The time takes me to you

(もしもあなたと逢えずにいたら)

 角を曲がったところで高い声がした。
「ヒカル! 久し振り!」
 見慣れた長い髪、少し大人びたように思うのは、よく知らない高校の制服のせいだろうか。
「よー、あかり。久し振り」
「ほんとだよー。あ、でも私も週刊碁買い始めたからヒカルの名前見るよ。よく分からないけど、北斗杯って凄かったんでしょ? ヒカル褒められてたよねっ」
「え? あー…まあな」
 少し苦笑するしかなかった。ジーンズのポケットに手を入れたまま、スニーカーの爪先で地面を蹴る。
「凄いね。高校の子にも自慢してるんだけど」
「なんでお前が自慢すんだよ。大体碁のことなんて誰もわかんねーだろ」
 普段もそうだが、特にこの幼馴染み相手だと、言い方がとても雑になる。それでも笑いながらだったので、あかりも笑った。半袖の夏服から伸びる細い腕が眩しい。

(もしもあなたと逢えずにいたら、わたしは何をしてたでしょうか)

「今日も棋院に行くの?」
「いいや、碁会所。塔矢と打ちに行く」
「ふーん」
 プリーツスカートの丈が毎度短い。ふくろはぎも細い。体の厚みなんてほとんどない。だから胸もまだ、あるかないかの膨らみ。
 ……何をチェックしているのだろう。あかりだぞ、あかり…。少し心の中で慌ててしまった。
「あかりは? 高校ってどんななんだ? あ、そうだ、囲碁部は?」
「なかった、から、今先生に部活の作り方聞いてるところ。まずは同好会から始めなきゃいけないんだって。人が集まったら部になるの」
 話を聞きながら歩いていると、やけに次の曲がり角まで長かった。ずっと、自分の方が小さかったのに。 
「……ヒカル、卒業式の約束覚えてる、かな…?」
「あ? ……ああ。またお前の囲碁部に教えに行ってやるよ、ただで」
「……うんっ!」

(平凡だけど誰かを愛し、普通の暮ししてたでしょうか)

 じゃあ私バスだから、とあかりは足を止め手を振った。
「バイバイ。またね」
「ああ、またな」
 長い髪。
 …胸の大きな女が好きだ。だけどそれだけでなく、何のパーマっけもない、今時珍しいくらい真っ黒な、長い髪と町ですれ違うとき思わず目で追う。いつからだろう。
 歩いていると汗ばんできた。街路樹の緑は今が盛りとばかりに瑞々しい。あと一か月、半月もすればまた夏が来る。時間はワンウェイ。進むばかりでそれを悔やまない。
 碁会所の入ったビルの前には運送会社のトラックが止まっていた。ここのテナントは比較的入れ替わりが早い。
 市河さんに挨拶し、塔矢来てますか、と言い終わる前に手で指し示された。奥の方に頭が見える。こうしてみると、最近塔矢も少し髪が伸びた気がする。
「よお。待った?」
「いいや。全然」
 言葉の上では、まるであれだ。恋人同士がしてもおかしくない会話だけれど、翻訳するなら「僕が君なんか待ってるはずがないだろう」。
 嘘をつけ、と言いたくなる。以前は、「ああ26分は待った。君には約束の時間という感覚がないのか」だった。
 碁を打つ上でのライバルというのは変わっていないが、プライベートでは、その反作用のように「進藤なんか」な態度をあからさまに取る。塔矢の中で二つの反応がぶつかりあっている様は、傍で見ていておもしろい。
「始めて出来た同年代の友達だから、距離感がつかめないんだよ」と、芦原という人が言っていた。
「なんでもいいや。打とうぜ」
 何の了承もなく盤面を崩し、手前にあった白石を引き寄せた。
 黒を持った塔矢は、まったく君は、とぶつくさ言いながら初手を置く。市河さんが、紅茶のカップとコーラのグラスを運んできてくれた。
 塔矢とひんぱんに打つことが、自分の碁を変えていくことに気付くことがある。塔矢は父親譲りの正当派な打ち筋を土台にした好戦的な力碁が得意だ。いちかばちかのその時に守りに入ることがない。…ある意味素直、というか、猪突猛進?
 ……正直に言うと。他の誰との対局よりも塔矢と打つとき、自分は一番……佐為を感じる。それは多分、塔矢が自分の碁に佐為を見るからだろう。息吹を感じる。そのたびにまた自分たちは変わるのだ。過去の一手に学び、ああ、あの時のあの石!
 あの布陣の意味を知るのだ——

(時の流れに身をまかせ あなたの色に染められ 一度の人生それさえ 捨てることも構わない)

「投了」
 塔矢が掴んだ石を盤面に落とし、息を吐きながらそう告げた。
 北島さんがええっと椅子を鳴らした。
「若先生、体の調子でも悪いんですかっ?」
 どういう意味だ。
「いいえ。ご心配なく」
 塔矢もさすがに苦笑いした。「進藤のここでのキリの意図に気付きませんでした」
「それでも中央が生きればヨセ勝負にまで行ったんだけどな」
 コーラのグラスを掴むと手の平が濡れた。北島さんはまだぎゃいぎゃい喚いているが、塔矢は塔矢で検討モードだ。
「ここ、僕は深入りしすぎたか? だけど右辺を取られたら、癪だけど多少の形の悪さは気にしていられないと思って…」
「俺でも攻めるな、そこは。けど取りに行く前にここを押さえる。な?」
「……なるほど」
 塔矢が軽く頷いて、耳にかかっていた髪がさらりと流れた。

 検討をし終えて、二人で食事に出た。正確には連れ出した。
「ファーストフードはいやだよ。お昼からラーメンも遠慮したいな」
「……ワガママ」
「君の好みが偏りすぎなんだ」
 塔矢が少し笑うと、薄い胸がわずかに上下した。
 こういうとき、ふと自虐的に、塔矢なんてさ、と思う。塔矢なんてさ…女の子でもないし。あーあ。もっと何かあったかもしれねえのにな、俺の人生。あたら若い身を碁盤の上なんかに投げ出して。バカだなあ。

 きっと、あったのにな。他の人生も。

(だからお願い)

 だけど……構わないよ。

(側に置いてね?)

 悔やまないよ、一度の人生。



(今は、あなたしか愛せない)


 …今は。