タカラモノ・3

 秒読みの女性の声がふっと遠くなった。うつむいて固く目を閉じ、頭の中で描いていた悪あがきの手が、飛散するのを感じた。モニタの向こうで固唾を飲んでいる記者や棋士たちも消えた。対局相手の強固な布石。それだけがそびえて、アゲハマを盤面に落とす自分の行為さえどこかひと事のように感じられた。
「ありません」
 唇が動く。喉が空気を音にする。
 骨を伝ってじわりと聞こえた自分の声に、負けたのだと知った。言い聞かすように繰り返す。「…負けました」


 快勝続きで碁界の赤絨毯を歩んでいた塔矢アキラの黒星、しかも相手は三段下、五歳下、十代の若手棋士だった。さらに、それは今季要となる手合いであって、他を多少手控えたとしても落としてはならない一局、と、不本意な言い方をされていた、まさにその対局だったのだ。
 終局後の検討の間、相手は興奮を隠しきれない様子だった。はっきり言えば、負けた自分相手に失礼だと思われるような発言すらあった。そのたびに、検討に加わっていた座間先生が眉をひくつかせていた。
 座が散った後、顔馴染みの記者が不快ではないかと遠回しに聞いてきたので、そんなことはありませんと笑った。
「貫禄だね。あ、進藤くんがそういうタイプだから慣れてるのかな」
 なるほどと思った。確かに彼は系統的に進藤と似ていた。おおらかで、つまり無神経で、活発で、要するに粗雑。自分のような人間には、彼等の思考パターンや行動パターンがまったく読めない。
 彼は最後に握手を求めてきた。まだ子どもっぽいぷくぷくとした掌で、塔矢アキラに勝った記念ですと無邪気に言い放った。
 自分は、微笑んだ。

 電車ではなくタクシーで無人の我が家に帰ってくると、玄関先に進藤が立っていた。驚いて、慌ててタクシーを下りた。
 電車で帰っていたら直接勝手口に回っていたはずだから、彼が待っていることに気付かなかったかもしれない。
「驚いた。なぜいるんだ」
「突然現れるのは自分のおはこなのにって顔してる」
 進藤は笑った。
 留守の時は裏手に回ってくれた方がいい、というより、先に連絡を寄越せ…と、言いたかったのに言えなかった。
「今日のを見に来たのか?それなら並べてやるからうちに入ろう」
「いいよ。顔見に来ただけだから」
 沈黙と不審の表情で答えた。進藤はまた笑って、何の脈絡もなく、その掌でこちらの頭をくしゃくしゃ撫で回した。
 あっけに取られ、まじまじ見つめると、「そんな顔したってさすがに今日はえっちしないぞ」と小声で言われた。どんな顔だ。
 じゃあなとあっさり駅へ向かっていく後ろ姿に、ようやく我にかえった。
 ついついうつむき、髪に手をやろうとしては何度も止めた。
 本当に、君は、何を考えて何をするのかさっぱり分からない。
 無神経で自分勝手だと思うのだけど、時にナイーブで妙に……きっと、優しい。
 大きな掌のぬくもりをまるで愛しく感じるまま、聞く相手もいないがくやし紛れに呟いた。
「別に、君なんかに、慰めてもらわなくたって…」