ラバーソール

 …騙された。騙された。私はめいっぱい騙されている。
 黙々とフランス料理をたいらげていても、りえ子は慣れた素振りでその場の会話をリードする。小癪。おかしいと思ったのだ。あんなに念を押されなくたって、いくら私でもホテルディナーにジーパンスニーカーで来やしない。
「春によっちゃんのお式で着てたオレンジのワンピを着てきなさい。可愛かったから」
 …そんなおだて文句をほいほい真にうけて、走ることはおろかまともに歩くことさえ前提にない底の薄いパンプスで……のこのこやってきてしまった見合いの席へ。
 …しくじった。りえ子がそこまで父母と結託していたとは。
「そういう経緯で、あゆみは今も貧乏劇団の裏方なんです。しかも大道具。力持ちなんです」
 りえ子がオーバージェスチャーで頼んでもいない紹介をしてくれている。
「女ばっかの劇団なんですよ。似非宝塚で」
 つい半年前まではそこの主演女優だったりえ子も、今では和服を粋に着こなす小マダム。ああ、しゃくに障る。
「でもこちらのご職業もなかなか風変わり…いえ失礼、……ですから、きっと気が合います。ええ。あゆみ、塔矢さんのお仕事当ててご覧なさいよ」
 せっつかれて仕方なく顔をあげた。目が合うと、相手も似たり寄ったりな困惑顔で微笑んだ。…なるほど。少なくとも父母が勧めてくる厚顔無恥な医者や政治家の卵とは違うらしい。一度など、加賀友禅の胸元に注がれる視線があまりに不躾だったので、中座したこともある。
「ほら、あゆみ、当ててごらんって。…当たったら凄いけど」
 りえ子がほくそ笑む。…なんだろう。冷静に考えればかなり奇抜な髪形を、多少変わっている、と評したいくらいの品の良さ。姿勢がいいのは着物慣れしているからだろうか。お茶やお花…? いやいや…もっと…もっと、なんだろう、意志が強そう…というと、お茶やお花の先生がそうじゃないのかというみたいで…ええと…
「……分かりません。降参です」
 これでサラリーマンなら大笑いしてやろうと腹に決める。塔矢アキラは困ったように小首を傾げ、きしです、と答えた。
「…は、」
 咄嗟に騎士と変換され、さらにはナイトとルビまで打たれる。乙女ちっく路線が受けた、去年の春公演のせいだろう。
「囲碁の棋士です」
 重ねて説明され、やっと深くうなづいた。
「ああ…なるほど。………いかにもですね」
 囲碁はよく知らないが将棋の親戚みたいなものだろう。将棋なら小学校のとき部活に入っていた。そう言うと、塔矢アキラは「ああそうなんですか」と初めて嬉しそうに笑った。つられてにっこり笑おうとしたが、横に座るりえ子の声にしない喝采を感じて、中途半端な愛想笑いになってしまった。小癪!

 帰宅して靴を脱ぐと、見事にストッキングは伝染していた。友人知人は、一足三千円を一日で消耗するのはあんたの歩き方が悪い明らかに! と口を揃えて言う。なぜだ。戦後強くなったくせに。
 乱暴に脱ぎ捨てていると、携帯電話が素敵な和音で音楽を奏で始めた。りえ子だ。慌てて放り出していた鞄を拾い、いつもならここで中をひっくり返すところだが、なんとこの鞄はカードと携帯と薄っぺらなハンカチとリップしか入らないのだ。凄い。携帯はもちろんすぐに発見された。
「どうよ、良縁っ!?」
「裏切りもの!」
 カンマ五秒ほどのラグはあるものの、声は大体重なった。
「あんたんち朝日でしょ? 見なさい。朝刊。今なら毎日名前見れるから。あんた、囲碁のトッププロの年収知らないでしょ?」
「知りません知らなくていいです結構です。あのねそういう、あの人の財力があなたを幸せにしますキャンペーンみたいな口振りやめて」
「あらやだ即物的。財力だけとは言ってないって。トータルパワーよ。繰り返すけど良縁です」
「結構」
「選り好みできるのも今のうちなんだからね? 予言してあげるけど、その言葉五年後には後悔するよ」
「それ、予言じゃなく呪いなのでは?」
「ああ、来たがってる奴を結婚式に招待しなきゃ呪われるっていうのはスリーピングビューティーだね。安心して。私あなたのお式には別に行きたくないから」
「自分はスピーチまでさせたくせに!」
「当然でしょう。嫌がらせは念入りにするのがモットー」
 では今日のお膳立ても嫌がらせか。どうせ父母からS席のチケットでも貰ったに決まってる。ああなるほど、足の裏が痛くてかなわないのも嫌がらせの一環か。
「言っとくけど、私だけの意見じゃないんだからね? 選り好みできるのは今のうち。焦り出したら、まあとりたてて悪いとこがないならまあいいか、になるんだから! 特にあゆみお嬢様みたいなとこは、どうしても生理的に受け付けなくてヤれないとか以外はどうでもいいでしょうに」
 言外に、あの人とならできるでしょうと言われたのだ。それに恥じるほど子どもでもないが、さすがにそのあけすけさに腹が立つ。そう告げると、りえ子は明らかに聞かせるためにせせら笑った。
「ごめんあそばせ。こちとら所詮玉の輿の成金マダムでございますので、ついぽろりと地が…」
「一生、お連れあいに猫を見破られないように頑張ってね! 私はそんな生活結構です!」
「絶対あんたは今の言葉を五年後後悔するよ」
 …サタンよ退け。

 正式な見合いならお断りもできるが、そこまで形式ばっていないことがあだになった。まあ食事でも、まあ演奏会くらい…。当人たちの意思は置き去りに、周りだけが盛り上がるのもいささか奇妙でおかしかった。
 しかし一体塔矢アキラ自身はどういうつもりなのだろう。
 一刻でもハイヒールなんて殺人的なものを脱いでいたくてお座敷を選んだのだったが、お約束にストッキングの爪先がほころびていた。ええい根性なしのイタリアブランド、と内心悪態をつきつつそれを隠し、上品なお味に舌鼓を打ち、さらに向かいの青年の意中を計る…なかなかどうしてせわしない。
 数回会って分かったのが、彼が仕事という枠を軽やかに飛び越え、囲碁を愛してやまないということだった。…好ましい。惚れた腫れたなど違う世界にあるようで、なるほどこういう人となら、たとえ互いに無関心であったとしても、結婚が可能かもしれない。一歩進んで、気の合う友人関係を築きながらも、結婚生活が営めるかもしれない。それは、オイシイ。フェロモン垂れ流し男よりよほど誘惑的だ。
 自分に囲碁の基礎を教えることに夢中になって、手の込んだ川魚の焼き物に手をつけることを忘れている、彼。
「今度九路盤をお持ちしますよ。やはり実際打ってみないと」
「そうですね。すみません、わざわざ私なんかに」
「いいえ。碁に興味を持つ方が一人でも増えてくれれば僕も嬉しいです」
 ………八十パーセント、確信。塔矢アキラは何も考えていない。囲碁という唯一の例外を除き。
 ああ、確かに良縁だ。悔しい。
 囲碁と将棋の話を交え、時間をかけて食事を済ませた。爪先には気付かれなかった。塔矢アキラは車を持っていないので、電車で送ってくれる。座敷で休めたはずなのだが、地下鉄の階段の昇降に足の裏が痛くなってきた。こんな薄い靴底で、衝撃が吸収できるわけない。馬鹿にしている。
 いきおい歩みは遅くなり、塔矢アキラはそれに合わせたオンナノコ速度で進む。そして地下通路を出、次の関門である陸橋を目の前にしたときだった。
「進藤!!」
 突如耳を突いた叫び声は、明らかに横の青年から発せられたものだったが、にわかには信じられなかった。周囲の人々の視線が集中することで認めざるを得なくなる。
「進藤、待て! なんだ昨日の百三十一手目は!! 待て! 進藤!!」
 ……他人のふりをしようと思う間もなく、塔矢アキラは駆け出した。全力疾走。そして向かいの歩道の五十メートルほど先を、同じように走る背中が見える。大きな背中だ。そして金髪。
「とぉやさん…っ」
 自分の情けない声にはっとして、慌てて後を追おうとした。だって、なんだ、待てはあんただ。そんな声が出せるなら、いつもきちんと腹式呼吸しろよ。舐めんな。
「うぎゃぁっ!」
 走り出して数歩で、なんとも下品な声を上げてしまった。七センチヒールが、普段なら気付きもしない道路の窪みにひっかかってバランスが崩れたのだった。
 近くを歩いていた男子高校生が、ぎょっとして凝視してくるのを、長年鍛えられた賜物のお嬢笑顔でごまかした。な、なんちゅう恥ずかしいカップル…。カップル? ああ、もう後ろ姿さえ見えん……

 数日後、ぱったり音沙汰無くなった塔矢アキラと、進藤ヒカルなる人物が、並んで写った写真を見た。彼とお付き合いさせて頂くようになってから、買うようになった囲碁雑誌だ。
 縫製の美しさまで伝わるようなスーツに、革靴を履いた塔矢アキラ。対照的に、擦り切れそうなジーンズと、ナイキの最新モデル。……走りやすそうで、大変結構。
 さらに数日後、劇団の公演に塔矢アキラが姿を見せた。私は上演後のロビーで黒い長袖長ズボン、そして当然スニーカーで彼と会った。
 先日の非礼を詫びつつも、真心はさして伝わらない。無関心と無神経が、腹立ちを通り越して痛快だった。
 結論。塔矢アキラは九十パーセント何も考えていない。…二つばかりの例外を除き。梅の実落ちても見もしまい。
「あの人は既婚者みたいなものじゃない。結婚する方が不倫に思える」
 りえ子にはそう告げた。足を締め付けない靴で、調子に乗って溝を飛び越えた。
「…もったいないお化けが出るよ」
 りえ子はしかめ面をして、苛立たしげに踵を地面に打ち付けた。そんなピンヒールでは私は歩けない。私は、彼のように、誰かを地の果てまででも追い詰めたい。あんなふうに、誰の目も気にせず名前を叫びたい。
「りえ子」
「なあに、恩知らず」
 近付いて軽くキスをしたら、りえ子は怯えた顔で後ずさった。
「やめなさい。人妻に。不倫でしょ」
「知り合いの弁護士に離婚調停の費用でも見積もってもらおうか?」
 見事に顔を引きつらせ、彼女は芝居がかったしぐさで十字を切った。
「サタンよ退け」


 その後様々なメディアで彼の名や姿を見掛ける。うん、せめてああいう男物の革靴にすればよいのだと、その度に私は愛すべく思う。

 進藤!!

 真っ直ぐに。
 走り出せばいい。道は私の後ろにできる。

 恐れずに。
 今、駆け出せラヴァーズ・ソウル。