最近泣き虫
泣いたのがいけなかった。北斗杯の話なのだけど。もちろん自分では、別に構わないじゃん 、というか、泣けてよかったとさえ思う。泣けた自分が嬉しい。だけどちまたでは大分厳しく言われているらしい。ネットとか。
なぜか、大将になりたいとだだをこねたことすら噂になっていて、その上で負けて、泣いて終りか、と。
倉田さんの風当たりも強いと聞いた。しかしやはり、一番叩かれているのは、日頃の行いの悪い進藤ヒカル。
別にそんなこと…痩せ我慢かもしれないけれど、構わない。それよりあれ以来、やけに涙もろくなっている気がする。
本日は宴会なり。十代二十代の棋士入り乱れての飲み会。
始めは真面目に碁の話をしていて、誘われてもあまり顔を出さない塔矢でさえ楽し気にしているのが印象的だった。越智と二人して検討でもしているようだった。そのうち座が盛り上がり、宴会部長の芦原さんが、王様ゲームを始めた。事前準備していたらしい。塔矢が、少しやばいかなという顔になって、僕はそろそろと席を立とうとしたが、芦原さんに許されなかった。意外に強引、というか、酒が入るとパワーアップする人みたいだ。
その後伊角さんが真柴に恥ずかしい話を告らされたり、後、なんだっけ、冴木さんが肩揉みさせようとした相手が緒方先生だったから、慌てて取り消し、しようとしたら、また芦原さんに却下されていた。でもまあ緒方先生もたいがいお酒が入っていたから、冴木さんが逆に可哀想だった。酒臭い息吹きかけられて。
その後で、ついにお待ちかねのあれが出た。王様を引いた和谷が、ビールをひっかけながら言う。
「三番が十番にキス!」
すかさず芦原さんが、女の子だったらほっぺね、とフォローを入れた。
何気無く自分の引いた割箸を見てぎょっとする。十番だった。
「うわ、アキラ三番かーっ」
「げ」
思わず大声が出て、注目されてしまった。
「進藤、十番かよ」
和谷がにやにやしている。仕方ないなと観念した。みんなに、ごしゅーしょーさまとからかわれながら塔矢の前に出た。塔矢は物凄く嫌そうな顔をしていた。
「言っとくけど俺だってやだぞ」
「僕もだ。冗談じゃないな。まったく」
塔矢はしかめつらで本当にずさんな仕草で、それでも唇をカンマ一秒重ねてきた。鼻がぶつかった。周りの悲鳴が高くなる。見たくないならさせんな、気分悪い、失礼だろうと思った…とき、涙が出た。
「うげ、進藤泣いてんの」
「え、ごめん、進藤くん、初めてだった?」
「ち…違う!」
慌てて手の甲でぐいぐい拭い否定する。キスくらいはしたことがある。あるのだけど、いつのまにかさっさと、「進藤ヒカルは塔矢アキラにファーストキスを奪われて泣いた」ことにされてしまった。情けなさすぎる。
さらには塔矢が、もう物凄く怖い顔で、君は本当に失礼な奴だと吐き捨てるように言った。
高永夏に負けて泣いたときは、その泣くという行為が、人に言われるほど弱いこと、情けないことだとは思わなかった。だけれどこれはどうだろう。というか謎だ。涙が謎だ。
さらにもう一つ謎のエピソード。
和谷の部屋で塔矢の対韓国副将戦を検討していた。物凄く力勝負で、物凄く塔矢らしさの出た、荒々しいながら他の誰にも打てないような一局。
それを力の限り罵倒し称賛し 和谷と伊角さんに呆れ果てられていた。
「よくそこまで言えるな…いろんな意味で」
和谷がなぜか照れたような顔をした。
「だって」反論しようと石を指差した。「だって…だって、この手とか、もう、信じられねえよ。これ、だって、」
そのときだ。急に胸が詰まって、吐くかと思った。迫り上げる何かがあったから。気分が悪くなって、心臓が絞られたみたいになって、涙が出てきた。
だって、この手、ひどい。信じられない。どうすりゃ打てるんだよこんなの。
こんなの。
こんなの、俺、打てない。
ぼろぼろ泣きながらそう訴えていた。
悔しい。悔しい、悔しい、悔しい。
その気持ちが八割くらいで、後はなんというか、切なかったりした。
こんな力碁打っていながら、その碁の中で塔矢が一人に見えた。俺がいればいいと思った。こんな碁を俺が打てればいいと思った。だから結局根は一つなのかもしれない。
悔しいのと、寂しいのは。
こんがらがって、体の外に出ていくとき涙になった。興奮して、高ぶった。
伊角さんがその後心配しながら帰っていって、和谷が敷いてくれた安布団に寝転がった。
「お前塔矢を意識しすぎ」
そう、とがった口調で、まるで責められるように言われて驚いた。
「彼女でも作れよ。てか、いただろ。どうなったんだよ、あれ」
寝返りをして和谷に背を向けた。豆電球の光に、ぼんやり元彼女のことを思い出した。
「…別れた」
「なんで」
「…別に…」
女の子とつきあっていたとき、なんだかパラレルワールドみたいと自分で思った。ここにいる進藤ヒカルは、言ってみれば、佐為に出会わなかった進藤ヒカルのようだった。恋は、棋士である自分に無関係なものだとそのとき悟った。気持ちで強くなれるかもしれない。しかし彼女は、彼女とのあれこれは、自分の物語の本筋に、ない。
一つにならない。なれない。だって無理矢理その二つを一つにしようとしたら…
「俺、塔矢しか駄目なんだ。でもそれくらいなら、別に恋愛しなくていいや…」
和谷が起き上がったのが分かった。
「…お前、ホモなのかよ」
悲しくなった。塔矢と恋愛するならイエスだけれど、そのときの和谷の口調に傷付いて、そうか、アイツを好きになることは、こんなにもリスキーなのだと思い知らされ。
「だから、別に、つきあったり、したいわけじゃねえもん…」
独り言のように小さく消えた。和谷の困惑を残したままで、今度は静かな涙が湧いた。
棋院で低く流れる噂に気付いたのはそれからすぐだった。どんな団体の中にでも、そう、どこにでも現れる噂と言える。それだけ悪意は薄く、その分本質的な偏見を覆い隠す、しかしよくある噂だった。
塔矢は不快そうだった。
「どういう意味ですか?」先輩の棋士にからかわれ、生真面目に質問し返していた。
塔矢の高めの、よく響く澄んだ声に、周囲の人たちさえ聞耳を立てていた。それだけ噂が広まっているということだ。
「僕と進藤がつきあっているというのはどういう意味ですか?プライベートで?そりゃあ打ちますよ。何度も打ってます。彼は良い碁打ちですから。頼まれたって打ちたくない三流の棋士じゃありませんから。何か問題が?そういう関係ってどういう関係なんですか?どういう意味のことをおっしゃっているんですか?」
三流うんぬんは強烈な皮肉だった。しかし疑問文のところ、塔矢の質問は、本心に思えた。会話の相手は単なる反撃と捉えていたようだけど。
どういう意味で?みんな、一体どんな定義で?どういう関係がやらしくて、どういう関係ならつまんなくて?
「単なる友達だって言うのかよ」
下卑た笑い声がした。
「友達?」塔矢は眉をひそめた。
「…僕らは、棋士です」
答えになっていないと相手は怒るふりをしたが、それ以上の何の答えも塔矢は持っていなかった。そのことを一番理解していたのは自分だろう。何もわかっていない連中は下らない冗談で盛り上がっていた。やつらは、こう聞けばよかったんだよ。誰と一番碁が打ちたいかって。一番好き、とか、一番大事、とか、そんな質問にこの名前は返らない。だけどそれが何だろう。塔矢アキラの「一番碁を打ちたい相手」に勝る存在なんかあるだろうか。
きっと自分は、今この場の誰よりも、正しさに近い形で塔矢を理解している。
また寂しくなりかけて、手合いの間は忘れようと思った。忘れられなかった。だって、打てば打つほど、もっと強くならなければと思う。塔矢にそんなふうに思われている嬉しさと、それに値する自分でいたいもどかしさ。佐為や塔矢の碁を目にするときの寂しさ。あの場所まで行けない悔しさ。
一人だ。ちっぽけな一人。
小学生の頃、嘘の学生服に身を包み出場した囲碁大会。勝てない。涙した。悔しかった。
高永夏と打った後も泣いた。負けた。悔しかった。
「進藤、時間があるなら碁会所に行こう」
手合いの後、塔矢は普通の顔で話しかけてきた。自分は人の目や声を気にして、ぎこちなく後を追う。ふざけた口笛が背後から聞こえた。
「お前はああいうの気にしないんだな」
地下鉄に乗る。
「気にしていたら切りがないよ。多く勝てばその分言われることも増える。下らないね。それに誰も注意していないようだけど、ホモだとからかったりそう言われてむきになったりするのはゲイの方に失礼だよ。…僕はあまりそんな気を使う方でもないけれど、このことについては他の人たちが無神経すぎる」
それから塔矢は吊革につかまり直し、疲れのにじむ溜め息をついた。
「…本当は、僕が一番無神経で人のことなんてどうだっていいんだ。誰を傷付けたって別にいいんだ。打てればいいんだよ。なのに、そういうふうに人がさせてくれない」
笑ってしまった。「そりゃお前、人に感謝すれば?」
「あんな人たちに?」
塔矢も少し笑った。「ごめんだよ。なれるものなら僕は鬼になったっていい」
「お前なら幽霊にくらいはなれるよ」
「君は?」
「俺は…」
捨てきれないものは何だろう。こんなふうに穏やかに塔矢と会話していることが不思議だった。塔矢の横顔を見上げた。
碁を打つ自分が恋をするなら、塔矢しかいなかった。あんな嵐を抱えながら他の誰かを好きになれない。パラレルワールドだ。それなら恋なんかしなくていいと思っていた。だけど、だけど、塔矢に恋する可能性だってあっていいのだ。キスして、分かった。
電車を降りて、しかしふと立ちすくんだ。
「進藤?」
真っ直ぐな視線が振り返る。背中の向こうで電車が走っていく。
「…俺、俺まだ駄目だな。お前に勝てない。気持ちで負けてる。俺はあまったるいものを捨てられないし、それにすぐ泣く。特に最近泣き虫だ。だって、でも、俺、お前が…」
ホームに人はほとんどいなかった。声はそれでも小さくなった。目の前の塔矢にだけ聞こえればいいと。
「言うな」
遮られた。塔矢は真っ直ぐだった。
「言わなくていい。言葉になんかしなくても分かってる。わざわざよくある言葉に当てはめなくたって、君の気持ちは僕が一番よく分かってる」
正しくて。絶句していると、塔矢は困ったように微笑んだ。
「…今日は、打つの止めておこうか。君はこのまま家に帰ればいいよ。つきあわせて悪かった」
背中。
塔矢の背中。
足を止めたのは自分なのに、その背中を見るとたまらなくなった。
走れ、と、声がする。体の中で。佐為ではなく、自分の声だ。高い声だ。今の自分じゃない。あの夏の。
(もう二度と君の前には現れない)
(いつかと言わず今から打とうか?)
走れ!
夕陽の刺し込む街で、あのとき同じ声を聞いた。佐為に打たせて佐為の笑顔に喜んでいる場合か?それにかこつけて三谷の姉さんに胸ときめかせている場合か?
「塔矢!」
走れ。走って、追い掛けて、つかまえて…
肩を掴んで無理矢理振り返らせた。
塔矢は、泣いていた。
大粒の涙が目尻の縁で今にも落ちかかっていた。塔矢は慌てて瞬きし、顔を背けたが遅かった。
頬を滑る涙の筋に、バカだな、自分までまた泣きそうになった。
「塔矢」
口に出し名前を呼ぶ。
「塔矢、好きだ」
そんな平凡な言葉に自分達の関係を当てはめて押し込んで。
「僕は君を好きじゃない」
「分かってる」
「君だって僕を好きじゃないくせに」
「当たり前だろ。そんなんでお前が収まるかよ」
「君はバカだ」
「知ってる」
塔矢は涙の溜った目で睨みつけてきた。最初に憧れた碁打ちの目だ。今の自分達を見て、一人の女を取り合うライバルだと誤解しても、恋人なんてものだと思う人はいないだろう。いいんだよ。人が思うような関係でなくて。
それならそれで弧高を気取ればいい。だけど自分は、懲りずに、繰り返しまた口にする。
「バカだよ、でも、」
無理矢理に、彼を、自分の側に引きずり込む。
「でも、好きだ」
あの深い嵐の中に身を投げ出すのに、捨てきれないものは涙だった。