江戸の暦
江戸時代は現在の太陽暦(グレゴリオ暦)ではなく、「旧暦」が使用され時刻の区切りも今とは違っていました。「太陽暦」に対して「太陰歴」とも言われ、月の満ち欠けが基本とはなっていますが、それだけを基準にすると一月は約29.5日になってしまいます。この為、旧暦をはじめ、実際に使用されていた暦のほとんどは「太陽太陰暦」と言われるもので、色々な方法で一年の中での季節が狂わないように工夫されています。

四季の中で暮らしつつ日々を過ごす為、月の満ち欠けによる明かりや、潮の干満が暮らしに大きく関わっていた生活の中では、この暦法が便利であったとも言えます。

日本で使用された暦は、元嘉暦(げんかれき)、儀鳳暦(ぎほうれき)、大衍暦(だいえんれき)、五紀暦(ごきれき)と変遷し、862年から宣明暦(せんみょうれき)が使用され、1685年まで続きました。この暦はすべて中国で作られた暦です。1685年、貞享の改暦により、始めて渋川春海により、日本人の手で作られた最初の暦法が採用となりこれを貞享暦(じょうきょうれき)と言います。その後、1755年(宝暦5年)宝暦暦(ほうれきれき)、1798年(寛政10年)寛政暦(かんせいれき)、1844年(弘化元年)天保暦(てんぽうれき)と改暦され、1872年(明治5年12月)に現在の太陽暦(グレゴリオ暦)が採用されました。

現在の太陽暦と旧暦について簡単にお話すると、現在の暦は地球の自転周期を1日24時間、季節は公転による太陽との距離で決まるので1年を365日。割り切れない余りをためておいて4年に一度閏年を設けて366日としています。しかし旧暦では普通の一年は354日で、そして季節の移り変わりに大きな狂いが感じられないように何年かに一回「閏月」がありました。ひと月多いって事です。このため一年が13ヶ月の年があるのです。でもそれでは、「今月は何月だね」という感覚と季節が乖離してしまいます。これを補うのが、地球の公転を基にした二十四節季(春分・秋分・夏至・冬至など)で、季節の移り変わりはこちらで把握できる仕組みになってました。

また一ヶ月は、月の運行を元に年6回の小の月を決めてました。これが年により変わります。10年日記なんてページ立てがちょっと作れないくらい、複雑な暦だったのです。

では、江戸時代の一日の時間はと言うとこれも、けっこう複雑なのです。江戸の時刻法は現在の定時法とは違い不定時法がとられていました。正午と真夜中をそれぞれ九つ(午の刻、子の刻)として、日の出直前・日没直後を明六つ、暮六つ(卯の刻、酉の刻)と定めます。そしてその間の昼夜をそれぞれ六等分して一刻としました。日の出・日没は季節や地方で異なるので、昼の一刻と夜の一刻は違いますし、同じ月でも住んでいる場所によって異なっていました。なので一刻が2時間前後になるのは、秋分と春分前後だけなのです。

処が昔からお役所仕事ってのはあるもんで、ほとんどの暦法天文家が作る暦は、なんと一昼夜を100刻、一時を8刻3分の1の定時法で作っていたりしました。この為、暦と一般の人が刻の鐘で過ごす生活がかみ合わず、また暦の研究と風俗の研究の関連において誤りが続出したりもしました。これが、不定時法に統一されたのはなんと1844年の天保の改暦の際でした。それから28年後には、明治維新を経てグレゴリオ暦へ改暦されて、時刻も定時法へと変ります。

ちょっと横道にそれると、時代劇などで「暮れ六つ」等という言葉が出てきたり、お菓子を頂ける「お八つ」と言う言葉が今でも残っていたりします。それとは別に頭に蝋燭を立てて呪いに行ったり、怪談の前振りでご存知の「丑三つ」とい言葉があったりします。この為、現在の時刻の様に「一つ、二つ」と順に数える様な印象を受けたりするのですが、実際には「四つ」から「九つ」の6つしかなくて、それぞれ「明け」「暮れ」があり一日は12分されていたのです。深夜の9つから8.7.6.5.4.と逆に減ってゆき、昼の9つへ戻ります。昼の九つが午の刻で、12区分それぞれに干支を配した呼び名が一般化していました。ちょうど12時「正午」と呼ぶのはこのためです。ちなみに、時間自体を呼ぶときは「こく」と発音していたようで、初めから終わりまでの間や、長さを表す場合には同じ文字でも「とき」と発音される事が多かったようです。

「じゃぁ、丑三つって何?」という事なのですが、丑の刻とは春・秋分で言えば現在の深夜1時から3時まで頃にあたり、それを四分して3つ目なので、2時から2時半頃を指す訳です(5分との異説あり)

では「六つ」の六とは何かと言えば、これは時刻を知らせる際に打った太鼓や鐘の数なのです。基準となる「九つ」はまさに9回打つのですが、これは易の陽数である9が基になっています。次がその倍数の18なのですが、そんなにいっぱい鳴らされてはたまらないので、10を引いて8回、次が27なので7回というふうに、10の桁を省いた9の倍数の回数を打つのが決まりでした。これは「延喜式」(平安期の律令書)に、すでに見られるのでそれ以前に成立していたとの説が一般的です。

暦については非常に多くの文献があり、実際にあまりに複雑で幕府の公文書でさへ、解釈が混乱していたりするほどです。この為、異説や時代による変遷が大きく、ここに記載した事もすべてが定説ではありません。興味をお持ちの方は是非専門書や新書でご確認下さい。

表紙目次