公民館講座講師忌避に端を発する再々配転

小川 文夫


  4月1日、青少年愛護センターへ再再配転された。私が市芦を強制配転されてから12年。みどり学級で5年、公民館で7年、そして今年愛護センターで3度目である。4月、鈴木先生が市芦に復帰したので、その後任というわけである。しかし、今回の配転も明らかに私に対する報復人事である。
 鈴木先生が市芦に復帰後の愛護センターの後任人事は不補充の方針であった。なぜ急に私の異動が決まったのか。

 私は、公民館で、市民向けの講座企画を7年間担当してきた。教育問題講座、幼児教育講座、日本思想史、経済問題、その他多岐にわたった。

 公民館講座は公民館館長と職員が合議の上で市民のニーズに応えながら独自で企画立案してきた。過去に講座内容について市教委から不当な干渉を受ける事はなかった。

 今回の私の再々配転は、講座「日本思想史」の講師佐治先生の採用をめぐって、公民館館長、教育委員会と対立したことにある。佐治先生は芦屋市在住の近現代史の学者であり、現役の大学の先生である。先生は、震災以後住民参加の街づくりを目指して「市民がつくる芦屋会議」の代表として、市の震災復興の進め方などを批判してきた。1992年秋の公民館間講座「ゼミナール近現代史を読む」に出講いただいてから、「日本思想史」の講座の近現代史編でもたびたび講師として出講していただいていた。

 問題の発端は、95年の秋の講座「戦後5十年を考える」からである。この年は、あの阪神淡路大震災の年であり、公民館活動は秋まで活動停止状態であったが、秋の講座から細々と活動を開始し始めた。その第1回目が、「戦後50年を考える」の講座であった。このとき先生は、「芦屋を考える市民会議」の代表として被災者の側に立って市と精力的に交渉をされていた。このことが市をいたく刺激していた。市はこの講座に関心もなかったし、先生が講師として採用されていることを事前に知らなかった。ところが、震災以後、佐治先生の行動に不快感を持った市は、今後先生を公民館講座の講師として採用してはならないと館長に厳命した。理由は、「市に盾突く人物を公民館の講師として採用するとはけしからん」という時代錯誤もはなはだしいものであった。このとき以来講座の企画に対し事前チェックが入り出した。また、市の意向に気を遣う館長は、自己保身のためか私の前では、「このような措置は個人的には非常におかしいと思う」と言い訳をしながらも、佐治先生の講師採用を決して認めることはなかった。

 この間、この問題に疑問を持った市民が、北村市長、教育長に公開質問状を出した。内容は、「思想学問の自由の不当な侵害であり、いかにも低い次元の措置である。」というものである。これに対する回答は、「公民館講座の事業は公民館運営審議委員会の意見を聞きながら公民館長が講座等実施の最終決定をしております。」というまともな返答にもなっていないものであったが、いずれにしても、佐治先生を講師に採用してはいけないと言っていない。この回答を根拠に私は、今年春の国際問題講座「市民と考える日本の平和と安全」を企画し、佐治先生に講師をお願いした。ところが館長から、「佐治は採用できない。上から言われている。引継事項で私の代で変更することはできない。」と拒否された。

 住民運動の代表をしているということだけで、公民館講師を忌避するという芦屋市の狭量な姿勢と権力的横暴を見過ごすことはできない。市にたいし異見を述べるものは何が何でも権力的に排除する芦屋市の姿勢は、12年前、私たちを市芦から排除した質と同質のものである。

 12年間で3度の強制配転を私は決して忘れない。どこに追われようとも私の初心は不変です。