陽の照りながら雨の降る

 誰かの囁き、小鳥の羽ばたきほどにも雨音は聞こえなかった。エアコンの室外機だけでいっぱいになる狭いベランダがガラス越しに見える。夕刻にしては黄色みの強い柔らかな日差しが、包むようにフローリングへ落ちている。空は薄く青い。雲はそれよりも薄く、まだらに浮くしかない。そんなふうに世界は暖かく照らされていたが、紛うことなく雨が滴る。
 アキラはぼんやりと眺めていた外から視線を返した。物の少ないワンルームのアパート。申し訳程度の安っぽい座布団では身体が辛くて、序盤から脚を崩していた。年季の入った碁盤の向こうにはこの部屋の主がおり、先刻よりもうずっと、長考している。何度か、碁笥に手をやって石を取りかけたが、その都度わずかに頭を振った。
 窓とは反対側に目をやる。マットごと二つ折りにされた布団が隅に積まれていた。生活の匂いがする。ヒカルがこの部屋で一人暮らしを初めてもうすぐ一年が経つが、アキラがここを訪れるのは初めてだ。せいぜい、彼と彼の友人らが大声で話す、日常の些細な会話から、間取りや家具の配置を推し量るくらいだった。
 もう一生招かれないかと思っていた。

 ヒカルは唇を噛んで眉を寄せていた。アキラはもう考えることを放棄していた。不意に喉の渇きを感じ、腰を上げた。
 お茶を入れさせてもらうよ。無表情な声で断りを入れ、炊事場に立った。見当をつけて茶葉を探すが見つからない。結局、冷蔵庫に入れられた烏龍茶のペットボトルから、二つのマグに茶を注いだ。
 両手に持って碁盤の前に戻った。一つを、ヒカルの前の床に直接置いた。ヒカルは浅く頷いたようにも見えた。盤面は変わらない。
 アキラは茶を勢いよく呷り、濡れた唇を手の甲で拭った。改めて見る形勢は随分と自分有利のようだった。まだ中央が少し残っているだろうか? 生きる道があるとすればそこだけだろう。だけどまるで未知の広原。ヒカルがまた、碁石を鳴らし、喉の奥で小さく唸った。
 アキラはまた狭い部屋に視線を巡らせた。焼き付けておこうと思った。もう一生招かれないかもしれないと心半ばで疑っていた。可愛らしいチェストが目に入る。背の低い藤製のチェストだ。それが彼の好みなのかどうかアキラには判じがたくあったが、何となく、部屋から浮いて見えた。自分の疑心がそう見せるのかもしれない。チェストの上の、伏せられた写真立てが、そんな連想を呼んだのかもしれない。
 ヒカルを見た。集中している彼は、今もし自分が立ち上がり、写真立てに手を伸ばしたとして気がつかないかもしれない。無意味だ。つい半月前、彼が、長らく付き合っていた幼馴染の女性と別れたことは知っていた。髪の長い可愛らしい、その女性のこともアキラはそれなりに知っていた。彼と彼の友人たちの、大声で交わされる些細な会話の断片から。
 ぬくもりに満ちた日の光が穏やかに射していた。夕焼けに染まる直前の、明るい光だった。どこへ行くとも分からぬ中央の余地を置き捨ててアキラは立ち上がった。ゆっくりとフローリングを歩み、ベランダへ続くガラスの前に立った。陽は照りつつも細かな雨が音無く降り注いでいた。
「ありません」
 背後からヒカルの静かな声が追いかけてきた。
 いくつかの数の碁石が、盤に散らされる音がした。振り向かずとも分かった。振り向かずとも。彼が近づいてくるのが分かった。
「雨?」
 初めて気づいたのだろう。ヒカルは驚いた声を上げた。すぐ近くで聞こえた。アキラはわずかに眩暈がした。今振り返ればまるで抱き合うくらいの距離にいる。

 丁度目の高さ、ガラスの上、大き目の水滴が生まれていた。今にも自重で滴り落ちるそれに、ガラス越し、触れられるわけでもないのに何となく手を伸ばした。
 背後から彼の腕が伸びるのと同時だった。

 何かを思う間もなく、掌が重なった。