世界というとなんとなくとてつもない広がりがイメージされ、広大な感じがする。
地球というと大宇宙の中の小さな星のイメージで、世界の国々がちっぽけな存在に思えてくる。

海外の国々を巡ることも地球のいろんなとこを訪れることも、結局同じことなんだけど、わたしは海外旅行のことを、今しばらくは「地球の散策」とかんがえていきたいと思う。
どうでもいいことかもしれないけれど、今の私にはそのほうがいろいろと都合がいいから。
これは、ある事柄をどう認識するかによって、色々なものの見方がかわってくる例でもある。例えばT市の住民というレベルで自分のことを認識してしまうと、なにもかもがすごいことに思えて、おじけずいて何もできなくなってしまう。隣町にいくこともちょとしたイベントで、他県への引越し、はてまた、地方在住者のかたは上京ともなったら、かなりのエネルギーの要する出来事となる。

添乗員つきの海外旅行ならともかく、海の向こうへ行くなんてことは、そりゃあすごいことになる。長期滞在なら、特に、去っていく者も残された者も悲しい気分になるものだ。
私は海外3カ国での長期滞在を経験しているが、何を隠そう、日本を離れる時に泣かなかったことは一度もない。そもそもとても寂しがりやだから。人は私の心の中で繰り広げられるドラマを知らないから、私は一人でもへっちゃらな強い人間みたいに思われたりするけど、そんなことは全然ない。正確には、日本を離れることではなく、家族と別れることがつらくて泣いてしまうのだけど、いくつになっても、悲しいことは悲しい。たったの一日で行けるとこだからとか、一生の別れでもないのだかとか、自分で自分をなぐさめてみたりする。かなしいことやつらいことを楽観視するために、そんな風に考えたことのある人は多いと思う。同じ原理で、海外と思うからつらいのであって、極端なことをいえば、地球という星のある一個の有機物質(Me)が今おかれている集団から離れ別の場所の他の集団へ移動するくらいに思ったら、たとえアフリカのどこかの国にしばらくいくことになっても、隣町に引っ越すことと同じ次元で考えられると思うのだ(ちょっと無理があるけど、多少気持ちにゆとりは生まれてくるはず)。そうなると、なんだかずっーと一箇所に定まっていることはもったいないことのようにすら感じてくる。そして、「もっと、冒険しなくては」、「知らない世界をみてみたい」、「別に大したことではない。どうってことないさ」、「人生は旅なんだ」と、勇気が妙に沸いてきたりする。

どうでもいいことかもしれないけど、悲観的に考えがちな私にとっては、現実的なレベルで自分自身を「この町の住民」と考えるより、宇宙の銀河系の中の太陽系に浮かぶ地球に住む生命体だと考えるほうが、何かと気分的に楽になることが多いから、ちょっとしたことなんだけど、こだわってみて、世界旅行ではなく地球旅行に行くことにしたのだ。次の目的地はカナダの予定。
.
2003年6月13日


旅考:地球旅行vs世界旅行