君のいない道 僕のいない場所

 そのとき何も言うことがなくなったんだ。
 違うところ見て、わずかに微笑んでいるあいつの横顔に、言葉は消えてただ冬だけがそこにあったんだ。
 鏡がなくても、今、自分さえ笑えていることが分かって。
 何も、言うことなんて何も、何の言葉さえ消えていたんだ。


「俺あの子がよかったなぁ。小宮の隣にいたピンクのワンピの子ー」
 日曜日午前中の囲碁イベントの控え室。若い棋士の売りは親しみやすさということで、ラフな格好が許可されていた。ジーンズの足を組みなおし、和谷と昨夜のコンパの話をしていた。
「和谷あーゆのがいいの? でもあの子完璧小宮狙いだったじゃん。携帯番号聞いてたぜ?」
「うわまじ? あー…番号聞いたら教えてくれっかな小宮…。教えてないオトコからメール来たらひんしゅく?」
「そんなに気に入ったなら聞いとけば?」
「そういうお前はどうよ? アヤコちゃんだっけ? 髪長い子。いい感じだったろ?」
「んー…俺はあんまり…」
「なんだよつまんねーなぁ。他に気に入った女の子いねーのか?」
「うーん…どっちかっつーと幹事の子よかったなぁ…」
「…あ? どれ?」
「だから、端に座ってた…セミロングの…」
「あー。なんだ進藤ああいう気の強そうなのが好みなのか?」
「…胸でかかったぞ?」
「チェックしてんじゃん。でも俺はちょっとなぁ…なんかなぁ…だってあれ…」
「なんだよー」
「女版塔矢アキラって感じしね?」
「ぶっ」
「うわっ、きたね」
「変なことゆーなよー…俺やだよ、塔矢とそんなん」
「…俺だって想像したくねーよ」
「塔矢とはそんなんじゃねぇんだからさぁ…」
「だから聞き流せっての! そんでどーすんだよアヤコちゃんは!」
「だから俺は別にー…」

 そろそろ時間かと控え室を出て行ったら、塔矢が外交用の笑顔で多面打ちをしていた。Vネックのセーターの上からジャケットを着ていた。パーカーにジーンズのこちらとは大違い。といってこれは単に普段からのテイストの違いだろうが。
 予定表を眺めると、この後は塔矢も予約者との指導碁だった。同じ時間だから一緒に帰れるかな、と思う。でも、和谷が、公開対局の時計係をしに舞台に行くのに、塔矢の後ろを通りながらにやっと笑ってこっちを見た。なんとなくそれが嫌な感じだったから、やっぱり子供みたいに一緒に帰るのなんかやめようと思った。俺と塔矢は近くなくていい。いつもある程度の距離を置いていたい。馴れ合いじゃなく。
 碁盤一つ間に挟めるくらいの距離。
 会場は空調が効いているようではなかったけれど、人の熱気でそれほど寒くなかった。風が吹き抜けると冷えるけれど、なんとなく生暖かい。不快ではなく、人肌で。
 指導碁のスペースに落ち着いたとき、控え室に置いてくるのを忘れた携帯電話が鳴って、慌ててマナーモードに切り替えた。見るとメールで、昨日のアヤコちゃんからだった。アドレスを教えた覚えはないのだけど。
 可愛い文体で、また今度二人で会えないかと書いてあった。
 和谷にはああ言ったものの、悪い気はしない。にやついているとお客さんがやってきて、胡散臭そうな顔で見られてしまった。いけない。仕事仕事。
 そんなふうにはじめは少しこけたけれど、3面打ちは意外に楽しかった。お客さんの一人が結構出来る人で、無謀なくらい打ち込んでくれるのが小気味よかった。塔矢みたいだ。なんだか微笑ましかった。
 検討を終えて顔を上げると、隣のスペースにいる塔矢本人がふと目に入った。
 塔矢の指導碁の相手は、一人が小さな男の子で、いっぱしに何かまくし立てている。やんわりと微笑んで受け答えしている塔矢は、当然こっちの視線なんかに気づいていない。
 そのとき何も言うことがなくなった。
 違うところ見て、わずかに微笑んでいるあいつの横顔に、言葉は消えてただ冬だけがそこにあった。
 塔矢は「そんな」じゃないんだ。そう思っていた。弱いところとかいやらしいところとか、そんなものを向ける相手じゃない。だって、ほら、俺たちはお互いのいない場所で笑えるんだ。そっちの方がずっと愛しげに笑えるんだ。人は一人で、そんなこと当たり前すぎていまさら何の感慨もなくて、だって佐為の消えたときから孤独ほど寄り添うものはなかった。一人でいい。あえて二人でいようとは思わない。思うとしたらそれは碁に関わるところでしかない。碁は一人では打てないから。単純明快。それ以上の何も求める必要なんてない。あいつと二人、曖昧な優しさに寄り添って生きようとは思わない。…そう、思っていたのに。

 控え室でしばらく待っていると塔矢も戻ってきた。自分を見て少し笑った。
「なぁ、一緒に帰ろうぜ」
 唇から転がり落ちるように言葉が出た。返していないメールをさっき間違えて削除してしまったこととか、話しながら会場を出た。外はさすがに寒かった。


 互いがいなくても笑えるんだ。二人でいたって寒いものは寒い。当然過ぎることを繰り返して勝手に寂しがる今も、より強く抱く思いは一つだった。
 互いがいなくても笑えるんだ。ただ。

 ただあいつのいない道には意味がないよ。