10+13+12+2

吉岡治子


 今日(1999年4月22日)三岸節子の死を知り、深い衝撃と様々な想いが交錯した。
 私が、三岸節子の美術館を創ろうと想い立ったのは、1989年、強制配転二年目の秋のことである。その後九年を要して1998年11月、生誕の地、愛知県に「尾西市三岸節子記念美術館」が誕生した。
 オープニングには来られなかったが、「何物にも代え難い無上の喜び。今日まで生きて闘ってきた九〇年の喜び」と語っておられたと今日の朝日新聞が報じている。加えて、秋野不矩の談話があり、「女だからって妥協しないで一緒にがんばりましょう」と三岸さんから声をかけられ、励まされたとある。お二人は共に、洋画家、日本画家の「第一人者」であるが、二〇世紀が終わろうとする今でさえなお女性の固有名詞がつく数少ない美術館のご当人である(一九九八年、静岡県に「天童市立秋野不矩美術館」が開館)。

 このたび、私は一二年間の歳月を費やして、「通常」の人事異動で、もとの学校のもとの美術の教員に復帰し、すでに「平常」の授業をはじめて二週間が経過した。
 勿論、このこの四月を強配先の芦屋市立美術博物館で迎えるのと本来の職場である芦屋市立芦屋高校で迎えるのとでは天地の差である。
 しかし、「10年+13年+12年+2年=高槻六中+市芦高+強配+市芦高=定年」を考えると、日に日に怒りがこみあげてくる。この貴重な一二年間をどう弁償してくれるのかと言いたい。
 こともあろうに、処分者側は、職場復帰したのだから訴えの利益はなくなった、却下せよと目前の神戸地裁判決回避にやっきである。
 教職から事務職へ転職させるという「異常」な人事異動で始まったこの処分は、私の一二年間の怒りと苦しみを認知する判決によってしか真の一歩は踏み出すことはできない。

 今、何事もなかったかのように職員室に座っている私と同僚がいる。
 「先生、ひどい目にあいはりましたな。それでもようかえってきはりました」と声をかけてくれたのは「一三年」在職中から市芦に出入りしておられた業者のAさん一人であった。
 Aさんは「わしが一番腹が立っているのは、先生らのことを見殺しにしたここの先生や」と。弾圧は、人を分断させ、生徒をスポイルしていくのだ。
 それでも、私の左の背の後方には長瀬さんが座っていて、私の方は残り時間二年だけど二人して仕事を再開でき、何にもましてうれしい。
 三岸さんや秋野さんをはじめ、有名、無名に関係なくよき仕事をやり抜いて来られた多くの女性の生き方を前方に視ながら、私たちのたたかいもそれにつながっていきたいと想って”書き、描き”詰めの一二年でもあった。

 この教職復帰は「強配は私たちにとって女性差別である」と闘ってきた吉岡・長瀬の勝利である。闘いの文化の質を明らかにしたい。
 長い年月、ご支援誠にありがとうございました。全員復帰までよろしくお願い致します。