溶ける絵画

 これは酷いポスターだ、と立ち止まった。棋院二階、エスカレーター横だ。B2サイズのカラーポスターには、塔矢アキラの立ち姿と、日本棋院会館にて行われる囲碁教室の案内が印刷されている。あまりいい業者を使わなかったのかもしれない。レイアウトは無愛想で、まるでご町内の回覧板のようだった。そして何より、アキラの顔が、怖い。
 「初心者にも丁寧に指導」という文句があまりにそぐわない。基本的に彼は、TPOをわきまえて愛想笑いすることくらい、習性になるほどお手の物のはず。一体どんなバッドタイミングで撮影したのやら。
 碁を覚えたての初心者なら、何も言われないうちから謝ってしまいそうな眼光。呆れて眺めていると、階段の踊り場から進藤ヒカルがやってきた。
「あ、緒方先生いたいた。発見。二階とは思わなかった」
「何か用か?」
「あー…そのポスター、酷いよね。てか笑える。その仕事、俺と碁会所で打ってて遅刻しそうになってたときだよ」
「お前が元凶か…」
 納得。まあ予想できないこともなかった。アキラが仕事に私情を持ち込むのは、大概が進藤ヒカル絡みだ。
「前途有望な初心者が碁に親しむ機会を潰したな」
「それよりさぁ、日曜のこと、連絡行ってないでしょ。時間メモってよ」
 ヒカルは携帯電話を取り出して、その中に記憶させているらしい場所と時間を読み上げた。
「まだ行くとは言っとらんが」
「またまた。緒方先生来なきゃかっこつきませんってば。じゃ、日曜に待ってますからー」
 ヒカルはダウンジャケットのポケットに携帯電話を突っ込んで手を振った。会話の間にエレベーターが到着したが、誰も乗せずにまた扉を閉じた。緒方が再度ボタンを押すに構わず、ヒカルは階段を下りようと去っていく。そこでふと立ち止まり振り返った。
「あ、そだ。そのポスターに変えてから、若い女の人の問い合わせが多いんだって。みんな物好きだね」

 緒方が塔矢行洋の弟子になったのはアキラが生まれるより前のことだった。アキラの誕生からも数年間、弟子の中で最年少は緒方で、幼児のアキラと一緒くたに子ども扱いされることが多かった。どんな大雑把な括りかと今ならば憤慨もできる。
 塔矢行洋は、遅くに生まれた子どもを溺愛してはいたが、何分多忙を極め、留守がちだった。アキラの初めての寝返りも、掴まり立ちも、最初に目撃したのは緒方だ。アキラを連れて近所を散歩していると、いかにも、「まあお若いお父さん」という笑顔を向けられる。せめて口にされれば誤解を解くことも出来るが、言われてもいないことを否定できない。おぼつかない足取りの子どもが道路をよたりよたりと歩き、そのうち碁を打ちたがってぐずり始める。ベビーシッターの修行を乞うているわけではないはずだが…と心でぼやきながらも、それなりに、可愛かった。

 日曜日。好天に恵まれたが放射冷却で底冷えする。にも関わらず、早朝から都内河川敷のグラウンドには続々とメンバーが終結した。
「緒方監督、全員集まりました!」
 白と黒を基調にしたお揃いのユニフォームに身を包み、ベンチに座る緒方の前に一同が整列した。
「全員? 本田はどうした」
「腹痛で休みです」
「あいつ、許さん」
「代わりに越智引っ張ってきました」
「そんなキノコ戦力になるのか」
「元リトルリーグの投手です」
「よくやった、進藤、本田」
「本田さんはいませんって」
 ヒカルの後ろで、一人だけ異なるジャージを着用した越智康介が、非常に胡乱な目つきで「どうして僕が…」と呟いていた。
 プレイボール。緒方率いる市ヶ谷パイレーツと、宿敵・将棋連合との戦いの火蓋が切って落とされる。試合も中盤に差し掛かった頃、ベンチで腕組みをする緒方の背後に長身の人影が現れた。
「どっちが勝ってるんですか?」
「…何しに来たんだアキラくん」
「そりゃあ、年甲斐もなく張り切る緒方さんを笑………いえ、応援しに来たに決まってるじゃないですか」
 塔矢アキラは、寒がりらしくウールのロングコートを厚く着込んでいた。
「若いんだから選手になればいいだろう。越智を見ろ。さっきから大活躍だぞ」
「団体競技は嫌いです」
 三振した進藤ヒカルがバッターボックスから戻ってくると、アキラを見て嫌そうに顔をしかめた。
「何しに来たんだよ、お前」
「応援」
「二十六連勝、記録更新中の塔矢さまに応援されて、嫌味に思わない奴はいねぇっての」
「嫌味?」
「『君たち、こんなところで玉遊びしてないで、囲碁の勉強をしたらどうだい』、とね」
「驚いた。たいした卑屈っぷりだな」
「そんだけお前が嫌われてるって喩えだよ」
 際限のないやりあいは、寒空に響く打球の音と歓声にかき消された。
「和谷、走れ、走れっ!」
「回れ、いけるいけるっ!」
 市ヶ谷パイレーツ起死回生の満塁ホームラン。総立ちで和谷の活躍を讃える囲碁棋士らの中で、塔矢アキラは一人平然と、白い息を掌に吹きかけていた。
「緒方さん、今のは何がどうなったんですか?」
「アキラくんはもう黙ってなさい」

 試合終了。結果は市ヶ谷パイレーツの勝利。選手らは、昼から応援にかけつけた女流らと共に打ち上げの相談をしている。緒方は道具一式を一度持ち帰るために、堤防上に駐車した白のワゴンへと向かった。試合があるときにだけ、塔矢門下の別の棋士に借りるファミリー向けのワゴンだ。すると、その車の向こう側に誰かいる。そういえば、進藤ヒカルが車の陰で着替えるといって姿を消していた。緒方は何気なく、回り込んだ。
 ジーンズにダウンジャケットを着た進藤ヒカルだ。そして塔矢アキラもいた。さらには二人は、キスしていた。
 目を疑った。何かの見間違いかと思った。しかし今更そんな都合のいい見間違いもなく、二人は明らかに、緒方のよく知った棋士であり、またその唇は浅からず触れあっていた。
 緒方は咄嗟にワゴンの反対側に身を隠した。すぐに、大いなる後悔の念を襲われながら、何気ない風を装ってその場を離れた。歩きながら、煙草を銜えようとして一本落とした。舌打ちをしてもう一本取り出そうとし、また落とした。くそ、と口の中で呟く。なんていうものを見てしまったのだろう。しまった。本当にしまった。見るんじゃなかった。見たくなかった。当たり前だ。信じられない。
 その日の試合、勝利が決まった瞬間より、心臓はばくばくと体中を駆け抜ける。そしてなぜか、半年ほど前に塔矢家で出くわした光景がフラッシュバックした。

 塔矢夫妻が帰国していると聞き、挨拶に訪問した日のことだ。アキラやその母親ではなく、なぜか塔矢行洋その人が鍵を開けてくれ、居間へ通された。そこには冷え切った空気が先客としてどっしりと腰を下ろしていた。
「いらっしゃい、緒方さん」
 母と息子のユニゾン。同じように朗らかな笑顔と、同じように朗らかな声音が異様に怖い。挨拶だけ済ませると、塔矢明子はすぐにアキラへと話の続きを開始した。
「アキラさん、そうは言うけど、棋士として大成したいならお嫁さんは必須よ。今は良くても勝てなくなるわよ。緒方さんを見れば分かるでしょう」
 思わず座布団の上で滑りそうになった。緒方はここ数ヶ月めっきり黒星続きなのだが、しかしデリカシーのかけらもない。この女、なんてことを言うのだ。そして塔矢アキラは、これまた憎たらしいことに、さっと視線をこちらに流した。
「そうですね。では、勝てなくなってから考えます」
 にっこりと母親へ微笑む。見えない火花が親子の間を散った。アキラが明子へ敬語を使うのは嫌味でしかない。「じゃあ、そろそろ碁の勉強があるから」
 そう言って、冷たい風が吹き抜ける居間を出ていく。明子は笑顔を貼り付けたままで、ゆっくりと呼んだ。
「緒方さん」
「…はい」
「いい加減あの子の連勝を止めてやっていただけないかしら?」
 棋士の親の台詞だろうか。緒方はため息をつき、先ほどから一言も発さない塔矢行洋と視線を交わした。
「…アキラくんは、お母さん似でいらっしゃる」
「うむ…」
 座卓の上に置き去りにされ、おそらくはアキラが一瞥もくれなかった見合写真を緒方は何気なく取り上げてみた。アキラの対処は賢明だ。まぁ写真を見るだけでも、は、見たら即座に、まぁ一度会うだけでも、に変わる。二つ折りの上品な台紙を開いた。振袖の女性が控えめな微笑を湛えていた。美人ではあるが、アキラの結婚相手候補にしては些かとうが立ちすぎている。
「アキラくんに見合いですか…もうそんな年なんですねぇ」
「早すぎる」
 塔矢行洋は憮然と湯のみから茶を啜った。
「早すぎることなんかないわよ」 明子が初めて笑顔を崩し、頭を振った。
「もう。あなたったら鈍感なんだから。あの子にはね、取り返しがつかなくなる前に、さっさと家庭を持たさないと、駄目なの」

 さて。大きすぎる混乱と困惑を無理やりに押しのけたとき、兄弟子として、大人として、良識ある先輩棋士として、二人共をよく知る共通の知人として、やはりここは忠告をし、説得をするべきであろうかと緒方は考えた。
 まずは進藤ヒカルから攻めるべきであろう。しかし連絡先が分からなかった。試合の時間を聞いたあのときに、メールアドレスくらい交換しておくべきだった。
 しかし相手は同じ狭い世界の住人なのだ。棋院のどこかで捕まるだろうと思って構えていると、一つ判明したことがある。進藤ヒカルは最近、妙なくらい塔矢アキラと行動を共にしている。
 決定的瞬間を目にしてさえいなければ、気づくことはなかっただろう。それくらい二人は自然に、いかにも仲悪そうに、同い年のライバルの距離で連れ立っていた。
 やっとのことで、ヒカルが一人になったタイミングを見計らい、声をかけた。
「進藤、ちょっといいか?」
 ヒカルは驚いて振り返り、「俺今から飯なんですけど」と腹を押さえて見せた。
「奢ってやる」
「らっきー!」
「どうせいつものラーメンでいいんだろう」
「うん」
 最近肉付きよくなってきた頬でにこにこと笑ってついてくる。どう贔屓目に見ても、美形とは言えないし、当然女っぽくもない。二人が元々ゲイで恋に落ちたとか、まさか。まさか。
 ヒカル行きつけの中華料理屋で、いつものカウンターではなく奥のテーブル席に座った。遠慮なくサイドメニューまで注文し、ヒカルは改めて「ごちになりまっす」と頭を下げた。
 チャーシューメンに餃子、鶏の唐揚、麻婆豆腐までをたいらげ、ヒカルは最後に水を飲み干した。
「よく食べるな」
「育ち盛りですから」
「嘘付け。もう横に伸びるしかないだろう、お前」
 緒方は大きな水差しから、グラスに水を足してやった。
「あ、どうも。…デザートもいいですか」
「勝手にしろ」
 杏仁豆腐だかマンゴープリンだかが着いてから、緒方は煙草を取り出した。「さて、話がある」
「怖い」
「それだけ食べておいて今更何が怖い」
「見ちゃったんでしょ」
「…知ってたか」
「俺じゃなく塔矢が気づいてさ、しばらく二人して覚悟決める間、共同戦線張って逃げ回ってたんだ」
「覚悟、な」
「…秘密にしてください。お願いします。特に塔矢先生たちには言わないでください」
「言えるわけないだろう。お前らはガキだからな、ライバルとの関係を錯覚するのは分からんでもない。だがな、」
 進藤ヒカルは意外にも神妙に聞いていた。その神妙さを逆に気味悪く思いながら、緒方は一般的な説得に当たった。
「碁のことを考えろ。俺が口外せんでも、いずれどこかから漏れたら、一斉にネタだぞ。普通にしててもうるさい外野なのに、そうなったらお前ら囲碁に集中できるか?」
 ヒカルは少し笑った。「親が泣くとか言わないんだ」
「俺も日ごろの行いが悪いからな」
 店の自動ドアが音立てて開いた。何気なく目をやり、緒方はぎょっとした。アキラが入ってきた。
「おい、進藤」
「言ってないよ、俺」
 しまった、やはり行きつけの店というのが悪かったか。作戦の失敗に内心うろたえていると、アキラは店主の「らっしゃい」を無視し、一直線に二人のテーブルへと近づいてきた。
「僕がいないところで何の密談ですか。緒方さん、水臭い」
「…最初に水臭い隠し事をしているのはそっちだろう」
「僕なりに、もうお若くない緒方さんの心臓に配慮した結果だったんですが。この海より深い思いやりを分かっていただけないとは悲しいですね」
 しゃあしゃあと。明るい声を出しつつも、アキラは目が据わっている。「で、何の密約でしょうか?」
「別れろ」
 回りくどく言うつもりだったのに、そのものずばりの言葉が引き出された。
「どう考えても、いい結果にはならん」
「勝ててるんだからいいでしょう」
 アキラが声を荒げた。「僕は絶好調ですよ。緒方さんだって強い相手がいた方が打ち甲斐があっていいでしょう? 国際戦だって日本が勝てば盛り上がる。いいやそんなことどうだっていい。誰に何と言われようと、僕はいい碁が打てればそれでいいんだ。プライベートがどうあろうと、それで勝ててるんだから問題ない」
「長い目で見ろ。いずれ、碁にだって悪影響だ」
「どうしてあなたに断言できるんですか」
「亀の甲より年の功だよ、アキラくん」
 一人分のグラスとお絞りを持ってきた店員が、席にもつかないアキラの斜め後ろで困っていた。
「二十六連勝中ですよ、僕は」
「じゃあ負けたら別れるか?」
 酷いタイミングで、店員が「あの、お客様、」とアキラに声をかけた。アキラは激しく振り返り、「結構です」と言い放った。かわいそうに。
「…そんなの、負けてから考えます。勝てなくなったら、考えます」
 アキラは向き直り、緒方と、ついでにヒカルも睨みつけてから店を出て行った。ヒカルは呆れた様子で頭を振った。店員がそそくさと厨房に戻っていった。
「…俺はほんとはさぁ、関係ないと思うんだよね。誰とつきあってようと、勝つときは勝つし負けるときは負けるよ。でもあいつバカだから、多分本当に、負けたら俺と別れるだろうね」
 緒方は苛苛と煙草の煙を吐いた。
「なんだそれは。手合で当たるたびに別れるのか? その程度の気持ちでつきあってるなら、」
「その程度?」
 ヒカルは、思わずといった具合に大声を上げた。
「緒方先生、何言ってんの? あの塔矢アキラが、負けるまで別れないって言ってるんだよ?」
 緒方はヒカルの顔を見た。ヒカルは怒りを誤魔化すように微笑んだ。
「まあ、でも…大丈夫だよ、きっと。連勝なんか永遠続かない。来週、あいつ俺と当たるよ。その次は緒方先生でしょう? 二十六連勝の後の二連敗はこたえるよ。悔しがるだろうね。あーあ、早くあいつをこってんぱんにぶっ潰してやりたい」
「…一体お前らはどういう関係なんだ」
「秘密」
「嘆かわしい。まったく」
 緒方の脳裏を、かわいかった「アキラくん」の思い出が駆け抜けた。彼がプロ入りするまで、ずっと兄のように面倒を見てきたのだ。それがいつのまに、こんな得体の知れないカップルの片割れになった。オムツを代えたことだってある。四回ほどだが。そう愚痴を零すと、ヒカルは複雑な表情でまぜっかえした
「…緒方先生、ホモに下ネタ振らないでよね」
 今度は緒方が、どう答えるべきか判断つかずに沈黙した。

 アキラと初めて碁盤を挟み向かい合ったのは、彼がまだ三歳のときのことだ。当然緒方には遊びでしかなかった。それからたくさん、碁を打ってきた。非常に記憶に残る一局がある。アキラが小学三年生のとき、碁会所で打った一局。
 もちろん置き碁ではあったが、初めてアキラに負けたのだ。どんな遊びの一局でも、塔矢行洋に倣い、手を抜いて勝たせるということは絶対にしなかった。二子置きだった。254手完黒中押し勝ち。碁を打っていれば何回でも口にするはずの、「負けました」という言葉がなかなか出ずに、苦労した。相手はまだ八歳の子どもだった。その一局で負けたこと自体が、ショックだったというわけではない。赤ん坊の頃から面倒を見てきた目の前のこの子ども、この子どもが、いずれは自分を脅かすほどの力を持った、碁打ちになるだろう、という予感。
 抱いてあやしたことも数知れない、碁盤に頭を打ち付けては泣き、そのたびに高い高いでご機嫌を取り、近頃は外で父子と間違えられるたび、「こんなあやしげな父親、嫌です」と天使の笑みを浮かべる塔矢アキラが、いずれは。

 翌週の進藤ヒカルとの対局で、アキラは負けた。連勝記録は二十六でストップ。対局後の塔矢アキラの一言は語り草になった。「こんな碁で勝ったと思うなよ…!」「勝ったじゃん」
 別れたかどうか確認する術もないまま、緒方とアキラの対局日がやってきた。勝つも負けるも実力次第であるのはもちろんだが、微妙なところだ。緒方が勝つとする。もし二人が破局を迎えていれば、「別れたから負けた」が成り立つ。続いていれば、「つきあっているから負けた」になるか? 馬鹿馬鹿しい。結局は考え方だ。
 アキラにとって、碁が最優先事項であるというのは確からしい。その大前提すら崩れてしまった場合、緒方にはもうアキラは未知の人間となる。
「あなたのおかげで…」 対局前の時間、アキラは無表情に話しかけてきた。「僕は知らないうちに恋のキューピッド扱いされてるみたいですよ」
「ほお」
「今日緒方さんが負けた場合、あの方とつきあっているからだとか言う人はいないでしょうけどね」
 同じようなことを考えていたらしい。緒方は微苦笑した。アキラへ持ち込まれた見合い写真の女性と、何の因果か緒方は今交際していた。
「結婚なさるんですか?」
「そんなことはまだ分からんさ」
 答えながら、おや、と思った。質問を投げるアキラの声音には幼い響きがあった。大昔によく聞いたイントネーションだ。たとえば、そう。「緒方さん、今日は僕と打ってくれるって約束したのに。お父さんずるい。緒方さんひどい」。
 ああ、この子は俺が四回オムツを代えた塔矢アキラだ。
 般若の形相で棋院のポスターの被写体になろうと。
 理解できない、咄嗟には拒否反応しか出ない体の欲を抱えていようと。
 その日の一戦は、緒方の三目半勝ちに終わった。いつのまにか横で見ていた進藤ヒカルが、恐れ知らずにも「どれが悪手だったと思う?」とアキラに問いかけた。随分と前のめりの姿勢で猫背になって、ワインレッドのネクタイを左肩にかけたままだったアキラは、すると緒方の石を指差して言うのだ。「僕の地に入ってきたこの石が悪い」
 …また、塔矢アキラ名言集に収められそうな一言だった。

 しばらくして、二人が別れたとヒカルから聞いた。
「今度は連敗が続いたらより戻すかもねー」
 軽く言う。一体お前らは何なんだ。ある意味でいまどきの若者なのか。一時帰国中の塔矢夫人との見合攻防は続行中らしい。そして棋院のポスターは季節と共に張り替えられた。春の陽射しに、優しく穏やかな微笑を浮かべる塔矢アキラが石を構えている。「一緒に囲碁を楽しもう! 初心者・子ども大歓迎!」
 いかにも見慣れた営業スマイルだった。そしてこっそり思うことには、緒方は前の、到底人が集まりそうにない酷いポスターの方が好きだった。苛烈な眼差しに名もない色が見える。まったく、みんな物好きなことだ。