タカラモノ

 もう開けることのない思い出を、それならばと箱に入れたまま、壊してしまいたいと思わなかったか?
 かすかにも?
 一度もないと言うのは嘘だ。


 あなたは優しいけれど。
 それなりにうまく付き合えていると思っていた女性から、そんなふうに別れを告げられた。
 あなたは優しいけれど、私に優しいわけじゃないんだから。
 ……難しい。
「今日は気が散っているね。ひどい碁だ」
 何がいけなかったのだろうと疑問を抱えたままで、いつも通り塔矢と対局した。すると案の定、序盤から冷たい指摘を受けた。
「………とうりょ…」
「キミならまだ盛り返せる。投げるな」
 そう言うが、相手は他の誰でもない塔矢アキラだ。普通の場面での逆転も難しいのに。
「……何かあったのか?」
 やがて打ちながら塔矢が聞いた。珍しい。正式ではないと言え、対局の最中で彼が無駄口を叩くのは。
「ん……いや、さ、本当の優しさって何だと思う?」
 何がいけなかったのだろう? その答えを、女性関係においては自分よりはるかに経験不足な塔矢が持っているとは思わないけれど、一応、気遣ってくれた礼になればと。
「………抽象的だ」
「…別に哲学の質問じゃないからな? 言っとくけど」
「本当の優しさ?」
「そう、そうそう」
「………少なくとも……本当の優しさが、突き詰めていって最後の最後で自己犠牲だというなら、ボクは優しくなくていい」
 思わず吹き出しそうになった。あまりに、彼の普段の言動と一致する主義主張だった。塔矢は確かに、そういう意味で周囲に対して優しくはない。
「じゃ、塔矢ってさ、最後の最後に自分を選ぶの?」
「誰だってそうじゃないか?」
「そうかもしれないけど……恨まれるぜ?」
「『優しくなかった』んだから、その恨みは背負わなければいけないものなんだろう?」
 塔矢は決して軽軽しい言い方をしなかった。こういうところで彼は……優しい。
 そして自分は安心するのだ。
 こいつは、大丈夫。
 こいつは、自分の「優しさ」なんかに潰れてしまわない。
 強いから。

 ……塔矢はたまに、「囲碁界の貴公子」なんて茶化されるくらいの奴だから、それなりに女性ファンもいる。以前、女流棋士の某さんが、塔矢に思いを寄せていると噂に聞いたこともある。
 ただその恋は、塔矢本人が気づく前に霧散したという。
 塔矢と、女流棋士某との対局で。
『だってあんまり怖くて』
 そう言っていたらしい。どこの誰か知らないけれど、バカな女。
『いくら対局中だっていっても、あんなふうに睨まれたら百年の恋も覚めるわ』
 バカな女。社交辞令言って微笑んでいるときより、石を置くこの視線の強さが、一番に綺麗な奴なのに。気づかないなんて…可哀想に。
 たとえば自分が哀願して、この一局白星を譲ってくれなんて泣いたとしても。
 こいつは冷たく勝つだろう。
 そうでなくっちゃ……自分の相手は務まらない。

 あなたは優しいけれど、私に優しいわけじゃない。
 犬にするように…………エサをやっていた、そんなことはない。
 思い出すのはイヌコロのような幽霊。
 佐為の言うように打って、機嫌を取ってやって、そうしたのはなぜだったろう。
 これは自分の体だと、お前はただの居候なんだと、四六時中責めることをしなかった。
 なぜ?
 そんなこと簡単だ。
 佐為を好きだった。

 最後の最後で優しくできなかった、その悔恨を一生背負う。
 同じことをもし塔矢がしたら、彼もきっと、同じように。
「…だから好きなんだ、ほんと」
「何が?」
「お前」
「………投了か、そうか、分かった、これ以上打っても無駄だな、よし、進藤、『負けました』は?」
「なんでそうなるんだよ。逆転するってば、オレ。見てろよっ」


 もう開けることのない思い出を、それならばと箱に入れたまま、壊してしまいたいと思わなかったか?
 かすかにも?
 一度もないと言うのは嘘だ。
 嘘だけれど、同じくらい強く愛しく思う。
 今、目の前に開く大きな宝箱と同じくらい強く。
 最後の最後の、本当に最後の日が、この自分に来るまでは。
 その日までは、ずっと。