春眠

 ぽかぽかと暖かいカーペットの上から、吸い込まれるような闇の世界へ一瞬で落ちた。塔矢が言う。「春眠暁を覚えずってのはキミのためにある言葉だね」。うつらうつら、身体があることを忘れた。夢を手探りする。矛盾を幾つも数えなかった。
 夢の中の「彼」の唇は冷たい。死人なのだから当然かと納得し、すぐに、ではなぜ触れられるのかと思い、またすぐに、これは塔矢なのだと思う。佐為かと思えば塔矢だった。塔矢だと頷こうと思えば佐為なのだった。
 夢精は、しばらく塔矢との対局がないときに、思い出したようにやってくる。碁を打つ、という以外の関わりについて、単に自分の想像力が貧困で、それ故に名前を与えられない思いが行き場を無くし、若い性と結びつき、そんな安易な形で具現化したに過ぎないのだきっと。
 夢の中黒髪の彼が自分の名を呼ぶ。聞き取れない。上の名前か下の名前か。自分を呼んでいることは分かる。
 辛くなる。だから唇を塞いでみた。思いがけない冷たさに震える。冷たい身体の奥深くに、少しでも生のぬくみを探るために口付けを重ねる。自分だけは知っている。この冷気は孤独の温度だ。
 舌を絡め取る。暖めてやろうと思う。暖めてやろう、オレが暖めてやる、オレがいる、オレが同じ場所に行くから———
 よく寝るんだねと塔矢が呆れて漏らした。なぜこいつがここにいるのか、ぼんやり考えた。石を置く音が時折聞えていたことに気づく。今何時か、間延びした声で尋ねると、その音は不意に荒くなった。
 告げられた時間から逆算して、眠っていたのは2時間半。途中で一度起きた気もする。夢だったろうか。塔矢が嫌味を言った。怒っていた。碁を打とうと家に招いたのだから当然だった。詫びを入れようとしてあくびが出た。カーペットの上で伸びをしても気持ちいいだけで頭は一向に冴えない。
 腕を目の上に乗せると揺れるような睡魔。まだ寝たりないのかと塔矢が言う。そんなに眠ってどうするんだい。
 人に会うんだと答えてからそれは違うなとうつらうつら。佐為が、明確に彼が、夢に現れたのはただ一度のことだった。人に会うために眠るんだけど。訂正しておく。けど来てくれないんだ。人に会わないために眠ってるのかな。
 ……………夢はキミのものだよ。塔矢が言った。
 塔矢の口を塞ぐ代わりに自分の耳を塞いだ。
 夢はすべて自分の中の完結した世界だ。
 そんな閉鎖された場所でも、せめて会えないかと眠りつづけても現れない。
 知ってるんだ。
 もう会えないことを、痛いくらいよく知っているから自分は夢ですら彼に会えない。
 目を開けると塔矢が顔を覗き込んでいた。今何時か尋ねると、先ほどから15分だけ進んだ時間を教えられた。春の陽が傾いて射していた。照らされた塔矢の顔に手を伸ばすと指先で唇に触れた。訝しげな表情が暖かく、その肌の温度は、「キミは寝ぼけてるな」と断言する声音の冷たさを、補ってなお余りがあった。
 20の年さえ数えない自分に、千の暁は地平線よりまだ遠かった。せめてまどろみを繰り返す。境界の定まらぬ春の眠りを、生きる人のぬくもりの中で怠惰に貪る。