生徒・親・読者の声

  生徒と生徒、生徒と教師が出会うことができたのが市芦という学校だった。 生徒たちはその学校を守ろうと必死に闘った。大きな力に押しつぶされそうになりながらも、 自分にとって市立芦屋高校という学校がどういうものだったのかを語り切ること、 これが彼らの闘いであった。
 教育弾圧によってどのように学校を変えようとも、 そこで起こった生徒と教師の協働の営みは消し去ることはできない。 教育弾圧反対運動の中で発せられた生徒たちのメッセージのほんの一部分ではあるが、 彼ら生徒たちの証言を記録に残すことにより、 松本壽男教育長、小林管理部長、北村春江教育委員長らによって行われた教育改悪は 永遠に批判し続けられることになる。

目    次

1 市芦の生徒は本当に人間として当たり前に生きている
2 担任の先生は生き方を僕の中に残してくれた
3 私たちは市芦に通い自分の生き方を問い続けています
4 お母さんと一緒にニコニコ笑ってくれた、そんな先生の顔が好きだ
5 一番大事な心をうばうことは、人間でなくなるということだ
6 勉強嫌いだった私が今は「水」の授業を待っている
7 私を一人の人間として見てくれた市芦が変えられる
8 次々に変わる時間講師、分からなくなった授業に生徒が抗議
9 市芦は私たち親子に希望を与えた
10 市芦の子は小芋を洗うようにガラガラこすれ合い、一緒に勉強してきた
11 影ながら応援しております。(HP感想メール 1999/12/ 07 )


1 市芦の生徒は本当に人間として当たり前に生きている (3年生S1986.10)

 部落研のSです。ぼくは鈴木先生、深沢先生、河村先生らと三年間付き合ってきたんですけど、 その付き合いの中で、この市芦(市立芦屋高校の略称)に来る連中は、どんな力を持っているんだろうか、 どういうふうにしたら当り前にやりながら市芦の生徒になれるんかということを話してきました。 時にはケンカをして考えてきたんですけど、まだよう分からんとこあります。 でも、市芦の生徒は本当に人間として当り前に生きていると、そういう気がすごくするわけです。
 僕は中学の時から見てきたんです。市芦に来ている者は貧乏人や、ダボヤと、 生きる資格が無いんやと、学校の勉強が出来たらえらいんやと言うわけです。 そう言う奴らを見ていたら本当に胸くそが悪いです。何でかいうたら、 自分の気持、苦しみやそういうものをどうしたらええか、人間同士が一緒に創っていくもんやと、 それが分かって本当に偉いんやと僕は思っています。
 そんなこと思いながら三年間やっていく中で何を学んだかいうたら、落ち着いて、 悪いところばっかり見ずに本当に落ちついて真底いいところを見つけていく、 自分がどこが悪かったんだろうか、どこが良かったんだろうかということを、 今年で四年目になるけれど、やっといま自分の気持に正直に学校に来ている思っている。
 この市芦を、もっと学力の低い子も、人間を信じられなくなっている中学生も多くいると思いますが、 そういう子らのためにも、僕らが先頭に立ってこの市芦を守り、 これに圧力をかけてくる者にはあらゆる面で抵抗していきたいと思います。 絶対やらないかんと思います。(鈴木先生の離任式にて)

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2 担任の先生は生き方を僕の中に残してくれた(3年有志1986.10)

 今回の鈴木先生の職務命令について、僕たちは、納得がいかない。 なぜかと言うと、まず10月1日付で強制配転させられるという事は、どうしても納得がいかない。 事前に連絡もせずにいきなり命令したうえに、さらにその配転の理由もないと言う事は、 あまりにも横暴でありすぎると思う。僕は、どうしても納得がいかないので、 井上教頭に直接かけ合い話をしてみたが、教頭は「これは、教育委員会の命令であり、 理由もまったく知らない」。また教頭は「これは、君達の知らない大人の世界のことだ」とまで言い、 まったく話にならず、そして自分が危くなると逃げるように話をそらしてしまうのだ。このような事は、 納得がいかない。
 僕は、この市立芦屋高等学校に来て鈴木先生に出会いました。僕は神戸の中学校から唯一、 一人だけ市芦を受け、市芦に入学しました。市芦に来てたくさんの先生や友達に出会いました。
 その中でも、僕の担任であった鈴木先生は、大変やさしく、すばらしい先生でした。 僕が2年生の3学期の事でした。僕はまったくといっていい程、学校にも行かず家にも帰っていませんでした。 そんな僕の私生活の事まで僕を見すてず、見守ってくれていたのが鈴木先生でした。 後になって僕の両親に聞いた話ですが、鈴木先生は、僕の事を夜の三宮へと毎晩のようにさがし続けてくれ、 そして毎日のように僕の家へと顔を出していてくれたそうです。 いまどきといってはなんですが、こんな先生が他にいるだろうかと考えたくらいです。 しかも鈴木先生は、僕を休学という立場においてくれ、そして僕にもう一度、 復学という大きなチャンスを与えてくれたのだ。 ぼくは鈴木先生の大きなチャンスを生かして復学を決意しました。
 鈴木先生は僕に人を心から思いやる気持、両親の本当のありがたさ、両親の気持、 僕がこれからどうあっていかなければならないかなどを、僕の中に残してくれました。 僕自身、鈴木先生がいなければ、僕はどうしていいかわからなかったと思います。 鈴木先生は市芦に必要な先生です。僕は市芦にきて鈴木先生に出会い そしてほかの学校では決して学べない事を市芦から鈴木先生から学びました。 そんないい先生を配転させるのは、僕は絶対反対です。
 とにかく鈴木先生のみならず、他の先生方の処分や鈴木先生の配転をとりけし、 もう一度市立芦屋高校に復職をお願いします。
 市芦つぶしをやめろ!

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3 私たちは市芦に通い自分の生き方を問い続けています(3年奨学生有志1986.10)

 私達は、今回あった市芦の三人の先生方への処分を知り、驚き納得のいかない気持ちで一杯です。 私達の学校の中から、急に三人もの先生がいなくなったのです。 何の前置きもなく急に処分を受けた先生は、それぞれ今までしかけられてきた仕事を奪われ、 私たち生徒の前から姿を消し、どうしょうもない無念の気持ちで一杯なのではないでしょうか。
 それぞれ三人の先生方は、障害研、朝文研の顧問、奨学金係として、なくてはならないとても大切な活動をしてこられた先生方なのに、処分をそのままうのみにする市芦の校長は、私達にとって本当に私達の学校を考えてくれる人なのだろうかと、不信感を抱くばかりです。
 私たち奨学生は、このような形で抗議文を書くことになりましたが、 私たち奨学生がどのような気持ちで市芦へ入学し、今通っているかを、私が代表して書きたいと思います。
 私は中学の頃から勉強についていけなくなり、学力もグンと落ちてしまいました。 それは、先生から言うと「その頃、家庭が荒れていたせいなのでは」と言われました。 その頃の私は、周りの人々の言葉などに反発するように、自分を押さえることもなく荒れていました。 中学三年という大切な時期も、自分の行く高校が見つからず、フラフラしているばかりでした。 事実、私の家は母子家庭で借金をかかえて、進学のためのお金などどこをひつくり返してみても、 出てくるあてはありませんでした。私は小中学校と奨学金をとり、中学の時は、 自分のものは自分で買おうとアルバイトをしました。そんな生活にやはり、 少し負担を覚えていたのかもしれません。学校内の態度は悪く、あの時の自分を思えば、 信じられない位でした。やはりそのような立場に立たされたら、 誰しも自分を見失うことがあり勉強したくてもできない時があるのだと気付きました。
 私はこの市芦で、初めて奨学生集会というのを知りました。実際に参加し、 部落の友達で表面では解りにくくても小さな差別を受けたことや、 それでも自分は部落ということを恥じることはないと自信をもって言いたい、 言えるようになりたい、と聞きました。又、「今学校に在学しているけど、 毎日学校に来るのがしんどくてたまらなく、留年が危ぶまれるまで休んでしまっていた。 でも、その中で学校に来れたのは、友達、先生や自分の中で、 なぜ学校に通っているのかが解ったからだ」という子もいました。 こんな集会で私達は、奨学生はみんなの苦しみや悩みを聞きこんでは、 自分の苦しみにあてはまるということが解りました。 私自身、自分の家族の気持ちを思いやる気持ちを知りました。
 芦屋広報を読みましたが、皆から愛されていない学校は廃校と書いてありましたが、 そうでしょうか。私たち市芦の先生、そして市芦の生徒、皆が市芦を愛しています。 そして、これからも市芦を必要としている多くの生徒達がいる限り、市芦を廃校にしてはいけないのです。
 このような私たち生徒、奨学生、障害研、朝文研の事をよく理解してくれる現場の先生方三人を、 納得のいく理由もなく急な処分をくだすなど、私達はあなた方教育委員会を不信に思うしかなく、 怒りさえ覚える気持です。私たち一人一人を本当に考えてくれる、利害も考えず本当の教育を、 生き方を示してくれた先生方三人を返してください。この処分を撤回せず、また不当な処分を下すようならば、 奨学生一同は抗議を続けるつもりです。私たち奨学生一同のお願いです。 三人の先生方の処分を撤回して下さい。
 私達の市芦を破壊しないで下さい。

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4 お母さんと一緒にニコニコ笑ってくれた、 そんな先生の顔が好きだ(1年障害生K1986.10)

 鈴木先生は社会の時間に吉村先生がいない時でも、町に関係のある記号の勉強でも、 「この記号は何と言うの!」と言って、「これは寺や」とM君が言った。 そしたら鈴木先生が「お寺は、坊さんのおる所やね」と言った。そうするとぼうを持って、 「えいっ、えいっ」と言って坊さんのまねをおもしろくしてくれた。さんかん日の時でも、 お母さん達が来ている時は、黒板につけてある地図で吉村先生がしゃべって教えている時に、 だれか生徒がしつ問した時に、お母さんといっしょにニコニコ笑ってくれた。そんな鈴木先生の顔が好きだ。

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5 一番大事な心をうばうことは、 人間でなくなるということだ(1年生K1986.10)

 今、一番くやしいことは、鈴木先生をこの市芦にもどすことのできないちっぽけな一人の 人間が私であるということです。けど、いくら一人ひとりがちっぽけな人間でも、 みんなが集まればきっと大きな力となると私は信じています。
 きっと、私たちは大したことはできないけど、できるかぎりのことをしたいし、できるかぎりの力を出したいと、 そう思っています。プリントに、鈴木先生は、もう先生と呼べなくなるって書いてありました。私はちがうと思います。 鈴木先生は鈴木先生と呼ぶのが一番ふさわしい。
 私たちを成績という、わくの中におしこめようとする大人達にはまけません。心の中のこと、 人間としての一番大事な心をうばうことは、人間でなくなるということと同じです。 この短い間に教科書では学べないほどすばらしいものを一つずつ自分のものにできたような気がします。

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6 勉強嫌いだった私が今は「水」の授業を待っている(1年生M1986.10)

 小学校に上がって、自分が勉強が嫌いなこと、それをこくふくする努力もできない子だということに気がつきました。 中学校の進路相談で君は市芦にいってもちゃんとやっていける、 卒業した時に市芦に行ってよかったと言うようになる、と言われました。一学期が始まりました。
 はじめの方は、いやなことが多く辞めることばかり考えていました。 でも友だちができて、いま中学の時の先生のことばはまちがっていないと思えるようになってきました。 とにかく早く帰ってきて水道の授業はじめてください。

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7 私を一人の人間として見てくれた市芦が変えられる(3年生N1986.10)

 奨学金を取っている三年のNです。この前奨学生で抗議文と署名文を書いて集めたんですけど、 三年生の私たちは鈴木先生のことをそんなに知らないし、はたから見てたかぎりでしかないんだけれども、 それでもなんで動いたかというたら、鈴木先生をもどしてほしいというんもあるんだけれども、 私たちからしたら今の市芦が変えられるとそう思ったから動いてきました。
 私の場合だったら中学から振り返ってみたら、ろくに勉強せずに遊んで内申も悪かったし、 中学の時から奨学金も取っていて家も母子家庭で苦しかったし、 中三ぐらいになってからやっと進路というというのを考え出して、 いざ自分がいく学校というものを考えてみたら県芦(県立芦屋)・県南(県立芦屋南)なんて とうていいけるところじゃなかったし、私学にいくお金などうちの家からは出てこなかったし、 学力とか内申でもギリギリのラインで落ちるか落ちないかといわれたし、そこで、 市芦と先生にいわれたんやけど、私はやっぱり外見の市芦しか見てなかったからね、 やっぱり行くのははずかしいと思う気持ちも正直あったし、 山手中学だったから市芦にくる生徒がほんのわずかやったから、 友達ができるかなという感じで迷っていたんやけど、 お姉ちゃんの友達の市芦の人に聞いたら「いい学校やから来い」というし、 行きようがなかったからとにかく市芦に入ろうと思って入った。
 入ってみて、はじめの頃はびっくりすることもあったけど、精道中学の子のほうが多かって、 それなりに自分と気があったし気持ちが同じようなことを考えていたから、まあまあ友達ができて、 私もめぐまれて来やすい状態だった。それでも学校を休みがちで三年になるまで毎年進級でひっかかっていました。そんな時にわたしが学校に行かれたんは友達やと思う。私は学校を休んでも連絡を全然とらんのに友達の方からさがしにきてくれて、連絡とって学校来いよと言ってくれる。先生も同じように捜しまくっていたんやけど、私が学校に来ようと思ったんは友達のおかげやし、一緒に卒業したいと思ったんは友達がいたからです。
 県芦とかにいっている友達もいるねんけど、何年かたって会ったら市芦の友達と考えをくらべてみたら、 この子らは何を考えてんのかなあと思う面がいっぱいあります。たとえば、誰かが何かで悩んでいるとしても、 他の学校行っている友達やったら「だいじょうぶ」とうわべだけの言葉しかかえってこないし、 それからは何も考えてないんやなあという感じやねんけど、 市芦の私の友達やったら大丈夫ともいわない子もいるけど、あとからとか裏からとか友達に聞いたら、 人一倍心配してくれていたり、お金がなかったらお金かしてくれて、 食べんのなかったら食べんのん持ってきてくれたりしてくれる、そんな友達です。 私は卒業できるかどうかまだわかんないけれども、もし卒業して何か淋しくなって相談したくなって 市芦に帰って来ようと思っても、市芦が県芦とか県南みたいに進学校になって、 通っているその時の生徒が全然ちがう雰囲気で、もし職員室に入って知らない先生ばかりで、 今のような何でも相談できる先生らがいなくなってたら、私は帰るところがないし、 それにもう自分が出た市芦が芦屋にはなくなったんやなあと思いたくないから、いま活動しています。
 これから市芦に来ようとしている私達のような生徒で、もし市芦がなくなったら行くところがないし、 私みたいに友達のよさとかわからないと思うし、それに市芦の先生が初めて私を生徒じゃなくて 一人の人間としてみてくれました。だからこれからも市芦を変えていくようなら、 私は奨学生として行動していくし、私達三年は多分ほとんどの人が、卒棄してまたこんなんがあったら、 いま動いてくれてる卒業生の人達と同じような活動すると思います。
 校長先生と教頭先生は、私から見たら一番なりたくない大人やし、一番したくないことをしている大人です。 教頭先生は一度鏡で自分の顔をみたらいいと思うけど、目付きが変ったし、 話しかけようにも話しかけられないこわさがあります。
 鈴木先生のことはあまり知らないけれども、先生がしてきたことをまわりの先生もいうし、 卒業した人達もいうし、私の思っている市芦を変えてほしくないから、 先生も早く教壇に帰ってきてほしいと思います。
(1986/10/9鈴木先生の離任式にて)

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8 次々に変わる時間講師、 分からなくなった授業に生徒が抗議(市芦分會字報より1987/11)

 11月20日、職員室で自然発生的に二人の生徒の教頭に対する抗議が始まった。 一人は今年の入試で弟を落とされた生徒、もう一人は留年生でやっと勉強が分かり始めていたのを 今度の「教育改革」でまた勉強が分からなくされた生徒だった。はじめは、「数学いっこもわからん。 T先生に代えてくれや」というような穏やかな話だった。ところが、生徒の要求にまともに答えられない教頭は 「それではT先生のコピー人間でもつくらにゃいかんなあ」と、生徒をおちょくった。 「俺らは真剣にいうとんのやぞ」、生徒が怒って当り前の、なめた応対だった。
 「一年のとき分かつとった授業が二年になって全然わからんようになった。 これで学校、ほんまにようなっとんのか」
 「授業に来る先生が六人も代わって、みんな教え方が違う。それで分かれというのが無理だ。 授業ちゃんと受けるのが当り前やいうけど、そんな授業についていけというのが無理や」
 「何で辞める先生や事情のある先生ばっかりを連れて来るんや。それやったら、 前の先生を戻したらええんや」
 「俺の弟を落とした上に俺まで辞めさせるつもりか。弟を落としたん、本当に頭にきとんや。 それが一番言いたいんや。一生恨むぞ」
 それまでほとんどよう言い出さずにいた弟のことを、怒りと共に吐き出した。生徒の抗議は続いていた。 いつの間にか職員室の中には四十人ほどの生徒が集まって回りを取り囲んでいた。生徒会執行部の生徒、 奨学生もその輪に加わっていた。
 「私の知ったことではない」「学校は良くなっていますよ」「生徒は授業をちゃんと受けるのが当り前」と 生徒を挑発するだけで、生徒の抗議にまともに答えられない教頭に、 爆発しそうな怒りを抑えて生徒は冷静に抗議を続けた。 周囲の教師からも「生徒の抗議にまともに答えろ」「まともな人事をするのが大前提だ」 「生徒を挑発するな」「生徒にちゃんとせえ言うばかりでなく、学校側がしなければならないことがあるはずだ」と、 教頭をたしなめる声が上がった。

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9 市芦は私たち親子に希望を与えた(20回生保護者1986/10)

 私は今から十年ほど前に、この芦屋にお世話になった訳でございます。  出稼ぎをして来て、職もあまりなく、何も持たないで、こっちにお世話になって、日雇い労務者として働いておりますが、子どもを学校に、高校にも行かせたいけど、出すにしては金もいるし何もかも自分の力でできないような状態でした。けれども、市芦やったらなんとか行けるのではないか、奨学金制度を使わせていただいて卒業さしていけるのではないかというような話をちょっと聞いたものですから、それなら高校に入学させてみようということで、試験を受けさせました。そして上の子が卒業して、今年度下の子が無事に卒業させていただくようなことになつとる訳でございます。  なんといったら言いのか。今度の問題をスムースに解決させていただきたいと、そう思っています。

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10 市芦の子は小芋を洗うようにガラガラこすれ合い、一緒に勉強してきた(卒業生保護者1987/7)

 私の娘が今年三月にこの「実の市芦」を卒業しました。「実の市芦」というのは、今とばされている七人の先生がおられた時分の市芦という意味で「実の市芦」と言わせていただきました。  ラッキーにもこの「実の市芦」で三年間お世話になって、卒業して大阪のある金融機関で働いておりまずけれども、月給をもらってきて自分の小遣いを取り、残りを親たちにくれるわけですけれども、ここまではどこの学校を卒業された方でもこういうことはあると思うんですが、ただそのあとで言った言葉は、「実の市芦」を卒業したということがあると思うわけです。  「すまんなあ、こんなんもろてええんかなぁ」と言いますと、「これは先生への御礼やねん」と言うわけです。今年お世話になった学校の先生に暑中見舞いも出してないし、何の手紙も出していないわけですけれども、先生の恩は忘れていません。その恩を親に返すという心があるわけです。  市芦という学校は、いろいろな家庭状況の人が雑多に集まって、まるで小芋を洗うように、ガラガラガラ、ガラガラガラとお互いにこすり合いながら一緒に勉強してきた。はたから見れば、かっこうの悪い教育でありますけれども、この中で子どもたちが、勉強に対してむつかしさを持っている方から励ましを受けたこともあるでしょうし、痛めを受けたこともあるでしょう。そういうような経験から社会へ出て、何としっかりした娘になってくれたかと大変感謝しておるわけです。  これが「実の市芦」でありまして、これがいまだんだんと崩壊させられつつある。  市芦救援会という、教育がこれからどうあるべきかということを検討する団体であって、我々はこれからあとがんばっていきたいなあと思うわけです。

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11 影ながら応援しております。(HP感想メール 1999/12/ 07 )

 影ながら応援しております。
 このように重大な問題が、原告の先生方や、支援されている方々だけの 狭い範囲でのみ問題とされている事に疑問を感じます。
 もっと大きな問題として、各方面で取り扱われるべき事であるように思うのですが、 色々な所からの圧力があることや、直接関係のない人達には遠い世界の事である(←私も含めて)ため 仕方がないのでしょうか。
 しかしながら、この度、勝訴という結果になりましたこと、心からお祝い申し上げます。
 とりあえずはお疲れ様でございました。これからも頑張ってください。

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