八坂町の始まりは、長崎に貿易のための唐船が入港するようになり、その唐船に不可欠である
石灰を提供する必要性から石灰業者が集まって町並が形成された事に始まる。
いわゆる石灰町の誕生である。その後貿易を求める唐船は、生糸で莫大な利益をあげていた
南蛮貿易衰退に対するように大幅に増加し、すでに設立されていた石灰町のほかにもうひとつ新しく石灰町が町建されることになった。それで新しい方の石灰町を今石灰町と称するようになり、古くからあった石灰町を本石灰町と称した。その新しい石灰町である今石灰町が現在の八坂町である。
だが八坂町と称するようになったのは明治4年以降のことになる。


 もともと石灰は唐船には必要なもので、唐船は麻と石灰と樹脂を混ぜた物をその船体に塗り水防の要としている。こういった関係から必要不可欠な石灰を扱う石灰町は大いに発展し2ケ町もの石灰町が創建されたのだろう。また海岸から見ると籠、船大工、石灰と唐船に関係ある町名が並んでいる。
 さて今石灰町だが、正確な創立年代はわかってはいない。しかし元和8年(1622)の記録には町名が載っていることからその当時には既に町が成立していたものと考えられる。
 その後、寛文12年(1672)大町分割の際に今石灰町の南側を新石灰町とし、今石灰町は2町に分かれた。文化5年の明細分限帳によると今石灰町は、長さ145間(約264m)、箇所数47、竈数117、住人312 人となっている。ほかに水車があり、醤油などを醸造しているところもあったようである。


 また新石灰町は長さ139間(約250m)、箇所数47、竈数111、住人316人となっている。
箇所というのは土地のことで、土地所有者のことを箇所持ちまたは家持ちという。それに対し竈と
いうのは借家の事である。この箇所、竈に対して貿易の分配金である箇所銀や竈銀が支払われる。
これらは1町につきいくらという形で支払われるので、寛文12年大町を分割したのも、箇所数の多い
町内だと分配銀は箇所で頭割りされるので、箇所数の少ない町内に比べ一箇所あたりの受取額が
少なくなり不公平が生じるため町内から願い出て実施したものである。その大町のひとつが
今石灰町であり、そのため新石灰町と分かれることになった。


 ところでこの新石灰町から幕末から明治にかけて活躍した福地源一郎が誕生している。
福地源一郎は天保12年(1841年)生まれ。父である福地苟庵はもと長府藩士で、長崎に来て医者となり福地嘉昌の名跡を継いだのち源一郎を生んでいる。
福地は遣米使節や遣欧使節を経た後、東京日日新聞に入社し主宰となり東京日日新聞(のちの毎日新聞)を大新聞に仕立て上げた。また演劇にも力を入れ現在でも歌舞伎と言えば東京の歌舞伎座が主な舞台だが、その歌舞伎座の創立者でありまた千葉勝五郎と供に初代座主となっている。



 明治になるとこれら2つに分かれたいくつかの町は再び合併される。
長崎の町は背割りといって道を挟んでその両側の家々でひとつの町を形成するのだが、
道を隔てて2町になった町を片側町といい合併されたのはその片側町である。
後興善町と新興善町、南馬町と北馬町、今石灰町と新石灰町などがそれにあたる。
明治4年、今石灰町と新石灰町は再び合併したが、今度は石灰町を名乗らず町内にある八坂神社
から町名を取り八坂町と称することになった。
 現在は八坂町という町名は地図上では消えてしまっているが、くんちには本来の町割りどおり、
本来の町名で出場している。



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八坂町につい