 脳裏に浮かんだ顔があった。優しげな微笑。毅然としていながら暖かな瞳。彼女と過ごした幸せな日々が頭をよぎる。
(——エメリア!)

 エメリアははっとして飛び起きた。仕入れの計画を立てているうちに、うつらうつらとして眠ってしまったらしい。
 嫌な夢を見た。泉の前で語らっていた男女が、急にケンカを始め、男は席を立って歩いて行ってしまった。エメリアには、立ち去った男はもう二度と帰ってこないということが分かった。
 そして、その男女とはライスとエメリアだったのだ。
「仕事……しなきゃ……」
 だが、全く身が入らない。手が震え、羽根ペンを取り落としてしまう。胸の動悸が止まらない。
 夢のせいだろうか。どうしようもなく嫌な予感がした。
 エメリアはじっとしていられなくなり、店を飛び出した。何をしようという目的はなかったが、どうしても不安で不安でしかたなかった。
 ライスがいなくなってしまうんじゃないか——そんな不安が彼女を襲った。それはなぜだかいやに現実味を帯びて感じられた。
 当てもなく歩くうち、彼女の足は自然とあるところへ向かっていた。——街の中央にある広場だ。民の憩いの場として設けられたここは、中央に人工的な泉を配し、周辺にいくつかのベンチが置かれている。泉の中央にある、水の出てくる壷を持った慈愛の天使サーファをかたどった像が、ほとんど光のない暗闇の中でぼうっと浮かび上がり、エメリアを落ち着かない気分にさせた。
 エメリアは、しばらく無言で立ちつくしていた。
 ライスとともに過ごしたこの場所。大切な想い出が刻み込まれたこの場所。
(ライス——)
 どうしようもない不安に駆られ、エメリアは胸をかき抱いた。

「うおおおおおお!」
 ライスは倒れた兵士から奪ったブロードソードを振った。また一人、彼の刃を受けて崩れ落ちる。腹で殴りつけているだけなので殺してはいないつもりだが、運悪く命を落とした者はいるかもしれない。
 それでも、彼は手を緩めるわけにはいかなかった。
(——死にたくない!)
 脳裏に浮かぶエメリアの笑顔。もう一度彼女を笑わせるまで、もう一度彼女の笑顔を見るまで、絶対死んでやるものかと思った。
 後ろには、にっくき近衛隊長がいる。確証はないが、やはりあいつが父を陥れたのだと思える。たとえそうでなくても、やつの立ち居振舞いには我慢がならなかった。恨みの一撃を浴びせてやりたい。
 だが、彼は生き延びるつもりだった。近衛隊長のところまで行って攻撃していたら、万に一つの生き残る可能性がゼロになってしまう。だから、できるだけ包囲が薄いところを狙って突進した。すばやく抜けてしまえば、まだ勝機はある。
 どんなに可能性が低かろうと、やるしかないのだ。
「このっ……」
 横から振ってきた剣を紙一重でかわし、逆に脳天を剣の腹で殴りつけてやる。その兵士はもんどり打って倒れた。
 死にたくない。エメリアに会いたい。もう一度会いたい——!
 その思いが彼を支え、本来以上の力を発揮させていた。
「らぁっ!」
 ——しまった!
 横合いから伸びてきた剣に、ライスは自分の武器を弾かれてしまった。音を立てて落ちる剣。
 拾っている暇はない。ライスは攻撃してきた男に突進し、そいつがまだ振り抜いた剣を戻さないうちに首に手刀を叩きこむ。もはや賭けの領域だったが、男はうっとうめいて崩れ落ちた。
 その瞬間、後ろに敵の気配を感じた。
 回りこまれた——そのことを理解するより早く、背中に激しい熱さを感じる。やられた!
 それでも、彼はまだ意識を保っていた。どうやらわずかに浅かったらしい。
 だが、もうだめだった。即死は免れたものの、もう指一本動かせない。すでに抵抗する気力も失い、ライスは自分が倒した兵士にかぶさる形で、前のめりに地面に倒れた。
 意識が遠ざかっていく——
(だめだ、僕はまだ死ねない……死にたくない……エメリア!)
 最後の気力を振り絞って意識を保とうとする。だがそれもむなしく、必死の抵抗など意に介さないかのように、彼の意識は永遠の闇へと急速に引きずり込まれて行った。最後の瞬間、彼は自分の背中にとどめの一撃が浴びせられるのを感じた——

 いつのまにか涙が出ていた。夕方、あれだけ泣いたはずなのに、エメリアはまたとめどもなく溢れてくる涙を止めることができなかった。不安は最高潮に達し、何か大事なものが失われたことをはっきりと感じた。
 そんなはずはない、と自分に言い聞かせながらも、もはや立っていることもできず、彼女は泉のふちに寄りかかるように崩れ落ちる。
 泉の中央の像が持った壷は、間断なく水を流しつづけていた。

(終)




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