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映画発掘、番外編その二 映画の中の天才達の変容
柳下 徒是有(どぜう)

映画に限らず、虚構の世界の中では人々の願望を反映した人物がしばしば登場する。
世界の危機を救う諜報員に凄腕の傭兵、地下に秘密基地を建造している大富豪、世界 チャンピオンに挑戦する無名のボクサー、空から降ってきた美少女に一方的に惚れら れるダメ男、全世界に名を轟かせる怪盗や各地を旅して回る探検家や風来坊。
彼等は皆、富や名声、冒険や流浪の生活、非日常的な人生を歩む主人公である。
別の見方をすれば、人々が求めてやまない非日常的な人生を歩んでいるから主人公と されているのである。

主人公のジャンル訳と言う表現があるとすれば、その中の一つに”天才であること” もあるはずだ。
そしてそれは多くの場合、万能の天才でなければならないのである。
卑しくも諜報員たるもの射撃は百発百中でカーチェイスとヘリの操縦はできて当たり 前、直感的に相手の嘘を正確に見抜き密林での生活に耐え(しかもパリッとした姿の ままで)、道具無しで核弾頭の解体くらいはできないと主人公の資格は得られないよ うだ。
ではなぜ万能の天才でなければ主人公になれないのか。
それは決して世間に埋没しない為である。日常に埋没しない為と言い換えてもよいだ ろう。現実世界が複雑になり、一人の人間によってひっくり返すことが難しくなるに つれて、主人公に要求される全ての問題を把握し解決できる力は大きくなってゆく。 結果、万能の天才・スーパーヒーローの登場する物語は情報社会において人々が世界 の大きさを知り個人の能力の届く範囲を認識する度、不可逆的に荒唐無稽化していく だろう。
万能人が世界を救うような映画は、いい大人が観賞して感動するものではなく、むし ろ馬鹿にするのが当然のようになった。

天才達は虚構世界で生き延びる為にいくつかの逃げ道を見つけだした。
その一つが「世界を救わないこと」言い換えれば「巨大なシステムに関わらないこと 」である。
『キテレツ大百科』『ウォレスとグルミット』のように、自分の周囲の友人達と趣味 の世界にのみ関わる発明家は代表的な例である。(もっとも、『キテレツ〜』は『ド ラえもん』の影響だろうが、どちらにせよ彼等は世界を変えようとはしない。TV版で は。)
『グッド・ウィル・ハンティング〜旅立ち〜』ではマット・デイモンがフィールズ賞 受賞者を上回る数学の才能と驚異的な記憶力を持つ青年を演じた。浮世離れした人物 造形だが、彼が関わったのは世界ではなかった。
鼻持ちならない高学歴の連中や高名なカウンセラーを言い負かし、数学教授に嫉妬さ れ、些細な行き違いで恋人と別れ、親友から実は嫌われていたことを知り旅に出る。 『リプリー』ではマット・デイモンが天才犯罪者を演じたが、彼は自分の欲望の範囲 で行動した。世界を相手にはしなかった。
一緒に旅行した金持ちの友人を殺害し、彼に成り済まして暮らそうとする。
『パガー・ヴァンスの空に』では、マット・デイモンが米国の記録を塗り替えた天才 ゴルファーを演じるが、物語の中心は彼が負った心の傷からの再生である。
『ラウンダーズ』ではマット・デイモンはギャンブルの天才を・・・。
マット・デイモンって、自分が傷付きやすい天才の映画にばかり出るなぁ。
とはしばしば言われることだが、とにかく天才は自らの特権であるはずの世界をひっ くり返す力を放棄しつつある。御町内の英雄程度にまで力の届く範囲を狭めてしまっ た。
少なくとも、いい大人が観賞するに耐える(とされるような)映画では。

だが、ここで重大な問題が表出する。
世界をひっくり返さないなら、別に天才が主役でなくてもドラマは成り立つんじゃな いの。

つづく。



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