意 見 陳 述 書

原 告  鈴 木 紀 之


1、先月、5月27日に予定されていた判決を本当に心待ちにしていましたが、残念なことに延期されて、弁論再開にいたっています。昨年5月22日に事実上結審してから実に1年を数えます。この1年がどれほど期待と焦燥の1年であることかご理解いただきたいと思います。

 原告深沢・同河村の懲戒処分から12年9ヶ月、原告鈴木の強制配転処分から12年8ヶ月、原告麻田、同石橋、同小川、同滝山、同森村、同吉岡の6名の強制配転処分から12年2ヶ月、原告深沢の強制配転処分から11年2ヶ月が経ちました。

2、被告芦屋市教委による強制配転という、突然の教職からの追放によって受けた私たちの心身への打撃は測りしれません。

 被告が加えた転職処分は、それまでの人事慣行を1切無視し、本人への意向打診や事前の説明もなく、中には内示もなく、学期の最中に、しかも授業の合間にその日付の辞令を手渡すというおよそ異常、異様なやり方に始まり、配転先の公務の必要性、緊急性もなく、本人を特定する合理性も持たない教育職から事務職への転職という違法、不当な限りを尽くすものでした。

 私たちは生涯1教員として教壇に立つことを思い定めて、芦屋市の教員採用選考を受けて、教諭として市芦高校に就任しました。私たちにとって学校以外の勤務など全くの想定外のことでした。

しかも被告市教委はその理不尽な処分を11年を越えて、今もなお、加え続けているのです。教育行政を担う被告市教委には人をおとしめ、痛め続けているという人間的痛覚すら皆無です。

 不本意な11年を越える歳月で私たちが失ったものはあまりに大きく、取り返しがきかないものです。心がここにない仕事を続けることは、疲労の大きいものであり、次につながる期待や意欲を阻喪させるものです。

2、教職から追放して、およそ今までの職能的知識も経験も生かすことの出来ぬ職場に、実態上も事務職員としての勤務を強いて、11年を越えるのです。現役の学校に勤務する教員を、後にも先にも例のない「指導員」という身分に固定して、11年を越えます。芦屋市職員のなかで「指導員」という権限も職務も規定されていない職に固定されているのは、私たちだけなのです。

学校現場から市教委の事務局ないし教育機関に合意の上で異動した教員のほとんどすべてが、学校現場に復帰しています。しかも、その期間は通常3年から5年です。

ところが、私たちだけは11年を越えて、同じ職場に固定されるか、数少ない職場をたらい回しされているのです。原告小川についてみれば、障害児教育に熱心であるからとみどり学級に強制配転され、その後公民館、愛護センターとただ学校現場を避けるためだけの配転が続けられています。原告森村についていえば、読書指導に適任だからと図書館に強制配転され、その後社会教育文化課文化財係そして公民館と再々配転されています。原告石橋についていえば、学力促進学級の「専任指導員」の名目で上宮川文化センターに強制配転され、今は図書館で庶務係を強いられています。原告滝山についていえば、学芸員資格を持っているとの理由で文化財係に強制配転しながら、その後図書館の事務職員を命じています。原告深沢についていえば、打出教育文化センターの事務を命ぜられて11年を越えます。いずれにしても、ただ学校現場から排除するためだけの人事です。

4、この間、私たち原告が学校現場に復帰する条件は毎年のようにあったのです。

 わずかに、9年目にして原告麻田を、12年を越えてこの4月に原告鈴木、同吉岡を復帰させていますが、鈴木、吉岡についていえば、58歳での復帰であり、46、7歳からの10年余を奪われた上に、定年までわずかに2年という短い年月しか残されていません。新入生を担当して、その卒業を見送ることも許されていないのです。10年余の歳月を取り返し、納得のゆく仕事をするにはあまりにも残された時間がありません。

 被告市教委のいう「帰したから済んだことだ」という言い分は、あまりにも罪と恥を知らぬ言い方です。きちんと誤りを認め、謝罪し、償うべきは当然です。12年を越える時間は、あったことをなかったことと消去するものではありません。人の記憶を権力的に、暴力的に消すことなど出来ないのです。12年間の時間は私たちの中に刻み込まれており、いまも私たちを痛め続けているのです。権力の犯罪はきちんと正されることで歴史の記憶となるのです。歴史の記憶となることで初めて現在と未来を動かすのです。

5、私たちの強制配転に先立つ時間も、また私たちの心身に刻み込まれています。

 私たちの多くは、いずれもその教員としての第1歩を市芦で始め、20代から30代を市芦で過ごす僥倖に恵まれました。当時の市芦はいわゆる「進学保障制度」を軸とする学校改革の最中にあり、真に「地域の子どもたちに開かれた学校」を目指して、全力で格闘した毎日でした。特に新しい学校づくりの理想となっていたのは、「障害」を持った子どもを含めて地域のすべての子どもを受け入れ、共に学び、共に生きていく場所を創り出すことでした。小・中学生時代をその身もだえにもかかわらず学習や生活に恵まれず、学校と教育への不信と絶望だけを抱え込んで苦悩している子どもたちに、学校生活と学ぶことの喜びを取り戻し、仲間と自分を発見する機会を手にしてほしかったのです。人にとことん優しい自分を見つけ、仲間と手をたずさえて厳しい社会に出ていってほしかったのです。

 子どもたちや親の抱える生活を含めて子どもや親とかかわる日常でした。が、それは私たちを1人前の教師に育ててもらう過程でもありました。「このまま教師を続けられないのではないか」という気持ちにとらわれたことも再三ありましたが、それを引き戻してくれたのも子どもたちであり親たちでした。そういう厳しさをくぐりながら、私たちは「教師になっていった」と思います。当時の10年は15年にも20年にも思えるような時間が詰まっていました。

6、私たちは30代、40代の中堅となり、教員としての仕事をもっとも成熟させて力を尽くせるという時期を迎え、教職への意欲と情熱をいっぱいにしていた時に、突然、無法にも教職から追放され、子どもたちや親との関係を絶たれたのです。この無念さは言いようがありません。この無念さを抱えてのここ10年余です。

 原告石橋、同小川、同滝山、同森村、同深沢はいまだ、その無念を宙づりにしたままです。

 この無念さは子どもと出会うことでしか晴らしようがないのです。処分の取消による学校現場への復帰以外癒されないものです。

 しかも、彼らにも残されている時間は多くないのです。原告深沢は53歳、同滝山は52歳であり、同小川、同石橋は49歳、同森村は48歳です。原告小川、同石橋、同森村にあっては強制配転され指導員として事務に従事することを強いられた時間は、教員として過ごした時間を上回っているという残酷さです。

7、裁判長、どうか一刻も早く強制不意転状況にある原告5名の学校現場復帰に力を寄せていただくことを切に願います。被告芦屋市教委の権力を嵩にきての教育法制への無法と違法を正し、私たちと私たちにつながる子どもらの尊厳を取り戻す明快な処分取消の判決を心から望みます。