障害生を排除した「教育改革」

 ・・・「教育改革」前の市芦高校は、1972年から1985年にかけて、知的障害者を含む約50名の障害者を受け入れ卒業させてきた。障害者とその親たちは義務教育終了後の行き場所を求めて、同世代の子どもたちの通う地元高校への入学希望が強い。彼らを受け入れることは、彼らにとっても、また彼らとつき合うことになる生徒や教師にとっても、教育上重要な位置を占めていた。障害者切り捨てに抗して、障害者の親が子どもの地元高校への入学を求めて、自らの生活と気持ちを書き綴った要求書を提出した。しかし、市教委と学校長は平然としてそれを切って捨てた。以下の内容を見れば、教育改革が何を切って捨てたのか明白だろう。・・・

この子の人生を広げてやりたい(永岡英子1988/1/9)
「教育改革」により踏みにじられた障害者とその親の願い


病院めぐりの日々

 思えば15年、一日を辛くて長い思いですごした事もすぎてみれば早いもので、いよいよ義務教育最後の時となりました。
 息子の障害に気づかされた時、不安と絶望に胸がつぶれる思いでした。病気なら治したいと大学病院をかけめぐり「先生、どうなんでしょう、どこが悪いのですか」。恐る恐る聞いた事をおぼえています。先生は無言でした。しばらくして「もう少し様子をみましょう。発達がおくれているようです。」それからの私達は、なんとか治し、普通の子どもにしなければと奔走するわけです。
 生後7ヶ月頃から、近所の同じ年頃の子ども達と様子が違うことに気づいた私は、不安のあまり医者 にかかるのをためらい続けていました。ある日、里の母が「基は耳がきこえないんじゃないか、目も合わないし、一度みてもらったら」といわれ、私の不安は一挙に現実にさらされました。「私もそう思うんだけど恐いし」と母に訴たえ、一緒に私の里である長崎大学病院へみてもらいに行ったのが一才の時でした。当時、豊中に住んでいましたので、結果を持って大阪大学病院へ移りました。「いろいろ検査の結果、目も耳も障害はありません」といわれ、精神・神経科に移されたわけです。その時の診断は「精神発達遅滞」という事でした。その時、医者から「同年令の子どものなかでたくさん遊ばせてください。たとえば保育所などいいですよ」といわれ、二才の時芦屋の保育所へ越してきました。

基が私の顔を書いた

 治さなければ、今のうちになんとかしなければと、言葉の訓練、親子体操と、こうしたら治るといいう新聞や口こみで見聞した場所には足繁く通いました。遠くは片道二時間もかかるところまで通い、子ども病院にも週一度親子カウンセリングを受けにいきました。片方では、すぐに保育所に入れるべく手続きをとり、二才の時入園しました。
 普通の子どもの中にいればいつか治る、いつかしゃべれると信じ込み、一生懸命、しゃべらせて、自分の事は自分でできる様にときびしくしつけ、できなければたたく事もしばしばありました。その頃は、とてもおとなしい静かな子どもで、人形の様に無表情なまま、私の顔も回りの人の顔もまったく見ないで、まるでこの世は自分一人なのだと言わんばかりにあらぬ所をみつめている子でした。ただ唯一、保育所の中だけでは、声をたてて笑ったり、遠くから友達の様子をうかがうようにじっとみつめていたり、保母さんの後をついて回ったりと子どもらしい表情がでてきたのはとても嬉しい事でした。
 訓練では、たしかにおぼえもしたし、文字カードや形はめ、どろんこ遊び、親子体操とこなしはするのですが、笑わないんです。それどころか、行く時は、電車が好きで、長い時間乗れるのが嬉しそうにするのに、いつもの駅につくと笑わなくなるんです。終った後の帰り道は、ギャーギャーと泣きさけび、その辛さに、私も一緒に泣きながら、疲れきって、引きずるようにして、手をひき帰ったものです。
 五才の時、病院で、「ほとんど感情の発達がみられませんね。たぶん、お母さんのこともわかっていないでしょう。」といわれました。この子には母親の顔もわからないのかと愕然としていた頃のことです。母の日に、保育園に私がむかえに行くと、保母さんが「お母さんの顔、書きましたよ。みんなでお母さんに見せようと、そのままにしていたんですよ。」
 基の顔はクレヨンで青く目の上をぬり、赤く口にぬりたくっていたんです。「ムー君、よく見てるね。お母さんのお化粧、みているんですよ。きれいでしょう。」  私はハッとしました。私は一度として、基をみてきたのでしょうか。障害に目をうばわれ、できない事を責め立て、基のあるがままを受け入れる事を拒み、冷たく、きびしいだけの母親でした。回りの子ども達も、保母さんも、基をそのまま受け入れ、本当に大切につつみこんでいた事に初めて気が付きました。その時から、訓練をやめました。

ひとり、障害児学級で

 いよいよ、小学校入学をひかえ、なんとか校区の学校へやりたいと小学校へ相談に行きました。その時、「教育委員会の方へ行って下さい。直接こられてもこまります」という返事でした。子ども病院の先生と保育園々長さん、私達とで、教育委員会と何度となく話し合いながらも、養護学校へと強く指導を受けました。それでも、保育園での様子を訴えながら、ぜひ、この小学校へとお願いして、3月19日に障害児学級へとの条件付で入学がかないました。それからの小学校生活は、保育園とはまったく逆で、障害児学級での取り組みは、回りの子ども達とは遮断された、障害児だけの生活でした。学校の中では、基の存在はまったくなく、一人の友達もいない孤立した毎日を送るだけになりました。
 「今、言わなければ、また私は基を一人ぼっちにしてしまう」と思う反面、勉強ができないし、おくれているから、あまり無理は言えないという弱さから、なかなか親の思いを伝える事ができず、ずるずると一年がたち、二年が過ぎました。
 ある日、やっとの思いで、給食だけでもクラスの中でと言いに行ったところ、「一人で食べられないんですよ。給食も学習のうちですからね」と言われ、「家では食べれます。保育園の時も食べられていました」と伝えた所、「お母さんが思っておられる程、軽いお子さんじゃないですよ。回りの子ども達と一緒はとても無理です」ときっぱり言われてしまいました。みんなと同じ様にできるとは思っていませんでしたが、その時の先生をみた時、本当に身がふるえ、怒りがこみあげてきました。でも私はだまって家に帰り、泣くことしかできませんでした。どれ程、基は淋しかった事でしょう、しんどかった事でしょう。
 ある事件が起こりました。それは遠足の日の朝の事です。障害児学級で一緒だった、足の不自由なK君の家に担当の先生が電話をかけ「基君、クラスの皆んなと行くには、人手がないし、大変だから、悪いけどK君と一緒に別の所へ行こう」と話し、私の所には「K君、遠足はしんどいから基君も一緒に別の所へ行こう」と言ってきました。K君の家へ電話でたしかめてわかったことです。すぐ学校へ行き、原学級であるクラスの担任に、「なぜ一緒にいけないのですか」とつめよった所、私一人では無理ですからと一言で終りました。
 楽しみにして作った弁当を家の中で基と二人でひろげた時は、私もがまんの限界をこえて、どんな事があっても普通学級へ帰さなければ、基も私もこのままではつぶれてしまう。そう決心しました。

ズボンおろしておしっこするのんおかしいわ

 当時、他市で普通学級の中でありのままをみとめあい、共に学び、共に育つことを志し頑張っている親や教師、また支える仲間達とであうことができ、力を合わせて転級闘争をはじめました。市教育委員会や小学校々長をはじめ、諸先生方全員の出席のもとで話し合う中、市教育委員会は、私達に、子どもの側に立たず苦しい思いをさせた事をわび、今後は適切な指導を行なうとの公約を頂き、はれて三年生の二学期より全面普通学級へ転入がみとめられました。うれしかったです。
 でももっとうれしかったのは、集団登校への参加ができ、近所やクラスの子ども達がむかえにきてくれる様になったことです。ある友達が言いました。「あっちの子と遊んだら、あかんと思ってた。これから一緒に遊ぼうね。」うれしい反面、知らず知らずのうちに小さい子ども達の中で、特別な目で障害児をみる心が育っていたなんて、あらためてそのこわさを知りました。
 ある日の事、「おばちゃん、ルナ・ホールで映画があるねん。ムー君と一緒に行くわ。」「そう、じゃおばちゃんも行くね。」「なんでおばちゃん、こんでいいよ。私らだけでいくわ。」笑顔でいってくれる顔があまりにもあたりまえだったのが信じられない程でした。なんてすばらしいんだろう。ありがたいなー。希望がわいてきます。
 それからは毎日のように友達が家へきて一日あった事を話してくれます。学校での事が手に取るように伝わってきます。「ムー君、おしっこする時、パンツもズボンもみんなぬいでするよ。おかしいから、ズボンからおちんちんだすようおしえてるねん」という男の子。「ムー君、電車にのっていろんな所へ行くから、みんなで日本地図を作ってあげるわ。行った所、印つけたらいいよ」と、もぞう紙いっぱいに地図を書いてつくってくれました。「ムー君、字いっぱい知ってるから、ぼくらの名前、書かしてんねん」。
 親も知らない子どもどうしの世界。おかしな子やなー。おもしろい子やなー。そんな子どもどうしの関係に支えられての小学校生活を終る時がきました。私は取りもどした子ども達の関係をそのまま中学校へ進めたいと先生に伝え、山手中学校へと入学をしました。 居つづけることで何かが起こる
 「中学は小学校みたいにいかへんよ」、「各教科で先生は変るし、先生もふえるし、生徒は三倍になるし、普通学級におってもお客さんですよ。親の見栄だけで子どもを引っぱりまわすのはあかん。」  中学進学の時、いろいろな声がきこえてきます。それはまた、そのまま親の不安でもありました。しかし、入ってみんとどうなるかわからへんし、ともかく普通学級に基が居つづけることで何かが起こるだろうという思いで中学校生活がスタートしたのです。
 入学式の日、中学校は大きいなー。私は一瞬、やっていけるかなー、と基の顔をみました。その時、いつも基と一緒にいるクラスの何人かがやってきて、「僕、基と一緒や。」その声に「たのむね。」
 初めは小学校の頃の友達ばかりがそばにいたんですが、時々みかけない顔がいたりして、「どこの学校だった」ときくと、「岩園小学校」、または「神戸から引越してきた」と、他の学校からきた子ども達がチラホラと来てくれるようになりました。うれしいなあー、友達がふえていくんです。
 一年の二学期頃から、基の学校脱出がひんぱんになりました。
 いなくなったとわかれば、すぐ校内放送が流れます。「二年一組の永岡君がいません。見た人はすぐ報告して下さい。」同時に先生方が阪神・阪急・JRの各駅に走って行きます。なにしろこんなケースは初めてのことらしく、先生方も必死でした。ある先生は阪急芦屋川ではりつきながら、「今ひきあげたらそのすぐ後でムー君がきたらどうしょう。あと五分、あと五分と思っていたら二時間待っていました」と笑いながら報告してくれました。
 それ以降も本人は精力的に脱出をはかっています。芦屋警察署、各電車の駅員さんも、もうおなじみさんです。学校から連絡が入ると、駅員さんは「毎度、今日はどんな服ですか。」警察も「いつもの永岡君ですか、ハイ。」

本領発揮

 こうした中で、先生方から「バスや電車にキップも持たんと、どうして改札を通りぬけれるのか」、「どのコースで十数時間も電車に乗って、京都や大津にいくのか」ということが素朴な疑問として話題になりはじめました。
 そこで担任の先生と学年付の若い先生が一度基の後をつけることになったのです。
 3月6日、期末テスト終了後、三人の先生は、表門と裏門にわかれて、トランシーバーでお互い連絡をとり合いながら、基が出てくるのを今か、今かとまちうけていました。
 クラスの友達から「今日はどこでも好きなところへ行っていいよ」と送り出された基は、半信半疑といった表情で、恐る恐る校門を出たそうです。その時の様子を担任の先生が次のように話してました。
 「出初めは気にしながらも、いったん出てしまうとしだいに大胆になり、走っておりては、本屋→バス→阪神電車というパターンで行動しました。阪神の改札の近くで見ていたのですが、何らちゅうちょすることなく、駅員さんのすぐ前の改札口を神技的に通り抜けました。阪神では迷わず神戸方面の電車に乗ったのは、鈴蘭台というのがもうその時にムー君の頭にあったのかもしれません。阪神では気づかれてしまって、その度に前の方へ移動したり、席をかわったり、新開地のホームで走ったりして、しきりにまこうとしていました。途中で完全にまいたと思ったらしく、その時はキョロキョロすることもなくなりました。天気もよく、景色を見ながら、気分よく楽しんでいました。」
 度重なる脱出行の中で、画期的なでき事がありました。
 3月14日夜、神戸で障害者差別と闘ってきたY君を偲ぶ一回忌の集会があり、私たちも家族で参加しました。集会終了後、基がいません。学校からいなくなった時は、「ええよ、どうせ終電ごろにはみつかるから」と、わりと平気なのですが、いざ自分の手もとからいなくなると、くやしいやら腹がたつやら、ともかく警察に届けて家で待つことにしました。
 いつもなら、遅くとも12時前後には警察か駅から連絡が入るのですが、午前2時をすぎても連絡がありません。やはり心配です。 1時30分に大津警察署から「お宅のお子さん、浜大津のローソンであばれていたのを保護しましたので、すぐむかえにきて下さい」と連絡がありました。
 「ローソンてありがたいなあ。これであの子は生きていける」。
 大津署にむかえに行き、ローソンにもお礼を言いに行きました。若い店員さんが「店に入ってきて、いきなりすわりこんでわめいていました。よくみると、どうも助けてほしそうにもしているし、ともかく警察に連絡したんです」と、その時の様子をていねいに話してくれました。
 いつも保護してくれる筈の駅員さんがいないし、駅は暗いし、腹はへるし、だんだん不安になったのでしょう。仕方なく町を歩いていたら、見なれた、いつも自分も書いている「ローソン」の灯が見えて、「とびこんだらなんとかなる」と基なりにいろいろ考えたのだと思います。
 この日一日心配したり喜んだり、忙がしい一日でしたが、基なりにY君へのイキな供養だったと思います。
 友達・先生・駅員さん・バスの運転手さん・近所の人、いろんな人々の想いに支えられて、基は今日も脱け出すチャンスをうかがいながらも、元気に学校に通っているのです。
 また、クラブ活動への参加も、基にとっては大きな出来事でした。
 何にするか、いろいろ考え、体格はいいし一人でもみんなとでもやれる陸上部へ入部しました。一年の時は顧問の先生が一人だったので、なかなか実現できませんでしたが、二年になって一人先生がつくという事で入部できました。芦屋川から中学校までかなりきつい坂になっているんですが、基が顔を真赤にして、ひつばられながら登っていくんです。
 トラックを十周、みんなと一諸に走るんですが、どうしても基だけが遅れるんです。そうするとみんなの中から一人ぬけて基のそばについて一周する。次は他の子と交替しながら、基と一周する。そういうふうに回りの部員がそれぞれに工夫しながら基と一緒にやっていくんです。片方では個人の記録をどう伸ばすかという競技の中で、記録とはまったく無縁の基に最後までつきあう仲間がそこで生まれました。

この子の人生を広げてやりたい

 心配はつきません。できない事もまだまだたくさんあるし、でも嬉しい出会いもたくさんありました。「基と一緒に学校へ行ってたら突然つきとばすねんで、車なんかきたらもう必死やわー」と口をとんがらせて言う友達は、次の日もまた、基をまってて一緒に学校へ行ってくれる。基が学校をぬけ出して、電車に乗り、どこへ行ったかわからなくなった時、「弁当も食べんと、腹へってるやろなあと心配してくれる友達。「基はホントに電車が好きやねんなあ、京都やいろんな所へ行けていいなあ」とうらやましそうにいう友達。
 基のノートに書き綴られた、地名や広告名、好きなお店の名前や、商品の名前、その中に、確かに友達の名前がある。先生の名前がある。そして山手中学校の名前があるんです。
 基は電車が大好きで、学校が大好きで、そこで出会う人達はもっと好きです。理屈ではなく、そんな基の世界をもっと広げてやりたい。同世代の仲間達とすばらしい青春を過ごさせてやりたい、そんな思いが、いま基を絶対高校へやりたい、と強く私の胸にこみあげて止みません。
 みなさんどうかお願いします。力をかして下さい。基を高校へ行かせて下さい。お願いします。

(1988年度入学選抜で定員内不合格で他の24名の生徒たちとともに市芦高校から排除され、同時にこの障害児普通高校入学闘争にかかわった組合委員長深沢はこの年、学校外への追放となる強制配転処分を受けた。)