トップページ  Bi-Online

大江戸剣風伝

 駿雨の中に稽古の響みが聞こえてきた。
 空は静かに夜の様相を露にしてきている。
 近くの剣術道場では、先刻から夜稽吉が催されている。その中に一人、素人目に見ても一際優れた男がいた。
 名を、梅村北四郎忠之という。小さな体躯ながらもその動き、落ち着きは二十を少し過ぎたようには思えない。そして、木刀を振るう度に浅黒く革のような筋肉が躍動している。顔の一筋の汗がまぶしい。
 ここは、向島の夢想流・本郷善一郎遣場である。場所は、万福寺の裏手。ここに、北四郎が入門してから十五年になろうか。先年より、師である本郷善一郎は病にかかっていた。小康状態は保っているものの、今直剣を握るは難しい。今で言うリューマチと思われる。よって、一番弟子の北四郎と他四人の高弟が遣場の一切を切り盛りしているのである。
 いつものように北四郎が稽古をつけ終わったとき、師匠から呼び出しがあった。曰く、客だと言う。
 客は、師の横に並んで座っていた。客は中年の立派な侍で、老境にさしかかった師とは対照的であった。
 客は、
「大川九郎兵衛と申す。」
と、名乗った。
 北四郎は全く見覚えがない。と、客が自い歯を零して、
「先目、尾張様御屋敷内にて、そこもとの手並み、しかと拝見いたした。」
 北四郎はうなずいた。覚えのないことではない。病の師に代わって、試合に出たのは、ほんの一力月前のことである。
「今度、大川様が用心を勤める有馬兵庫頭様の家中で剣術指南役を召し抱えるそうなのじゃが…。」
と、師匠。
 九郎兵衛が遮って、
「しかし、殿は江戸一の剣客でないと承知しないのです。貴殿は、先程行われた試合で優勝なされたが、五千石の後継ぎ、仕えて頂く訳にはいかないでござろう。」
「それは、その通りで。」
「よって、御手並を示して頂きたい。」
「試合をせよ、と。」
「さよう。今、候補は二人程いるのだが、殿は尾張様御屋敷でそなたの腕を見て以来、そなたに勝つ者でないと指南役にできぬと仰せられる。曲げて、御承知ありたい。」
「よろしいでしょう。」
 北四郎は二つ返事で承知した。元来、剣術は精神と肉体を極め、己を鍛えるものと思っている。試合もその一つの方策であるので、少し苦にならぬ。むしろ、自己の鍛練になると喜んだくらいである。
「試合は来月の二日、詳細はまた後程お知らせします。いや、良かった。これでわしも胸のつかえが取れましたわい。」
 九郎兵衛は自髪混じりの頭を振りつつ去っていった。
 北四郎は前に出された茶を一口飲んだ。すでに茶は冷たくなっている。
 外を見ると、すでに目は高く昇っている。燕がまた、南へ飛び立っていった。

 それから三日後……。
 北四郎は、再び九郎兵衛とあっていた。今度は、道場ではない。日本橋・茅場町の料亭「大築」である。金持ちの町人や、時々はどこぞの大名がお忍びでやってきて、なかなかに繁盛している。
 もっとも、師匠に言わせると、
「いささか、凝りすぎ…。」
なんだそうな。
 ここで、北四郎は相手の名前を聞いた。
 一人目、後藤竜治郎。浅草・橋場に一刀流の道場を構える浅田幸之助の高弟である。当年、四十二。剣士として脂の乗り切った頃である。
 二人目、片山十兵衛。常州・水戸に道場を構える新陰流・阿部権太夫の弟子だったと言う。当年とって二十八。阿部道場が閉鎖されて後、江戸に出てきてあちこちの道場を巡り、研鑚を積んでいる。今は、千駄ケ谷の加藤忠二郎に身を寄せている。加藤の信任厚く、時々は代稽古を勤めることもあると言う。
「それでは、よろしくお願い申し上げる。」
 大川九郎兵衛はそれだけ言うと、城の方へ去って行った。
 まだ日は高い。屋敷はいささか気詰まりである。稽古は今目は当番ではない。人間の頭の回転は早い
もので、それだけを瞬峙に考えると、本所、ニツ目の方へと足が向かった。そこには、行き付けの居酒屋「青田」がある。何でも、先祖が故郷を出てくる際、「青田刈り」をしてきたそうで、それにちなんで店名をつけたそうな。
 それはさておき……。
 尾けられている。
 町人姿の二人組である。
 しかし、北四郎には、尾けられる覚えがない。ともかく、今は撤くことにした。
 左に曲がると、すぐに横手の路地に入る。二人組は、見失ったためか、あらぬ方向へと走り去っていった。それを確かめてから、北四郎は憂々と「青田」へ行った。
 入ると、
「あれ、若様。」
 店の主人が大喜びで迎えてくれた。目が高いためか、客はほとんどいない。
「だから、若様はやめろと言ったろ。」
 苦笑しながら北四郎は言った。この親父、いつでもこの調子なのである。
 主人は、全く取り合わず、
「おおい、お雪、こっちへ来いよ。」
「なあに、お父っつぁん。今、酒の仕込みに忙しいんだけど。」
 店の奥から、懐かしいお雪の声が聞こえてきた。この店を知ったのも、お雪が梅村家へ女中として上がってきてからだ。色白の美しい娘だったと記憶している。花嫁修行として、十四から十七まで梅村家にいたが、春に暇をもらって店へ戻ってきた。その後は店で父を助けて働いている。奉公に上がった頃は可鱗な少女も、三年が過ぎて今や立派な看板娘である。現代で言うなら、本所のマドンナであろう。
「あっ若様!」
 振り返ってみると、お雪が調理場から顔を出していた。
 一瞬目が合った。
 と……。
 お雪は上気した顔で頬を袂で覆うと、店の奥へ走り去ってしまった。
 入れ込みで酒を飲んでいると、お雪が出てきた。心なしか、念入りに化粧をしているように見える。
 半刻ほどお雪を粗手に酒を飲んだ後、店を出た。あたりは暗くなっている。そこで、主人に提灯を借
りて家路に着いた。
  と……。
 今、北四郎の目の前に五、六人の男がいる。辺りには人通りもない。
 「何用か。」
 北四郎ば誰何した。落ち着き払っている。すでに左手は太刀の鯉口にかかっている。
 「死に行く者には無用!」
 次の瞬間、男達が白刃をかざして斬りかかってきた。
 と……。
 北四郎の兼光が閃光のごとく抜き打たれた。正面からの攻撃を避けつつ、左の二人に斬りかかる。
 そして……。
 次に牢人達が見たものは、太刀ごと空を飛ぶ二人の手首だった。
 「つ、強え。」
 完全に士気の崩壊した三人の牢人達は、通りのほうへ一目散に逃げていった。
 二人の牢人達も、傷を庇いながら逃げ出している。
 ただ、最初に提灯を受けた牢人は、当り所が悪かったのか未だに起きない。側では提灯が炎を上げている。
 北四郎が活を入れた。
 その牢人が目を覚ますと、北四郎は刀を突きつけ、
「何故、このようなことを?」
 牢人、曰く、
「金で頼まれたことよ。」
 そう言いながら、牢人は巧みに刃を逃けると、夜の闇へと消えていった。
 北四郎は、敢えて追わなかった。夜も遅いし面倒なことでもある。また襲ってきても、返り討てる自信がある。
 数刻後、北四部は高鼾をかいて熟睡していた。

 ところ代わって、ここは浅草橋場の浅草道場の一室。街灯の光に二つの影があった。
「師匠、梅村北四郎暗殺は失敗したようですな。」
「うむ。腕利きの牢人剣客を集めたつもりだったのだが……。」
「ところで、片山の方へはどうなっております?」
「案ずるな。そっちはすでに片付けた。今頃、加藤道場では大騒ぎとなっていよう。」
「ふ…ふふ……。」
「は…はは……。」
 夜は更けていった……。

大江戸剣風伝の挿絵



   あ と が き

 どうも、Dです。前回、尾張さんに(あれ、違ったっけ)色々といわれたので、少しはまともなものを書いてみようと思いたち、このようなものを書きました。Bi−に書くのは初めてなので、いろいろと面白くないところがあるかもしれませんが、そこは未熟だということでお許しください。
 さて、この作品、時代設定は江戸時代となっております。その中でも、田沼時代辺りを想定して書いているつもりなので、そのつもりで読んでください。故池波正太郎先生に似ていると言われるかもしれませんが、多めに見てください。


大江戸こぼればなし(その1)

 今回、書こうと思うのは、文中では「青田」の中で出てきた酒についてである。 いい酒は冷酒で飲む。これが酒のみの常識である。本来、日本酒は冷やで飲むものでり、古いしきたりだった。祭祀の御神酒、冠婚の儀礼m本膳式等で燗酒を使わないのがその証拠という。燗酒で飲むようになったのは、平安時代以降のことらしい。なぜ爛酒が一般化したのかというと、昔の酒は醸造技術が未熟だったため、フーゼル油というものがたくさん入っていた。このフーゼル油、飲みすぎると必ず頭に来る。そこで、熱燗をするとこのフーゼル油がとび、害が少ないので熱燗が一般化したそうな。
 今は醸造技術が一般化しているのでフーゼル油云々の心配はない。だから、せっかくの美酒、おいしく飲みたいものである。熱燗には熱燗の、冷やには冷やのおいしさがあるのだから。
 参考文献
  ・梅安料理ごよみ講談社
  ・飲食事典文庫平凡社



どうも、面白くない後書きですみません。頑張りますので、これからもよろしくお願いします。





Bi-Onlineに戻る