1月10日(月)

あひる実験室 vol.7愛について(1月9日)

−ゆるやかな時間・ゆるやかな笑い−

あひる実験室の公演を見るのは初めてだけど、
ケッコウおもしろいね。

たった一回公演だぞ?
それなのに客はあんな少なくて、もっとたくさん入ってもいいと思うけどな。

とりあえず内容の説明から・・・

まず、「実験室」と自ら名乗るだけあって、
彼らを通常の演劇と思って観にいったら痛い目にあう。
いや、あわないけど。
演劇というより、どっちかって言うとアドリブオンリーのコント(?)集団のような手触り。

台本は存在するのか?

少なくとも、進行手順が存在することはわかる。
でも、その中の台詞はどうなんだろうか?

まあ、何にしても進行手順が決まっている以上、
予期せぬ展開を楽しむというまでには行かなくて、
なんとなく緊張感の欠如した舞台が進む。

なんていったらいいんだろうか、
舞台を成立させるにはアドリブが必要なのに、
アドリブを無理矢理出さなくても、舞台が進行することは約束されている。
そのことで、役者にはいまいち緊張感が足りない。

でも、おもしろいことに逆にそのことで生まれる別の感覚が存在する。

なんとなくだらだらした空気の中で繰り広げられる、他愛もない会話。
それこそ、大学生同士のバカ話の中に自分もその身を置いているような感覚。
爆笑はできないけど、談笑はできるってかんじね。

決して悪い感覚じゃない。それなりに心地よいね。

もし、この感覚を台本ありで出してるんだったら、
それはそれでたいしたもんだが。

ただ、時折流れる何とも言えないリアルな「間」は、
台本とか演出で表現できるもんじゃないけどね。多分。

例:お題をひとりの役者が出し、それに対し別の役者が答えるというシーン。

役者1「えーと、それじゃ、『福岡で一番おもしろくない劇団』!」
客席笑う。
役者2「えー?言わなきゃだめなの?」
役者1「うん。」
役者2「それじゃ、去年観た中で一番つまらなかった劇団ね。」
役者1「いいよ。」
役者2「去年観た中で一番おもしろくなかった劇団は・・・クロックアップなんとか・・・」
役者1「・・・」
役者2「・・・」
客席シーン

役者2「・・・はい次行きましょう!!」
客席笑う

このときの劇場全体が静まる感覚はリアルだったね。

今までの6回、いったいどんな「実験」をしてきたのかは知らないけど、
とりあえず、これからは観に行こうかなという気にはなりましたとさ。

つーわけで、とりとめのない感想でしたけど失礼しました。

5月1日(月)

九州大学演劇部春季公演「天使たちのナミダ」(4月27日)

−存在証明としての演劇−

なんだか久しぶりに雑文の更新をします。
つーか、なんだかどころじゃなくて、前回は1月10日ですね。
ひどすぎます。
これからはもう少しまめに更新したいです。

つーわけで、今日は九大演劇部の春季公演についての感想です。

まずは概要から。
スリ稼業を営む主人公は、ふとしたことから女の幽霊に出会う。
「あなた今幸せ?」
幽霊にこう問いかけられ面食らう主人公だが、答えは出せない。
この主人公と幽霊、そしてスリである主人公を追う刑事3人の物語と、
もうひとつ、
作家になる夢を捨てきれない父親と、現在の生活が大切な母親の間で、
両親に自らの将来を投影し、思い悩む女子高生さくらの物語とで構成される。

その後のさくらが主人公に狂言誘拐を持ちかけ、
2つの展開が合流するくだりは、演劇的な展開として秀逸。
全体的にストーリーの展開、また大団円への持って行き方は、成井作品に酷似。
しかし、初めて書いた創作脚本を観客に見せるにあたり、
観客が安心してみることができるという点では、許容範囲ではあるだろう。

しかし、演劇的構成においては成井作品と似ていても、
そのテーマの設定にいて決定的な違いがある。

つまり、テーマが作者の中から発生しているのか、
それとも作者の外から発生しているのか、ということだ。

九大演劇部の創作脚本には、
アイデンティティ確立の物語が非常に多い。
もちろんそれだけ大学生の年代にとっては、重要な問題なのかもしれないが、
申し訳ないが、それでは子供のクラブ活動の域を出ることはない。
なぜなら、「アイデンティティの確立」に問題意識を持てるということ自体、
当人がそれを確立していないことは明らかであり、
よって、その人の創る作品は究極的には、観客を意識することなく、
第一義的に「自己の成長」にあてられてしまうからだ。
それでは、教育の一環としてのクラブ活動ではあっても、
演劇活動と呼べるものではない。

はっきり言って18,9の年齢で、モラトリアムの状態にいるのは当然のことだ。
演劇のテーマたりえる要素はどこにもない。
もし、作者が30歳40歳で、それでもモラトリアムから脱していないというのなら、
その精神構造は注目に値するが、
18歳がそれをテーマにしたところで、
「ポストは赤い」と言ってるのとなにも変わりはしない。
あたりまえすぎる。そして退屈。

また、同様のテーマはいくらでもミュージシャン等によって扱われており、
演劇のストーリーによって1時間2時間かけて訴えられるよりも、
ミスチルによって「君は君のままでいい」とストレートに歌われた方が、
よっぽど強力に相手の心に届くだろう。

しかし演劇でストレートにメッセージを発したら、
90分観客を座らせる意味がないもんね。
ひとつの長ぜりふで終わっちゃう。
そうすると、演劇でできることは、
人間同士の会話と状況で比喩的に表現するしかない。
でもそれだと、ミュージシャンのメッセージソングに比べて効果が弱いんでしょ?
ジレンマ。

それはつまり演劇で「アイデンティティの確立」なんて、テーマにするなっていうことなんだと思う。
あたりまえすぎる上に、演劇でやる必要性もない。
ましてや自分の救済のためのメッセージなんて。

あ、もちろん春季公演の観客は、大部分が新入生、もしくは高校生だろうから、
ひょっとしたら共感してくれる人がたくさんいたかもしれない。
ただしここでは、そういうことは関係なしに、作品としての批評を行ってるつもりです。

で、もう少し技術的な話へ。
今回の作品に関しては、45分(!!)という時間に対して、登場人物が多すぎたと思う。
実に12人。
わずか45分で12人もの人間の説明は不可能。
これによって、物語に深みが全く感じられない。
ひとつの例として、社長秘書である楓子の社長に対する感情に全く説得力がないということが挙げられる。
序盤に「これも社長のため」とギャグのシーンでちょっと説明を行っただけで、
終盤、社長に対する愛情を大まじで語られても、見ている側としてはあまりの感情の跳躍に、
ただ戸惑うばかりだろう。
他にも同様の説明不足はいくらでもある。
登場人物は、45分ならせいぜい6人。多くても8人程度にするべきだった。
また説明不足なため、多くのシーンの必然性が感じられず、
ただかっこいいシーンのつぎはぎをしただけという印象も受けた。

と、まあ一番気になったことはこれ。
役者個々人については、批評の欲しい方はメールください。
一言二言ですが、なにか書いて返事します。
ただし、厳しいこと書かれてもへこまない人限定。

ただし、初脚本・初演出の作品ということ、
観客が新入生であることを考えると、まあそれなりの物であるとは思う。
次回はテーマ設定を練り直し、登場人物を絞れば、
きっといいものを創れる力は持っていると思います。がんばってね。

 

※この文章は九州大学演劇部の人に対してのものです。
ここを読まれる方、理解できないかと思いますが、ごめんなさい。

 

あー、ねむ。
今、早朝4時です。無理やり書いてます。
なんだかな。大したこと書いてないしなあ。
まあいいや、寝よっと。