自由研究発表A−(3)

 

 

 

学校教員の転任処分についての教育法的考察

 

       在間秀和(弁護士)     鈴木紀之(元市立芦屋高校)

    深沢 忠(市立芦屋高校)  土屋基規(神戸大学)   

 

 

目  次

 

Ⅰ 市立芦屋高校転任処分事件の経過と背景

1 事件にいたる市芦高の教育実践 1

2 「松本教育改革」と教員処分 2

3 公平審採決と裁判判決の結果とその後 3

4 年表(市芦高校の歩みと市芦高校事件の経過)5

Ⅱ 本件における主要な争点と判決の認定

1 本件における主要な争点 7

2 公平委員会採決と裁判所の判決の結論 8

3 本件転任処分の不利益性について 8

4 「不意転」について  9

5 本件転任処分の違法・不当性についての判決の結論  10

6 判決の評価  11

Ⅲ 判決の教育法的意義

1 判決の概要と教育法的意義 12

2 教育公務員の身分保障の原則  13

 

(資料)

1 大阪高等裁判所判決抜粋  16

2 意見書(土屋基規) 43

3 芦屋市教育委員会謝罪文 52

4 謝罪に関する新聞記事  53

5 鼎談 教師の専門職制を考える(季刊教育法105号) 54


Ⅰ 市立芦屋高校転任処分事件の経過と背景

 

1 事件にいたる市芦高の教育実践

1986年から1988年にかけて,兵庫県芦屋市立芦屋高校(以下市芦高という)において,2名の教員に1ヶ月の停職処分がなされ,それに引き続いて9名の教員が現場の教員から芦屋市教育委員会(以下市教委という)や市長部局の一般事務職に強制配転された。

 処分の対象とされた教員は全員芦屋市立高等学校教職員組合(以下組合という)の組合員で,それぞれ芦屋市公平委員会(以下公平委という)へ審査請求を申し立て,あわせて神戸地裁へ処分取消の行政訴訟に訴えた。

 公平委(高澤委員長)は1987年から77回の審理を経て,1997年3月に懲戒処分は一部修正したものの転任処分を承認する採決をくだした。1995年3月に始まり,公平審調書をすべて書証として採用することで15回をかけた神戸地裁公判では,1999年9月に判決が出され,懲戒処分の取消請求は棄却したものの,転任処分はすべて取り消した(神戸地裁松村雅司裁判長)。また,被告市教委が控訴した転任処分について,大阪高裁(見満正治裁判長)は2001年10月に原審を支持し控訴を棄却した。同年11月に高裁判決は確定し,同年12月に市教委は原告の教員と組合に謝罪した。

  以下,事件の経過とその背景について概要を述べる。

 当該教員らが勤務する市芦高は,1962年に中卒者の急増を背景として,「せめて高校だけは」という子どもと親の願いに応えて創設された芦屋市(当時人口6万人,市内公立高校2校)唯一の市立高校である。

 1970年代に入って,芦屋市教育長の差別発言事件を契機として,行政,学校現場が一体となり,従来の教育の反省に立ち,「一人も落ちこぼさぬ」徹底した人間尊重教育の実践に取り組んだ。市芦高でも1971年に実施された「進学保障制度」をはじまりとして,奨学金制度の新設・充実や学校行事扶助料給付等を内容とする就学保障,生徒からの「わかる授業」要求に応える授業改革や通知票の改善,近畿統一用紙による就職保障や大学入学書類の改善等の進路保障の取り組みなど学校全体の改革がきびしく実践された。例えば,「進学保障制度」は社会的差別や貧困により公教育から排除されていた子どもらの教育権保障のため定員の枠外で入学を認めるという措置であったが,この制度により1986年まで50名を越える障害を持つ生徒が入学し,「健常者」と3年間を共にして卒業していった。こうした教育実践は時には行政への鋭い要求を突きつける教育運動として展開されることとなり,「生徒の教育権保障」を目標とする教職員組合も教育運動の大きな支柱となっていた。

 市教委は自ら編纂した記念誌で,「1970年から始まる10年間は芦屋市の教育にとってかつてない大きな変革期であった。教育は教育基本法に明示されているとおり,ひとりひとりの人間のかけがえのない存在としての尊厳性を基調にすえ,教育の機会均等を保障するものでなければならない」と記し,その先導的教育実践が市芦高で進められたとして「被差別状況に置かれているため,公立高校への進学の意欲はありながら進学できない生徒のため,中学と高校の密接な連携のもと高校進学保障の措置をこうじることになったこと,そのため学級編成の改善と教員定数の加配等多くの充実策を実施したこと」および「高校にも障害児生徒を受け入れる道を開き,幼小中高一環の人間尊重教育を実現する上から画期的前進があったこと」を特筆していた(「市教委30周年記念誌」)。

2 「松本教育改革」と教員処分

  こうした市芦高における教育が急転回させられていくのは,1986年7月の任期途中の教育長交替であった。既に県教育行政は1975年以降,それまでの「ひかりを教育の谷間に」から「教育の中に厳しさを」という方針で表される能力主義教育,エリート養成教育へ反動的展開をとげていた。

 新任の松本教育長は,前任の教育長が用いた指導・助言を中心にした非権力的手法とは対照的で,最初から「問答無用」の権力を嵩にきた乱暴なやり方で徹底していた。人事異動を利用して管理職を恫喝し,上意下達の手足とする官僚主義で徹底していた。「高学歴志向の社会風潮の中で競争の激化に対応できない芦屋教育」と批判し,「かつての受験教育,エリート教育」の復活と「人気のない学校はどんどん廃校にすれば税金の節約になるし,親は喜ぶし,子供は真剣になるし…」とこれまた乱暴な教育観を公言していた。

 この教育長の手で進められていったのが「教育改革」であった。その内容は,教員数の大幅削減と強制配転,入学試験での定員内大量不合格,進学保障制度の廃止と障害生徒の切り捨て,職員会議規定の改訂と任命校務分掌による学校運営の独断専制化等であった。それは教育権の剥奪を含む多大な犠牲と被害を子どもにもたらした「教育破壊」そのものであった。1987年の入試では定員141名に対して134名の受験者があったのに,実に33名を不合格として排除し,翌年は25名を定員内で不合格にしている。その「教育改革」の一環として行われたのが1986年から1988年にかけての一連の教員処分である。

 まず,1986年9月29日,河村(委員長),深澤(書記長)に対して「無断職場離脱」を理由とする停職1ヶ月の懲戒処分が出された。公務出張を「無断職場離脱」とした処分理由の捏造や証拠とされた学校日誌の偽造や処分手続きの瑕疵や処分基準を越える苛酷性は異常なものであった。ついで,3日後の10月1日,授業の合間に突然その日付の鈴木に対する転任処分が通告された。

 校内では,前田校長の「私は禁治産者の立場にある」という発言のとおり市教委による校長権限の剥奪,学校運営への直接介入が行われ,職務命令が濫発されていった。学校自治の組織である職員会議,校務分掌委員会等が解体され,その機能を停止させられていった。校内民主主義は窒息させられ,教育破壊が進んでいった

 「松本教育改革」の推進にとってもっとも大きな抵抗が教職員組合の存在と考えた市教委は,組合の弱体化を目指したのである。それが組合の中心メンバーへの処分として,学校現場からの排除として進められていく。

  市教委は1987年には,定数条例を改正させ,過員解消の名目で森村,滝山,小川,麻田,石橋,吉岡の6人の教諭を「指導員」という職名で学校現場から図書館,文化財資料室,肢体不自由児・者施設,文化センター等へ強制配転する。さらに1988年には深澤他1名を教育研究所等へ強制配転する。

3 公平審採決と裁判判決の結果とその後

 処分された教員らは,すぐに芦屋市公平委員会に審査請求をした。1987年6月に第1回公平審が始まり,1996年10月の第77回公平審で結審し,1997年3月に採決が出された。公平委採決は,「懲戒処分について停職1ヶ月を減給3ヶ月10分の1に修正する。転任処分については承認する」という内容であった。

 1995年3月に神戸地裁へ提訴された処分取消請求は,1995年5月に第1回公判が始まり,1999年6月の第16回公判で終結し,同年9月に判決が出された。公平審調書をすべて書証として提出し,それをベースに出された判決は,懲戒処分は承認したものの,転任処分は「いずれも全面取消を命ずる」ものであった。

 この間学校現場に復帰したのは1996年の麻田のみであり,他の者はすべて異動による復帰が可能であったにもかかわらず学校以外の機関をたらい回しされていた。松本,長谷川,三浦と教育長交替はあったが,「松本教育改革」路線は継承され,復帰を求める組合や在校生,卒業生,保護者,市民の声は無視されていたのである。

  市教委は神戸地裁判決に即日控訴した。2000年8月に第1回控訴審があり,2001年1月の第3回控訴審で結審し,同年10月に判決が出された。控訴審判決は,原審を支持して控訴を棄却するものであった。組合の強い要求もあって,市教委は上告を断念し,大阪高裁判決が確定した。組合交渉を経て,市教委は同年12月に原告と組合に違法配転を謝罪し,全員の学校現場復帰を約束した。

 

注記 転任処分の事実の概要

1986年10月から1988年4月にかけて,1名が指導主事として,8名が指導員として転任処分を受け,うち下記8名が本件処分取消請求訴訟を提訴した。

●鈴木教諭(社会科担当):1986年10月1日,「指導主事を命ずる指導部学校教育課勤務を命ずる」との辞令により,63年高校総体芦屋市準備委員会事務局勤務を命じられる。大会終了後の1988年10月1日に,事務局社会教育部青少年愛護センターに再配転される。1999年4月1日に市芦高へ復帰する。

●森村教諭(英語科担当):1987年4月1日,「指導員を命ずる。図書館勤務を命ずる」との辞令で図書館で一般事務に従事する。1994年4月1日に事務局社会教育部社会教育文化課へ再配転され市立美術博物館で勤務し,翌年10月1日に芦屋市民センターへ再々配転され,2001年4月に市芦高へ復帰する。

●滝山教諭(社会科担当):1987年4月1日,「指導員を命ずる。社会教育部社会教育文化課勤務を命ずる」との辞令で文化財資料室において一般事務に従事する。1994年4月1日に図書館へ再配転される。

●小川教諭(社会科担当):1987年4月1日,「指導員を命ずる。指導部学校教育課勤務を命ずる」との辞令により,肢体不自由児・者施設の芦屋市みどり学級で乳幼児担当の職員として肢体不自由児の機能訓練に従事する。1992年4月に芦屋市民センターへ再配転され,1999年4月1日に愛護センターへ再々配転される。

●麻田教諭(保健体育科担当):1987年4月1日,「指導員を命ずる。指導部学校教育課勤務を命ずる」との辞令と同時に県教委体育保健課に1年間の出張命令が出され,県高体連の一般事務に従事する。翌1988年4月1日に事務局社会教育部体育館青少年センターへ再配転され,1996年4月1日に市芦高へ復帰する。

●石橋教諭(理科担当):1987年4月1日,「指導員を命ずる。指導部同和教育課勤務を命ずる。市長の事務部局に出向させる。同和対策部上宮川文化センターに併任する」との辞令により,同センターでの学力促進学級の一般事務に従事する。1992年4月1日に図書館へ再配転される。

●吉岡教諭(芸術科美術担当):1987年4月1日,「指導員を命ずる。指導部同和教育課勤務を命ずる。市長の事務部局に出向させる。同和対策部上宮川文化センターに併任する」との辞令により,同センターでの学力促進学級の一般事務に従事する。1992年4月1日に市立美術館へ再配転される。1999年4月1日に市芦高へ復帰する。

深澤教諭(理科担当):1988年4月1日,「指導員を命ずる。教育研究所勤務を命ずる」との辞令により,同所での教育委員会記念誌編纂事務等一般事務に従事する。1990年12月17日に,組織変更により指導部打出教育文化センターに勤務する。

 

年  表(市芦高校の歩みと市芦高校事件の経過)

1962年4月

市芦高校創立

市立芦屋高校創立

1966年10月

組合結成

教職員組合結成

1970年4月

 

兵庫県で育友会費不正使用糾弾闘争が父母負担軽減運動へ発展

1970年12月

教育保障の取り組み開始

芦屋市教育長差別発言糾弾闘争からすべての子どもへの教育保障の取り組みへ発展

1971年4月

 

進学保障制度実施

1972年4月

 

身体障害者の受け入れ

1973年1月

 

就職差別反対の取り組み

1973年4月

 

奨学金制度の制度的充実と奨学生指導の充実の取り組み

1973年6月

 

「わかる授業」のための授業改革への取り組み開始

1973年10月

 

近畿統一用紙による就職保障の取り組み開始

1973年11月

 

大学の入学書類と大学進学制度改善の取り組み

1974年4月

 

知的障害者の受け入れ

1974年7月

 

通知票に変えて詳細な点検表を発行

1974年〜
   1985年

 

奨学金、修学旅行扶助料、視力矯正補助金など修学保障に必要な様々な制度改革に取り組む一方、卒業生の進路保障・就職差別反対の取り組む。中高教員間の連携を深め高校全入をめざした取り組みが推進される。

1986年7月

松本教育長就任

松本壽男教育長就任(市長選挙対策としての「教育改革」のため)

1986年9月

教育介入始まる

教育委員会の市芦への直接介入始まる。
市教委が市芦の直接管理に乗り出す。職務命令の乱発。

1986年9月

委員長、書記長に懲戒処分

河村先生、深沢先生に対する停職1ヶ月処分。
「市芦改革」のための組合弾圧始まる。

1986年10月

本件転任処分1
1名強制配転(第1次)

鈴木先生を体育館へ配転。
組合の抗議集会。在校生の抗議署名始まる。

1986年10月

 

処分撤回の卒業生・保護者・教員の緊急集会(200名)

1986年10月

 

「3人の先生を守れ!反弾圧抗議集会」市民集会。
(500名参加、右翼が乱入するが排除)

1986年10月

第1次公平委員会不服申立

芦屋市公平委員会への3名の処分不服申し立て、処分取消請求

1986年10月

校長「私は禁治産者」発言

前田和夫元市芦校長「私は禁治産者」発言により、市教委による校長権限剥奪、学校運営・教育への直接介入を認める。

1986年11月

 

「市芦救援会」設立総会(200名参加)

1986年12月

 

「市芦反弾圧闘争を支援する会」結成総会

1987年3月

芦屋市定数条例改定

市芦高校の教員の条例定数削減(57名から32名へ)

1987年3月

 

3月20日、市芦入試における定員内大量(33名)不合格(以降現在まで)、緊急抗議集会。以後、校長は学校を放棄して10日間行方不明。

1987年3月

本件転任処分2
6名の強制配転(第2次)

3月27日、定員内大量不合格、6名(麻田、石橋、小川、滝山、森村、吉岡)の強制配転処分に対する抗議リレーハンスト(〜31日)

1987年4月

 

職員会議規定改悪、任命主任制校務分掌の実施。教員11名を一挙に削減。在校生の「教育改革」への抗議続く。

1987年4月

第2次公平委員会不服申立

6名市公平委員会不服申し立て・処分取消請求

1987年6月

公平委員会審理開始

第1回公平委員会公開口頭審理(公平審開始)

1988年2月

生徒全員嘆願署名

生徒会、「学校をかえせ!」「先生をかえせ!」の嘆願書と生徒全員署名を提出(生徒50名が校長交渉に参加)

1988年3月

 

「定員内切り捨て・進学保障制度打ち切り反対」市民集会に500人結集、市内デモ。

1988年3月

 

市芦入試における定員内大量(25名)不合格を出す

1988年3月

 

定員内切り捨て・強制配転反対決起集会

1988年4月

本件転任処分3
2名の強制配転(第3次)

2名(深沢、長瀬)に対する強制配転処分

1988年4月

第3次公平委員会不服申立

深沢、市公平委員会不服申し立て・処分取消請求

1989年4月

第1次学教審答申

芦屋市学校教育審議会第1次答申(松本教育改革追認の「市芦を国際高校に」構想、生徒の実態をふまえず)

1989年12月

 

兵庫高教組結成。市芦反弾圧闘争支援を方針化

1990年1月

 

第23回公平審(小林元管理部長の証人尋問始まる)

1990年3月

 

芦屋地労協、強制配転教員の復帰と入学定員充足を求めて市教委交渉(以後毎年)

1990年3月

 

日教組全国教育研究大会で市芦反弾圧闘争報告

1990年11月

松本壽男教育長更迭

松本教育長更迭

1992年4月

3名再配転

石橋、小川、吉岡への再強制配転辞令に抗議

1992年12月

第2次学教審答申

芦屋市学校教育審議会第2次答申(定員80名に削減、類型カリキュラム導入、教育改革による教育荒廃の失政を追認)

1994年4月

2名再配転

滝山、森村再配転抗議

1995年1月

阪神淡路大震災

阪神淡路大震災(市芦関係被災者多数におよぶ)

 

 

申立人、弁護団、会員等の安否確認始める。配転先各職場が避難場所となり深夜交替勤務に就く

1995年3月

 

震災下、被災生徒を含む定員内大量(9名)不合格

1995年3月

神戸地裁提訴

市芦教育弾圧事件、神戸地裁へ提訴

1995年5月

公判開始

第1回公判(原告冒頭陳述)

1995年10月

 

森村再々配転、市教委抗議交渉

1996年3月

教育法研究者の見解

「季刊教育法」での兼子、神田、土屋鼎談(市芦処分の研究者の見解)

1996年4月

麻田先生復帰

麻田教諭現場復帰

1996年10月

公平審結審

第77回公平審(最終準備書面提出、結審)

1996年12月

 

公平委員会へ「公正裁決要求」5万人署名提出

1997年3月

不当裁決(3/14)

公平委員会不当裁決(転任処分承認、懲戒処分一部修正)

1997年3月

 

市芦処分公平審不当裁決抗議集会(違法、不当処分を追認した市公平委員会を弾劾する」)、抗議書提出

1998年11月

公判終結

神戸地裁第15回公判(公判終結)

1999年4月

鈴木、吉岡、長瀬3先生復帰

吉岡、鈴木、長瀬教諭市芦復帰。小川再々配転

1999年6月

 

第16回再開公判(裁判長交替、原告意見陳述)

1999年9月

神戸地裁勝利判決(9/30)
市教委控訴

神戸地裁(松村雅司裁判長)判決(転任処分完全勝利)、市教委控訴。市教委、直ちに控訴。

1999年10月

 

勝利判決報告集会

2000年1月

 

パンフ「勝利判決全文と生徒たちが語る市立芦屋高校の教育−市芦高校反弾圧闘争・勝利判決をささえたもの」発行

2000年8月

大阪高裁控訴審開始

大阪高裁第1回控訴審

2001年6月

 

夜間高校を守る会運動への参加

2001年6月

 

県教委、芦屋市教委へ通学区問題についての見解を求める

2000年9月

 

市教委へ「すべての生徒を視野に入れた教育施策の要請」

2000年10月

 

学教審発足
(諮問内容を「市芦のあり方」から「市芦の存廃」へ歪曲)

2001年1月

大阪高裁控訴審終結

大阪高裁第3回控訴審(終結)

2001年3月

 

市高教組、学教審への抗議、要請書提出

2001年3月

第3次学教審答申「市芦廃校」

学教審「市芦廃校」の答申提出(第6回審議会)

2001年4月

森村先生復帰

森村教諭現場復帰

2001年4月

 

「市芦があって何が悪いねん!市民の会」結成。街頭署名と街頭宣伝活動、全戸ビラ配布

2001年9月

 

教育委員会、市民、卒業生、保護者、教員の抗議により「市芦廃校」決議できず。(傍聴60名)

2001年10月

市教委「市芦廃校」を議決

教育委員会、「市芦廃校」を審議なしに議決。(傍聴100名)

2001年10月

大阪高裁勝利判決(10/19)

大阪高裁(見満正治裁判長)判決(転任処分完全勝利判決)。市教委へ「高裁判決受け入れ、上告断念」を要求交渉

2002年11月

大阪高裁判決確定(11/2)

市教委上告を断念、大阪高裁判決確定

2001年11月

 

市芦廃校を許さない市役所前終日座り込み

2001年12月

市教委、原告と組合に謝罪(12/25)

教育委員会、8人の先生と組合に違法配転を謝罪

2002年1月

 

市民の会、「廃校問題」「違法行為(判決)」で市教委と交渉し、三浦教育長を追及

 

 

Ⅱ 本件における主要な争点と判決の認定

 

1 本件における主要な争点

原告である転任処分を受けた教員らが,本件における最大の問題点として設定した問題点は,「学校の教諭を異職種,即ち事務的職種に不意転することは許されるか」という点であった。

 本件では,1986年10月1日付で1名の社会科教諭が指導主事として,市教育委員会の所管ではあるが高校総体準備委員会事務局への転任を突然に命じられ,1987年4月1日付けで6名の教諭が,過員解消を理由として市教育委員会の所管の「指導員」という身分で転任処分を受けた。そして翌1988年4月1日付で2名の教諭が同じく「指導員」の身分として転任処分を受けた。いずれも「不意転」,即ち当該本人の意に基づかない,更に意に反する人事異動であった。そして,いずれの当事者も,芦屋市立高等学校教職員組合において活発な活動をしてきた教員であった。

 私たちが公平委員会と行政訴訟において整理して主張した問題点は以下のとおりである。

①学校の教諭を本人の同意なく行政職の事務職員に転任させることは違法である。

②「指導員」への身分変更は実質的に「降任処分」である。

③本件におけるいずれの転任処分においても必要性は存しない。

④本件転任処分はいずれも当事者の組合活動を嫌忌した不当労働行為である。

 これに対する芦屋市教育委員会の反論の主たるものは

⑤本件各転任処分においては,いずれも教育職給料表を適用しており,不利益な処分とは言えない。

というものであった。

2 公平委員会裁決と裁判所の判決の結論

これに対し,まず芦屋市公平委員会の裁決内容は,全面的に市教委側の主張を採用し,原告らの不服申立を認めなかった。

 しかし,神戸地方裁判所及び大阪高等裁判所の判決においては,一致して,本件各転任処分が不利益処分であることを前提として認めた。そして,教諭を事務職員に身分変更するに当たって当該本人の同意を要するものではないが,他の職種への転任においてはその必要性・合理性を慎重に判断する必要があるとし,それぞれの転任処分における必要性・合理性は乏しい,と認定した。その上で,本件各処分の「不当労働行為性」の判断をし,結論的に,本件転任処分は,原告ら教員の組合活動を嫌悪したものであり,「教育行政目的に資するものではなく,社会通念上著しく妥当性を欠くもの」として,「任命権者に与えられた裁量権を逸脱する違法な処分」と断じた。

 主要な争点についての裁判所の判断内容は以下のとおりである。

3 本件転任処分の不利益性について

本件転任処分の不利益性については要旨次のように認定している。

 まず判決は,最高裁判所1986(昭和61年)10月23日第一小法廷判決(いわゆる吹田二中事件判決)の,「不服申立ての対象となる不利益な処分とは,当該処分によって,公務員の身分,俸給に具体的な不利益を生ぜしめ,勤務場所,勤務内容において何らかの不利益を伴うものでなければならない」との判断に従い,その不利益性を検討している。

 判決は結論的に次のように認定し処分の不利益性を肯定した。

 原告らは,従前支給を受けていた教職調整額や,義務教育等教員特別手当等の支給を受けない扱いとされ,本件転任処分によりその給与がそれら手当等の不支給のため減少していること,高等学校の教諭が免許資格を要し,学校教育に関する専門的な知識・経験を必要とする教育職員であるのに対して,本件転任処分はこれと業務内容を異にする事務職員への転任であること,8名の教員は,指導員として転任処分を受けているところ,芦屋市において教諭として学校教育に従事してきた教員が指導員へ転任した例は本件以外はなく,指導員は指導主事と異なり係長以上の職に就くことができない職であること,等を総合すると,「本件転任処分は,原告らの身分ないし俸給に具体的な不利益を生ぜしめるものであり,不服申立の対象となる不利益な処分であるというべきである。」と認定した。

4 「不意転」について

次に,本件において私たちが最大の争点とした,「学校の教諭を本人の同意なく行政職の事務職員に転任させること」の違法性について判決は次のように認定した。

「指導主事は地教行法19条に規定された職名の一つで,教育委員会の事務局において,学校教育に関する専門的事項の指導に関する事務に従事する者である。指導員は,職名規則4条において規定された職名の一つであり,公職名は事務吏員で,地教行法31条第2項の事務職員に該当する。地教行法35条,31条によれば,学校及びその他の教育機関の職員の身分取扱いに関する事項については,地公法の定めるところによるとされ,同法17条第1項において,その職員の任命方法として,採用,昇任,降任及び転任のいずれか一つの方法によることが規定されている。本件転任処分は同条の転任として行われたものであると認められるところ,転任は人事権の行使の一態様として任命権者がその裁量権に基づいて行うものであり,職員の転任について当該職員の同意を必要とする旨の規定は存しないのであるから,転任について当該職員の同意を要すると解することはできない。原告らは,教員には憲法23条に基づき教育基本法等の法律上特別の身分保障がされており,本件転任処分は教育職から行政職への身分の変動を伴うのであるから,当該公務員の同意を得ることが必要である旨主張するが,原告らのような高等学校の教員については,教育基本法6条第2項,10条第2項のように抽象的に身分の尊重を謳った規定はあるものの,教特法5条第1項にみられるような具体的な身分保障規定が存在しないことに照らすと,これらの法律(教育基本法6条第2項,10条第2項等)をもって,転任に際して当該教員の同意を必要とする法的根拠であると解することはできない。」

以上のとおり,判決は,「不意転」自体を違法とはしなかったが,次のように指摘している。

 「転任は,任命権者の人事権の行使の一態様であり,地公法上,転任については具体的な要件は規定されていないから,任命権者である被告市教委は,教育効果の向上という教育行政上の目的を達成するために,職員をその管理下にある教育機関に適切に配置すべく,職員の転任について広範な裁量権を有するというべきである。しかしながら,右の裁量権は無制限なものではなく,当該転任処分に合理的な必要性がなく,他の不当な目的から出たものであることが明らかであるなど,社会通念上著しく妥当性を欠くもので,その裁量権を逸脱ないし濫用したと認められる場合には違法,無効となると解するのが相当である。とりわけ教員については,教育基本法6条においてその身分の尊重が定められていることに照らし,他の職種への転任の必要性・合理性についてはこれを慎重に判断する必要があると解すべきである。」

 私たちは,この点を最大の争点とし,教育基本法6条第2項,10条第2項等を強調して,教員の身分保障の重要性を主張した。そして,この点について,土屋基規教授から意見書を提出して頂いた。更に,「季刊教育法105号」における,兼子仁教授・神田修教授・土屋基規教授の鼎談「教師の専門職制を考える−教師の『不意転』問題をめぐって」を証拠として提出した。

 こうした教育法の専門家の方々の意見が相当程度判決に反映されたと思われる。

5 本件転任処分の違法・不当性についての判決の結論

裁判所は,以上の判断のもと,本人の意思に基づかない他職種への転任においては,その必要性・合理性を慎重に判断すべき,として,本件各処分について具体的に相当詳細に検討している。そしてその結果,いずれの転任処分をみても,その「必要性」「合理性」は乏しい,との結論を導いている。

その上で判決は,「本件転任処分の手続」についての検討において,「前記のとおり,地方公務員である教員の転任について,当該職員の同意を必要とすると解することはできない。しかし,本件のように,教員を学校教育以外の職場に転任する処分でかつ被処分者の意思に反することが容易に予想される場合,転任に際しては事前に本人の意向を打診し,転任先について説明を行うのが望ましいといえる。この点,前記のとおり,被告は,本件転任処分に際して被処分者たる原告らの意向を聴取することなく,また,異動の内示についても,行わないか,又は転任処分の直前に行っているが,このことから直ちに本件処分が違法であるとはいえないにしても,教員を被処分者の意思に反して学校教育以外の職場に転任する手続として性急であったことは否めない。」として,次に具体的な不当労働行為性の検討に移っている。

 本件の一連の処分の直前,芦屋市に,組合に対して極めて厳しい対応をとることを公言していた教育長が就任した。そして市立芦屋高校においてはその意を受けた校長が全面的に組合と敵対する対応をとるようになった。

 その直後の1986年10月1日,前記のとおり,突然,1名の教諭が指導主事として事務職への転任処分を受けた。正に学校現場においては学期途中という異例な時期である。そして,その翌年,市の定数条例の改定を受ける形で,「過員」を理由に一度に6名の教諭が,そしてその翌年には2名の教諭が,芦屋市の条例・規則等においてもその職務内容すら定められていない「指導員」という身分での転任を命じた。

 判決は次のように認定している。

 「本件転任処分のうち,昭和62年度転任処分は,前記のとおり定数条例の改正による市芦高教員の過員解消の必要性を一つの理由として行われたものである。しかし,昭和61年度の本件転任処分(鈴木)及び昭和63年度の本件転任処分(深澤)については,そのような過員解消の必要性を認め難い。本件転任処分(鈴木)については,学期途中という異例の時期の,教員の意に反する学校教育以外の職場への転任処分であるにもかかわらず,事前の通知が行われておらず,異動の必要性・合理性にも乏しい。昭和62年度転任処分及び本件転任処分(深澤)についても,教員の意に反する学校教育以外の職場への転任処分で,しかも芦屋市において前例のない学校教育経験者の指導員への転任処分であって,異動期間も特に定められていないにもかかわらず,適時に事前の通知が行われたとはいえず,必要性・合理性についてもこれを充足していたとはいえない。」

 ここにおいては,「不意転」の問題点は,処分の不当性の判断において大きな要素として考慮されている。

 そして判決は,「これに加え,前記のとおり,被告に対して市芦高の状況を報告する立場にあった前田校長及び退任後の松本教育長は分会を敵視する言動をしており,また,芦屋市において学校教育に従事する教諭から指導員へ転任した例は,原告鈴木を除く本件転任処分及び昭和63年度の長瀬春代教諭に対する転任処分しかない。」とした上で,結論的に次のように認定している。

 「これらの事情からすると,本件転任処分は,被告が,原告らを分会における組合活動を理由に市芦高から排除し,当時対立状況にあった分会の勢力を弱める目的で行ったものと推認せざるを得ず,このうち昭和62年度転任処分については,同校の過員解消の必要性という動機も存したことは認められるものの,転任処分の対象として甲請求原告らを選んだ主要な動機は,同人ら組合活動を嫌悪したことによるものであったと認めるのが相当である。」

6 判決の評価

以上の判決の結論,即ち,不当労働行為性を正面から認定して「裁量権を逸脱する違法な処分」と断じたことは,私たち本件係争の当事者としては少々意外なところであった。それは,裁判所に,教育委員会という公的組織の「不当労働行為」を正面から認定させることは困難ではないか,という当初からの危惧にあった。

 しかし,本件訴訟の全体を見れば,裁判所の判断には,「教員の不意転」においては,教育基本法の趣旨からして,その裁量行為の判定においては極めて慎重な検討を要する,という前記の教育法専門家の意見が,その基本に置かれている,と評価することができる。

 

Ⅲ 判決の教育法的意義

 

1 判決の概要と教育法的意義

(1)転任処分についての判決要旨

 本件の地裁・高裁の判決は、原告に対する転任処分を「取り消す」ことを命じた。その理由として、①学校教育に関する専門的な知識、経験を必要とする教育職員である高校教諭と業務内容を異にする事務職員への転任であり、②芦屋市において本件以外に学校教員が「指導員」に転任した例はなく、③「指導員」は、指導主事と異なり係長以上の職に就くことができない職であること、をあげこれらを総合的に判断すると、本件転任処分は「不利益な処分」であり、「社会通念上著しく妥当性を欠くもので、任命権者に与えられた裁量権を逸脱する違法な処分というべき」だと判示している。

(2)教育公務員の異種職への転任に関する任命権者の裁量権

 判決は、「指導員」(原告の一人を除く)への転任処分は「裁量権の逸脱」であると断じている。この点で、本件の判決は、教育公務員である学校教員の異種職への転任に関する先行の判例とは異なり、任命権者の裁量権の限界に対して新しい判例を付与したものとして、画期的な意義を有する。

 教育公務員である学校教員の異種職への転任に関する判例として、①高知県立幡多農業高校教諭転任事件(高知地裁、平成5年3月22日判決)、②観音市立高室幼稚園長転任事件(高松地裁、平成3年9月30日判決、高松高裁、平成5年9月6日判決)が知られている。前者は、高校教諭が社会教育主事に転任させられたことに対する教諭の地位確認の請求であったが、棄却された。後者、幼稚園長が郷土資料館主幹補に転任させられたことに対する転任処分取消等の請求であったが、これも棄却となった。

 この二つの事例でも、任命権者の裁量権の行使にあたり、転任の必要性、合理性が重要な争点になったが、双方とも裁量権の範囲を逸脱したものではないと判断され、原告が敗訴している。この二つの判決に関して、行政当局者は、教育公務員の異種職への転任を積極的に検討すべきだとする立場から、①教育公務員特例法(教特法)の採用についての特例規定に関し、異種職への異動にあたり本人の同意は必要ないこと、②教育基本法6条2項の教員の身分保障・適正待遇の規定は一般的努力を課したものにすぎない、という見解を示している(文部省教育助成局地方課専門職員 松川誠司「教育公務員の異種職への転任に関する二つの判例」『季刊 公務員関係判例研究』第83号)。

  本判決は、先行する判例と行政解釈とは異なり、異職種への転任処分に対する任命権者の裁量権の行使について判断するにあたり、原告一人ひとりの「指導員」への転任処分の経緯と職務内容を検討した上で、転任処分の理由には「必要性、合理性はなく」、被告の主張は「言い逃れ的な主張である」(高裁判決)とも判示しているのである。

(3)「指導員」の法的性格と教員の人事行政上の問題

 判決は、本件で重要な争点になった「指導員」について、これを教育委員会規則で定められた事務職員であることを認定し、「指導員」への異常な転任処分の事態を明らかにすることにより、教員の人事行政上の問題を指摘している。「指導員」についての教育法令上の規定は、教員の資格・免許について定めている教育職員免許法、教職員の種類と職務等を定める学校教育法および採用・研修等について定める教育公務員特例法のいずれにも根拠法に該当する条項はなく、一部の市の教育委員会規則に定めが散見されるだけである。

 本件では、転任処分を受けたこの「指導員」という職名、任用資格、職務内容、待遇等の法的性格と運用実態の判断が重要な争点となった。原告は、近畿圏の各教育委員会規則を精査し、「指導員」の規定を設けているのは特例的にわずかな市だけであること、その中で芦屋市にはきわだった特徴をみいだすことができ、職務内容については全く規定していないし、その運用実態は市立高校の教諭を「指導員」として転任させ、10年以上にわたり行政事務に従事させていることは他市にはないことを明らかにした。

 被告は、「指導員」としての職名において、市立の図書館や美術博物館などの社会教育分野で、学校教員としての専門的な知識と経験が生かされるし、教育職の給与表の適用もあるので不利益な処遇ではない旨主張したが、それはとうてい入れられるところではなく、原告たちの転任処分は不利益処分であると認定されたのである。

2.教育公務員の身分保障の原則

(1)教職員人事に関する教育法原理

 周知のように、教育基本法制の下での教職員法制が、教員の身分尊重・適正待遇の原則を明示している(教育基本法6条2項、教特法)。この原則は、一般公務員とは異なる教員の職務の特性を前提とするのもので、「教育者としての特殊の使命」(文部省教育法令研究会『教育基本法の解説』国立書院、昭和22年)あるいは「一般官吏とは異なった特殊の職務」(有倉・天城『教育関係法』日本評論社、昭和33年)などという表現で理解されてきた。教育基本法制の下での教員の職務の最大の特徴は、国民の教育を受ける権利の実現に向けて教育活動を組織し、子ども・青年の学習による発達を促すことにあるから、教育の本質と教員の職務の特性に根ざして職責を果たすことができるよう、地位と身分保障が必要であることは改めて強調するまでもない。また、教員の人事は、その身分と地位に関することがらだけでなく、教員の労働・勤務条件に関することがらであるとともに、学習主体としての子ども・青年の学習条件にも関することがらでもあるから、教育条件整備行政としての性質をも有し、教育行政の果たすべき重要な役割である。

 したがって、「裁量権を逸脱する違法な処分」を導くのに、こうした現行の教職員法制の原則に沿った判旨を、教育法研究の立場からは期待することになり、この点で本件判決の論旨が注目される。その際、教員の身分尊重・適正待遇の原則を、行政解釈にみられるように、「一般的努力義務」を定めたもので、教特法も大学以外の教員については具体的な定めをしていないから、任命権者の裁量権はかなり自由に行使できると判断することが正当かどうか、が問われる。この点で、地裁判決が、事務職員への転任処分についての原告らの同意の要否の判断において、教員の身分尊重・適正待遇の関係条項にふれて、「抽象的に身分の尊重を謳った規定はあるものの、教特法五条一項にみられるような具体的な身分保障規定が存在しないことに照らすと、これらの法律(教育基本法六条第二項、10条第二項等)をもって、転任に際して当該教員の同意を必要とする法的根拠であると解することはできない」と述べていることは、現行法制の教員の身分尊重・適正待遇の原理に関する理解に課題を残していると言わざるをえない。

(2)任命権者の裁量権に対する法制的制約

 学校教員の人事行政に関する任命権者の裁量権の行使は、行政当局の都合による自由な裁量にゆだねられているのではなく、それを適法・適正に行使して行政責任を果たすことが求められるので、内在的な裁量基準の設定と要考慮事項への配慮など法制的制約を受けると理解すべきである。教員人事に関する裁量基準の設定と適正手続きの確立は、人事行政の公平性を確保し、恣意的な裁量を防止する上で必要な措置である。本件の場合、教育委員会規則で「指導員」の職名を規定しているとはいえ、その職務内容についての規定は全くなく、任用の基準と手続きに関する規定を欠いた上で、任命権者の包括的な裁量権を行使したことが、「指導員」への転任処分の不透明性と恣意的裁量の要因であった。また、裁量権の行使にあたって、行政裁量に対する法的限界についての条理解釈としての要考慮事項配慮義務もみられなかったことが、恣意的な行政裁量を生じさせた要因だといえよう。要考慮事項配慮義務は、人事に関する裁量権の行使にあたり、「考慮すべきことを考慮せず、考慮すべきでないことを考慮する」ことを制約する法理であり(最判 昭和48年9月14日、校長降任分限処分)、本件の場合は「指導員」への転任処分にあたり、原告らが教育公務員たる高校教諭の資格と地位を有し、学校教育に関する専門的な知識と経験を有することを考慮せず、逆に、管理的地位にある者が原告らの組合活動を嫌悪して「指導員」への転任処分を強行したことの恣意的な措置がそれに相当する。

 本判決の論旨から、こうした法理への理解を窺い知ることができるが、明確に要考慮配慮義務の法理を採用して、これを論旨を貫く強い主張として展開しているとは言いにくい。それにしても、判決が、本件転任処分を「社会通念上、著しく妥当性を欠き、任命権者に与えられた裁量権を逸脱する違法な処分であるというべき」だと判示したことは、任命権者の裁量権の行使に法制的制約を必要とする判断を示したもので、教員の教育活動に対する評価により免職・異職種への転任を可能とする法的措置が実施される状況に鑑み、本判決が大きな意義をもつことはいうまでもない。