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地獄
慶野 響

 行列は、向こうに見える巨大な門扉の所まで続いていた。老若男女節操なく入り交じった——いや、老いた人が多めか——一本の太い線が、緩やかにカーブを描いて私の前まで伸びている。どこともしれない場所。青空が一面に広がり、足元は起伏のある真っ白な大地——いや、これは雲だ。人が乗れるような固まった雲があるとすればだが。
「おい、あんた。早く前進んでくれよ」
 それで我に返った。私は後ろから声をかけてきた男に顔を向けた。サラリーマン風のいでたちの中年の男。不満げに舌を鳴らしている。
 男の後ろにも人の線が続いている。それで私はこの行列に並んでいるらしいと知れた。慌てて列を詰めると、男は舌を鳴らしながら私の後ろまで詰めた。
 私はしばらく列が進むに任せていたが、そろそろ耐えられなくなってきた。なぜこんな所にいるのか分からない。いつ行列に並んだのだろう? それ以前にこの行列は何だ?
「……あの、失礼ですが、この行列は一体?」
 私はさきほどの男に、恐る恐る尋ねた。彼は眉根を寄せ、舌を鳴らした。私は不安になったが、彼はすぐ口を開いた。
「何だあんた。そんなことも知らないで並んでるのか? いや変だぞ、知る知らないの問題じゃない。分かってるはずだろう」
 そんなことを言われても、分からないものは分からない。そう伝えると、彼は舌を鳴らしつつも「しょうがねぇな」と前置きし、
「ここは死んじまった奴が来る所だ。それも悪人のな。ほら見ろよ、あれ」
 男が指差した先にあったのは、最初に見た巨大な門扉だった。行列の先頭が豆粒にしか見えないのに、扉はここからでも見上げないと全部を見ることはできないほどの異様な巨大さだった。石造りと見えるその扉からひしひしと伝わってくる威圧感と荘厳さ(そして不気味さ)に、体が震えた気がした。
「あれが地獄への扉ってやつだ。くぐれば後は永劫の苦しみってやつとの戦いさ。いや、永劫ってのは語弊があるけどな。ま、生まれ変わりを許されるまでだが、長く苦しまなきゃいけないってのには違いない。死人にゃ死ぬことはもちろん、気絶も感覚の麻痺だって許されないんだからな。薄れることのない苦しみを、ずっと味わう羽目になるってわけだ。……お? ビビったか? ははは、まあお互い地獄に落ちる身だ、自業自得ってやつよ」
「ま、待ってくれ。私は何をしたんだ?」
 焦りとともに口をついた言葉に、男は舌を鳴らしつつ、
「そんなこと知るかよ。まあ何かしたんだろ。ほら、前進んだぜ」
 男に促され、私は不承不承先へ進んだ。
 無言のまま時は過ぎ去り、やがて門扉の所まであと十数人という所まで来た。門の前には白くて裾の長い、法衣のようなものを着たのが二人いて、片方は台帳のようなものにペンを走らせ、もう片方は列の先頭の人間(頭頂部の禿げた老人だ)と何か話している。見ていると、やがて老人が頷き、ゆっくりと扉に近づいていった。そしてそのまま、扉を(文字通り)すり抜けた。
 どうも扉は開かないらしい。何のために扉になっているのかと首を傾げているうちに、私の番がやってきた。
「次、〜〜に相違ないな?」
 法衣の人間——若い男のようだ——が、事務的な口調で尋ねてくる。聞き慣れない名前だが、どうやら私の名前らしい。
 そこでようやく気付いた。自分の名前が分からない。いや、生前何をしてどうなったのか、そういったことがまったく分からない。死者にもそんな言葉を使えるかは分からないが、記憶喪失というやつらしい。
「どうした?」
 法衣の男が重ねて尋ねてくる。私はどもりながら、
「あの、実は、何も思い出せないんです」
 それを聞いた男は、もう一人の法衣と顔を合わせ、頷いた。そして私に向き直り、
「構わない。さあ、行け」
 私は行かなかった。いや、そのつもりだった。しかし、勝手に足が動き出し、扉へと向かってしまう。
「待ってくれ!」
 私は叫んだ。
「頼む、私は何の罪でここに来たんだ!? 教えてくれ!」
 地獄に行くのはいい。だが、何をしたのかも分からない罪で罰されるというのはやりきれない。それだけでも知りたかった。
 法衣の男はわずかの沈黙を挟み、もう一人と目を合わせた上で頷き、口を開いた。
「お前の罪は、記憶を忘れたことだ」
 私はその言葉を、半分扉に埋まりながら聞いた。
「自分に都合の悪いことはすぐに忘れて、お前は罪を重ねてきた。お前が記憶を自ら封印してしまうことで、数多の人間が迷惑を被ってきた。そうやって逃げ続けた結果だ。——しかし、その罪を宣告されたことまで忘れてしまうとはな」
 その言葉が終わった時には、すでに私の身体は完全に扉の向こうへと消えていた。



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