waist weight

 黒くて、細くて、さらさらと冷たい髪の毛が、耳の上で左右に分かれた。途端、海辺の生き物みたいに哲学的なカーブを描く耳朶が目について、思わず口を寄せた。歯を軽く、押し当てるように甘く。すると自然に舐めたくなって、舌を伸ばしていた。
「ぁっ…」
 塔矢は寒いみたいに体を震わせた。セーターを脱がせ、シャツをまさぐっていると、ぶつぶつと肌が粟立っていた。寒いのか。気持ち悪いのか。
 後者だとは思えない。誘ったのはこちらだけれど、それに応じて、上に乗ってきたのは塔矢だからだ。

「やってみねぇ?」
 塔矢が俺の家に来ていた。初めてのことで、少し緊張していた。計画的に両親は留守だった。見慣れた自分の生活空間に、およそそぐわない他人が、適当に丸めたコートを置くのを見てた。
「何を?」
 ベッドの上で足を投げ出し、壁にもたれかかったやる気のない俺に、塔矢は首を傾げた。
「えっち」
 無造作に口に出すと、間抜けた響きだった。今日は一段と冷え込む。ぐちゃぐちゃになってベッドサイドに絡まる毛布を引き寄せようとした。
「いいよ」
 答えなんてまるで期待もしていなかったのに、その言葉は思いがけず近い距離から届いた。毛布から視線を移す。ベッドのスプリングが塔矢の片膝を受け止めているところだった。すぐにその体が目の前にあった。
「いいよ。やってみようか」
 塔矢は俺の両肩に手を置いた。微笑みもなければ戸惑いもなかった。淡々と、ただ少し、緊張はしていた。俺の太腿辺りに跨って、塔矢は顔を近づけてきた。少し顔の角度変えてキスを交わした。これは初めてではない。比較するのも難しいけれど、そう、付き合って三ヶ月目のカップルくらいには、初めてではない。
 これまでで学習してきたように、舌を吸いあったり、舐めた。塔矢の手の平がぎゅっと肩を掴む、その力が少しずつ強くなる。俺はやっと、お留守だった両手で塔矢を抱いた。腕を、塔矢の腰に回して引き寄せた。
「貧弱」
 情熱的とも言えたキスの合間、不釣合いに明瞭な感想を漏らしてしまった。「お前、この腰はねぇだろ」
 いとけなく華奢な女の子じゃあるまいし、俺の腕の中にすっぽりと収まってしまう胴回りに本気で呆れて、俺は繰り返した。「貧弱」
 どっしりと腰の落ち着いた、和服のイメージが強かったからかもしれない。結構いい体をしているはずだと、無意識にイメージしていたらしい。驚愕するほどにその腰は細かったし、背中の線は薄かった。ずっと幼い頃から、塔矢は俺より大きいと信じていたので、びっくりした。
「…人のこと言える立場か?」
 塔矢は当然、ひどく立腹したようだった。こんな体勢でなければ、きっと足が出ていた。塔矢は足癖が悪いのだ。俺が畳に座ってるときとか、馬鹿なこと言うと、わざわざ立ち上がってまで背中を蹴る。
「言えるよ。これなら俺のが全然いいカラダしてんじゃん」
「君のはいい体とは言わない。デブなんだ」
 肩から下ろされた塔矢の右手が、俺の腹を力込めて撫でた。最近、筋肉と脂肪の絶妙なバランスで、しかし結局は肉付き良くなってきたとしか言いようのないその部分。
「やめろよっ」
 気にしていることを指摘され、塔矢の右手を引きはがす。
「先に言った君が悪い」
「はいはい、悪かったよ。もう。ムードねぇなぁ」
 最後の一言はギャグだったし、塔矢もそうとしか思わなかったはずだ。やっと笑った。俺も少し笑った。笑うと空気が緩んで、また、自然と唇を合わせていた。
 隠す必要もないから言ってしまうと、俺はその貧弱な体に初めて欲情した。キスは何度もしていたけれど、「やってみよう」とか言ったその割りに、俺は内心半信半疑だったのだ。塔矢相手に勃つかどうか。
 壁にもたれたまま、少し乱暴に腰を引き寄せた。塔矢はバランス崩して俺の上に体重を落とした。軽くはない。当たり前だ。上背がある。だけどもしかすると、いやおそらく、俺より全然軽かった。
 キスを繰り返しながら、強めに抱きしめてみた。両手が結構勤勉に、塔矢の体を服の上から探り始めた。俺の手は意外にいやらしい。反対に塔矢は怠け者だった。奉仕的では全然なくて、ただ上に乗ってるだけ。
「お前、俺に何かするの嫌なの」
 そのうち体勢入れ替えて、二人の体がベッドから落ちないよう、ちゃんとした向きで押し倒した。悪く言えばマグロな塔矢さんに、呆れてそう聞いてみた。塔矢は少し首をすくめた。俺の舌が耳の下から首筋までをなぞったからだろう。
「嫌じゃない」
「鳥肌立ってるぞ」
「…それはきっと、感動に打ち震えて、」
「嘘付け」
 初めての初々しさとか、ピンク色の雰囲気とかはまったく消えていた。
「つまらない?」
 塔矢が少しだけためらいながら口にしたので、
「ううん」
 首を振って笑った。相手がまな板の上のマグロでも、俺のあそこは感動に打ち震えていたから。「全然。興奮してる」
 触ったら分かるだろうけれど、言葉だけで信じたらしい。触りたくなかったのかもしれない。塔矢はいかにもなすがままっぽく、ただ目を閉じただけだった。


 えっちするような関係になってからしばらく、外で二人で会うのは避けた。目ざとい誰かが、何らかの察しをつけてはいけないと思ったからだった。そして久しぶりの外出。その日は雨だった。
 電車を下りるとき足元に注意すると、ホームの端が濡れていて、それではじめて降っていることに気づいた。途端に雨の匂いが鼻をついて、なんだか、冬が来たのだと改めて思った。車窓越しに流れる空が灰色ではあったものの、雨には気づかなかったから。急にその雨が、冬を連れてきたような匂いがした。
「進藤、こっち。南口」
 塔矢が軽く、俺のフードを引っ張った。俺の服を作りに行くのだ。和服を。
 いつのまにそういう話になったのやら。きっかけは、塔矢の家にあったお琴だった。塔矢のお母さんが使っていると聞いて、感心して。琴とか舞とか、何だろう、お茶とかお花とか? そういうものと組み合わせたときの和服は、確かにかっこいいと、純粋に感想した。他意はない。素朴に、感じたままを口にしただけ。だけど塔矢は少し機嫌を損ねて、「碁は」と短く反抗した。
「え?」
「碁は。碁もそうだろう?」
「ああ…まぁ、」
 強く畳み掛けられ、反対にあやふやな相槌を打った。タイトル戦でもあまり和服を見かけない。詳しくはないが、将棋より洋装の比率がずっと高いという。特に若手の中では、着物といって思い出せるのは塔矢くらいだ。ここ一番という勝負のときには、やはり慣れた衣服で臨みたい。
「それも分かるけど、和服もいいよ。気が引き締まるというか」
「そりゃ、お前の体よりかは似合うだろうけど」
 失言。不要な一言は俺の十八番のようなものなので、今更だ。塔矢は、ほお、と目を細めた。今に至る。
 先日、ローカルなケーブルTVがスポンサーになった棋戦で、優勝賞金を手にしたばかりだった。そんな金ない、という抵抗も空しく、塔矢家二代御用達の店へ連れて行かれた。
「真面目にね。いいんじゃないかな、一着くらい誂えておくのも」
「…作っても着ないかもしんないじゃん」
「おや、僕よりは似合う自信があるんだろう?」
 前々から知ってはいたけれど、塔矢はしつこく根に持つタイプだ。それともこれも俺限定だろうか。和谷なんか、どんなに面と向かって口喧嘩吹っかけようと、いまだに名前を間違えられる。
 さて、和服だが、反物から仕立てる値段を聞いて、慄いた。本気で無理、と塔矢に告げると、さすがに本気が通じたらしい。既成の略礼装をとりあえず試着。
「似合う?」
 塔矢は馬鹿にしたように鼻で笑った。
「まだまだ。全然」
「そうか? 我ながら結構イケてるじゃん」
 気難しそうに見えるお店の主人も、「袴がお似合いで」と笑ってくれた。
「七五三だ」 塔矢だけがぷいと顔を背けた。自分で連れてきたくせに。へそ曲がり。
 鏡の中の自分の姿は、確かに顔つきが幼く見えるし髪形も似合わないかもしれない。だけど少なくとも、体には合っている。帯がきちんと腰骨の上に、安定して座っている。これまで和服など塔矢の姿しかイメージになく、「お前より」と言ったのだって勢いのようなものだった。しかしこうして見ると、明らかに、塔矢より体に関しては似合っている。
 結局その日、買うところまではいかなかった。着物を纏い帯を締めると、確かに、体の中に一本緊張の糸が走って、碁を打ちたくなった。綺麗に、囲碁を打ちたくなった。たとえば琴を奏でるように、扇で舞うように、一芸。
「気に入ったかも。そのうち、和服デビュー」
「七五三」
 塔矢は不機嫌に傘をさして家路を急ぐ。後姿を追いかける。北風が吹くと、雨が塔矢の肩を濡らして、コートの鼠色を濃くする。
 背中を追っていた時代が長かったからか、塔矢の後姿を眺めるのは、好きで、嫌いだ。
 塔矢はそれを知っていて、だからいつも俺の前を歩きたがる。細い道、店の玄関。いつも俺より大きくなりたがる。俺の上にいたがる。それが二人の安心できる位置みたいに。
 塔矢の家に戻ってきた。後を追って玄関に入ると、塔矢は身を屈め靴を脱いでいた。コート越しにも分かる、折られた腰の儚さだった。後ろ手に扉を閉めると、俺の頭の後ろで、ぴしゃりと音が立った。
 思わず腕を伸ばして、後ろから抱きしめていた。
「…君は僕の背中が好きだね」 塔矢は、不機嫌さえ忘れた呆れた声で、普通に、腕を解こうとした。敏いのか疎いのか。
 抱きすくめるコートは冬の冷たさだった。その中に体温が隠れていた。塔矢の後ろ髪に鼻先を埋めながら、コートの前合わせに片手を滑り込ませる。
「おい」
「ん、…やろうぜ」
 囲碁も打つ俺の手は存外にいやらしい。厚手のスラックス越し、塔矢の太腿を強く愛撫し、足の付け根、内側に触れた。性急な動きに塔矢が息を止めた。
「したくなっちゃった」
 両手で、塔矢のベルトを外した。前を開けて手を突っ込む。
「…、っ、」
 塔矢が身を捩る。触りにくくなるので、片腕で強く腰を抱き、動きを押さえた。冷えた片手で塔矢のを取り出して弱く強く刺激を与える。たった一本の腕で、自由を奪えるこの体。
 言葉にすれば貧弱の二文字でしかないのに、貧しくも弱くもないのは不思議だった。
「…綺麗だ」
 自然と口をついた。素面じゃ言えない。塔矢は、苦しげな呼吸の合間に嘲笑った。
「萎える、ようなこと、言うんじゃない…」
 憎まれ口もなんだか男前だった。俺も、鼻で、笑ってやった。



 別に隠していたわけじゃない。塔矢も分かってたろう。いつ別れたって構わないと、本気で思っていたのだ。きっと塔矢だって思っていたのだ。
 恋愛のいいとこ取りでいいんだって。俺たちの場合特に、そうじゃないのはリスクが高すぎる。この関係がばれたときのことを思えば、その面倒くささ、鬱陶しさ、怖さ、切なさにほとほとうんざりする。それくらいなら、いつ別れたって構わない。俺たちには囲碁があるから、別に恋愛にはこだわらない。「付き合ってください」、「はい」、って儀式がなきゃ始まらない中学生みたいに、恋愛の甘っちょろい上澄みだけ舐めて、それだけでいい。それでいい。それでいいんだと、思っていた。


「ぁっ…ぁ、あ…ッ」
 玄関マットの上に押し倒して、シャツもセーターも、コートすら脱がさずに体を繋げた。二人の重みで、衣服の皺は、たくさんの幾何学模様を描く。俺の方も、ダウンジャケットを着たままだ。ジーンズと下着だけ、少し腰にずり下ろしている。暑い。汗が次から次へと皮膚に浮かぶのを感じていた。
「ん、ぁ…! 進藤…」
 強く強くその腰抱き寄せて、自分を打ち付けると、悲鳴飲み込むように塔矢の喉が大きく波打つ。馬鹿だな、馬鹿だな。
 高ぶり続ける。欲情を、劣情を、取り違えていると後ろ指。
 指されたっていい。


 こいつごとこの恋を守りたい。