ぱーと 2(読み物編)
ここには、絵本以外のものを置いています
子どもの本にも増して、おとなも楽しめる本ばかりですよ〜

 「物語がなければ、人は生きられない」 ——エリアーデ


 ふしぎをのせたアリエル号
 リチャード・ケネディ:作 中川千尋:絵 福武書店(徳間書店?かな)

 原題「Amy’s Eyes(エイミーの眼)」
 どんな本でもそうだけど、テーマやオチを喋ってしまうと、魅力半減。
 なので、カヴァーに書かれたことだけ、触れますね。
 同じカゴに入れられて“子どものいえ”の門に置かれた“エイミー”と“キャプテン”。兄と呼ぶキャプテンは、実はお人形。でも、ある日、入れ替わってエイミーが人形に、キャプテンが人間になってしまうんです。
 さあ、それからふたりは、いろいろあって、帆船「アリエル号」に乗り込み、海賊のお宝を探しに船出することになるんですが……。

 と書くと、どこにでもありそうなお話みたいですが、これが全然違うんです。
 子どものエンターテインメント、といっていいほど、壮大なホラ話(誉め言葉だよ)が次から次へ。ちょっとだけネタばらしすると、「お人形」がキイワードですね。他にも、いろんな人形(一応)があふれるくらい出てきて、わくわくしますよ。
 いわゆる「文学的」なものからはほど遠いけれど、やっぱりお話は楽しめなくっちゃ。

 本のページにして600頁もある壮大な物語。全部で50章近くあるのを、毎晩1章ずつ読み(聞かせ)ました。
 ヴォリュームの分は充分、楽しめましたね。

 ただ、オチ——ラストがちょっとだけ、私たちにとっては納得のいかない展開……。
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 (ここからネタばらし——未読の方は、やめておいてね)

 エイミーが元通りなのはまあいいとしても、いうことなすことが、ちょっとひどいんじゃない? だって、キャプテンが死んだのよ〜! そのキャプテンを死なすことも、納得行かない! これは子どもの本、ましてやエンターテインメント、オトナの論理や「教訓」なんて持ち込むこと、ない! (これは強調したい!)

 私はこれは、「くまのプーさん」と同じで、子ども部屋で起こった奇跡の物語、と受け止めてます。だから、最後はやはり、甘々でもいいから“大円団”がよかった。
 海賊をやっつけて、裏切り者は始末して、犠牲は払ったけど、みんなよかったね、で終わって欲しかったよ〜っ。
 というわけで、せっかくの物語が、中途半端な感じで終わってしまいました。

 娘はさっそく、自分なりの収拾の付け方を考えています。(つまり、勝手にお話を作ってしまってます——それも、また楽しみかも?)
(08/99)


 ルドルフとイッパイアッテナ 作:斉藤洋 絵:杉浦範茂  講談社
 ——と、続編 「ルドルフ ともだち ひとりだち

 以前に、某国営放送の「テレビ絵本」というので、一度見たことがあって、買う機会を待ってました。
 いや〜、この本は楽しいですよ。とくに、男の子にオススメ! ——なんていうと、“差別”になっちゃうかな。もちろん、女の子も楽しめますけどね。

 野良化しちゃったネコの“イッパイアッテナ”が、少々乱暴な言葉遣いをするのに、眉をひそめる方がいるかもしれませんが、そんなことは子どもたちは学校でとっくにやってますって(?)
 逆に、本の中で(ヴァーチャルな世界で)体験することによって、願望を昇華できるかもしれない。——って話がそれました。なにせ、イッパイアッテナは江戸っ子で、べらんめえ調なんです。でも、主人公のルドルフ——やっと出てきたぞ、ホッ——の礼儀正しい標準語(?彼は岐阜人ならぬ岐阜ネコなんですけど) との、掛け合い漫才みたいなやりとりが、この物語を面白くしてる部分でもあるわけ。

 今は風前の灯火みたいな気がする“友情”とか“正義感”とか。現実にすっかりスレてしまったオトナにも、そういった熱い想いを、思い出させてくれる一冊であります。
(05/99)

 空色勾玉 作:荻原規子 徳間書店 (以前は、福武書店から出ていましたね)
 および、「白鳥異伝」 「薄紅天女」

 この本(「空色勾玉」)を買ったとき、続編が出るとは思いもしませんでした。(作者自身が、そうだったようです)一作として完結してますし、同じ時代、同じ登場人物たちでは、続きはむりでしょう。でも、作者は「勾玉」を主人公に据え、そのことで終始一貫した上代物語を紡ぎ、堂々の「勾玉3部作」ができあがった、というわけです。

 「空色勾玉」の主人公は狭也という女の子。村のしきたりや、押しつけられる物事の矛盾に悩む10代の少女です。
 彼女は都の帝に捧げられた姉を追って村を飛び出し、あれこれの冒険をします。上代物語といっても歴史をなぞっただけでなく、異世界ファンタジーでもあります。月読、照日などと神話の人物も登場、現実世界を代表する狭也との行動や思考の差が、魅惑的な展開を生みます。

 発表当時、狭也が“あまりに現代的な考えを持ち、行動する”という批判があったそうですが、そうかなァ、といったところ。どんな時代にも、体制に疑問を持つ者、反抗する者はいただろうし、それ故に“出る杭は打たれ”たでしょう。ほとんどは、ただ漫然と日々を暮らし——という言い方が悪ければ、平穏無事を祈り、先人たちのやり方を踏襲するのが正しい、と考えていた。けれど、狭也のような者には、それこそが耐えられなかった。
 疑問を抱いた者には苦悩が襲い、葛藤が荒れ狂う。けれど、だからこそ、ドラマは始まるんです。わずかながらでも、事態は変えられるかもしれない、と思った者が、歴史を進めてきたのではないでしょうか。

 子どものころ、円地文子さんの書かれた平安物のジュヴナイルを読んだのですが、ここに出てくるお姫さまたちだって、とお〜っても現代的でした。たおやかで優しく美しく、それだけに読んでるこっちはイライラさせられる、なんてお人もいたけれど(べつに女に限りませんよ)、そうでない“おきゃん”な方もちゃあんと出てきて。
 時代物は、時代考証をおろそかにしては成り立たないと思います。でも、それだけでは“物語”は始まらない。
 “描かれている時代”に合わせなくちゃならない面もあるでしょう。でも、それだけではただの古典だ。新味のない物語なんて、だれが読みたいか。
 いいえ、古典だって、ある種時代に合わない様々な苦悩を描いているからこそ、心打たれるのではないでしょうか。
 狭也は充分に時代に縛られています。だからこそ、そこから逃れたいともがく。それが、私にはとても共感を覚えるところでした。今なら、もっと自由に、勝手気ままに羽ばたいちゃってることでしょう。

 何だか、とんでもない紹介になりましたが、これで読んでみたいと思われる方がいたら幸せ。よかったら、感想を述べ合ってみませんか。
(12/98)


 牛をつないだ椿の木 新見南吉 角川文庫

 先日、秋頃、新見南吉の出身地でもある、愛知県は半田市に行って来ました。「新見南吉記念館」があるんですよ。最近、ホームページもできあがりました。→
 近ごろ人気の「金子みすゞ」さんほどではないにせよ、書店には全集もならんでますし、作者名は忘れられても、「ごんぎつね」や「てぶくろをかいに」 「おぢいさんのランプ」はだれが聞いても、ああ、と思う作品ですよね。
 ここには、それ以外の作品、ちょっと大人っぽいもの、あるいは最初から大人向けに書かれたものなどがならんでいます。級友とのふれあいを描いた作品などは、瑞々しいけれどちょっとドキッとするような描写もあって、基本的なことは今も昔も変わらないのよね、なんて思ったり。
 年輩の方には「」が結構評判みたいでしたけど。
(12/98)


ネコのグリシーをさがしたら……
 作:メアリー・フランシス・シューラ 訳:ホゥーゴ政子 絵:石井祐佳里 徳間書店

 “グリシー”はメスの野良猫です。タイトルに名前が出てくる、いってみれば主役といってもいいのに、出番は最初の数ページだけ。あとは行方不明になっちゃって、それでこっちがホントの主人公の兄妹が懸命に探すんですよ。
 だから、グリシーは一種の狂言廻しかな。
 この物語の気持ちいいところは、街の大人たちが、みんな個性的だけどいい人なこと。基本的に善意なんだけど、アレレと思うやり方で、それぞれ主人公たちを癒してくれます。学校の先生もね。そこがまた面白いんだけど。
 主人公のお兄ちゃんも、最初はちょっと情けない、気の弱い子だったんだけど、徐々に変わってゆくのがまた楽しい。いじめっ子をやっつけちゃったりしてね。でも、そこは秀作。ご都合主義のありふれたストーリーではありません。単純にお話が進まないところが、ドキドキハラハラ。

 それにしても、どうして日本には、この物語に出てくるような教師がいないんだろう? 真に子どものことを考え、本当の意味での教育に情熱を持っている人は。
 単に私が出逢わなかっただけか?


 モモ、はてしない物語 ミヒャエル・エンデ 岩波書店

 これは、あちこちで書き尽くされてるだろうから、今さら紹介するのもどうかと思ったけれど、かといって無視するのもちょっと。
 だって、好きな一冊なんだもん。
 まず装丁からしてGOOD ! 内容に出てくる「はてしない物語」と同じ、豪華な表紙だともっとよかったんだけどね。まあ、これは要求が過ぎるというもの。そして、物語中物語、の部分は色分けしてあるんですよ。こういうの、何かワクワクしませんか? あー、書物を読んでる、って感じがしない?
 ちなみに、早川文庫に「プリンセス・ブライド」という本があるんですが、それも同じような色分けされた物語内物語、という箇所があって楽しいんですよ。
 さてはて内容について。
 物語としては「モモ」の方が上、という意見があるけれど、私はどっちも好き。
 これはテーマがダイレクトですよね。とってもわかりやすい。そんなところが、小難しいのが高尚、と考える向きには敬遠されるのかもしれないけれど。
 でも、考えてみて。これは、“子どもの本”なんです。ドキドキワクワクの文字通りの“物語”は、主人公のバスチャンのように、子どもの心をつかむのでは?
 (12/98)


 おれの墓で踊れ  エイダン・チェンバース  浅羽莢子:訳  徳間書店

 これは正直いって、あんまり早くここへ出したくなかった……。もったいをつけているわけではなく、もう一度読んで、じっくり考えてみたかったからです。
 でも、ここは単に「ご紹介の場」。エラソーな講釈を垂れるのはよそう。私の「心の本」ともなったものだ、というだけでいいじゃないか。
 複雑な構成の本です。といっても、ミステリーみたいに、小難しく捻ったものではありません。一応、“オレ”=ハルという男の子の1人称で話は進むのですが、ところどころに、彼と対面するカウンセラーのリポートが挿入されています。
 いわば、カウンセラーは謎を投げかける存在。読者に、ですよ。ハルに対する興味を引いておいて、ハル自身が起こったできごとを語る、といった形なので——やっぱり、ミステリー的か——次々にページを追ってゆくことになります。

 内容は、「心の友」バリーを事故で失った14歳の少年ハルが、バリーとの思い出を綴りながら、友と自分自身とを見つめ直し、新たな出発を目指す、お話です。
 と書くと、なんだかよくあるお話、と思ってしまいがちですね。でも、現実の出逢いは100人100様。物語のそれも同じだと考えれば、読み逃すことなんてできない。まして、ハルはバリーと“恋愛関係”にあるんです。
 特異だと思いますか。まあ、ごく当たり前に考えれば、そうでしょうね。JUNEとかやおい本を読んでる人は、驚喜しそうだけど。表現はやんわりとですが、ベッド・シーンも出てきますし、児童書としては、画期的(?)かもしれない。

 でも、本当は特異、なんて書きたくないのです。こうしたことは、だれにでも起こりうること。それが悪いことだと決めつけることなんてできない。まして子ども時代、青春です。さまざまな人や物事との出逢いがあって当然だし、むしろそこまで心を通わせられる相手がいたというのは羨ましい気もする。
 でも、お話は、その友を失ってしまうことから始まるのです。そして、ハルがだした結論は——やはり、このあたりが文学、やおい物とは一線を画すところなんでしょうね——変わること。

  もう少し道草しますが、これはイギリスのお話です。お堅いイメージのある国にしては、こんな物語が出ていたんですね。(カトリックとか、プロテスタントではないからだろうか) 映画の「マイ・ビューティフル・ランドレット」を思い浮かべてしまいました。あれは、かなり脳天気ですが。
 とはいえ、この調子で、日本にまだまだ紹介されていない埋もれた名作があるのではないか。そんなことまで考えてしまいます。この国には世界中の情報が入ってきているとされているけれど、実は偏っているのではないか。言葉の壁が厚いために、偏向しようと思わなくても、そうなってしまっているのではないか。
 いってみれば、無意識の“鎖国”です。それを為政者に利用されたら、ちょっと怖いことになりますね。その意味でも、インターネットは有効だと思う——って、関係ない話でした。では。
(12/98)

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