ため息のハニー

 佐為のことを思い出しているとき、たまに自分でも、離れ離れの恋人を想うみたいだと苦笑する。美化してしまってるんじゃないかな。こんなにも、あいつ美人だったかな。こんなにも自分達、ウツクシイ関係を築いていたかな。
 思い出に止まらず確かに美しいのは、佐為の残した碁なのだった。
 塔矢アキラ三段とはじめて対局した日の夜以来、佐為の夢は見ていない。夢にさえ出てくれないと恨み言。言えるものなら。
 当然だったことが不意に奇跡になる。それなら、逆の奇跡がほしかった。
 佐為に抱きつきたかったな、と今になって思う。無理だ。もう一度夢に見れたら、今度こそ泣きじゃくりながら抱きついて離さないのに、と…不可能だからこそ、そんな想像をしては切なく微笑める。
 さて、塔矢に好きだと告げた後、涙を拭い当然のように碁会所で打った。自分達の気持ちと、それが向かう先を確認するのに、一番確かな方法だった。
 和谷が言う。「お前ら、もしかして単にガキなんじゃないか?碁が好きです、おもしろいから、ってのと同レベルで好きって言ってないか?」
「碁と同じくらいだったらすげえな。俺塔矢にそんくらい好かれてたら逃げるね」
「そういう意味じゃねえよ。だからその…友情と恋愛の区別がついてないだけなんだよ。そのうちほんとに好きな女の子見付けりゃ分かるさ、うん」
 和谷は、自分が安心するために、勝手に人の気持ちを嘘にした。そう言い返そうとも思ったけれど、心配されているのは知っていた。不穏な恋に不適当な心配でも。
「要するにさ、俺がお前に…反応すりゃいいんだ。そしたら、区別ついてないとかいわせねえし」
「君はつくづくバカで無礼な奴だな」
 塔矢邸。塔矢は髪の先にかかる手を振り払った。勇気を出して伸ばしたのに。
「なんだよ」
「君と僕でなら碁を打てばいいだろう。なぜそんなことにこだわるんだ。人に何と思われようといいだろう。第一、恋愛をするのが、セックスをするのが至上の関係だとでも?」
「…そういう、わけじゃ」
「ならいいだろう。射精したいなら一人でもできる」
 結構際どい単語を口にして、顔を赤らめもしない。可愛くない、と思い、無意識でも塔矢なんかに可愛さを求めていた自分が気持悪くなった。
「…キスは?」
「何?」
「キスは一人じゃできないけど」
「…僕としたいのか?」
 塔矢は棋譜から目を上げた。問われた内容をゆっくり考えている間、まるで応手を待つように待っていた。
「…お前としたいというより、今はお前以外としたくない」
「君はキスをしたら泣くじゃないか」
 忘れたい事実をあっさり指摘されて顔が赤らんだ。
「あれは…不意打ちだったから」
 塔矢は耳にかかる自分の髪を一度かきあげた。じゃあしてみようか、と不遜に笑う。むかついて、身を乗り出し、顔を近付けた。
 目を閉じる。唇が、今度はきちんと、キスと呼べるくらいの時間触れ合った。
「…やっぱり」顔を離して塔矢は眉間に皺を刻んだ。「やっぱり泣いてるじゃないか」
 手で目の下あたりに触れると、なるほどうっすら涙が流れていた。笑ってしまう。
「ほんとだ。なんでかな」
 すると塔矢は何か言いかけて、結局言わずに溜め息をついた。深く。

 小さな公民館で催し物があってかり出された。多面打ちの後、何人かに北斗杯の労いの言葉をかけられた。そして一人には、皮肉られた。
 子どもでも何でもプロだろう。黙って勝てばいい。塔矢アキラ三段を見習え。同情を引くような態度は見苦しい。
 祖父くらいの年齢の男だった。ここまで直接、非難をぶつけられたのは初めてで、何も言えなくなった。うつむいているうちに離れていった。動揺したまま指導碁の時間になる。
「お願いします。ほら、カッちゃん、」
「お願い、します…」
 母親に連れられた内気そうな小学生が、もじもじしながらパイプ椅子に腰掛け、届かない足をぶらぶらさせた。
 九子置いて打ち始めた。手付きは不慣れだが、基本はできていた。
 無理な勝ち方をしないように、相手の打ち筋を尊重する。それでも中盤には、少年の打てる場所は限られてきた。黒石を摘んだまま、必死に盤上を見つめている。
 今打った手は厳しすぎただろうか。押さえず、残しておいてやればよかったか。
 失敗したかなと思いかけていると、石が置かれた。
(…そんな手)
 悪手だった。ただ、自分には、思い付かなかった。
(そんな、手)
 けなすことは容易かった。すぐに殺せる。繋げない。悪あがき。…しかし、自分には、思いつかなかった。
 そんな手、と、一言で切り捨てることは簡単だったが、では、「そんな」手すら気付かなかった自分は?
 …殺さず、繋げさせることにした。
(俺だって)
 自分だって、発想の妙があると言われる。よく言われる。塔矢も認めている。佐為も。
 その名を思うと辛かった。悲しかった。それだけではないのだろうが、そんな言葉になってしまう。
 北斗杯の後のインタビューを読んだ河合さんにも、そういえばまた怒鳴られた。
「お前、なんだよこの頭悪そうなコメントは!?楽しかったです。緊張しました。強かったです。悔しかったです。ちったあ、こう、あいまいで微妙な言い回し使うってのはどうだよ、え!?」
 だけど河合さん。そう感じるんだよ。心が辛いと言う。心が寂しいと呟く。悔しいと、心が、叫ぶ。
 海王出身の奴に言われなくたって、自分がバカなのは知っている。囲碁を打つこと、佐為を想うこと、塔矢に触れること。和谷の言う通り、区別がついていないのかもしれない。
 塔矢の溜め息。
 あれは、複雑で曖昧で、微妙なものだった。

 下手くそな整地をし終わって、六目負けた小学生は、じっと 盤面を見ていた。
「…この手…うまくはねえけど、おもしろかった…」
 言ってやると、顔がぱっと輝く。ああ。
「覚えてるなら、何度も並べてみりゃいいよ」
 負けた道筋、閃き、喜びも悔しさも、一局の内に。高永夏との対局も、そうだ。態度が?好きが、嫌いが?関係ない。関わりあっているけれど、それでもやっぱり、碁は、碁だ。

 その日は遅くなったので、久しぶりに和谷のところに泊まりに行った。北斗杯について非難された話をすると、始めしたり顔で「珍しくないよな。まあいろんな意見があるぜ、世の中には」とか言っていたくせに、缶チューハイ一本片付ける頃には当人より怒っていた。
 和谷の携帯電話が鳴る。着信メールに目を落とし、怒りなんてどこ吹く風、へらへら笑う。彼女が可愛くて仕方ないらしい。愛しくて。
 そして返信メールを打ちかけたまま床に丸く沈んでしまった。幼い寝息を立てて、携帯電話をしっかり掌に握り込んでいる様子。笑ってしまう。
 一人で、ペットボトル片手に碁盤を前にした。どこからか優しい歌声が聞こえるようだった。和谷はまだ携帯をしっかと握り締めている。大切な大切な宝物のように。そして自分は碁石を持つのだ。大切な、大切な、そう宝物のように。

 …会いたいな。そう心が呟いた。


 翌朝一旦家に帰って、それから塔矢に連絡を取った。家に行っていいと言うから、断る理由もなく訪れた。
 対局をして、それからまた話をした。イベントでの出来事と、その後の指導碁と、和谷の話をした。珍しくだらだらと無駄話をする自分に、塔矢はポットからお茶を入れながら穏やかに相槌を打った。
「…話を」
 呟くと、塔矢が首を傾げた。「何?」
「話を、することがあるって、凄いな。お前と俺で」
「君は友達が多いから」
「…そういう問題か?」
「うん。…僕もあれから考えたんだけどね」
 「あれ」がキスだと、しばらく思いあたらなかった。
「つまり、僕には君が必要なんだと思う」
 思わず足を組んだまま、畳に横倒しになってしまった。…嬉しくて。
「…そんなの、当たり前、じゃん」
「うん。対局相手という意味では当然なんだけど。…それだけじゃなくて」
 塔矢は少しだけ視線を逸らした。珍しい。
「……僕から、君を省けば、あまりいいものが残らない気がするんだ。…諦めとか…中途半端な意志とか。…だけど、君の中には、僕じゃないところに何か優しくて強いものがあって、……だから君は、僕より強い。…気がする」
「…俺お前にまだ勝ててないけど?」
「碁じゃないよ。碁で君に負けるもんか。…だから…たとえば…」
 塔矢は少しためらった後、横倒しから仰向けに寝転ぶ自分に近づいて、上からそっと、キスをした。
「…たとえば、こういうところで」
 またまた泣きそうに…なった。分かった。これはもはや条件反射なんだ。ぬくもりに触れることを奇跡だと感じる条件反射。
 塔矢の頭を引き寄せて、何度も下手くそなキスをした。それからやっと離れて、身体を起こし、塔矢の赤くなった唇を見て少しだけ涙した。
「…また泣く」
「うん…」
 ごしごしと手の甲で目を擦って、笑って見せた。
「なあ、やっぱり、おいおいでもいいから他のこともしてみよう?せっかく体あんだから、俺とお前でできることはやってみようぜ。調べてみるし。してみても何も変わらないかもだし、何か変わるかもだし、わかんねえよ」
「………悪い方に変わったら?」
 塔矢は慎重な物言いをした。本当にそれを危惧しているというよりも、自分を試す聞き方だった。
「セックスくらいで、俺たちの碁が崩れるなら、そりゃ、しょせんその程度の棋士だったってことだろう。
 俺も。
 お前も」
 塔矢は、たっぷり五秒はその言葉を検討していた。そしてやがて、意味なく小憎たらしい顔付きになると鼻で笑った。
「そうだな。証明してやっていい。たかがセックスで、君と僕の関係は変わらないよ」
 棋院でからかわれたこと、根に持ってやがる。無性におかしくなってけらけら笑った。
「だから君もね、そんなたんか切るくらいなら、キスごときで泣くな。心配する」
「いいんだよ。俺は泣いて強くなるんだから」
 ふてぶてしくそう応えると、塔矢は苦笑して小さく息を吐いた。複雑で、曖昧で、微妙でも、今度はそこに込められた思いの丈が、分かるような気がした。