君の声が似合うこの寒い夜に

 携帯電話越しの行為を終えて、荒い呼吸整えながら、手の中の何枚ものティッシュペーパーを丸めてゴミ箱に捨てた。
 大きく息を吐いて、静かになってしまった電話の向こうに呼びかける。
「…塔矢…?」
 返事はなくて、もう一度名前を呼んだ。耳を澄ますと、一つベッドにいるときでさえめったに聞くことのない、あどけない寝息が聞こえるのだった。
「えと…」
 珍しい。パジャマのズボンをずり上げて、とりあえず迷った。自分より少し前に達したはずだった。その後ことんと寝てしまったのだろうか。なんかそれって、少し酷いような。酷くないような。
 電話を切るべきか迷った。通話料がかさむし。だけど、寝息が、珍しかった。

 七番勝負の六局目、二日目の夜。大タイトルの防衛を果たした塔矢に、電話をしたのはこちらだった。はじめからそんな、不埒な目的でかけたわけではない。そもそも自分は、思春期の数年を別人格と生活していたせいか、そういった方面の目覚めが遅くて。体の内にくすぶるもやもやの正体に長年気づかなかったくらい。
 今日は少し塔矢の方がその気だったのだ。これも珍しい。昨日今日の一局が、興奮に値するような展開だったのだろう。妬いていいかな。普通の会話がいつのまにかなだれ込んでいた。これもはじめての経験だった。
 小さな寝息がよりかすかになって、規則正しく、穏やかに変化しつつある。
 風邪を引いてしまわないか心配になったけれど、浴衣で、布団の中、というのも聞いていた。ああ、汚してないだろうか。大丈夫か。
 そういえば、数年前、最近寒くてなかなか眠れないとぼやいたら、一人ですると温まるし眠れるとアドバイスくれた奴だった。意味がしばらく分からなくて、家に帰ってから、その日の会話を反芻していてやっと理解して、赤面したものだった。塔矢が何オカズにしてるとかは知らないけれど、少なくとも自分ではないような。自分の碁ならありえそうな。わあ。変態。
 電話の向こうから、子どもがぐずるような、鼻にかかった声が漏れ聞こえた。こいつの寝顔がどんなかも、よく知らない。いつも大抵、先に眠るのはこちらだからだ。
 ふと、机の引き出しから煙草とライター取り出して、一本銜えてみた。火をつけてみる。吸い方だけなんとなく知っていたけれど、これは塔矢から没収した一式だったりする。あんまり吸いやがるから、取り上げた。そうすると、それ以降、吸っていないようだ。こちらの目の届く範囲で、ではなく、本当に止めたらしい。律儀。かな。
 吸い込む。苦いなぁと思う。煙を吐く。大抵こちらが先に睡魔に負けて、夜中ふと目覚めると塔矢が一人で煙草吸ってたりした。裸の体に、ネクタイの引っかかったシャツだけ羽織って、気持ちよさげに。どっちが、手篭めにしたオッサンかわかんねぇよお前。
 塔矢は片方の膝を抱くように、片腕伸ばして、煙草挟んだ指で髪かきあげたり。
 鋭さすら感じられる顎を、キスするときみたいに持ち上げて、唇すぼめて深く息をつく。
 寝起きのぼんやりとした視界、暗い部屋に浮かび上がる口元の小さな火。
 真似するように、煙草、吸ってみた。
 電話の向こうから穏やかな寝息が途切れず続く。高級旅館の寝具の上で、乱れた浴衣と乱れた髪の毛。その鼻先に、繋がった携帯電話を転がしたまま、寝こけているんだろう。
 この距離とこの近さ。
 この距離とこの近さが、丸ごと、なんだか無性に、愛しくなった。
 はじめての夜みたいに、口の中で何度も練習して、やっと囁いた。
「…アキラ…」
 オスの匂いがまだ消えない冷たい冬の部屋で、小さな声は意外に響いて聞こえた。咄嗟に、続けようとしていた恥ずかしい言葉の代わり、一言呟いて、電話を切った。

「おやすみ…」