I'll be the one

 今年は…確か去年もだったような気もするけれど…とにかく今年は連休だ。
 天皇誕生日が日曜日で、振替休日でクリスマスイブも休み。だから終業式もうんと早かった。ラッキーだ。
 別に何の予定もないけれど、退屈な授業がないことはありがたい。ずっと碁を打っていた。するとあかりが夕方やって来た。
 一緒にケーキを買いに行こうと言う。そんなもん、明日になったら安くなるだろうにと思うが、にこにこと不気味なくらい機嫌のいいかーさんに半ば追い出される形で町へ出た。
 イブの日に。女と二人って、クラスの奴にでも目撃されたら鬱陶しい。ぶつぶつ文句を言っていたら、いつも通りあかりは、「じゃあもういいよ、ヒカルのバカっ」とかデパートの中に駆け込んでいった。仕方ないので、電飾で重そうなクリスマスツリーの下で待つ。帰ってもいいのだけれど。
『アンタの体の心配だけしてるわ。』
 の、はずじゃなかったのかと思う。
『あ、ごめん。碁の勉強してたの? すっごい、ヒカル、怖い顔』
 右手が自然に、背負った鞄のサイドポケットに伸びたけれど、やめた。
 夏ならともかく、息が白くなる12月の町並みに、扇子はかなり不相応で。
 あかりが来る前並べていた棋譜を、もう一度頭の中で並べ返してみる。
 最近自分はかなり勉強熱心だ。
 あかりが大きなケーキの箱を二つ、袋に下げて戻ってきた。
「一つ持ってよ、ヒカルんちのなんだから」
 こういう奴だ。
「福引の券もらったから引きにいこ。こっちこっち」
 最近少し落ち着いてきたと思っていたのだけど、やはり小学生の頃と変わっていない。
「げー、この行列に並ぶのか?」
「もっちろん」
 嬉々として最後尾に並ぶ。
「お前だけ並んでろよ」
「券二枚あるから、一枚ヒカルに引かせたげるよ」
「いらねーよ。こんなとこに女と二人でいるの見られたら笑いモンだぜ」
「みんな今ごろ受験勉強してるから大丈夫だよ」
「…お前だって受験生だろーが。いいのかよ、こんな暇なことしてて」
「いいんだよーだ。…ヒカルはやっぱり高校行かないの?」
「オレは…」
 じりじりと前に進む列の中で、答えかけたとき、少し離れたところから涼しげな声がした。
「進藤?」
 あかりがすぐに顔を向け、嬉しそうに答えた。「あ、塔矢君」 分かりきったことを。
 遅れて自分も目をやる。コートにマフラー。一見女の子にも見える。
「お前こんなとこで何してんの?」
 クリスマスの喧騒の中に、塔矢アキラは一人無関係に佇んでいた。
「ヒカルそんな言い方ないじゃない」
「碁会所の帰り?」
 時間から考えてそう尋ねた。
「違うよ。母に買い物を頼まれて」
「ふーん。似合わねぇの」
「ヒカルー」
「碁会所どうよ。相変わらず行ってんだろ?」
「………そうだね、毎日ね」
 自分はあれから行っていない。四ヶ月来ないと宣言して以来。やっぱり駄目なんだ、こいつと肩を並べて仲好くお勉強、なんて。
 そんなことしたいわけじゃなかった。
 もどかしい。
「キミは?」
「オレは家でも打ってるし、和谷の家とか、森下先生の研究会でも打ってる」
 言ってから、なんだかまるで言い訳のようだと自分で感じた。
「あ、ヒカル、順番もうすぐだよ」
 一体、何やってるんだ、オレ。
「あかりオレやっぱもう帰る」
「……えー!?」
 頬を膨らますあかりを置いて歩き出した。声だけ後から追ってくる。
「もぉっ! 後でまたヒカルんち行くからねっ!」
「進藤、彼女…」
「平気だよ。福引でなんか当ったらすぐ機嫌直る。よく知ってんだよ、幼なじみだから」
「…仲がいいんだ。でもあの態度はよくない」
 小走りの塔矢が腕をつかむ。 「いくらなんでも失礼だよ」
「……お前相手でもいつもあんな感じじゃん」
「女の子だろ」
「関係ねーよ」
 苛々した。どいつもこいつも人に気を使ってばかりで。
「進藤、キミ、最近気を張りすぎじゃないのか?」

『アンタの体の心配だけしてるわ』
『すっごい、怖い顔』

「余所見してんじゃねーよ!!」
 怒鳴った。すると周囲が瞬間さっと静かになった。通りすがりに因縁をつけているように見えたのだろう。少しだけ遠巻きになる。
「お前一体何やってんだよ。オレのことなんか気にしてんじゃねーよ。大事なリーグ戦が続いてんだろ? お前は碁のことだけ考えてりゃいいんだよ!」
 塔矢の手が離れた。みんな、みんなどうしてそんなに優しくあれるんだろう。
「余裕ぶってんじゃねーよ。オレの心配してる暇あんなら、お前ももっと必死になれよ、じゃなきゃ、オレ、勝つぞ? お前に勝つぞ? オレ、」
「負けないよ」
 塔矢が静かに言った。ざわめきに、いつのまにかまた、囲まれていた。
「キミには負けないよ。……キミなんかに」
 わざわざ言い直しやがった。むかついた。そしてほんの少し安堵した。
「オレだって負けねぇよ」
 また歩き出す。
「神の一手はオレが極めるんだ」
 塔矢は今度はついてこなかった。

 自分でも。不思議に思う。
 最近の手合いでは一切負ける気がしない。誰と向かい合っても、ただ自分は19路の碁盤の前にいるだけで、それは変わらない。
 勿論相手が低段者ばかりのせいもあるだろう。
 年が明ければこんな悠長なことは言っていられなくなるだろう。
 だけどこんなにも不敵でいる。強気でいる。なぜだろう?

『わー、ヒカルヒカル、なんですか、これ? キレイですねー!』
『くりすます? なんですか?』
『ほぉぉぉぉ、キリスト教の。あれ? でもヒカルのじーちゃんの家には仏壇がありましたよね?』
『なんだかよく分かりませんが、とにかくくりすますなんですね、キレイですねー!』

 電飾がわずかに滲みかけて、慌てて瞬きを繰り返した。安っぽい涙の中には佐為はいない。碁の中に。碁の中にだけ。
 オレの打つ碁がオレのすべてだと、その言葉を胸のうちで唱えた。打つことでしか分からないことがあるんだ。だからずっとこの道を歩く。立ち止らない。一歩ずつ歩く。こんなところで、こんなところで終わるわけにはいかないんだ。
 余裕なんかない。一戦一戦、本当はもっと必死になるんだ。もっと、もっと、もっと……



 もっと一人になれ。