Rain

 細かな雨が音なく、わずかずつ位相をずらしながら、家々を、そして道路を濡らしていく。
 静か過ぎて油断をしたのだ。
 ディパックの中の折り畳み傘を、手で探ることもせず外へ飛び出し、思いがけない雨の冷たさに驚いた。
 わけもなく意地になり、そのまま駆け出そうとしたとき、傘が差し出された。
「…何をやってるんだ、キミは。大事な一局の前に風邪を引く気か?」
 棋院から出てきた塔矢アキラが、ポーカーフェイスで大きな雨傘の柄を握っていた。
「傘の一本や二本買って帰れ。誰かに借りることも出来るだろう?」
 人の方に傘を傾けているので、塔矢の身体は半分以上雨の下にあった。
「…お前こそ。自分が風邪引くぞ」
 塔矢の肩が濡れて、髪が水を吸った。
「オレ、車までだから」
「……それなら、そこまで送ろう」
「……それなら、一緒に乗ってけ」
 傘の柄を奪った。自分の方が背が高いのだ、今は。
 本当は自分も一本持っているのだと、言う気はしなかった。塔矢が傘を奪い返そうとするのを、更に上へ持ち上げて逃げた。
 からかわれていると思ってか、塔矢はそっぽを向きながら歩いた。
「乗れよ」 傘をたたんで、それを座席の横に放り込む。
「キミなんかに送ってもらわなくてもいい」
「傘の礼だよ。借りは返させろって」
 半ば無理矢理助手席に座らせた。掴んだ肩はまだ乾いていなかった。指がかすめた髪も湿ったままだった。
 自分は車の外から体を折って、さっと、彼の冷えた唇を奪った。

 ——静か過ぎたから、油断をしていたのだった。
 まさかお前が出てくるとは思わなかったんだ。
 オレは一人で雨に打たれていたかったんだ——

「…ここをどこだと思ってる?」
「お前が悪いんだよ。自分に勝ったばっかの奴を追ってくるから」
「挑戦者になったくらいでうぬぼれるな。キミなんて、緒方さんにこてんぱんにやられてしまえ」
「オレは負けない」

 ジーンズの裾が少しずつ重くなるのに、雨に濡れながらも断言するのだ、この自分が。
 上り詰めた先にある、あまりに厳然な冷徹さについて、先刻まで怯えていたこの自分が。

「塔矢アキラに勝ったんだから、誰に負けるわけにもいかないだろう?」
 うすっぺらい肩から、細い首の後ろへ手を這わす。
 うなじをくすぐるように指を動かすと、塔矢はゆっくり身体を持ち上げ、両腕を伸ばしてきた。首を抱かれた。
 雨が背中を濡らす。塔矢の身体を車の外に導くように、また内側へと彼に導かれるように、自分たちはいつも、無慈悲に分かたれてはまた一つの傘を分かつ。
 まぶたを下ろす速度は同じくらいで、再度交わす口付けは互いに貪欲だった。
 唇が離れても腕はほどけず、髪の毛に隠されていた彼の耳に息と、そして言葉を落して入れた。

 「オレは勝つよ、塔矢」