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第3節 鉄鋼業の変化とウーロンゴンへの影響

最終修正日:99年11月7日

高橋教授のコメント

 


 

第1章でも述べてきたように、第2次世界大戦後もウーロンゴンにおける鉄鋼業の発展は著しかった。しかし、鉄鋼業が発展の最中にあってもウーロンゴンが抱えている問題はいくつかあった。その中でも、とりわけ女性労働問題は顕著であった。鉄鋼業の発展と共に鉄鋼業関連の労働需要は増え、その不足分は外国人労働者でまかなわなければいけないという状態が常にウーロンゴンの労働市場の筋書きであったが、しかしその反対に女性にとってウーロンゴンはあまり恵まれた環境ではなかった。鉄鋼業では危険で過酷な労働、すなわちブルーカラー的要素が強いため、女性の雇用はほとんどなく、鉄鋼業1本で支えてきた第2次大戦後のウーロンゴンでは、女性の労働市場参加の割合がNSW州の中においてもオーストラリア全体で見てみても低かった。

この女性の労働需要不足の問題を解決するために1960年代に入ってから州政府は女性雇用を見込める産業へ補助金を出しウーロンゴンへの誘致をした。その結果衣類や繊維産業がウーロンゴンに新たに立地を始め、鉄鋼業で働く男性の妻が勤めるというケースが多く見られ、女性労働問題は解決されてきたかのように見えた。

しかし、これらの産業はこのウーロンゴンに根付くことはなく、1973年以降の段階的関税率引き下げとオイルショックが手伝って工場は次々と閉鎖へと追い込まれていった。表?をみると1971年を境に女性の製造業従事者が減少傾向にあることがわかる。現在では、King Gee社とBulli Spinner社の2社しか代表される衣類・繊維産業は存在しない。

このように鉄鋼業しか主産業のなかったウーロンゴンは、鉄鋼業の陰りと共にこれまでの明るいムードから一転、暗い雰囲気が漂ってきた。その先駆けとなったのが1972年のBOS(Basic Oxygen Steelmaking)製法による製鋼法の導入である。BOS製法は鉄鋼業にとっては大きな技術革新となり、それまでの製鋼法に比べ生産能力が大きく向上した。その後製鋼法は順次このBOS製法にとってかわり1967年と1985年の生産能力を比べてみると実に2.5倍もの格差ができた。しかし、このBOS製法は労働量をさほど必要とせず、ブルーカラー層にとってはこのBOS製法の導入はむしろ働き先を失うきっかけとなっていった。

これに並行してオイルショック以降、オーストラリアでは鉱産物輸出が好調の影響を受けて、鉄鋼業においても労働賃金を上げざるを得なかった一方で、日本を中心とするアジア諸国は鉄鋼業のコストダウンに図ることに成功し、これまで余剰の鉄鋼を輸出してきたBHP社の製鉄業はこれらアジア諸国との競争に敗れ、輸出市場のシェアを次第に低下させていくこととなった。これにより、BHP社もそれまでに先進諸国が行ってきたような大幅なリストラ策を迫られるようになってきたが、幸い、ウーロンゴンにとってみては経済的には大きな影響を受けることはなかった。オーストラリアにおける単位あたりの粗鋼の消費量を見てみると、1970-71年の549kgから1977-78年の353kgまで落ち込んでいる。しかし、この当時はまだウーロンゴンは体力が残っていた。消費地の近接、豊富な石炭、そして鉄鉱石搬入に便利な港湾立地とコンビナート形成による集積経済などという数多くの魅力を持っていたウーロンゴンは、オイルショック期の大幅なリストラをBHP社の他工場の閉鎖も手伝ってなんとか乗り切ることが可能であった。

これらの結果、1970年代のウーロンゴンは「失業成長」という現象が発生した。すなわち、粗鋼の生産量は増加しているにもかかわらず、それだけの労働需要が上昇していないという現象である。ケンブラ港コンビナートでは1971-72年度と1980-81年度を比較してみると、粗鋼の生産高は26.5%上昇したにもかかわらず、労働人口はわずか3%しか増加していない。ウーロンゴンの人口全体を見てもその増加の速度は停滞していることがわかる。(表?)

しかし、1980年代に入って、ウーロンゴンの経済にも大きな影響がでてきた。オイルショックによる不況をなんとか乗り越えたのもつかの間、相次ぐ関税率の段階的引き下げがまず、大きな影響を与えることになった。関税率の引き下げはアジア諸国にとっては好都合となり、安価で高品質な鉄鋼をオーストラリアに輸出することを可能にした。これまで、オーストラリアは諸外国との距離の乖離と関税率の高さで、鉄鋼などをはじめ、工業製品の輸入は少なかったが、この引き下げはこれまでほぼ100%自給していたオーストラリアの鉄鋼市場に大きく影響が出た。すなわち、オーストラリアの鉄鋼市場に特に日本などを中心とするアジア諸国が参入してきたのである。

さらに、だめを押すかのように、1981年頃から世界的な不況がおそった。オーストラリアもこの影響を大きく受ける国の一つとなった。世界的な鉄鋼需要の停滞により鉄鋼市場が縮小し、これまで輸出していた余剰の鉄鋼の行き場が無くなってしまったのだ。

この関税率の引き下げ、そして世界的不況にはウーロンゴンはさすがに乗り切る力を持っていなかった。新技術導入の遅れ、オーストラリア独特の経済が築き上げてしまったハイコスト体質と海外市場に勝てる要素は少なく、生産縮小を余儀なくされたのである。

これまで、BHP社でも労働者の生活確保という面から大幅な労働人口のカットを行ってこなかったが、このような状況を背景に大幅な削減に踏み切るしかなかった。1981年に19,660人いたウーロンゴンにおけるBHP社の労働人口は1984年には12,957人にまで減少した。この減少した労働人口の中にはBHP社が募集した希望退職者が58.5%含まれている。ところが、鉄鋼業一本で支えてきたウーロンゴンには再就職先が見つかりにくく、希望退職の魅力があまり感じられなかったため、BHP社の意図していた数字まで減少させることは困難であった。そのため、BHP社は指名解雇を行わざるを得なくなり、BHP社はさらに15.3%の雇用削減に踏み切ったが、この大半が皮肉にもブルーカラーとしての労働権を獲得したばかりの女性労働者であり、彼女たちの一部は雇用機会均等法(Equal Employment Opportunity)に違反するとして提訴したものの、結局職を再び与えられることはなかった。

ところで、1983年の選挙で勝利した労働党政権はオーストラリア貿易組合諮問会(Australian Council of Trade Unions)及び主要鉄鋼業組合とBHP社との間で鉄鋼援助計画(Steel Industry Plan)を発表した。この中身はというと、国内市場の安定化を政府がむこう5年間にわたり保障する代わりに、これまでの産業、労働関係の慣習を変えるようにというものであった。すなわち、労使関係の改善と生産能力の向上を引き替え条件として政府から求められたのである。

鉄鋼援助計画により、BHP社はウーロンゴンに鉄鋼生産の拠点を集中させ、他工場の規模縮小、閉鎖を図ると共に、生産能力の向上を図った。その中には労使間のこれまでの不穏な空気から一転、協調へという政策も含まれている。

しかし、これらの再建プランもまたブルーカラー層にとっては辛いものであった。相次ぐ技術革新、コストダウンはBHP社にとっては生産能力をさらに向上させ、景気の回復と共に業績も回復し、海外との競争にも再び参入できるほどにまで回復したが、その一方で、ブルーカラーの労働需要は月日が過ぎるごとに降下線を辿るばかりであった。実際、1981年から1986年までの5年間に7,000人ほどの労働人口が減少しているというデータがある。その後、1990年には9,400人、1996年にはウーロンゴンにおけるBHP社の社員数は7,000人ほどにまで減少し、最盛期であった1980年頃に比べて3分の1にまで落ち込んでいる。

この一連の鉄鋼業の動きと連動してウーロンゴンの各種産業は多大な影響を受けた。例えば、鉄鋼業の発展によって人口が急増する中、インフラ整備や住宅の供給などを支えてきた建築業は1961年にウーロンゴンの労働人口の10%を占めていたが、1980年代には6%前後にまでその数字を落とした。実質数で見ると600人ほど減少したことになる。また、鉄鋼業と密接に関係している石炭の鉱山における労働需要も技術革新と不況の影響で減少した。産出量こそは1991年地点で1954年と比較して約8倍くらいまで安定して増加しているが、労働人口は1981年にピークの5,700人程度より減少に転じ、1991年ではその約半分にまで落ち込んでいる。

鉄鋼業の停滞そして、性質の変化は、このようにウーロンゴンに直接的にあるいは間接的に労働需要の減少を導き、失業率の上昇へという大きな社会問題としてのしかかってきた。1983年の平均失業率は実に20%という非常に高い数字となって現れ、国の平均からしてみても大きく上回っていた。その後、人口流出などの現象も見られたが、失業率は依然として高く、平均して10%程度の数字を保っている。中でも、最近では若年層の失業が目立っており、その割合は30%とも言われている。これに加え、サービス産業などが充分になかったため、ウーロンゴンの住民はシドニーにまで出かけ、買い物をするというケースもよく見られるようになり、地域経済の空洞化は深刻さを極めていたと言える。

 

 このように、鉄鋼業一本で支えられてきた都市、ウーロンゴンは鉄鋼業の変質と共に大きく影響を受けた代表的な都市の1つであるといっていいであろう。その背景の中にはオーストラリア独自の経済による事情も含まれている。では、このようなどん底からウーロンゴンは今、どのような都市へとその姿を変えつつあるのであろうか。失望から転換へ、その今起こっている変化を第3章で考察していくことにしよう。


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