赤穂屋若林家について


 

岡山県人名辞典(山陽新聞社刊)より

 

げんにょ  玄如

 生きた年代 : 1778〜1833・1・7(安永7〜天保4)
出身地 : 岡山市石関町出身 江戸時代後期の歌人。名を若林秋長。任有亭・己桃軒また孤桃軒と号し、法名を善勝、後に玄如と改めた。
岡山城下石関町の富商赤穂屋の一族に生まれる。京都に出て香川景樹の家僕となって和歌を学ぶ。初め三宮寺に入ったものの脱走して失踪、その後は三河(現愛知県)の正宗寺をはじめ、各地を転々として、晩年は岡崎・大原・嵯峨・宇治に居住した。桂門10哲の一人にも数えられ、同門の木下幸文は、20歳ごろの玄如について「おそろしき歌よみなり」と評している(『桂園叢書』第2集)。
1833年(天保4)1月7日、京都紫野の大徳寺で没した。
〈しげりあふ紅葉はいまだ染めぬとて今宵の月のかげのみぞ見る〉→木下幸文/
工藤進思郎
 

わかばやし・まさあきら  若林正旭

 生きた年代 : 1767・6・4〜1845・6・27(明和4〜弘化2)
 出身地 : 岡山市石関町の人 江戸時代後期の文人。
若林正武の二男として岡山城下石関町に生まれる。名正旭字子明通称直介。のち徳左衛門・素一。屋号は赤穂屋。兄正晃の跡を継ぎ、諸物問屋を営み、藩の別改扶持人で、7人扶持を受けた(「家譜」ほか)。
和歌をはじめ木下幸文に学び、1838年(天保9)4月、香川景樹の門下となった(『国学者伝記集成』)。吉備地方最大の歌集といわれる『類題吉備国歌集』に2首収録されている。蹴鞠を京の公家飛鳥井・難波両家に学び、その技法を伝えた(『岡山県人名辞書』)。跡は兄正晃の子である恒太郎が継いだ。
→若林正晃/片山新助
 

わかばやし・まさあきら  若林正晁

 生きた年代 : 1758・5・11〜1826・10・18(宝暦8〜文政9)
 出身地 : 岡山市石関町の人 江戸時代後期の文人。名正晁字子陽号叢亭。通称朴介。
若林正武の長男として岡山城下石関町に生まれる。屋号は赤穂屋。
邑久郡邑久郷(現岡山市)の別邸を尚友居と号した(「家譜」ほか)。父の跡を継いで諸物問屋を営み、藩の別改扶持人として7人扶持を受けた。漢詩、和歌を好み、別宅でたびたび詩会を催した。全国を遊歴して多くの著名な学者・文人と交わり、多くの旅行記を書いたようであるが、散逸して現在は残っていない。江戸の儒者・市川米庵が1813年(文化10)正晁宅を訪れたときには、数十人が集まり夜中まで話がはずんだという。当時の岡山文化サークルの中心的な人物であった。市川米庵のほか江戸の蘭画家司馬江漢、奥州白河藩の儒官広瀬蒙斎、大坂の文人木村兼葭堂らの日記、旅行記に通称の朴介の名が多く記されている。跡は弟・正旭が継いだ(『近世岡山町人の研究』)。
→若林正旭/片山新助




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